安斎育郎『増補改訂版 家族で語る食卓の放射能汚染』

学習会でとまどう人びと

 福島原発の事故以来、左翼組織の中で、なぜかドシロウトのぼくが原発放射線被害の問題の学習会のチューターをつとめることがある。もちろん専門家ではないので問題の骨格を知るための入門という位置づけだ。


 その学習会の場で、ICRP(国際放射線防護委員会)の見解を紹介し、低線量の放射線であってもガンになる確率はあるものとみなされる、としゃべる。安全基準というものは存在せず、「がまん量」なのだ、という話である。


 たとえば共産党の機関紙誌にも放射線問題の専門家としてしばしば登場する野口邦和(日本大学専任講師)の見解を紹介する。


暫定規制値はあくまでも事故時の緊急対応措置だということを理解する必要がある。メディアは安全基準などという言い方をしているが、安全基準ではない。被曝線量は低ければ低いほどよいというのが通説だ。暫定規制値は、いわば“がまん基準”であり、放射性核種が大規模に漏れ出る事故が起きたため、これ以上の被曝をしないようにと設定したものだ。(野口『放射能のはなし』p.198)

 暫定規制値以下のものを食べても「ただちに健康影響はおよぼさない」と枝野幸男官房長官が説明していたが、「ただちに」というのは急性障害のことをたぶん言っているのだと思う。それはあたりまえで、原子力安全委員会は一〇〇ミリシーベルトを超えるような線量になる設定をもともとしていないので、急性障害は絶対に起きない。(野口前掲書p.201)


放射能のはなし しかし、そう紹介すると、学習会参加者の中には我が意を得たりとばかり、厚労省の暫定規制値など信用ならない、というむねの発言をする人がいる。この種の人々は、実際にどれくらいの被曝が食品からあるのかという検証や知識を不要として、「だから政府の言うことはデタラメばかりでアテにならない」というふうに一足飛びに行ってしまうのである。


 こういう人たちに、いや、暫定規制値の範囲の食品の摂取はノイローゼになるほどの量ではない、と野口やこれから紹介する安斎育郎などが述べていますと話すとけげんな顔をされる。


 それでは消費者として、暫定規制値以下の食品を食べても大丈夫か。問題ないと私は思う。暫定規制値は安全基準ではないから、安心して飲食していいというものではないにしても、かなり安全側に立って作成しているので、神経質になることはない。大人と乳幼児のそれぞれの暫定規制値以下かどうかを知って、対処すれば大丈夫だ。(野口前掲書p.201)

 暫定規制値で問題になるのは、長期的には発がんの可能性の問題であり、それは確率の話だ。簡単に計算すると、暫定規制値の限度ギリギリのものを一日一キロ食べるとすると、二〇〇万人に一人くらいが将来、がんになる確率になる。このような非常に小さな確率は、個人では思い悩んでも仕方がないレベルではないかと私は思う。そういうことにあまりストレスを感じずに、暫定限度を超えたものは食べないようにし、超えていないものを食べてもそんなに心配しなくてもいいですよと言いたいと思う。(野口前掲書p.202)

 原発批判派ともいうべきこの種の人たちがなぜそんなことを言うのか、というわけである。
 同じ態度の別の側面であるが、放射線放射能の少しでも専門的な(というか啓蒙書レベルの)話をしようとすると「難しい」と敬遠されることもある(ぼくの話が拙い、ということはかなりの割合であるだろうけど)。「政治問題」すなわち階級闘争の喫緊の問題として扱ってほしいというわけだ。


原発推進派から目の敵にされてきた「札付き」

週刊 東洋経済 2011年 6/11号 [雑誌]
 福島原発の事故以来、放射線防護や原子力問題の専門家として、安斎育郎のコメントを一般の新聞や雑誌でも数多く目にするようになった。
 安斎は、現在の日本の原子力政策とそれに追随してきた学問にずっと批判的な人間で、原発推進派からは目の敵にされてきた存在である。いわば「札付き」の人物だ。

