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稀な晴れ RSSフィード Twitter

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2017-09-04

2017年9月の日記

2017/9/20(水)

 動くとだんだん熱っぽくて体調が悪くなり、体温を図ると36.7℃くらいある。平熱より1℃高い。おもえば二年前のこのごろも同様の体調であり、受賞式のことをあまりおもいだしたくない。「日本の愛国心」という本を読んでいて、はたして丸山眞男はほんとうにこういうことを言っているのだろうか、とおもう。丸山眞男をちゃんと読まなければならないとおもう。

 ちゃんと読まなければならないとおもう、とある本から別の本へと引き込まれるとき、その本は〈入口〉としてよい機能を果している。一方で「ああ、これでぜんぶ解決した」とおもってしまうとき、その本は〈出口〉のような機能を果たす。〈出口〉のほうがすっきりとして気持ちが良いが、〈出口〉はたいてい間に合わせの暫定的なものでしかなく(なぜなら世界に出口などないのだから)、端的にいえば間違っている。

   入口も出口もないとおもわれる月光が雲のあいだを抜ける

日本の愛国心 - 序説的考察 (中公文庫)


2017/9/19(火)

 西田政史『スウィート・ホーム』を読み進める。

   ほしいままに時間はあそびよく晴れた秋の日ぼくをさそつてくれる

   それは神様みたいだけれどわたしには見えやしないのただ感じるの

 一読したときはあまり引っかからなかったのだけれども、東郷雄ニ「橄欖追放」の217回を読んでひどくよい歌集ではないかとおもいなおし、読み返している。〈戦争〉〈姉〉〈性〉といったテーマはことごとく古く、懐かしく、現在時にたいするひっかかりをなくしているようにも感じられる。時代のながれのなかでみなが向いている方向がありながら、それとは違う方向をいまだ見ている孤立した美意識がある。歌のうまさ、の基準が現在時とはずれてしまっているように感じられる。だが、孤立していても、美意識は美意識であり、美は美なのだ。そしてまた、「橄欖追放」の執筆者も、そのような〈懐かしい美意識〉を共有するひとなのだとおもう。ゆえに捕らえた。

 この歌集の現在時における立ち位置はこんごどうなるだろうとおもう。

   甘美なる故郷 はどこへ 樹木という不思議なものにひとは凭れて

[asin:4863852738:image]


2017/9/18(月)

 台風が来て大きな雨が降り、それがやんだあたりでカレーを食べに行く。

 ラッタウットラープチャルーンサップの『観光』を、一篇読んでは寝かせるというのを一年くらい繰り返していたのだけれども、最後の話を読み終える。『歩道橋の魔術師』を読んだときにもおもったのだが、読者を〈外部〉と〈内部〉のどちらに設定するのか、というのが現在時におけるひとつの鍵であるだろう。読者を異邦人に設定するほうが現在では勝手がよい(なぜならば異邦人の数のほうが圧倒的に多いのだから)。世界文学性を宿すにはそのほうが効率的だ。つまり物語の舞台をある〈内部〉に設定したうえで、それを眺める〈外部〉の存在に、〈内部〉のことを訴えればよい。一方で〈内部〉の読者のために書かれる創作も十分多い。ある前提知識を必要とする、二次創作、伝統芸能、大衆文学……。それがかえって〈外部〉を誘惑し、ひとびとを〈沼〉という〈内部〉にひきこんでいくこともまたある。

 短歌や俳句にとって〈内部〉と〈外部〉とはなんだろう。中島さんの本も読んだ。

   来世でも困らないよう自転車という乗り物を憶えておこう

観光 (ハヤカワepi文庫)歩道橋の魔術師 (エクス・リブリス)「リベラル保守」宣言 (新潮文庫)


2017/9/17(日)

 北二十四条にいくつか八百屋があって、そのうちのひとつで恋人のひとがたくさん野菜を買う(妻の人、と先日の日記では書いた気がするけれど、恋をしているのであれば恋人でもいいのではとおもう)。そしてドーナツを食べながら家に帰る。顔にココアの粉がつく。

   夕映えの梨の世界に人間は意志をもたないナイフをあてる


2017/9/16(土)

