続けたければ

更新していかないと。


神條です。



年一更新かつ日記のみという動いてないサイト感満載なかんじ、いっそ懐かしいですねw

ここで言う「更新」ってのは、
増やすだけじゃなく、使いづらくなった拡張子やバージョンをデータここで新しくするというのも含んで、の話です。

例えば、自分のベースとして作ったサイトは更新がやんで久しいですが、更新が不可能になった最も大きな理由として、
まず4年半前に当時使っていたノートPCが亡くなって作りかけのものもFTPデータも全部吹っ飛んでしかも復旧できなかったのが切っ掛けという「なぜ」があって、
次に、日常生活に流されていくうちに触らないのが普通になってしまったという「それからどうした」があります。

この「それからどうした」は、2002〜3年くらいのいにしえのオタクなスタイルを続けた結果歩いた道の先の話です。OSや接続手段の変化などで、環境が継続しなかった、ということですね。
ほぼ手工芸なHTML打ちはメモ帳でのオフライン作業(手段+環境)が前提になります。僕は建て替えよりも増築をまず考える性格だったので、意識のシフトチェンジにそこで躓きました。


で、

もしこれの更新を続けたければ、僕の性格はどうあれ、PCクラッシュというリスクと障害が起こってしまった場合の迂回路が用意しておく必要がありました。

上のオタ活の例で端的に言うなら、「ウェブ上のバックアップに即座にアクセスし、同期できる」ことです。
ログインさえできれば如何なる端末からでもそれを編集できる。そういう状態を持つことで、続けるための更新が可能になります。



オフィスツールもDTMツールも画像編集ツールもウェブ上で完結できる今、端末の扱いも更新=環境の更新をしないと、今後、どんどん身動きがとりづらくなっていくということですね。
物理的にアクセス先が消え、そのうちサービスが終了し、一度のリビルドにかかる手間がより増える、の積み重ねがもっとも多いでしょう。

そして、編集したいデータが一つの端末でしか扱えないというのは、恐ろしく面倒です。


触れるハードルが上がれば、継続は困難になる。
これは、あらゆるものに同じことが言えます。

触れるハードルを下げる、その為にデータがネット上にあるのはとても便利どころか、今となっては必須条件といえます。機種変でいちいち音楽を買い直すのは僕にとってストレートにクソ仕様ですが、原理原則はこれと同じです。




一方で、

全部ウェブ上で完結する環境も、ネットが繋がっていなければ一転して何もできなくなるので役に立ちません。
編集したいファイルAがこの端末内(=手元)にないが、ファイルがある場所へはオンラインでないとアクセスできない…ってことになるからです。

なので一つを上げてどれが最強、というのはばかげた話です、当たり前ですが。
カスタマイズ(方法論の習得)の放棄は、自由意志の放棄と同じ。



構築した環境もまた更新していかなければ、更新しなかったところから徐々に触れなくなり遠ざかっていく。
仕事だの生活だの「忙しい」にかまければ、より停止地点は過去に流れ、技術や環境的前提にギャップが生まれて復帰が難しくなる。

続けたいのなら、それは、恐ろしいことです。

2018/07/14 23:59にお問い合わせくださった方へ

ありがとうございます!
形式の変更でしたらまったく構いません。ご使用の媒体で利用可能な形式にご変更いただき、曲データをご使用ください。

また、もし必要でしたら、1曲ごとの全体音量も他の音楽素材に合わせて調整していただいて問題ないです。

選んでいただき、ありがとうございますm(_ _)m

悪魔や餓鬼と踊(ダンス)っちまった

一年ぶりじゃすまないこの感じ・・・/(^o^)\ナンテコッタイ


アクセスすると嫌でも目に入る前の記事見(え)て、
「こういうのってその時その瞬間自分に影響を与えている人間が誰なのかを嫌でも視覚情報として抉り込んでくるなあ」
とガクブルが止まりません。なにあれ。俺?俺か。

