Hatena::ブログ(Diary)

紙屋研究所


※すべての記事は上の「記事一覧」で見られます。
※上の「日記」で検索すると当ブログ内の検索ができます。
※旧サイトはhttp://www1.odn.ne.jp/kamiya-taです。
コメント・トラックバックには普段は反応・返答しませんのでご了承ください。
※メールはcbl03270(at)pop06.odn.ne.jp  ←(at)を@に直してください。
※うまくメールが送れないときはこちらからどうぞ。
※お仕事の依頼や回答が必要なことなどはメールでお願いします。

2010-05-05 「ブラック」な絵本の存在意義 ウィリアム・ビー『だから?』

ウィリアム・ビー作 たなかなおと訳 『だから?』

 親がアウトドア派ではないせいか、娘にもそれが伝染しつつあるようで、公園ではあまり長い時間集中して遊ぶような気配はない。まあ動物じゃないんだから、魚を水に放したらすいすいと自由に泳ぐ、という具合に、公園に放したらキャッキャッと遊ぶというものでもないのだろう。

 そのかわり絵本はかなり好きなのではないかと思う。

 このGW、つれあいの仕事がテンパったせいでどこにも遠出せず家の周りで過したのだが、公園か図書館かどっちがいいかと聞くと「としょかん」といい、公園に誘導しようとしたり他の寄り道をしようとすると「としょかんは?」「ここがとしょかん?」と執拗に問いただす。くそっ。

 義母が福音館の「こどものとも」シリーズを毎月送ってくれたり(月刊絵本なので、送ってくるのは出版社であるが)、知りあいからもらったり、本屋で買ったりしていたのだが、

  1. 買っていては膨大になりすぎること
  2. 娘の好みと親の好みが違うと読まれないこと

などがあってどうしたものかと思っていた。その矢先、家の近くにある児童図書館に行ったところ、これは実にすばらしかったのである! 

 何しろタダであるから借りても娘の好みに合わねば返せばいいし、おススメの絵本は商業主義的動機なしに陳列してくれているし、書店のように気兼ねなく読めるし、言うことなしである。ちなみに1.については、オマエのマンガを削れば?という浅はかにも程があるツッコミを入れてくる馬鹿がどこにでも1人くらいはいるが、今回だけは大目に見てやろう。

 さて、娘の絵本の好みとぼくの絵本の好みは違う。

 さすがにエドワード・ゴーリーを娘に読むことはない。

 だが、ウィリアム・ビーは読む。

 いっしょにするな! と怒られるだろうが。

 ビーの絵本『だから?』は2005年度イギリスBCCBブルーリボン絵本賞を受賞している。2008年に日本語訳が刊行されたとき「しんぶん赤旗」に訳者(たなかなおと)自身による書評が載り、面白そうだと思って買ったのである。

 『だから?』は、どんなに父親がすばらしい、びっくりするようなプレゼントや体験をさせてもひたすら「だから?」と無感動に対応するビリーという子のお話である(原題は「Whatever」。無関心を表す間投詞だ)。

 父親はビリーを喜ばせようとありとあらゆる手をつくす。

 しかし、いつもビリーは「だから?」としか言わないのだ。

 最後に父親が連れてくるのは


せかいで いちばん はらぺこの とら

である。やはりビリーは無感動に「だから?」で応える。

 ところが、その途端、ビリーは虎に食べられてしまうのだ。ビリーが虎を見せられてから腹に収まってしまうまでを何と8ページもの詳細さで描く。一瞬、絵本にとんでもないリアルさが生まれてしまう。とりわけ、残されたビリーの靴は惨劇の後の残酷さを象徴している。

 はじめてビリーは虎の腹のなかで動転して叫ぶ。


パパ、たすけて。ぼくは ここだよ

 虎の綱を持ちながら悠然と歩く父親は、ちょっとほくそ笑んでいそうにさえ見える感じで答える。


だから?

 いかがであろうか。

 これをゴーリーと並べた理由もわかってもらえると思う。

 それは「ブラック」という点で共通しているように見えるからだ。

 しかし、そもそもゴーリーは「ブラック・ユーモア」という域を超えている。とりわけ、子ども5人を殺して荒野に埋めた殺人カップルを描いた『おぞましい二人』はそうである。

 加えて、ビーの『だから?』を「ブラック」と評することに、訳者の田中は大いに不満を述べている。


僕としては、どうもブラックという言葉は、釈然としない。

なぜなら、きっとこの言葉には「悪意」というニュアンスがこめられ、「ハッピー」の対極としてのレッテルを貼付けることで読み手に注意を促すような自粛の気持ちを植え付けてしまうから。

この絵本は、実にストレートなテーゼを発信していると僕は解釈している。

だれもが「いい子」「いい親」であろうとして偽善的にふるまう仮面親子が益々増える中、この作家はこう言っているような気がするのだ。

「絵本は、子どものご機嫌をとる道具じゃないよ」

http://www.cam.hi-ho.ne.jp/g-mama/tanaka-papa01.html

 ここにこそストレートなテーゼがある、と喝破する田中の主張は小気味よいものだ。

 しかし、絵本を読む、という行為はやはり教育的なもので、親にとって何か正しいと思える価値を子に伝達する、という要素がやはり強い。だとすれば、ぼくとしては、やはり『だから?』は絵本の中では一変種であり、「こんなこともあるわけだよ」ということをニヤニヤして伝えたいというものなのである。つまり「ハッピー」の対極としての「ブラック」なのである。

 朝起きたら歯をみがこうね、とかそういうとりわけ説教がましいものに始まって、『しろいうさぎとくろいうさぎ』のような名作の中に潜んでいる「結婚という価値の称揚」のようなものにいたるまで、絵本の世界は「正しさ」に満ちているように見える*1

 その中に、ゴーリーのようなメッセージは持ち込めないにせよ、風穴をあけるような作用がある絵本がほしい、と思うのだ。『だから?』は従って「ブラック」な絵本としてとても貴重な役割を果たしていると思うのだが。

 さて肝心の、わが娘はこの絵本にどう接しているかといえば、オチの意味があまりよくわからずに読んでいるようなのだ(そもそもぼくの母親でさえビリーと父親を勘違いしていた)。にかかかわらず、というかそれゆえに、というか、娘はこの本を愛読している。しばしば「これよんで」と言ってもってくる絵本の一つになっている。

*1:もちろん、すべて「正しさ」の継承のためにあるものではない。たとえば「想像力をかきたてる」タイプのものもある。元永定正の絵本のようなものは典型であろう。