羽海野チカ『3月のライオン』

 漫棚通信(すいませんが敬称を略して)が本ブログのコメント欄羽海野チカ3月のライオン』について言及していた。
 ぼくが、スポーツのエトスは勝負であり、そのエトスを「敗北」という側面から見事に描いたのが『ちはやふる』だという記事を書いたさいに、つけてくれたコメントである。

 『3月のライオン』はプロの棋士の世界を描いた物語で、4巻では主人公・桐山零の研究会主宰者、いわば師匠格にあたる島田八段の「敗北」が描かれている。

スポーツのエトス=勝敗に全てを賭けられない桐山

 しかし、『3月のライオン』はこれまでのところ伝わってくる中心テーマは、まったく正反対の問題——つまり主人公の桐山零にはこの「スポーツのエトス」、勝敗に競技人生と人格をすべて載せるというような意気込みが欠けている、ということなのである。
 4巻の島田八段が身を削りながら勝敗に執着する姿は、むしろ桐山の「本気になれなさ加減」とでもいおうか、絶対的で暴力的な勝負の世界の論理に身を沈めきれない中途半端さを浮かび上がらせる。

 中学生でプロデビューした桐山は才能がある存在として周囲に騒がれてきた。しかし、どうしても勝負に本気になりきれない自分に戸惑い続ける。
 たとえば、桐山をライバル視している同年代の二海堂は、「絶対にタイトルに挑戦する」という決意をすでに述べる。

出るさ
絶対にタイトルに挑戦する
そう決めている
そう思わないで
どうして
やっていける

 この二海堂の姿をみて、桐山は動揺するのだ。

——そう言った 二海堂の顔を見て
少なからず僕は動揺した
——僕が グルグル迷っている間に
同世代の彼は
すでに覚悟を かためて いたのだ

 桐山が将棋において才覚を発揮するのは、自分の「居場所」を生み出すためだった。父母と妹という幸福な家庭を事故によって一瞬で失った桐山は、父の友人の棋士の家に預けられ、将棋の才能を認められることでその家での危うい居場所を必死で見つけ出そうとした。しかし、自分の将棋の才能が認められることは、その家の子どもたちのプライドを引き裂き、それらの子どもたちの居場所を失わせることに他ならなかった。自分が居場所を生み出す行為が他人の居場所を奪う行為だとわかり、桐山はプロになってその家を出てしまうのである。

 居場所を生み出すために才能を磨いてきた桐山にとって、プロになってしまい、「自立」を果たしてしまった今、何としても相手を打倒し、自分の強さを誇示しようというスポーツのエトス——勝敗への絶対的な拘泥は内側から消えていく。
 それゆえに、プロの世界が「ぬるま湯」のような状態になり、負けが込んできても動けずにいたのである。ましてや、勝負の極限に存在する高みへと自分を誘っていくなどという境地には思いも及ばない。

桐山における居場所=逃避場所

 桐山は、ある日無理矢理飲まされてつぶされて道端に転がっているところを、見知らぬ女性・あかりに助けられる。その女性が長女である三姉妹の家に、桐山はしばしばお世話になっているのだが、そこはどうにも「居心地」がいい場所なのだ。
 「居場所」ということを考えたとき、あかりの家ほどその名にふさわしい場所はないように思える。実際、桐山はそこを「コタツみたい」だと形容する。

中にいると
とろけるように
あったかくて
心地良くって

外に出ると
今まで平気だった
日常が

すっごい寒いところ
なんだって

気づかされてしまうんだ

 この桐山の考え方はおかしい
 「居場所」というのは本来、基地である。そこで充電できるからこそ、外に向かっていくエネルギーを蓄えられるはずなのに、桐山は逆にそのエネルギーを奪われるものだと感じているのである。
 そして、この三姉妹の家庭の肯定的な描き方から、そこをエネルギーを奪われる場所だと感じることは余程困難なことである。
 だが、「逃避」の場所としての「居場所」は、たしかにこのような場所として作用することがある。そこから出られなくなってしまう、ということだ。