こうして文字を打ち込んでいる間もすぐ下にめっちゃ見えてます。つれえ。


不思議な、かつ残念なことに、自分の好きなことを好きなようにただ粛々とやっている人本人からはそんなに人格面にまで来る影響って受けないんですよね。

そこに、コレです。
アカン行動ってなぜか皆、揃いも揃っておんなじことします。僕はそれをテンプレとレッテルして呼んでますが、これが各々が多様に行動するのよりも、マジョリティ化しやすい。
結果、テンプレ行動テンプレ反応テンプレ発言、という同一多数により嫌な普遍性が出来上がる。
自己正当化や吊るし逃れのためにお互いがお互いをかばい、「いやいやそこまで言われる義理は無いよ」みたいに言っちゃう相手(この場合俺)を敵認定、しかし上からなのか仲間意識なのか謎の説得にかかる。
当然、そこに漬かれば染まるしマヒする。
こえー。


今は、一番問題な人とは少し距離を取らせてもらえることになりました。

僕がある友人と会うといった時にその友人にほぼ確実に毎回同伴してくる人で、
これがどういう色合いの人かはもう一昨年の記事のような語り口(をするのはその人だけではなかった)まんまで、加えて、時々わざとらしく一人称や語尾を男言葉にしたり、話に割り込んでアピールしてみたり、僕が仏教学科にいたって聞けば「Kamiさん、梵字くらいは知ってる?あっごめん卒業してないんだっけ?私は〜」などなど
・・・だけなら友人と同じ姿勢で苦笑いくらいで終わってたのが、
「あれ、自分、よくわかんないうちによくわかんない価値観でタゲられてる?」

極めつけが「私だって男っぽいところあるし、Kamiさんだけじゃないよ」
へえ〜。うちのオカンと同じこと言いよる・・・・・・いやいやいや!自分ちょっと注射必要な程度でメンズやし!?「中学生のころ両性具有と無性別に目覚めた(原文ママ)」お前と一緒にすんなし!?マウンティング女全開の生々しい生理トークする「男」がいてたまるか。自然かつ立派に性自認「女」してるよ。

友人とは、本当に古い友人で10年くらい交流切れてたのもあって、
一緒に何かしようっていう遊びにたまたま今友人が好きなものっていうのが自分の地雷に触れない(≒例:戦国BASARAの押し付けをしない)ものであって、
「このケータイ夢はクオリティ高いから男でも読めるよ」みたいなのが通用しないのを知ってるとかそういう線引きがあるから許される(=ラインスレスレ)のであって、
女性向けジャンルの同人誌に嫌な顔しないで付き合ってるからホモマンガの作法を教えてあげよう!は明らかに意味の分からない答えであって、


結論として、
この、目下一番問題な人とは少し距離を取らせてもらえることになりました。



嫌ァーな感じの人よりも好みの人とだけ付き合えってのはそういうことですね。

皆おんなじ行動の穴にはまるというのは、その分その行動っていうのは刺激的で強いからです。で、縋っちゃうタイプはそういうのに弱い。




これも鈍い人なら「そうかな〜、自分はそうは思わないけど」「そう思ってるのは自分だけなのでは…w」と押さえに来るアレですが、っていうか一部の鈍い人は何にでもこう返してくるんですが、2年半続いたっていったらどうでしょうかね。

自分は一言も、俺の言うことが世界だなんて言ってないし、そういうこと言う人はそれこそ自分の世界からものを「評価」ばかりしてるから、もう話を聞く気にもならない。

だから先一昨年時点の自分に言いたいです、なぜ耐えたのか。むしろ。



で、そいつと同じ内面へと引きずられていたのが、まさにリアルタイムで生成されたホヤホヤの黒歴史です。まさにダークサイド。ないわ。こわ。



何より背筋がスゥーーッとしたのが、
ここからまさに「縋って」逃げるような形で友人の方面と似たような僕個人の趣味(Disられるか引かれるか乗っかられるかなので人とは分かち合えない)を妹に共有しに掛かったら、その知識を自己アピールとマウンティングに使うようになってしまったという笑えないオチです。

例えば、

元「AにはCという一面がある。B像強いから過去、Cはあんまネタにならんかった」→変換→「Bは誤解!CこそA!みんな分かってないんだよ!(私は分かってるけwどwもww)」

になっちゃう。
嫌いから好きに変わったんだから、いっそ全然それでいいんだが、もやっとはする。年齢層故の一過性だろうと思うようにしています。

友人と話をするとなんでもかんでも戦国BASARAに関連付けたネタになっていってた頃を思い出したし(無双なら良いって話でもない)、友人ともいっときそれが原因で溝が空いて僕が距離を取っていたので、本当ならそうなる前にコレクションを内々で楽しむかそれこそコミケの資料系の日に発散するのがいいんですよ。