「あいすまんじゅう」というアイスを最近しばしば食べるのですが、太くて甘くておもしろいです。まるい、ならまだりんごあめなどがわかるけれど、「太い」、食べ物を切り分けたりせず「太い」とおもいながら食べるのはなかなかない体験だとおもう。

 わかさぎのてんぷらとたもぎたけのてんぷらも食べる。おいしい。

   夜に階下で掃除機をしている音が聴こえる なにが隠されている


2017/9/15(金)

 ミサイルが飛んだ。

 その後脳というか自律神経が死んで、ものを見ていても集中できず、からだがだるい。

 札幌市内のなかでもっとも学術系の文庫が充実している、とおもっている、書肆吉成まで遊びにいく。

 夢のなかでは小樽の古書店に京大短歌等同人雑誌のバックナンバーが充実していた。

[asin:4101501416:image]石原吉郎詩文集 (講談社文芸文庫)ハイ・イメージ論〈1〉 (ちくま学芸文庫)

   帰れると信じ切ってたひとびとの名字が並ぶ駐車場には


2017/9/14(木)

 考え事をする。むずかしいなとおもう。

   炭化水素の画面に〈強制終了〉の同意求める呼ぶ声がする


2017/9/13(水)

 からだがだるい。アブストラクトを提出した。その後疲労でだめになる。

 ぼおるぺん古事記を読み、書物としての新約聖書、をぱらぱらと眺める。聖書もそうだが、系譜、が人間たちを欲望させるのはなぜだろう。

   日本最初の季節はいったい誰ですか挙手をつのればささやくばかり

ぼおるぺん古事記 (一)天の巻ぼおるぺん古事記 (二): 地の巻ぼおるぺん古事記 三: 海の巻書物としての新約聖書


2017/9/12(火)

 雨が降っている。魚類の大半は雨を知ることなくその一生を終えるけれど、人類の大半もまた同様に、なにかを知らず生きている。

 「知る」は精選日国では「領る」と同じくされていて、「ニ」には「物事をすっかり自分のものにする意」、と書かれている。そこから「経験する」という意味も派生するのだろう。魚は雨を経験しない。人間はする。

 経験するということは知ることである。しかし現代において、知るということは必ずしも経験するということを意味しない、読書によって得た知識は経験とはふつうみなされない、と考えられている。でもどうだろう。‘表颪老亳海砲澆覆気譴覆い。つまり「知る」ということは経験にとって必要条件にすぎないのだろうか また別に検討が必要なこととして、知ることなく経験することは可能だろうか。

 文学にとって、このあたりに鍵がある気がする。

   七竈の炎のように(小田急線火災の手ぶれ動画)目醒める


2017/9/11(月)

 毛蟹をゆでると褐色のもやもやとした中身が出てくる。

 フリーのソフトウェアの使い方を調べているのだがぼんやりとする。

 1.別の商用ソフトウェア(ただし機能の拡張性に劣る)を利用する

 2.英語をとてもがんばる

 3.自分でpythonなどでプログラムを組む

 あたりを考えなければならない。科学のことを考えるときと、文学のことを考えるときで思考の切替が難しい。別々の部分をつかって考えている感じがある。とりあえず人文系の勉強の感覚をすこしずつとりもどす。

   生きていたころの形をひとつずつもぎとられ毛蟹の白い脚

それでも、日本人は「戦争」を選んだ (新潮文庫)


2017/9/10(日)

 ぶー鳩、のことを考える。

 たまに歌集の献本をいただくのですが、このひとからいただきました(つまり、このひとからはいただけませんでした)、ということをあまりTwitterでいいふらすのもよいことではないかなとおもうのであまり書いていないのですが、この日記にお礼や感想を書いていきたいなとおもいます。

   〈ありがとうございました〉と人類に最悪の秋まつりが来たる


2017/9/9/(土)

 ななかま堂で桃がまるごと一個乗っているすばらしいパフェを食べた。遠く航海に出るような、ゆたかな体験であった。

   東京ハンズのキッチンバサミ、洗濯用洗剤、箸、があなたを見ている


2017/9/8(金)

