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紙屋研究所


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2011-04-20 最後の表情 上野顕太郎『さよならもいわずに』

上野顕太郎『さよならもいわずに』



 平均寿命よりもずっと若い年齢で、最愛の人がいなくなってしまう――そういうふうに思いを馳せることが、最近3つのパターンでぼくを襲っている。

 第一は、義姉(兄の妻)が亡くなったことだ。40代、がんであった。高校生と大学生の子どもがいた。兄が葬儀の日にみんなを前にあいさつしていたように、義姉は他人に不快感を与えるということから最も縁遠い存在で、義姉の温かさで家族の基調がつくられていた。「仲のよい家族」という、ぼくのなかでの理想の一つを構成する家族像の中心にいた人である。

 最初にがんがみつかって、いったん治癒し、しかし、数年して転移という顛末をたどり、家族や周囲は義姉が「死ぬかもしれない」「義姉がいなくなる生活を想像しなければならないかもしれない」ということをおよそ10年近くかけて覚悟しながら、生活を送っていった。

 第二は、娘とつれあいの両方、もしくはどちらかが、「いなくなる」という想像をたえずしてしまうことだ。というのも、つれあいとぼくの間で、よくそういう「空想」が話題になるからである。義姉のこともあるが、それだけでなく、駐車場の事故で幼い子どもが突然死んだり、犯罪によって幼児が殺されたり、親が突然死したりする新聞記事なんかを見るたびに、しなくてもいい想像なのに、なぜかつれあいと話題になってしまう。

 第三は、やはり今回の東日本大震災のことだ。平均寿命に達してもいない家族との別れが、何の前触れもなく突然訪れるという不幸が、1日にして千、万という規模でおこったのである。現代の先進国では、戦争でさえその種の悲劇を生み出すことは難しいだろう。




この漫画に「共感」するということ


さよならもいわずに (ビームコミックス) 本作は、上野顕太郎という漫画家が、ある日突然妻(キホ)を失ってしまい、妻が亡くなってからの自分の生活と気持ちを描いた内容になっている。妻の死は、がんのような長い闘病によるのではなく、(鬱や喘息には悩まされてはいたものの)何の前兆もなく突如としてもたらされたものになっている。

 愛する人を失う悲しみは本人にしかわからない、といえばそうなのかもしれないし、妻子を失っていないぼくがこう言うのはあまりに僭越ではあろうが、この作品は「ものすごくよく理解できた」。言葉を換えていえば、「共感した」のである。

 「共感した」というのは、もう少し言葉を足して言うなら、「自分がもしつれあいや娘を失ったとしたら、かなり似たような感情の動き方、たどり方をするだろう」という気持ちになったからである。

 そういう意味では、同じ世代や生活価値観のエッセイ漫画を読んで「それってあるある!」みたいな心の動き方をするのによく似ている。

 だから「共感」するとはいっても、ぼくはこの本を読んでぼろぼろ泣くわけではない(まあ、じわっとくる箇所はあったけど)。むしろ今のべたエッセイ漫画のように「そうなんだよ、俺もそう思うんだよ」とか「あー、実際に死ぬとそんなふうに感じるわけね」みたいに、妙にうなずきながら読んでしまう本なのである。

 それは、「突然つれあいや娘を失うかもしれない」という妄想に、余計なリアリティを与え、妄想を強化してしまう。しなくてもいいはずの妄想について、この作品の読後は、いっそう不要な不安のなかにおかれるという按配だ。



わが家庭と似た家族の距離感

 この作品の冒頭に、親子3人で戯れている描写がある。

 特段にかわった家族ではないが、じゃれあっている様子やしつけの調子など、家族相互の距離感が、ぼくの家にきわめてよく似ている。布団に入ったあと、生チチを揉むのも……というのはさておいて、寝返りをうつとき「愛はあるよ」とフォローを入れる(上野たちは同じ姿勢をとるのが苦しくなって、ただ楽になるために背中をむけることにエクスキューズを入れているのだ)のは、「何かいま寝返りをうって背中むけると、不機嫌な感じに見える?」と思ったことが再三あり「ちょっとこの姿勢変えるからね」とわざわざ断ったことがある。そういう気遣いの感覚が実に似ているのである。