時に、神は乗り越えられるシレンしか与えないと言います。

振り返れば、実にいろんなタイプの「オワァ・・・」な人とすれ違ってきたなあと思いますが、共通点が
・メンヘラや寂しがり
・マジキチやガチサイコパス
発達障害の人のなかでコミュ"方法"面に明らかな障害がある人
であることの数パターン、ではなく、

単に「粘着型であること」なんじゃないのか、とすると全部辻褄が合います。

↑↑のパターンだと、乗り越えるとか明らかにムリゲーで先に吸い尽くされて取り殺されるんじゃねーの思わざるを得ません(あれだけあって今生きてるんだから乗り越えたと言えばそうかもだが納得がいかない)が、

「粘着」に焦点を絞ればなんか問題が明瞭になった感じがします。

攻撃も好意も、縋るにしても、
「粘着」。

執着?
執着にしては、回りくどいんですよね。

僕自身が一部のものごとに執着するたちで、なので「俺は違うぜ」とかいうつもりは無いですが、かといって同じとも言えない何かがあります。

よく言いますよね。
「それ、お前の会社の社長に言える?」「同じことを、社長にできる?」



「Kamijow君なら優しいから教えてくれるよ」

この発言かます人も、敵です。
こっちに聞こえてないと思ってるのか。親切なのか。
わかりませんが、お前の株は上がるどころかギンギンに下がってるからな。

「敵」という単語が聞く人の個人的イメージで当たりが強すぎるからもっと配慮せよというのなら、
仏教の餓鬼とかキリスト教の悪魔とか言い換えられます。自分のこと正しいと思ってるし、それを揺らがせるものを情報操作や直接的な攻撃で排除にかかってきます。(根回しw)

で、上の話題の主役は、その悪魔の手先ってことです。
悪魔にそそのかされてこっちにきて、俺に向かって言うんです、裏切られた、もっとちゃんとしろ、こっちを気遣え配慮しろ、責任を取れ。
そんなのそそのかした奴に言えよ・・・自分の間違いを認めない=こいつも餓鬼や悪魔の類。

我がが我ががの邪念満載というか、まさに餓鬼なので、冗談ではなく本当にお払いが必要かもしれせん。
ハラタマキヨタマ。

ここを開くのがすでに一年ぶりだ。
一年ちょっとでいろんなことがありました。

毒になる人薬になる人、毒にも薬にもならない人、ひととの交流は大事です。それそのものが刺激なので。他者の思考というのは創作物からも摂れますけれども、文で見るのと最低でも相槌打てる距離感で関わりを持つのとでは、干物食材と生鮮食材くらいの違いです。

その「人との関係」の延長で、ここしばらくモノを書いていました。
苦手も苦手な二次創作ですが、僕が書くということ自体が誰得の塊にしかならない代物です。俺得にすらならない。
言われたてほやほやなお叱りに一昨日、いろごとを書けとは言ったが色物を書けとは言ってない、という苦情がつきまして、「誰も得しない」の上塗りをしたわけです。出だし程度しか書いてないものでしたが供養してきました。
文句言いつつ言われつつ、あまりの不向きさに苦戦しつつ楽しくやってます。

ギリ8割行ってなかったボツ率がとうとう8割を超えて、そろそろこっち方面のジャンルでも何かに目覚めてきました。まさにドM。
ボードゲームでこちらの負けが込むほど明らかに傾いていく対戦相手の余裕な態度と、いざ勝っちゃったときの相手のプライド傷ついてムキになる姿が堪らない、人格的問題のある性癖が昔からあるんですけども、それににてる。きがしなくもない。

そもそも、僕の妄想力って恋愛方向に行ってくれないんですよ。
ギターとか包丁に名前付いててその日の気分がわかるとか、穴があったらすぐIF考えるとか、人間関係のもつれはだいたいミスリードかトリックと真相があるだろうし、そういうのを支える知識は中途半端だし。

もう、一年くらい書いたし、そろそろ許されてもいいと思う。
誰得なんだよまじで・・・だから言ったじゃない、あらゆる数字が証明してくれたでしょう・・・あれは大人びた女子向け、僕のはコロコロかよくてギャグ王だと。サンデーの格闘漫画で育ったんだよ。無理だよ。


