「社会」と「私」の分裂
「社会問題」とよばれるものが、自分とは関係のない、縁遠いものとして受け取られ、「家庭」や「仕事」といった自分の生活にかかわるところだけにしかリアルさ、というか瑣末な生活実感しか感じられない、という分裂がある。それどころか、「家庭」や「仕事(経済)」という二つの領域でも、まったく分裂した世界があって、その二つは全然別の論理で動き、自分の人格もその二つの世界で分裂している——こうした感覚はおそらく誰にでもあるだろう。
ぼくのサイトを長く見てきた人はわかるだろうが(そんな人がいるかどうか知らないが)、この「分裂」の統一こそがぼくのサイトの一つの中心テーマである。
オタクである自分は虚構世界や身辺のことについて生々しく欲望を感じていることと、コミュニストとして政治に身を投じている自分の間の「分裂」を埋める作業をしているのだ。
インターネットのようなバーチャル世界が広がったからこうした分裂が始まったのではない。こうした分裂は、近代が始まってからすでに存在した。
前近代、多くの人は自分の「生活圏」の中だけで暮らしていた。
公共のこと(政治)と、仕事(経済)と、家庭は一体のもの、もしくは非常にすぐそばにあった。
近代になって、地域や国家が統合されて国民国家がつくられると、「日本社会」「日本経済」というようなものができた。自分の実感しない「社会」や「経済」や「政治」を感じることになり、経験と概念は大規模な分離をおこした。
根底ではつながっているはずの政治・経済・私生活(家庭)は別々の論理で動くようになり、近代社会では人格は普通に分裂する。たとえば家庭では「ウソをついちゃいけない」と教えているお父さんは、会社ではウソ=ハッタリをきかせて商品を売っている。
教養とは「公共圏と私生活圏を統合する生活の能力」
清水真木『これが「教養」だ』(新潮新書)を読んだとき、清水の
教養とは、「公共圏と私生活圏を統合する生活の能力」のことであります。生活の公的な場面と私的な場面におけるそれぞれの行動を統合する能力である、と言ってもよろしいかと存じます。(p.15)
という教養の定義は、自分の問題意識と重なるものがあるのではないかと思った。清水は別の形で、こうも教養を定義している。
一人の人間が帰属している複数の社会集団、組織のあいだの利害を調整する能力ということになるでございましょう。(p.19)
清水は、教養という概念の成り立ちをさぐりながら、現在巷で使われている「教養」というのが当初の教養の姿からいかに離れ、奇妙な恰好をしてしまったものであるかを説いている。
つまり、古典を読んで抽象的な人間性を陶冶する、というような教養のイメージである。それにたいして、清水が定義している教養は、現実社会の利害調整能力なのだから、ずいぶん隔たっていることがわかるだろう。利害調整能力というのは、たとえば「仕事が大事なの、家庭が大事なの」という突きつけられ方をしたときに、その価値の優劣決定や統合を現実におこなえる能力のことになるのである。
「教養=古典を読むことに、邪悪で浅薄な実利の『目的』などあってはならない」「古典を読んで抽象的な人間性を陶冶する」的な教養観が衰滅しかけているときに、そうした教養観を批判する意味はどこにあるのだろうか。
清水はドイツの特殊な状況が反映し、さらにそれが近代日本の特殊事情が加わってゆがめられた教養観を批判し、かわりに「本来の意味での教養」(p.216)にたいしては、
問題解決の能力を手に入れるために努力する者にとり、私どもの社会——それはたしかに鬱陶しく不気味な社会ではございますが——これは能力を鍛えるためのまたとない練習場ですらあるではないか、私はこのように考えます。(p.216-217)
と述べている。
問題解決の能力、というのは、個別にぶちあたる困難や難問、そういうものを具体的に解決する能力だ、と清水は規定する。「決疑論」的なのだ、と清水はのべる。
「自分らしさ」を手に入れるということは、あくまでも個別的、具体的な生活の一つひとつの場面、一つひとつの出来事に即してピースミールに問題を解決して行く——これを哲学では「決疑論」と呼んでいますが——このような決疑論的な能力を手に入れるということにほかなりません。教養とは決疑論的な問題解決の能力であり、教養ある人間とは、決疑論的に問題を解決することのできる人間であると私は考えています。かつて「神は細部に宿る」とかいう言葉を遺した人がいましたが、大切なのは、毎日の生活で出会うこまごました問題であり、その解決であるはずであります。(p.50〜51)