 ……安斎名誉教授は60年に創設された東大原子力工学科の第1期生。72年の日本学術会議のシンポジウムにおいて、国の原子力行政に批判的な基調講演を行うなど、東大にあって異端の言説を展開してきた。その結果、原子力工学科を追われ、助手として拾われた同大の医学部でも執拗な嫌がらせを受けた。
「研究室では『安斎と口を利くな』と通達が出され、他大学の共同研究者が『勝手に入るな』と追い払う。隣の席には東京電力の社員が張り付いていて、私がどんな活動をしているか、どんな電話がかかってきたかを、逐一会社に報告していた」(安斎氏)。
 75年の原子力工学科設立15周年記念パーティでは、あいさつに登壇した教授が、「安斎育郎を輩出したことだけは汚点」とわざわざ触れたほど、目の敵にされた。異分子を排斥し、批判的な論理を封殺してきたのが、東大の原子力工学科だった。
週刊東洋経済2011.6.11)


 ぼくは安斎を初めて知ったのは、大学に入学して学生自治会がおこなう新入生歓迎の講演会だった。当時「超能力のインチキを見破り科学的思考とは何かを考える」教員として人気を集めていた。当時はもちろん安斎の経歴など知らないので、風変わりな教員、せいぜい核兵器廃絶の平和運動に熱心な学者、程度の認識しかなかった。


 安斎は「超能力」や「占い」の批判的検討を通じて「だまされない主体性」についてずっと訴え続けてきた。その裏には、原子力問題をめぐりこれほど差別・冷遇されてきた体験があったとは思いもよらなかった。

自分で占い師として辻に立ってみる

だまされない極意―私たちはどう生きればいいんだろう? 2006年に発行された安斎の『だまされない極意』(日本機関紙出版センター)には冒頭「主体性を他人に預けてはいけない」という章がある。そこには自分の原子力問題での体験は一言も書かれていない。だが、安斎の経歴を知ってぼくはこの言葉の重さを初めて噛み締め直した。


 安斎の、主体性を他人にゆだねない、実践的な検証態度は『だまされない極意』でも存分に発揮されている。
 彼は占いを批判的検討をおこなうために、自ら京都で「占い師」として辻に出てみるという話が書かれている。四柱椎命と占星術を使った本格的なものだ。


 ……これがおもしろいったらありゃしない。
 占い師は3日やったらやめられないと思いました。それで2日目でやめたんですが、2日間でお客が206人、もう立命館なんていつでも辞めてやらあと思ったぐらいで、占い師で立派に食っていけると思いましたよ。(安斎『だまされない極意』p.34)

 「大繁盛」したという安斎の占いのエピソードが紹介されている。70代のおばあさんが訪ねてきて、独り身になったので長男・次男・三男のどこに身を寄せたらいいかという相談なのだが、次男のところに行きたいのがありありのおばあさん。しかしおばあさんがふだん信頼している占い師が次男の家は方角が悪い、というので安斎のところに相談に来たというのである。
 安斎は3つのことをいう。
 一つは、軽いジャブ。昔は地球は平らだったけど今では丸いことがわかっているから西にどんどんいけば東になっちゃうよ、と。
 二つ目は、いったん南にいって上がってから西へいけばいい。まず長男の家に行って、それから次男の家にいくと人間関係もいいよ、と教える。
 そして三つ目。大阪の三国ヶ丘にいい神社があるよと安斎は告げる。

 ……ここに便利な神社があるじゃないですか、源氏物語から出てくる方違え(ほうちがえ)神社という神社なんですね。かたたがえ神社とも言われますが、この神社のなんと便利なことか。西の方大凶というのが方違神社に行って方除祈願すると、大凶が大吉になっちゃうという神社なんです。
「ばあちゃん、さっそく明日方違神社に行ってねんごろに手をあわせるがよい。そうすれば万々歳、だいたいあなたは四柱椎命からみても65歳以降にしてますます運勢が開けると出ていますからね」
というとばあちゃんいよいよ喜んでね、懐から財布を出すんですが、僕は無料でみていますからね、大学の先生なんて一切隠して和服を着てやっている。本物の占い師だと思われてしまって、いつもはどちらに行けばお見立てしていただけるんでしょうかってすっかり頼りにされたんです。
(安斎前掲書p.37〜38)

 占いにたいする批判を実践という形でおこない、それがそのまま占いへの批評という行為になっているので、文章にえもいわれぬおかしみが生まれている。対象を客観的にとらえつくしてしまう態度がつきぬけると、わかりやすさとともにこうしたユーモアがにじみ出てくる。


 だから、安斎の書いた放射線放射能についての啓蒙書はどれもわかりやすいし、それだけでなく、文体にユーモアがあふれている。今回とりあげる『増補改訂版 家族で語る食卓の放射能汚染』(同時代社)もその例にもれない。