・・・(・ω・`)・・・。


あとは、好きな漫画やら作品が好きな監督や脚本家、はたまた作曲家がついて別メディア化したり、わりと幸福感を感じながら過ごしていられてます。

妹がナーガス読み返したい+彼氏に布教したいから貸してくれと言ってきたので、ついでに信長の忍び戦國ストレイズ軍靴のバルツァー貸したら、信長公が好きになって帰ってきました。やったんだぜ。
あとは残りを読んでマスケット銃をドヤ顔でDisろうぜ。

僕の周囲に、名言を引用するとかイケメン萌えだとか以外に徳川治世以前の人物に興味を持つ人はいなかったしいない前提でいたし、一番食いつきがよかったのは土方歳三(実在してるほう)の甘いマスクだしで、
もっとトンデモ武将とかがっかりエピソードとか本当は残念なオモシロ史実とかでキャッキャしたいなとは思ってるわけです。名前に「斎」が付いたらまずチートを疑え。転じてチートキャラには末尾に「斎」をつけろ。
光秀IFはとても妄想し甲斐があるんですよ。
とか言いつつ、歴史とか史実が絡む話は、話題がとっちらかるので口頭では基本しません。説明してるうちに話とぶし、異説とか能とか関連した小話なんて腐るほどあるし、ドラマとかゲームでそっちのキャラ採用されてると相手の「自分も知ってる!」を潰しちゃってしかもそこに好き嫌い絡んでてどうこうとか。めんどくっせ。
僕は僕で、初期アニポケで使用スキルが持てるわざ数を超えてたのを「アッ」とか思っちゃう口だから別のめんどくさいタイプです。梯形陣が強いのは相手が右手に盾持ってるからであってとかそういう頭の固い。(戦闘機でも組む陣形だから、成立時はともかく、もはや盾のあるなしじゃない)

最近(というほど最近でもない)も、土方さんの俳句とか正宗公の直筆書状

 やめたげてよぉ!な俳句ブックカバー
  http://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1506/25/news105.html
 手打ちにされても文句を言えないウワーな書状
  http://togetter.com/li/860611

とか話題になってましたが、これをネタにするためには、まずこれらの人物とは、から始めなきゃならんので、笑うところからは絶対に始まらないという。
人によっては偉人を笑いものにした角で説教食らいますからね。難しいね。

死亡エピソードはボロディンが一番好きだよ!ボロディンは愛国ロシア人だよ!韃靼人の踊りは敵対国モンゴルを題材にしたわりとひどい愛国ストーリーだよ!


実生活は、ノイローゼ寸前です。人災。

インプットばかりでアウトプットが足りない

「インプットばかりでアウトプットが足りない」、
これ、ここずいぶん、
「最近知ったことを実践する」という部分に比重を置きすぎて、いろいろと置き去りにしてました。それイコールアウトプット、と定義していれば当然、それまでの「アウトプット」に当たる行動は、表面上否定されます。こころが悲鳴を上げるわけです。何かを作るっていうのは、呼吸と同じで、粋がってかっこつけるものではないけど、周囲そういう方々(変に才能って言葉を使ったり、ひとに不自然なヨイショ系特別視して"みせ"たりね)を見続けた最近、僕も何かを作るってことをしている=粋がってかっこつけてる人間なのかな、と感じる部分があって、別に作る=ポーザーなんてそんなことはあり得ないんだけど、悪いほうに感化されてしまっていたのでした。

これは僕が決めることじゃないけど「それ本体はカネにならない」そういう、文章なり他の何なりの排泄物があります、
Pixivとかピアプロとかニコニコとかユーストで垂れ流されてる個人の制作物や放送の多くがそれですわね。ここでいうそれらは、「一部の、運よく根気よく流通にのったごく一部の例外」は除外します。勝率から出すべき戦略の無い、例外注視の寝言話はしてないので。

で、それをやるのは、非生産的?無駄なの?

・・・そんなはずはない。

テキストエディタに打つべき文章は、ほかにもいくらでもあるでしょうよ。
勢いで書き上げた盤上でおわる戦争ゲームのルールは、無駄ですか?
お金にし「なきゃ」無駄ですか?

