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2017-12-11 友情と恋愛と異文化 『このマンガがすごい!2018』『サトコとナダ』

『このマンガがすごい! 2018』『サトコとナダ』

このマンガがすごい! 2018 『このマンガがすごい! 2018』(宝島社)が届いた。

 今回もアンケートに協力した。

 150ページにぼくの回答が掲載されている(あと45ページの一部)。


 『このマンガがすごい! 2018』を読んで初めて知るマンガもあった。ユペチカ『サトコとナダ』(星海社、西森マリー監修)はその一つである。アメリカの大学に留学した日本の女性・サトコが、サウジアラビアからきた女性・ナダとルームシェアをする話。巻末に「フィクション」だと記されている。


 『このマンガがすごい! 2018』には『サトコとナダ』の作者のコメントがある。

『サトコとナダ』はイスラムの女性をテーマに描きたかったわけではなく、サトコがアメリカに行ったらルームメイトがたまたまナダで、そのナダがたまたまイスラム教徒で、サウジアラビア出身だということ。

サトコとナダ(1) (星海社コミックス) まあ作者の意図はそういうことなんだろうけど、やはり「イスラム教徒の現代女性って、どんな習慣なの? どんな言動をするの?」という異文化興味としてまずは読むわな。

 イスラム圏の女性といえば、被り物の印象が強い。特にサウジアラビアは「ニカブ」という目の周りだけ出すのがスタンダードだから、よけいに気持ちや実像がわからない。

 それが、本書でよくわかるのである。

 むろん、それは「サウジアラビアのナダ」のサンプルとしてに過ぎないのだろうけど。

 そのようなガイド、ルポとして、とりあえず知的興味を満たす。

 サウジの料理と日本の料理にやや飽きた二人が、アメリカ風のチキンスープがえらく美味しそうで、その後すぐぼく自身も作ってみた。いや、ただ野菜とチキンを切って、チキンブイヨンで煮込むだけだが。


 作者の「ルームメイトがたまたまナダで、そのナダがたまたまイスラム教徒で」という強調は、ルームメイトつまり友達っていうことが基本にあり、さらにいえば、友情ということがベースにあるので、おたがいのことをよく知りたいという気持ちがそのまま異文化交流になっている、ということ。


たった3分で友だちになれる! 魔法のマップ (齋藤孝の「ガツンと一発」スペシャル) 齋藤孝の子ども向けの本で『たった3分で友だちになれる! 魔法のマップ』(PHP)というのがある。

 そこで齋藤は、

「友だち」とは、好きなことの話を楽しくできる相手のこと

というクリアな定義を示して、

いいインタビュアーになろう

ということを行動基準として与えている。

 友だちになる、というのは、好きなことの話を楽しくできる相手なのだから、相手と自分が好きなことが重なることでまずカンタンにできるのであるが、重なるものがない場合でも、相手の好きなことを突っ込んで聞くうちに自分もそれを好きになってしまう、という副作用を期待しての行動基準である。


 齋藤は、自分がコイン集めが趣味だったが、全然興味もなかった友人が、いっしょにコイン屋に行ってからそいつもコインにハマりだしたというエピソードを紹介している。


 つまり、相手のことに興味を持つ。

 興味を持って関心を向けることが、相手の前向きなフィードバックを引き出して、「好きなことの話を楽しくできる相手」へと変えていくということだろう。


 友達である、つまりなんらかの好意を持って相手に関心を寄せることと、異文化に関心を持ってそれを知ろうとする態度は重なる。

 恋人や夫婦という「異文化」においても、それは同じ。

 「友情とは恋愛の一部である」という例のテーゼを活かせば、サトコとナダの友情は、恋愛にも似ているし、そのような気持ちが相手の異文化を知りたいと思わせていることをよく表した1冊だ。

あ 2017/12/11 13:02 異文化とか情報とかの交換のようなものなら、昔なら本屋さん、図書館だし、今は、ネット検索が加わりますね。友達に聞くより情報量も多いし、一気に集中して集まりますもんね。

こういう意味で、異文化交流とか情報交換なら、生身の友達って、特に必要ないでしょう。

しかし、異文化とか情報とか、そういうものでなくて、生身のその人間自体に興味・関心がある場合、これはほとんどないような気がするんですが、両親とか祖父母とか兄弟姉妹とかかもしれませんね。とはいえ、別に、だからといって、深く知ろうとか興味関心を特に持つとかはないと思うんですが、やはり、人間そのものに興味関心があるというか、共同性というか連帯性というか、逆に、辛辣性というか、そういうのがありますよね。

しかし、こんなのは友情とか恋愛とはいいませんね。なんというのでしょうか。

ちょっと、こういうのは、あんまり考えなくてもいいような気がします。

生まれながらに自然に両親とか祖父母とか兄弟姉妹なんてものは決まっていますし、自分の意思とかではどうしようもないことだからです。

生身の人間に興味関心があるというのは、人間が家族を単位に生きるように遺伝子に組み込まれているんじゃないでしょうか。

赤の他人に対する興味関心は、要は、自分が興味あるかないかですごく自由ですが、遺伝子の家族というのは、自分に興味あるかないかとは関係なく、もうもともと存在するものなんじゃないか、と。

普通に恋愛とか友情というのは、家族を除く生身の人間に対する感情とか思想のことのような気がします。

今の時代、恋愛、友情も、もう同性愛結婚とか試験管ベイビーとかになってきているし、境界線がどこにあるか不明になっきているような。

異文化とか情報とか思想ではなく、生身の人間自体に抱く友情とか恋愛とか、結婚とか、誰でもいいわけではないけど、特にこいつしかないというものでもないというのは、明らかである、と。

子供とか試験管ベイビーとかは、子育ての義務なんで、友情とか恋愛とかとは無関係だとおもいますが、それにしても、友情とか恋愛を生身の人間への興味関心とし、何が特別か、と問われると、友情は幅広いが、恋愛は、友情よりは幅が狭くなる特別の関係としか言えない。正直。

じゃ、その特別の友情である恋愛相手というのは、生身の人間相手で、一人に決まるか?と言われれば、一人である必然性は、メンタリティーではないでしょうね。そうなると、やっぱり、一夫一婦制のところへ収斂していく。つまり、子供が出来たら二人で育てる義務を抱え込む関係になるか、ならないか。そこまでの責任をお互いが共有するか、しないか。中絶という選択肢は外して。

明るい幸せな家族への確信と希望、一夫一婦制への道が恋愛か。そうでなければ友情か。

友情から恋愛、そして、できちゃった婚か、別れか、結婚か。中絶の選択は外して。恋愛というのは、いづれにせよ、結婚を視野に入れる関係なのか。結果、でき婚か、別れか、結婚か、三択だから恋愛のゴールが結婚には限らないが、やっぱり、子供か、子供ですね。子どもできたら、結婚ですもんね。一夫一婦制。中絶という選択もあるが、これは、強姦とかじゃないし、母体が回復不能な障害とか死ぬとかの特別条件は置いておいて、基本はない選択肢でしょう。これがあるからいわゆる性の商品化は駄目だ、と。中絶自由なら性の商品化も自由になるだろう。

考えるとそうなるような。考えるとそういうことなのか。そういうことでいいんじゃないかな。わからんね、わかりません。

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