 オータムフェストがはじまった。ひさあしぶりにキャッチボールをしたら肩が死んだ。

 労働の無事を祝してケーキを食べたり、鰺のなめろうをつくったり、秋刀魚をナンプラーで味つけたものを食べたりした。妻のひとがやりました。

 原稿はむずかしい。

   ほろほろと時はほろびてゆくだろう箸に魚の身がやわらかい


2017/9/7(木)

 相変わらず原稿が難しい。前日の記述に従い千葉雅也『動きすぎてはいけない』の文庫版を落手した。妻のひとと夜にお散歩に行き、赤い建物に角がなかったのではないか、という未視感に襲われる。スーパーでは鶏肉が売っている。

   平積みに桜姫鶏もも肉のスライス並ぶ生活の光


2017/9/6(水)

 妻のひとは仕事で朝早く家を出て、わたしは研究をしなければならなかったり、プログラミングのことを考えなければならないのだけれど、締め切りの近い原稿のことを考えていて二度寝する。

 福田若之さんの句集『自生地』が刊行されたので読む。おもえば、わたしがまず現代俳句に目をひらかされたのが福田さんの句だった、ような気がする。

   春はすぐそこだけどパスワードが違う

   くらげくらげ 触れ合って温かい。痛い。

   伝説のロックンロール! カンナの、黄!

 いまや人口に膾炙したこれらの句にひかれ、「俳コレ」というアンソロジーをさがしもとめていた日もあった。句集にはこれら昔の作品も、たぶんほとんど削ること無く、収録されている*1。なつかしく読んだ。

 一読して、『自生地』はドキュメンタリーだとおもう。一冊の句集がいまここに完成するとはどういうことだろう。閉じられて置かれたままの本はただの物質であり、読者に読まれることによって物質が〈本〉として〈現象する〉のだとしたら、まさに『自生地』は、その〈現象〉の瞬間をめがけて編まれた本だろう。作中には句集が編まれるまでの作者の葛藤や苦悩が詞書のようにして記述される。『社会は、僕が一冊の句集のために全生活を傾倒することを決して望んでなどいない。けれど、僕にはいまそれこそが必要なんだ。』など。収録作品が探され、紙が決まり、書体が決まり、タイトルが決まり、という本の完成までのプロセスが散文のなかで吐露される。わたしは(いまここにあるはずの)この本ができあがるまでの過程を、読むことによってここに再現する。同時に、読むことではじめからうしろへと句集にプログラムされた時間を再生していく。読み終わるとき、すなわち本が物質ではなく〈現象〉として立ち現れきるとき、詞書のなかでの句集の完成が、読むことによる句集という〈現象〉の達成と、一致する。

 おもしろい構成だとおもった。

 同時に、〈私性〉のつよい引力をもおもった。一冊の本という出来事に、一句一句が、それ自体本来無二の出来事であったはずの個々の句が、従属しすぎているような気がする。つまり、句が背景へとひいていないか、ドキュメンタリーとして、作者の〈顔〉が出過ぎてはいないか、この本のおもしろさは句のおもしろさではないのではないか、一句一句の強度がおざなりになってはいないか、という疑問がある。だがしかし、句を背景へとひかせることによって、本が一冊のものとして確固たる強度をもったことはたしかなのだ。多量の、ばらばらの志向をもった句が、無理なく同居している。短歌ではあまりみない、一冊のまとめかただろう。

 岡井隆は『現代短歌入門』のなかで短歌連作は『七七の反復性がじゃまになって』『切れ目のない一つながりのリズムの流れ』にはならないと書いていた。逆に、『自生地』における五七五の繰り返しは、執拗で、このなめらかなつながりが一冊としての〈現象〉のつよさを導いているようにもおもわれる。少なくとも、『人の道、死ぬと町』をこのようにまとめることはできなかっただろう。句集と歌集の違い……。千葉雅也の『動きす』が文庫化になったが、このような〈流れ〉という観点からも、読んでおきたいとおもう。   

   とめどない淀みにおいで まどろみの卵のかまきりを撫でにきて

自生地動きすぎてはいけない: ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学 (河出文庫)[asin:4061592661:image]