いちいち口をはさむ知ったか顔が、何名かいるのです。
それを、いや俺の自由だから、と割って切れない自分にようやく思い至って、
いや、それおれの自由じゃん何引きずられてんの?wと意識に上ったわけです。

人と人はいやでも影響しあいます、だから付き合う人間は選べというのです。
他の何を惜しんでも、人間だけは、もったいながってはいけません。
死にたくなくば、それが首輪をつけない生き方の鉄板ルールです。

好き勝手やった自分自身に、自分で責任を持つ限りは、好き勝手やりゃあいい。
かけた迷惑を回収しつつね。

選択肢をより多く持つ人間が、あらゆるシーンにおいて、より主導権を持つ握るのは、僕が知るうちこの人間社会(恐らく日本以外でも通用する)で3つめにシンプルな因果です。



資金資産、金銭的利益、になることを前提に動くのは、通貨社会で生きる限りは当然のことです。


でも、それ以外はしない、というのは、僕には違和感がある。中世の音楽かにパトロンが着いたのはなぜ?というはなしともリンクします。

カネになることを前提にしないアウトプットをしばらく忘れてたというか、見ないことにしてたなあと、ちょっと、昔自分が作ってきたものに久しぶりに触れて思いました。でそれを黒歴史だとは決して思わなかった。
僕の作ったものは、自分以外触れた誰も得しないけれど、毎日食事をすることを恥ずべきことと思わないのと同じで、PCの前に座ったらすることって、習慣としか言いようが無い。

飯毎日食ってることでドヤることがあるとしたら、飯毎日食わないのが当然の世界の出来事であって、
自然にすることを特に特別視はしないです。
ちなみに僕は一日三食食わないですが、3食食ってるか聞かれたときにいや別にと言ったら言ったで、それは良くないことだと、一日3食食べるのが人間で、そういうものなのだと、諭されます。

食わないことでニヒルぶってるわけではなく、食いたいと思わないときに胃にもの詰め込んで強制的に、肉体的に、ぼんやりするのが好きじゃないだけで、食い方ではなく、食ってるものの内訳として「あまり身体の中に砂糖ばかり詰め込むんじゃないよ」なら説得の内容としては、ぐっと胸を抑える程度に分かります。


青年誌的ナルシズムは、フィクションとして、遠い世界の、あまり興奮しないエンタメの中の一つとして読む分にはいいけど、リアルなその場で説教として使われると本当に反吐が出るのです。




そうそう。

この雑記自体、懐かしのライコス日記でシコシコ毎日書いてた頃から、そういう「何にもならない、無駄な」アウトプットのためにあるから、誰得アウトプット100%生絞りだったのです。


そう、視認からはじまるんだから、支離滅裂でもいいのよ。ほんと。




僕を哲学的とか思想がどうとか評価してくださった方がたがいましたが
違います、そういうものの見方を、
お花畑というんです、かっこつけだというんです。
残念ながら、僕は高尚なあなたの同志ではない。強いて言うなら個人です。

僕はただ、そういう"め"にあっただけで、体験談を交え会話をしただけで、
思考だの思想だの意識だの、そういう高尚なものではないのです。

ただ、知識だとは言えます。痛い目を見るたびに、嫌な思いをするたびに、囚われやすい僕は本から知識を文字通り貪ったからです。人間に相談すると、くその上塗りをされる確率が異常に高すぎて、感情の挟まらない本を頼ったわけです。
図書館ですら情報は玉石混交で、囚われているうちは関連書籍は目の前にある全部片っ端から目を通しているので、ある程度知識が体系だちます。
だから、一冊のライトなビジネス書でわかった気になって説教にその内容を使う人(引用ではなく、まるで自分の意見として上から)が、むかつくのです。その延長戦で、僕ができることは、言いくるめです。


体験の一つを言うなら、

僕に勝手に向けられた色恋感情を放置したら、あとつけられて家宅侵入されました、その事実を他人は信じないけど、家族とは未だにネタにします、追い返したのは弟だからです。
「・・・どちらさまですか?」「ーーさんいますか?」このやりとりは今だからギャグ扱いで笑えます。呼び鈴壊されてんだからほんとは笑えない話です。