しきい値なし仮説」と暫定規制値評価との「矛盾」

増補改訂版 家族で語る食卓の放射能汚染 もともとはチェルノブイリ事故で食品の汚染を心配した生協組合員などを念頭において出版されたものだったが、福島の事故を受けて増補・改訂されて緊急出版されたものである。


 生協に加入している母親などを対象にしているので、まず「放射能放射線とは何か」ということにずいぶんページを割いている。そして、放射線というものが人体にどんな影響を与えるかということの基礎知識を次に説く。
 この2つの章だけで全体の半分以上を割いており、表題の「食卓の放射能汚染」というテーマは50ページほどである。安斎がまず放射線放射能の、基礎的ながら、全体像の理解に力を割いていることがわかるだろう。


 こうした全体像をうっすらとでも理解しておいてもらったうえで、安斎は食品の汚染について論じていく。


 ぼくたち一般市民が混乱をするもとになっているのは、ICRPが「低線量でも発がんの確率があるものとみなす」という見解(「しきい値なし仮説」)をとっているにもかかわらず、電力会社やマスコミに登場する学者は「低線量(100mSv以下)なら大丈夫」というのに近い見解を口にすることだろう。


 たとえば冒頭にかかげた野口は「しきい値なし仮説」の立場にたって、安全基準というものが存在しない、と述べているにもかかわらず、暫定規制値ギリギリの食品については「このような非常に小さな確率は、個人では思い悩んでも仕方がないレベルではないか」と述べるので、うわーん、どういうことなんだよー、というふうになってしまう。


 この問題を考えるうえでは、考え方の基準を明確にする必要がある。

放射線防護の極意は、「余計な放射線は、極力浴びないようにすること」これに尽きます。(安斎p.146)

 しかし、世の中には放射線がいっぱいあるのだから、この原則を貫きながら、現実の生活を送るにはどうしたらいいのか

要は、放射線は、浴びないにこしたことはないという原則を、現実の事態に直面して、どう貫くか、これがポイントです。(同)


 安斎が基本点としていつももち出すのはICRPの「放射線防護の3原則」だ。正当化の原則、最適化の原則、線量限度遵守の原則である。

 第一に、放射線被曝を伴う行為には、被曝に見合うメリットがちゃんとあって、被曝が正当な理由によって裏打ちされなければならないと言っています。たとえ被曝線量がわずかであっても、放射線を浴びるいわれがなければ、やはり放射線は浴びるべきではないのです。……


 第二の原則は「最適化の原則」と呼びならわされている原則で、要するに、「放射線は合理的に達成できうる限り低く保たなければならない」ということです。……


 第三の原則は、第一、第二の原則が満たされている場合であっても、個々人の放射線被曝は、国際放射線防護委員会が勧告する線量制限値(線量限度)をこえてはならないということ――「線量限度遵守の原則」とでもいうべきものです。放射線職業人の場合、五年間の平均が二〇ミリシーベルト/年〔年間50mSvを越えない〕、また、一般公衆の場合は、一ミリシーベルト/年とされています。(安斎p.146〜148)

 第二原則には、せめぎ合いが反映していることを安斎は次のように指摘している。

実際は、「合理的に達成できうる限り低く」の前に、「経済的・社会的要因を考慮に入れて」という重要な説明書きがついており、被曝をもっと低減できるケースでも、そのことに要する費用が、線量の低減によって救える「命の値段」よりも大きければ、あえてそれ以上下げる必要はない、というニュアンスを含んでいます。国際放射線防護委員会の勧告活動にも、原子力産業の経済性追求主義的傾向が反映し、微妙な表現をとって勧告に侵入していることを見ておく必要があります。(安斎p.147)

 そのうえで、安斎は、原子力産業の立場ではなく、市民の立場に立ったさいに、どう考えるべきなのかをこう述べている。

 私たちの考えからすれば、この第二原則は、「被曝はなるべく低く」ということに尽きます。第二原則は、もちろん、第一原則とは独立したものであって、第一原則の正当化の原則が満たされている場合でも、第二原則は必須の条件です。どっちかが満たされていればいいというものではありません。「合理的に達成できる限り低く」(as low as reasonably achievable)のところは、「容易に達成できる限り低く」(as low as readily achievable)という言葉で表現されることもあり、英語の頭文字をとって「ALARA(アララ)の原則」などということがあります。「あらら? じゃあ、容易に達成できなければ、それ以上低くしようとしなくていいの?」という疑問をお持ちかもしれませんが、国際放射線防護委員会の原則的精神(被曝は低いにこしたことはない)の具体化にあたっては、「もっと低く!」と求める私たちと「それ以上は困難です。もうごかんべんを!」と応じる「安上がり推進者」との間で、当然せめぎあいになります。第二原則には、いわば、そのような押し問答の契機が含まれていると考えてもいいでしょう。(p.147〜148)