 冒頭のこの描写は「愛情のある家族生活」の描写ではあるが、ぼくは「自分と似た家族」を感じ取るものになった。

 そこがあったからこそ、ぼくはこの作品を「同じような家族状況、同じような感覚の家族の話」として感じ取れたのではないか。アマゾンカスタマーズレビューをみると、理解できないと書いている人や、なんでとりとめもなく書いてんの、商業出版にするようなものじゃないだろ、みたいな批判があるのだが、まさに「随想」として本作を眺めなければ、そしてやはり同じような感覚や境遇がなければ、意外に届きにくい作品かもしれないと感じるのだった。

 記録的、随筆的な「だだもれ」感を抑えて、「物語」にしてしまったとしたら、本作はまったくダメな作品になっただろう。

 たとえば「物語」として完成度を高めるために、娘の行動や感情を詳細に描写してしまうことが十分に考えられる。

 しかし、本作は、驚くべきほど、娘の気持ちや行動には触れていない上野自身が余裕がなかったせいではあろうが、「40代のオトコの喪失」という感情をなぞることを目的とするのであれば、娘の感情を描くことはおよそ余計なことだ。もしそのようなものを描いていれば、ぼくの「共感」はずいぶん薄まってしまったことだろう。




その最後の表情はどんなものであったのか

 「共感」というからには、共感したことを書いてみたい。

 ぼくは、もし妻子が突然死んだとしたら、「その最後に見た顔は何であったのか」ということがひとまず大きく気にかかるだろう。

 またまた馬鹿げた妄想だが、朝保育園に娘を送るつれあいを見送って、ふっと「もし事故で2人とも死んだら、最後に交わした会話は何だということになるだろうか」「最後にぼくのまぶたに焼き付けた表情はどんなものだったか」ということが気にかかることがある。ほんとに、ごくまれになんだけど。

 「それが生きている娘を見た最後だった」「それが私たち家族の最後の幸せな光景でした」などと、一人でナレーションをつけてみたりして、受けなくてもいいダメージを受ける。

 

 そして、大抵はその表情や言葉をうまく思い出せない。

 ぼくの記憶力の悪さもあるのかもしれないけど、ぼんやりとしてしまっている。

 突然死ぬ、とはそういうことではないか。

 上野はやはり「最後に見た表情」にこだわっている。

 妻の死を描いたあとで、いったん時間をさかのぼり、死ぬ直前の妻子の行動を書いているのだが、鬱の具合についてやりとりを交わした後、


「じゃあね」

「うん」


とあいさつをし、上野が障子を閉める。

 そして、


その時のキホの表情を

私は一生忘れないだろう


と書きつけ、見開きの大ゴマで、キホの表情を描いている。他のページとはちがったトーンの、写実的なスケッチのようなタッチとなり、少し困った、少し笑ったような顔をしているのである。


それが生きているキホとの

最後の別れとなった

として、閉められる障子のむこうに、キホが小さく描かれている。

 上野が「一生忘れない」として、微細な皺や陰影までが「再現」されている大写しのキホの顔。


本当にこれがキホの表情だったのだろうか?


 しかし、ぼくは思う。

 これは果たして本当に「一生忘れない」として再現されたキホの「最後」の表情だろうか、と。

 部外者であるぼくが、上野の大事な思い出を「訂正」する権利などまるでないのであるが、あくまで「ぼく基準」でいえば、誰も突然の死など予感していない。「最後の顔」は誰にとっても「ぼんやり」したもののはずではないか。

 まるで、この漫画に出てくる葬儀の候補写真のように、粒子の粗い状態で、記憶にはとどまっているとぼくには思えるのだ。

 にもかかわらず、上野が「一生忘れない」としてキホの顔をこれほど微細な写実性をもって再現しようとしたところに、逆にぼくは異常なまでの執着を感じるし、それは実はリアリズムではなくて、「最後の表情を克明に覚えていたい」という上野願望の産物ではないか、と思うのだ。