そして、そういうののやっちゃいけない法的線引きとか、二次被害とは何か?何をすべきだったかを、知識として知りました。貪ったおかげです。


そういうのをベースにしたいろんな脳内の言葉を、
遭えばわかる、遭わせてやりたい、そう考えるのは、呪詛だから、
目の前の他人には向けずここに書くんです。

人をイライラさせる人

このごろどうにもいらいらします。

理由はもうシンプルで、
人をイライラさせる人が近くにいるからです。

別に自分だけがそのひと(たち)にイラつくなら、
対象が自分の出来事が群発的に起こる=自分自身に原因がある
ってことで、他人に対してイラつく自分を分析できます。

ですが、そうではない場合、つまり
その人たちに関わった人が軒並み苛立ったのを見てきたというような状況証拠を定点観測的に持つ場合、正しくその人たちは「周囲をイラつかせている」と評価を下すことができます。



不満ってやつの根っこは、2種類あります。

自分自身が外に期待することから始まる不満と、
「される」を避けられなかったことに始まる不満です。

後者も、"「される」をしないでほしいという期待"と言うこともできるので
ちょっと複雑というか難しいですが、
距離をとることが難しいのであれば、対策の難易度は跳ね上がります。




で、

後者をもたらす人、言い換えると、他者に害をなす人ですが、
この人たちどうも、無自覚というよりも意識変容してるのではないかと
今日サンドイッチされて、思うようになりました。

自覚はある、けどその「自覚」を
別のもっと権威的な好ましいものとして認識している。
(そうすることによって、他人に害をなす正当性を保証されたような気分になるという、カタルシスを得る=>カタルシスなので、「怒る」「無視する」という、マウンティング型の表現が多い)

でも自覚のもとのかたち(変容したのだから原型を保っていた時期がありその時点で生まれたものの中には、変容しないまま残ったものがある)も、自覚無自覚/記憶にあるかどうかはさておき少なくとも体験しているので、
自己正当性の保障を常にしないと落ち着かない、と。





ざっくりまとめて書き直すと、

僕は、不当な攻撃をこのごろ特定の複数人物から受け続けており、言葉巧みに僕にだいたい罪をかけてくる上(=責任を作る)、
自慢話と僕の知らない(=興味もないしどうでもいい)お仲間グループの、個人名バリバリな内輪トーク+おのろけ+時系列潤の一挙手一投足の解説を、数時間単位で居座られ聞きつづけ、
そもそもどいつも言ってることが要領を得ないのがさらに苛立ちをあおるので、だいぶメンタルに来てます。

おう、まとまったね。これで自己解決に近づけます。




で、そういう状態で、ことあるごとに八つ当たりをされます。
僕がイライラすること自体がお気に召さない癖に、干渉してくるので、休まりません。

文字通りのかまってちゃんなわけです。
かまってちゃんは、自他境界があいまいな人が極めて多いです。別名「どこでも私有地」ちゃんです。他人が自分を気持ちよくしてくれないのが悪いと思ってる人が多いです。

そしてたいがい後出しで、たいがい劇場型性格よろしく感情を振りかざしたかのようにふるまって威嚇をします。人のほうを向いて会話をせず、だいたい上から目線から始まります。




いやなら関わらなければいいのにね。
いやである=周囲が悪い、の方程式が欲しいから、嫌な場にそこを作り替えます。でも気心が知れている(=多少の無茶は許されるし甘えさせてくれるだろうと思われる)人のところでしか行いません、よそにはすげーイイ顔します。

そのうえ彼らは言い訳がましいから、自ら関わり、いつまでも喋り続ける。

そして被害者を気取り、何も知らない誰かに、捻じ曲げた妄想を伝えてかわいそうがられてどうでもいい虚栄を満たす。



受動的に受け取りたければ、それだけの器量を自らにあらかじめ用意すべきだと僕は常々思うんですよ。

墓碑に咲く花

の、うしろにいれるやつ。
歌入れるときは日本語です。


I found a flowers that lonely swaying .
It is small and white wildflowers.

You are here. Asleeping along with the silence.
This white flower, you are in bloom.

Under the warm sunlight,
swaying in near the gravestone that your name has engraved,
It is small and white wildflowers.

You were here. for sure you had live alive here.
I know. I remember your smiling face.

I Miss you .
I lost you, Forever.
Want to meet again to you.

I can't go back here.
So, I depart.