 しきい値がないという仮説をとっているのに「限度」を設けることとの間には矛盾はないのだろうか(なお、この限度の線量の中には医療被曝と自然被曝は含まれていない)。

国際放射線防護委員会は、一般の人びとは、年間一〇万人に一人から一〇〇万人に一人程度の死のリスクは社会的に容認しているものだということを前提としていました。(安斎p.150)

 言い換えると、致死の毒薬を、10万人が食べる食品の中に1粒だけ混ぜることは仕方がないとみなす、ということである。安斎はこの章の最後を「みなさんはこれをどう受けとめますか?」として評価を定めずに、読者に投げている。
 ここでは、「しきい値なし仮説」と「線量限度」は矛盾していないことがわかるだろう。安斎は「大したことはない」「影響はない」という評価を押しつけるのではなく、リスクを明示したうえで、読者に考えさせるスタイルに徹している。 


原発はいらない (幻冬舎ルネッサンス新書 こ-3-①) この点で、たとえば小出裕章はどういう解説をしているだろうか。小出は『原発はいらない』(幻冬舎)のなかで、


内部被曝が心配で、食品や飲料水の「基準値ノイローゼ」になりそうです。でも、放射線量が基準値以下なら、本当に安全なのでしょうか。

という問いに、こう答えている。

 三月中旬に茨城県産の水菜から三六〇ベクレルのヨウ素131、五六〇ベクレルのセシウム137が検出され、出荷停止が要請されました。新聞報道によれば、その放射線量が「基準値」の倍を超えるからとのことでしたが、それでは、その基準値を下回れば安心かというと、そんなことはありません。基準値を下回っていても、放射性物質が含まれていれることには変わりないのですから、食べればもちろん内部被曝します。つまり、体内に入った放射性物質によって、「内部から被爆する」状態になるわけです。
 これまで述べてきたように、放射能に被曝するということは、それがどんなに微量でも危険であるというのが、現代の学問の到達点です。「基準値」という線を引いたところで、それより上も危険、下も危険ということで、危険の程度が違うだけです。特に内部被曝の場合、放射線を出す物質が常に体内にあるわけですから、排泄によって外に出ていく量があるといっても、自分の力で被曝から逃れる術はありません。当然、基準値を下回れば安全だから食べてもいいということにはならないのです。私はそもそも、このような線引きをすること自体、無意味だと思います。(小出p.143〜144)


 「しきい値なし」という考え方からすれば、間違ってはいない。
 しかし、このように丸めてしまうと、一体どれくらいのリスクがあるのかということがわからなくなってしまう。冒頭にぼくが出遭ったような態度――「とにかく怖い」という域を出なくなるのではないか。そして、小出自身は別として、こういう丸め方で事態を教えられた人というのは、自然放射線というものが意外にあるのだとか、日本人の半分はガンで死ぬんだから大したことはないとかいう類の言説に出会うと、コロっとまいってしまうか、それを無視してしまうか、どちらかではないだろうか。

 安斎は、国際放射線防護委員会の原則的精神=「被曝は低いにこしたことはない」を軸に、ICRPの3原則にたって考える姿勢をつらぬいていく。
 たしかに、この原則に立って行動することで、ぼくたちは「しきい値なし」という仮説と、暫定規制値レベル以下だが放射能に汚染された食品を食べることとの「矛盾」を解決することができる


 安斎は本書の最終章で「食品の放射能汚染にどう対処するか?」という問いをたてて、それに答えている。
 もともと本書はチェルノブイリ事故の後につくられたので、検証されている数字は、チェルノブイリ事故後に厚生省(当時)がつくった輸入食品の規制基準なので、数字は古い。当時の規制は放射性セシウムでいえば370ベクレル/kgであったが、今回の暫定規制値はセシウムでいえば野菜の場合500ベクレル/kgとなっている。