2017/9/5(火)

 初谷むいさんのつくった『春の愛してるスペシャル』という小冊子を読む。短歌が収録されている。

   だしぬけに指絡めればすこしだけ力がこもる いぬ 見に行こう

   津波のように押し寄せるからわからない 星、死んだ星、生きている星

   おめでとう、って空耳の 箱のようなわたしに猫がするりと入る

 初谷さん、の作品はWEBでもいくつか読めるらしいので興味のあるひとはそちらでも読んで欲しいのだけれども、この一冊の中には「行こう」「寄せる」「入る」など、行くこと、あるいは、来ること、というさまざまな移動があふれているのがとても気になる。多用される「窓」「電話」などのモチーフもここに関わるのだろうけれど、わたしにこれからなにかが起こるかもしれない、あるいは、わたしはこれからどこかへ行けるかもしれない、という可能性、色鮮やかなレイヤーとして未来の予感が歌に羽織られていることに気づく。

 だからこれは、まごうことなき、青春歌の立ち姿だとおもう。

 初谷さんの歌集がやがて書肆侃侃房という出版社から「新鋭短歌シリーズ」という叢書の一冊として刊行されるという。駆け抜けるように、未来を思考した、すてきな歌集がつくられることを期待します。

   犬というふしぎなものはいなくなりじきに小さな海ばかりなる


2017/9/4(月)

 たいていの思想はすでに先人によってさきに考えていられている、とはよくいわれるけれど、わたしたちは簡単にその裏を返すことができる。つまり、わたしがいま考えるというこの瞬間を起点として、こんごの、すべての先人の思想はこれから規定されることになる。時は過去から未来にながれるものである、と、過去から未来へと劣化してゆく肉体をもつものたちは実感する。しかし霊であるところの神は、歴史を方向としては眺めてはない。過去が未来をうみだし、未来が過去をうみだすという大きな相互作用のなかに歴史はあり、肉体はある。映画をみるようにではなく、それを無限に展開したおおきな一枚の絵画をながめるようにして神はわたしたちの時を見ている。だから、わたしが考えることによって先人のおおいなる知恵がうまれる。その逆もある。

   真昼間の世界についておもいつつついに無意味なまま会議果つ

 

*1:作風が変わる前についてはどうだろう?

2015-05-10

2015年5月の短歌日記

2015/5/18(月)

 一身上の都合によりしばらく日記の更新を不定期更新にします(実質的には休止状態になるとおもいます)


2015/5/3(日)

 明日は東京に行く。その前に神々のたそがれという映画を見る。知らない星で知らないひとが知らない理由により殺し合いをしている。だれがだれであり、どこがなになのかもよくわからない。そして面白い。世界とはそもそも「わからない」ものであったはずだ。目の前にある文字が読めるということはひどく不自然なことなのかもしれない。わたしたちは、教育されたことにより、世界を自らの理解力まで縮減させながら生きている。決して縮減され得ない、ひどくぶきみなかたまりとしての世界をそのままぶつけられたかのような、こういう映画をわたしは好む。

 そして、だから、映画ではなく土を見ていればそれでも十分なのかもしれない。

   踏むならば土は崩れて水分と空気をきみは追い出すだろう


2015/5/2(土)

 ひどくよく眠った日だった。カレーを食べにいって、恋人のひとはキーマカレーを頼んだのだけれども、ひき肉の入った普通のインドカレーという感じであり、募金箱に1000円を入れていた。掃除をしてまた眠った。

   ねむりにおちることならいつでもすればいい 氷ひとつぶほどの休暇を


2015/5/1(金)

 医者に行ったりゼミに行ったりすると時間だ。もう全部直して欲しいとおもう。

 最近読んだ本の話をすると、panpanyaさんのまんがはとにかくよく歩いて、海の生きものがたくさん登場する。地球が陸地、海域、そして空に三分割される。それはたとえばわたしたちが「地図」を見るときの見方に近い。わたしたちの眼がある場所が空であり、陸地と水域はどちらもひとしい面積にすぎない。「地図」には、生物は登場しない。すべてがただない。そしてある。

   動物を載せてどこかへ去っていく時間があった それを見ている