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2017-11-14 マンガの論破・論争シーンのこと 『BEGIN』他

池上遼一・史村翔『BEGIN』他


 青年マンガ誌「ビッグコミックスペリオール」の最新号(No.753)を読んでいたら、池上遼一史村翔BEGIN』で、「社会・政治評論家にして、ジャーナリストの一面も持つ論客」、評論家鳥谷哲也(とりたに・てつや)が、この物語の主人公格の一人・神津快(こうづ・かい)に「論破」されるシーンがあった。

 これが「鳥谷」である。

f:id:kamiyakenkyujo:20171114013312j:image*1

 どう見ても、鳥越俊太郎筑紫哲也の混合体です(名前も)。本当にありがとうございました。

 沖縄は世界中の大陸の大半を半径1万キロの円内に入れてしまえる地政学的優位にある場所で、それはロンドンと同じであって、かつての大英帝国が世界覇権を握ったことと無縁じゃねーぜ! っていう秋元千明の受け売りみたいなことを喋り出す神津に、聴衆は騒然。

 鳥谷はなすすべもなく青ざめる……。


 内容はともかく、「論破」を戯画化かよと思うくらい類型的にやっていて、もうちょっとなんとかならんかったのかと言いたくなる。誰かなんとかしてやってくれよ……。

 論破される姿・論破する姿をマンガで説得的にかっこよく表現するにはどうしたらいいのか?


 雁屋哲シュガー佐藤『マンガ まさかの福沢諭吉』(遊幻舎)は左派の立場から福沢諭吉批判っつうか、解剖しようとするマンガである。福沢諭吉を教壇で批判した高校教師・春野が父母会の有志から吊るし上げをくらい、いっしょに学習会をやろうという、その風景を描いた、設定だけ聞くと「なんだそれは」という思いを禁じ得ない作品である。


 こちらは、『BEGIN』とは対照的に、主人公・春野が福沢批判の骨格を示すものの、それに父母会有志が反論しつつ、時に論駁され、時に共感しあい、しかもオーディエンスまでがその論争に加わって自分の合点したところをつぶやくように披露していく、大論文のようなマンガである。実際、雁屋の主張を人格分裂のようにキャラクターに配置したのがこの作品なのだろう。

 下図を見てほしいのだが、福沢諭吉が「『天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず』と言えり」と書いたことをめぐって、春野が長々と批判する。これは『BEGIN』にはない構図だ。しかし、やはり論敵(父母会有志)がここでも類型的な顔でたじろぐのである(下図)。

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 21世紀とは思えない高校生と父母のメンタリティー、そして、英雄的な風貌(下図)をした主人公・春野の主張を軸に、反論や共感が予定調和のように配置されているこの構図に付き合っていると、酔っ払ったような、この世のものとは思えない感覚に襲われる。

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 論争をマンガにするのは、あまり分のいい戦いではない。

 まじめに論争を紹介すると、『まさかの福沢諭吉』のようになるし、グラフィックに頼ったコンパクトなやり方になると『BEGIN』のようになってしまう。


 川崎昌平重版未定』の2巻には、同人誌即売会で見つけた面白そうな文章を書くライターの本を主人公が企画し、企画会議でGOサインが出かけたときに、営業の一人から「ちょっと待ってくださいよ 冗談でしょう? こんな企画」という、ちゃぶ台返しのような反論が出るシーンがある。

 売れそうもない本をつくったって売れないよ、という抗しがたい「正論」をはく営業に、主人公がからみ直していくこの論争は、上記2つの論争シーンと違って「いたたまれなさ」を覚えるどころか、何度も読み返したくなる。

 どこにその差があるのか。

 うーん、わからんのだけど、やっぱり根底に論敵に対するリスペクトがあるんじゃないかと思う。相手の言うこともわかる、というような気持ち。

 リスペクトがなくても、「この論争はひょっとして主人公が負けるんじゃないのか」という不安がある、つまり勝利予定調和ではない、という論争もまた読んでいて楽しい。武富健治鈴木先生』なんかはそうである。

 まあ、これは「論争」ではあっても「論破」じゃないような気がする。


 しかし……。

  軍隊生活を描いた大西巨人・のぞゑのぶひさ・岩田和博『神聖喜劇』(幻冬舎)では、伍長の一人が主人公・東堂太郎をとっちめようと思って、いやらしい粘着質の論争を吹っかけるエピソードがあるが、読者たるぼくは東堂がそれを徹底反論して潰してしまうことを心待ちにしてしまう。これは先にあげた「論敵へのリスペクト」などとは無縁の心情である。

 そのために、下図の通り、字だらけの画面になってるのだが、読者たるぼくは隅から隅まで読んでしまった。

 これは「成功」だと思うのだが、どう解釈したらいいだろうか。

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 うーん、これは相手の論理をしらみつぶしに潰しているからではなかろうか。つまり相手の主張を一応全てテーブルに乗せて徹底吟味しているのである。長々と字が書いてることは『まさかの福沢諭吉』と同じなのだが、『まさかの福沢諭吉』の方は、論敵がすぐたじろいで、春野の主張に直ちに回収されてしまうのだ。そこには知的緊張が乏しい。だから、読んでいてしらけてしまう(知識としては勉強になるが)。


 今のところ、そんな仮説。

 成功している、マンガの論破・論争シーンって他にあるか?

*1池上遼一史村翔BEGIN』/小学館「ビッグコミックスペリオール」No.753所収、p.62

*2雁屋哲シュガー佐藤『マンガ まさかの福沢諭吉』上、遊幻舎、p.105

*3雁屋哲シュガー佐藤『マンガ まさかの福沢諭吉』上、遊幻舎、p.104

*4大西巨人・のぞゑのぶひさ・岩田和博『神聖喜劇』5巻、幻冬舎、p.58

バッジ@ネオ・トロツキストバッジ@ネオ・トロツキスト 2017/11/14 14:54 僅かに残されているマルクスの芸術観的、芸術論的な言及断片をみても、マルクス以降のマルクス主義はマルクスからかい離してしまっているように思いますね。
20世紀左翼芸術運動が金科玉条のように崇めたリアリズムにしても、事実認識ではない価値認識がこっそり密輸入されているものでしかありませんから、あまり説得的ではない。

何よりも、芸術的認識の一形態に分類されるであろうマンガの自己規定の曖昧さが問題だと思います。
形象的な思惟の比重が大きい(非概念的・非民族言語的な「絵」を構成する線や色が不可欠なジャンル言語になる)マンガも、単なる論理表現や概念結合ではないのですから、自己の芸術性を良く自覚すべきでしょう。

マルクスは「傾向芸術」の存在権利を否定しませんでしたが、芸術を政治や論理のメガフォンに矮小化するような愚考に組しませんでした。

芸術作品で社会批判を試みる人たちの方こそ、マルクスの芸術観を参考にすべきでしょうね。

バッジ@ネオ・トロツキストバッジ@ネオ・トロツキスト 2017/11/14 15:02 「事実認識ではない価値認識がこっそり密輸入されているもの」とは、主観的当為や恣意が混入した現実論、未来論だという意味であって、現実や未来の社会に価値認識や規範意識が存在しないという意味ではありませんので念の為!

ま、いずれにせよ「ジッキンゲン論争」や「古典的形態の規範性」論には目を通すべきでしょうね。

 Laughing Freeman Laughing Freeman 2018/02/28 15:54 池上遼一も史村翔も『BEGIN』もクソだな。
しょせん、戦争をしらない世代。戦後の貧しい世代。

戦争を賛美する連中は地獄へ堕ちろ。

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