承認を得るために才能を磨くということ

 才能を発揮することで居場所をつくる、という発想は、しばしばぼくらもよくとらわれるものだ。かくいうぼくも。「学校の成績がズバ抜けて良い」というようなキャラクターによって、周囲の承認を得て、自分の学校における居場所を確保するというようなやり方のことだ。
 この段階での才能というものは、どれほど素質があるにしても、非常に脆弱な基盤の上にあるといわねばならない。極端にいえば、他人からの賞賛や評価を得るということが才能を磨いていく目的になってしまっているからである。

 それが満たされれば、成長は止まってしまう。
 あるいは、医療や福祉の労働者が「ワーカホリック」に陥る一つの原因として、他人から賞賛を受けたいというような動機が歪んだ形で自分を過労に追い込んだり鬱にしてしまったりすることがあるという。

 桐山はまさにこの段階なのだ。
 居場所づくりと才能発揮をリンクさせてしまうがゆえに、停滞してしまう。しかも、あかり三姉妹という「居場所」ができた今となって、果たして居場所——だれかに承認されるために自分の才能を伸ばす必要があるのか、根源的な問いを突きつけられるはずである。

勝負のエトスを自分の中に装着できるか

 将棋という勝負の世界において、絶対に誰にも負けないというエトスを身につけ、たえずその究極の姿に向かって研鑽していく——この段階に桐山が移行できるかどうかがこのマンガのテーマではないかと思う。
 羽海野チカは前作『ハチミツとクローバー』において、この課題を、登場人物の一人である、はぐみに負わせている。絵の才能を誰のために、どれほど伸ばしていくのか、そのことにはぐみは絶えず悩まされ続けるのだ。しかし、ぼくはそのテーマ追求は『ハチミツとクローバー』では中途半端に終わったと思っている(率直に言って、『ハチクロ』はギャグマンガとして精度が高かった)。今回、将棋というスポーツ的(勝負的)な世界を前景化することで、このテーマはよりクリアになった。
 羽海野は1巻巻末において、なぜ将棋なのかという問いに対して「さあてねぇ……なんでなんでしょうねえ」「ただ気になってしまったんですよ どうしても」と述べて、よくわからないというようなニュアンスの回答をしている。
 しかし他方で、

「どうしても気になってしまった」
という事は

今の私が
「どうしても考えなければ
ならなかった事」
がきっと
その箱の中に入っている
——という事なのでしょう

とのべている。マンガという才能を磨き続けるという行為が承認のためなのか、それ自体が絶対的な自己目的なのか、という問いに羽海野自身が悩まされ続けている、ということなのだろう。
 マズロー欲求段階説を持ち出すまでもなく、他人に認められたい、つまり社会的承認の欲求段階のあとにくるのは、自己実現の段階である。その段階においては、もはや他人が認めてくれようがくれまいが、自分自身を実現しようとするエトスを自分の中に内在させ、それに向かって精進していけるようになるのである。

 将棋でいえば、絶対にどんな相手にも負けたくない、ということを、すでに周囲の評価などとは切り離して自分の中にエトスとして維持し追求できるようになるということである。将棋だけに限らず、すぐれたスポーツ選手などの自己実現の姿はまさにこれである。

 『3月のライオン』において、他を寄せつけない強さをもつ名人・宗谷は、世俗を超越した、神々しさの中で常に描かれている(右上図参照、羽海野『3月のライオン』4巻、p.35、白泉社)。
 それは「他人の承認」といったような俗世間の欲求から圧倒的に超越した姿を描きたい、という羽海野の姿勢の現れだろうと思う。宗谷は絶対的な自己実現の世界に存在しているのであろう。

 ちょっとばかし何かができる、何かができるがゆえに他人が自分をホメてくれる、それが自分の居場所になる——この承認=居場所を求めて彷徨うぼくらの姿は才能を引き上げる一つの段階ではあるが、その段階にとどまるかぎり、その才能は停滞する。
 そこから自己実現の高みへと段階を進めるには、おそろしく高い壁があり、その飛翔には尋常ならざる力が必要なのだろう。その苦闘を羽海野は描こうとしているのだし、羽海野自身がそのテーマに悩まされているのかもしれない。

 ところで。

 年上的美人に、口の中に手をつっこまれてゲロの介抱されるってどうよ。

最初に一番みっともない所を
全部見られてしまったから
——もうとりつくろえないのだ……

 最初にものすごい濃厚なセックスを「された」ごとくにエロいことのように感じるぼくは、まあきっと頭がおかしいってことで。