 上野には、イメージとしてのキホが自分のなかでぼんやりとしたり崩壊したりすることへの恐怖が強くあるのだと思う。そういう気持ちが、本来覚えているはずのない、何げない夜の自宅の一室での表情を、詳細に描きださせる原動力になったのではないかと。




「おっぱい」への執着

 キホの手紙やメモを収集しまくって「キホマニア」を自認する上野だが、死後にそのことが強調され、「欠片集め」を続け、テープやビデオをなぜもっと早く導入して残しておかなかったのかと悔やむのはまさにその象徴だ。

 きわめつけは、妊娠で乳房が張ったキホが映像に残されていたものに、上野が強烈に惹きつけられるシーンである。「おっぱい」が映った画面に上野はキスをする。

 あげくに


誰かが自分たちを

盗撮していてくれなかっただろうか……


などというせんのない思いに囚われ、ネットで盗撮DVDを検索し、


あるわけがなかった


でオトすのは、「笑うところ」であろう。

 冒頭でキホの「生ちち」を揉んで、「おっぱい好きねー」とキホにいわれるように、上野にとって生々しい、においたつようなキホの象徴として「おっぱい」があり、その映像記録への執着こそ、上野の中のキホのイメージを「リアル化」しようとする(果てることのない)欲求なのだろうと感じる。

 だからこそ「生きていた最後の表情」を上野は描きたかったに違いない。あの「リアル」に描かれたキホの表情からは、上野の記憶力ではなく、虚構を通じてまでキホをイメージとして残したいという上野の強靭な執着心を感じるのである。

 保存に執着しない人もいるだろうが、ぼくは上野に似た感覚を持っている。撮影魔ではないけども、娘の姿を極力保存しておきたい。自分や妻子の人生は誰もビデオにはとっておいてくれないのだという思いはしばしばぼくを打ちのめすことさえある。



残り香が消える切なさ

 同じように、葬儀もすまない夜に、上野がベッドに入って、キホの残り香を感じるシーンがある。

 ぼくも布団につれあいや娘の「におい」が残っているのを感じるとき、一種の存在感を抱くことがあるのだが、死んだ当日は格別だろうと思う。そしてイメージを残しておくことに執念を燃やす上野にとって、やがて永遠に失われるであろう最後の「残り香」がそこにまだとどまり、刻々と消えていこうとしているその瞬間瞬間ほど切ないものはないだろうと深く共感した。



「再婚」を匂わせることは不要だったかどうか

 この漫画には「前妻」という表現や「新たなる家族」「新たな幸せ」という表現が散見される。そして話のラストで、明らかに髪の短い、キホとは別の「家族」が上野と娘の帰宅を待っているコマが描かれる。

 要は再婚したということだろう。

 これを完成のある「物語」とするのであれば、この事実の告白はまったく余計なことだろう。そのことに不満をこぼす書評も少なくない。

 しかし、これは事実の随想なのだから、それに反する結末はつけられない。「新たな幸せ」をみつけることでこの不幸が克服されたとすれば、「物語」のように何か納得できるもっともらしいことを描いて「受容」とするわけにもいかなかったにちがいない。

 もっと打算的にいえば、もし再婚の話を書かずに筆を措いて、あとで「え!? ウエケンって再婚してんの!?」とバレるダメージを避けたのかもしれないけど、事実の範囲で描かざるをえない以上、そういう打算を働かせたとしても別段どうということはない。


震災と本作

 震災が千万の「死別」を造り出した。

 三陸では、ただ愛する人が失われたというだけでなく、生活風景そのものが一変してしまった。だから本作で描かれているような、「風景は何も変わっていないけどキホだけがいない」というのとは違う事態だ。

 しかし、三陸には住んでないぼくらが、ぼくらの風景のなかで「愛する人がいた日々といなくなってからの日々との断絶」を思い知るためには、本作が今こそ読まれてもいいのかもしれない。

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