『ドラえもん』5巻 「ぞうとおじさん」を語る


ぞうれっしゃがやってきた (絵本ノンフィクション 23) 娘が保育園の卒園式で合唱構成「ぞう列車がやってきた」のうちの数曲を唄った。そのあと、保育園の先生たちから「ぞう列車がやってきた」を唄わないかと誘われた。園とは別に市民団体(うたごえ運動の団体)で唄っているやつである。卒園したが4月からその合唱に参加している。ぼくは唄っていないが、娘が通って楽しそうに唄っている。保育園時代の仲間が数人いるので(学校にはあまりいない)、そういう楽しさも手伝っているのだろう。


 保育園では「ぞう列車」にかかわる絵本を何冊か読んだようだった。
 「ぞう列車」というのは、戦争で動物園の動物がたくさん殺され、戦後生き残った東山動物園(名古屋)のゾウを見るために走った、特別な列車のことである。


 つれあいはぼくと同じように「見るだけ・聞くだけ」参加であるが、子どもが唄う様子を見たり、それらの歌に親しんだり、合唱構成の全体を改めて知るなかで、「やっぱりこういう古典的な戦後民主主義平和教育にふれるのって大事かもね」と感心することしきりであった。
 対比的に、戦争の悲惨さを強調する写真などでの教育を念頭においていた。
 むろん、それらの教育は必要であるとくり返していたが、「ぞう列車」の中にある、戦争から解放された国民の明るい雰囲気、近代を再建しようとする楽観がみなぎる調子が、戦後的平和への積極的な価値を、自然に子どもたちに教えるというふうにとらえたのであろう。


 たとえば、「冷たい冬が過ぎ 春を迎えたように 今こそ伝えよう あふれる喜びを」とか「象列車よ急げ やみをさいて走れ」というようなフレーズ一つをとってみても、単なる戦争の悲惨を伝えるというより、それから解放される明るさが伝わってくる。


 子ども議会で10万人の署名を集めて動物園に「ゾウを貸してください」と要求するプロセスなども歌の中に盛りこまれている。主権者として行動するという物語もきちんと用意されているのだ。

「ぞうとおじさん」の特性

 「ぞう列車」に触発され、ぼくは、久々に『ドラえもん』の「ぞうとおじさん」が読みたくなったので、てんとう虫コミックス5巻を買ってやると約束して買ってやった。

 知らない人のためにあらすじを書いておくと、のび太のおじさんが、インドから帰ってきて不思議な話を披露する。戦争中好きでよく見に行ってはずの動物園のゾウは戦争中に殺されてしまうのだが、現代になって自分がインドの山奥で死にかけたときにやってきて助けてくれたというのである。ドラえもんのび太は、ゾウが殺されたという情報を聞いた時点で憤激し、タイムマシンでゾウを助けにいくのである。



 「ぞうとおじさん」には、「ぞう列車」で唄われたような、戦後の、主権者として行動や解放感については出てこない。


かわいそうなぞう (おはなしノンフィクション絵本) 絵本『かわいそうなぞう』と同じように、「ぞうとおじさん」では、殺処分される悲惨がまず作品のメインにくる。動物という入口を通じて、戦時社会および戦争の抑圧性を現代の子どもに届けるという点では共通しており、子どもたちに届きやすいという意味ではすぐれた教材である。*1


 軍の描き方は類型的である。が、それがかえって、良い。ヒゲをはやし、高慢で、民間人に抑圧的に接する――戦後教育としてはまずこのような軍部像から出発させるべきである。


 ゾウの殺処分を聞いたときに、子どもはまず「どうにかしてゾウは救えなかったのだろうか」と思うだろう。「ぞうとおじさん」は、そこを救済する。スモールライトでゾウを小さくし、ゆうびんロケットで、インドの山奥に届けてしまうのだ。この救済はまさに『ドラえもん』の本領発揮で、ノンフィクション絵本では許されない介入である。


ドラえもん (5) (てんとう虫コミックス) すでに虚構と現実の区別をつけている子どもたちは、ドラえもんのび太によるゾウの救済は、虚構であることをよく知っている。この虚構によってもたらされる救済は、作品としての爽快感をもたらす。仮にここで話が終わったとしても、虚構の救済がもたらした爽快感は、歴史上の殺処分の残虐性を浮き彫りにすることにはなるだろう。


 だが、藤子・F・不二雄はそこでは終わらなかった。ラストでゾウがおじさんを助けてくれたというエピソードを用意した。


 おじさんを助けてくれたゾウは、おじさんが子どものころによく見に行っていた「ハナ夫」に似ていた。また、もうろうとしていたなかでの出来事だった。
 (1)「本当はハナ夫ではなく、単に似ていたゾウがおじさんを運んだだけかもしれない」(2)「それとも本当にハナ夫だったのか」という問いは、まるで現実にあったかのような錯覚を引き起こさせる問いである。


 のび太のパパは「そりゃゆめだよ」と断じる。おじさんは「ぼくも、そう思うんだけどね」と断りつつ「ゆめでも、うれしかったなあ」と懐かしむような顔をするのは、(1)の立場を代表する。これに対して「ハナ夫はぶじにインドへついたんだ」「今でも、元気でいるんだ」というドラえもんのび太の言葉は、(2)を代表する。
 ここで「本当にハナ夫が助けたかもしれない」というリアリティが生じる。
 ドラえもんのび太による救済は、この段階にきて一気にリアリティを帯びる。
 もちろん、子どもたちは作品を閉じてみればそれは虚構であったとわかる。しかし、手をとって喜び合うドラえもんのび太の姿に、「本当にハナ夫が助けたかもしれない」という思いを、あなた方は抱かなかっただろうか。その瞬間、まぎれもなくリアルが成立していたのである。


 戦争がもたらした殺処分の残酷さという点だけでなく、SF作品として独自の魅力があることを、久しぶりに読んで思い知った。


艦隊これくしょん -艦これ- いつか静かな海で 1 (MFコミックス アライブシリーズ) まあ、そんな「平和教育」をほどこす一方で、『ストライク・ウィッチーズ』を娘と二人で観て、やっぱりハルトマンの攻撃はかっけーとか、『艦隊これくしょん―艦これ― いつか静かな海で』を娘と取り合いして、空母や駆逐艦について語ったりしているわけだがな。 

*1:ちなみに長谷川潮など、『かわいそうなぞう』をはじめとする戦時の殺処分の描き方に対する批判、しかもより左翼的な立場からの批判があることは承知している。