 安斎は、簡単な計算式を書いて、具体的に輸入されたスパゲッティならどれくらい被曝するのか、などという例問を10前後たてて示している。
 たとえばキロあたり11ベクレルのセシウム134をふくむスパゲッティなら100グラムとったら1.1ベクレル、セシウム134は100ベクレルで0.0018mSvの被曝になるので、1.1ベクレルなら0.00002mSv……と計算し、セシウム137とあわせて0.00007mSvだなあということを明らかにする。
 安斎はこれについて、本書の冒頭で自分が飛行機に乗る時に必ず高空で浴びる放射線量を記録魔のように記録していることを述べているがそのさいの数字と比較して、次のような評価を与える。

この汚染度は、当時のイタリア・スパゲッティとしては高い部類に属しますが、一〇〇グラム摂取に伴う被曝はさいわいなことに、かなり小さな値であることがわかります。私が飛行機でヨーロッパに旅したときに浴びる放射線量の増加(数ミリレムから〇・一ミリシーベルト程度)に比べると、約一〇〇〇分の一程度の被曝にあたります。(安斎p.179)

 しかし、安斎は次のように付け加えることを忘れない。

もちろんこのことは、「だから食品汚染の問題など取るに足らぬ」などと乱暴なことを言っているわけではありません。しかし、ノイローゼになるほど悩むような被曝とは縁遠いことも確かなのです。(同前)

 「だから食品汚染の問題など取るに足らぬ」というふうに傾斜しないところに安斎の学者としての良心を感じる。それは「しきい値なし仮説」と防護3原則をつらぬくという立場を徹底させているからだろう。「どんなに低くてもがんの確率は放射線あびることで上がる」のであり、「イミのない放射線は浴びないに越したことはない」という原則から導き出される評価と態度なのである。

 お茶の葉のセシウムについても計算している。
 150ベクレル/kgの場合どうなるかを計算しつつ、環境によってもっと早く半減するし、湯への浸出率ももっと低いということを念頭に入れて0.0003mSv/年だとはじき出す。それを50年飲み続けたら0.15mSv。

この場合も一回の海外旅行による過剰被曝の方が、50年分の被曝よりもずっと多いことになります。これも、幸いなことと言うべきでしょう。誰だって被曝線量が多いことを喜ぶ人はいません。(安斎p.191)


 マスコミに出てくる学者の多くは、低線量被曝の影響について、ICRPの考え方どおり直線を想定して影響を考えるということをしない。100mSv以下はたしかな影響の研究がないといいつつ、事実上はほとんど影響がないことにしてしまう。
 他方で、現状批判派の学者は暫定規制値前後の食品への影響について数値できちんと語らないか、ICRPのモデルそのものを批判する方向(この文章の最後でその点については論じる)へ話を飛躍させてしまう傾向がある。
 安斎はあくまでICRPの範囲で影響をきちんと論じている。


 安斎は、こうした計算をきちんと示したうえで、5つの実践的な態度を提案している。

  1. 食品汚染の実態を知ること。
  2. たとえ、放射能汚染が国の輸入許可基準以下のものであっても、それなりに放射能が含まれている食品は、あえてその消費を奨励しないこと。
  3. 汚染の実態はできるだけ公表し、最終的には消費者の選択の自由を保証すること。
  4. 汚染食品、体内摂取にともなうリスクを評価する際には、いたずらに「放射能に対する恐怖感」といった感情に溺れず、科学的な評価結果をふまえること。
  5. 食品の放射能汚染に対する関心を持続し、供給者との間に好ましい緊張関係を保つこと。

 これらの5点にはすべて補足説明がついていて、それを全部ここで論じるわけにはいかないが、いくつかの点を紹介する。
 たとえば2.については、小出などは「18歳未満は食べてはいけない」という規制を提案するのだが(『原発はいらない』)、安斎は、

……このレベルの汚染のものを食べたからといって放射線障害の危険性が目に見えて増大するなどというレベルからは程遠いので、深刻に思い悩むほどのことはないのですが、それでも、放射線はなるべく被曝しないにこしたことはないという原則に照らして、そしてまた、こちらの方が重要ですが、放射能による食品汚染はなるべく追放するのだという、より安全な食品を求める消費生活者としての原則的姿勢の問題として、「それなりの」汚染があることがわかっている食品については、「みんなで食べよう運動」の対象品目にしないとか、安売りの対象からかずすとかいった配慮をしてはどうか、というのが2.の提案なのです。(安斎p.197)