清水的な教養をどう手に入れるのか
それはどのように手に入れられるのか、ということについて清水は、「古典を読んで抽象的な人間性を陶冶する」という方向性はまるで逆だと批判する。それを具体的に書いてある箇所は、本書にはあまり見当たらないのだが、
手に入れるには、「場数を踏む」ことが絶対に必要だからであります。(p.217)
というのは、清水の現在の答なのだろう。これが単なる経験だけのことを指しているのか、実利的な本を読むことも含まれているのか、古典を読むことも含まれているのかはよくわからない。
おそらく、問題解決能力を高めるものであるならば、実地経験も、実利の本を読むことも、古典を読むことも、すべて含まれるのだろうとぼくは読み取った。それらを考え抜いたり討論することも含まれるのだろう。要するに問題解決能力を高めるという目的のために従属するすべての事柄である。
古典を読むことはそこに入るのか
問題解決能力を高めるために、場数を踏んだ経験をすることや実利的な本・情報を得ることはおそらく誰も疑問には思わないだろう。わざわざ清水が指摘しなくても普通の人はそれをやっているのだ。
問題は、そこに古典が入るのかどうか、ということだろうと思う。
もともと清水は、
教養と申しますのは、ながいあいだ、私にとり「固定観念」(idée fixe)のようなものでした。遅くとも大学に入学して以来、「教養ある人間になりたい」「教養を身につけたい」と願い、「教養とは何か」「教養を手に入れるためにはどのようにすればよいのか」という問題に、日夜、というほどではございませんが、それでもまあ、繰り返し頭を悩ませてまいりました。(p.221)
というのだから、そこに「古典を読むことは必要なのか」という問題が反映されていることは間違いないだろう*1。そうは書いてないけど。
マルキストであるぼくは、分裂した世界を統合するためには科学的に自然や社会の全体像を形成することが必要ではないかと考えている。粗くてもいいので、自然や社会が全体として大いなる連関をもっているのだ、というような自然観、社会観である。そうすると個別の問題が自然や社会の見取り図の「どこに位置しているのか」を知ることができるようになる。そのような全体像をもつことが分裂を救うのである。
本来、大学の教養教育・一般教育とはそのようなものでなければならないはずだが、実際には「広く薄く」という中身のないものになっているのだ。
ただ、そのような自然観、社会観が仮に一定身についたとしても、それで問題解決能力が高まるとは限らない。むしろ自然観や社会観などがデタラメであっても問題解決能力の高い人はいるのだ。
マルキストはこうした全一的な自然観、社会観を持っていると自負するのであるが、しばしば(ぼくを含めて)問題解決能力が全然ダメなのは、ぼくに言わせればたとえば、人間の意識や行動についての矛盾し多様なあり方について、洞察が弱いからではないだろうか。つまり、ぼく流にいわせてもらえば、科学的な社会観・自然観(人間観)のつきつめが弱い、ということになる。
古典というものは、天才たちが、社会や人間にたいして、つきつめて考えたその思考の軌跡でもある。そしてすでに定評あるものだといえる。だから彼ら・彼女らが対象とどう格闘したかは、問題解決能力を高めたり、自然観・社会観を鍛えるうえでは参考になる。
しかし、だ。
そこまでぼく流に整理したとしても、古典を昔ほどは必要としなくなったということはできると思う。
知が独占されていた前近代、いや近代に入ってもかなりそうだろうが、そういう時代に、文字になって学ぶべきものは本当に限られていたから、古典のようなものから学ぶほかはなかったかもしれない。
しかし、現代では爆発的ともいっていいほどの知の対象化(文字化されたものや映像化されたものなど)が存在する。そうであるとすれば、古典の重要性というものはかなり低下せざるを得ないのではないか。古典でなくてもつきつめた自然観・社会観を手に入れたり、問題解決能力を高める方法は多様に存在するようになった、ということだ。