という提案をしている。
 安斎ものべているように、暫定規制値をこえるものは、むしろ排除されるので問題ないのだが、それ以下の値で出回る場合は、汚染の実態が隠されてしまう。3.の提案はそのようなことがないようにするためのものだ。

 この3.の提案にかかわって、原発批判派として名をはせる安斎が次のように述べるのは、本書の白眉ともいうべき箇所であろうと感じる。

…汚染状況がおおまかにでも公表されれば、当面は汚染の少ない産品を選ぼうかといった選択もできますから、人工放射能は少しでもイヤだと考える消費者は、それなりに選択権を行使することができます。「たとえとるに足りない被曝でも私はイヤ」というのもひとつの考え方であって、排斥する理由はなにもありません。もちろん、人工放射能に起因する被曝も自然放射能に起因する被曝も、線量が同じなら受ける影響は同じだと考えられますから、人工放射能を含む食品Aを避けて別の食品Bを選んだら、Bは比較的高い濃度の自然放射能を含んでいて、結果として被曝線量に差がなかったり、かえってふえたりすることもあるわけですが、そこをどう考えるかは、当該消費者の考え方次第です。食品を選ぶごとに被曝線量の計算ずくで行動するわけではないでしょうから、人工放射能は忌避したいというその人の生きざまの問題と言えなくもありません。もちろん、「そのような消費行動は、恐れなくてもいいものを恐れている非理性的な行動だ」と批判することはできますし、そのような批判の自由も保障されなければなりません。「非理性的なものを信じる自由」も、認められるべきでしょう。私は『霊はあるか』(講談社)という本を書き、「霊は、科学的な意味では存在しない」ことを徹底的に論じました。しかし、「科学的には存在しないもの」でも、それを信じる自由はあります。神の実在が科学的に証明されようがされまいが、神を信じる自由はあります。そして、「ありもしない霊を恐れるのは非理性的だ」と批判する自由もあります。だから、放射能にえもいえわれぬ恐怖感、不快感を抱く人が、その汚染レベルの高い低いにかかわらず拒否するという消費行動をとることも自由でしょう。同時に、「自然放射線の何十分の一も低い放射能を恐れるのは理性的ではない」と批判する自由も保障されるべきでしょう。このような緊張関係こそが、社会が一つの立場に押し流されて崖っぷちに突き進んでいく危険を回避する大切な力だと思います。(安斎p.198〜199)


 安斎は本書の「おわりに」で、

同じ意味内容のことを発信しても、情報発信者の信頼性によって説得力には天と地ほどの差が出るのですね。本書は、ある信念をもって生きてきた私・安斎育郎という人物が、それなりに科学の名において解説しているものではありますが、本書の内容を信じてもらえるかどうかは、もちろん読者の皆さんに委ねられています。(安斎p.204〜205)


とのべているが、前述の表明はまさに、安斎の来歴によって説得力を増している。原発推進派の学者がこう書いていたら、原発批判派を揶揄するために書いているのではないかと思うところだ。正直な話。安斎の生き様を知っているからこそ、「非理性的なものを信じる自由もある」と書かれても、ぼくは冷静に読むことができたのだろう。


内部被曝の特殊性についてはほとんど論じていない

 なお、本書には、内部被曝を独自に論じる箇所はほとんど出てこない。
 いや、それはちょっと語弊があるいい方かもしれない。内部被曝は、外部被曝とは違うメカニズムでおこなわれ、ICRPが認めていない危険があるのだ、という議論がある。その内部被曝の特殊性について議論していない、という意味だ。

 ヨーロッパ放射線リスク委員会(ECRR)のモデルが出発点になっている。くわしくは紹介しないが、内部被曝モデルと外部被曝モデルはまったく別のメカニズムでおこなわれており、ICRPはこの違いを認めていない、と批判されている。

 多少なりとも放射能に汚染された食品を食べるということは、内部被曝そのものだ。安斎もはっきりと本書で書いている。
 そのさいに、内部被曝のメカニズムの特殊性について論ぜず、むしろ昔は臓器をすべて球体と考えて近似値を出していたが、現在はコンピューターのおかげで、臓器をやや複雑な形をしたマネキンだと考えて計算できるようになったと、精度が高まったことを評価している。

 安斎がECRRのモデルにふれないのは、揚げ足をとられないためだろう。
 国際的な共通認識であるICRPが認めている原則だけに本書は限定し論じておこうということなのだろうと思う。そういう意味でも、本書はストイックにつくられている。