Hatena::ブログ(Diary)

紙屋研究所


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2018-11-20 はてなブログに引っ越します

はてなブログに引っ越します


 はてなブログに引っ越しをします。つうか、もうしました。

 新しいアドレスは下記の通りです。

https://kamiyakenkyujo.hatenablog.com

 2019年春に「はてなダイアリーを終了する」という、はてなからのアナウンスがあったからです。

 ブログ名は引き続き「紙屋研究所」でいきますのでどうぞよろしく。


 元のホームページ時代は2003年に始めたので、もう15年もやっていることになります。そのうちホームページ時代が7年、はてなダイアリー時代が8年ということになりますね。我ながらよくやるわ、と思います。


 ぼくはふだんあまりしゃべりません。

 会話は人の時間を「奪う」という点において暴力的に作用する可能性があるので、慎重なんです。

 でも文章を書く/読むのは違います。

 読む側は自分で選択して、自分の自由にそこから離脱できます。

 そして、ブログ(ネット)というのは、事実上無制限に書けます。つまり無制限に「しゃべっていられる」のと同じです。

 そういう意味でぼくにとっては、実に都合のいいツールなのです。



 「続けるコツはなんですか?」と誰からも聞かれませんが、勝手に答えておくと、「400字の記事をアップするつもりで書き始めること」ですかね。200字だとツイッターでよくなっちゃうので、ブログが面倒臭くなります。いや、面倒臭いならやめればいいんですけどね。

 400字、つまり原稿用紙1枚の記事でもいいのであげるつもりで書き始めると、あら不思議、その後も書いちゃうんです。

 自分を道の上に置いてあるボールだと思ってください。 つまり、ニュートンの法則で言うところの「 静止している物体」です。モチベーションに頼る方法 では、行動を起こす前に自分をやる気にさせるように促しますが、何も考えずにただ1センチだけ前進して、その勢いを借りてさらに 進むほうが簡単だとは思いませんか?   もちろん、そうですよね?   ほんの少しだけ前に進めば、あとは自然に転がっていけます。そして、ひとたび 転がり始めれば、もっと都合のいい2番目の法則――「動いている物体は、外からの力が加わらないかぎり、その速さが変化することは ない」に変わります。

 私たちは目標に向かって、できるだけたくさん、できるだけ頻繁に動きたいと思っています。そのために必要なのは、本当に簡単な最初のアクションです。なぜなら、どんな課題でも 始めること自体が最初の抵抗を引き起こし、最初の壁となるからです。スタートがいちばんむずかしい部分なのですが、それは必ずしもスタートをむずかしくしなければならないという意味ではありません。“いちばんむずかしい”は比較のうえでのことにすぎません。

(スティーヴン・ガイズ『 小さな習慣 』ダイヤモンド社Kindle の位置No.990-1000、強調は引用者)


 あれ? 最近も筋トレでこの本紹介したような……。

 完全に信者状態。

 でも、まあほんとなんですよ。


 え? 400字も書くのが大変?

 うーん、そういうあなたはもうブログ向きじゃないでしょうね。

 ツイッターへどうぞ。


 SNS全盛の時代ですから、ツイッターのようなものの方がアクティブですよね。

 だけど、それは昔から2ch書き込みの断片性に見られるように、体系的でじっくりとした考察、議論や会話を成り立たせにくいツールだと思います。とじたコミュニティになって悪罵の投げつけ合いになりやすいのは、SNSは掲示板時代と本質的に変わっていない。本質は変わらないけど、SNSは共感と憎悪が増幅されやすいぶんだけ慎重に扱うべきだと思っています。

 SNSはぼくのフィールドじゃないんですよね。



 というわけで引き続きよろしくお願いします。

 しばらくはダイアリーブログを並行してアップするかもしれません。

 




 

2018-08-29 『分校の人たち』 「ユリイカ」での『レッド』論にも触れて

山本直樹『分校の人たち』 「ユリイカ」での『レッド』論にも触れて


ユリイカ 2018年9月臨時増刊号 総特集◎山本直樹 ―『BLUE』『ありがとう』『ビリーバーズ』『レッド』から『分校の人たち』まで― 「ユリイカ2018年9月臨時増刊号「総特集=山本直樹」で「猟奇からエロを経て人間的なものへ――『レッド』小論」を書いた。


 連合赤軍事件は、事件そのものとしてサブカル的な「面白さ」を持っている。

 だから『レッド』論ではなく連合赤軍事件論になってしまわないように、山本直樹の『レッド』という作品を評するように心がけた。


 とはいえ、『レッド』は当事者の記録に山本なりに忠実に描いた、いわゆるノンフィクションであるから、その「面白さ」は、連合赤軍事件そのものがもっている現実の豊かさに根拠がある。だから連合赤軍事件そのものが持っているサブカル的な興味としての「面白さ」を排除することはできず、むしろある部面ではそこを積極的に論じる必要があった。

 しかし、やはり『レッド』の中でのその「面白さ」の表現は、山本がこの事件のどこを切り取ってセレクトし、どのようにグラフィックにしたかということに依存している。

 だから作品としての「面白さ」と事件としての「面白さ」が、切り分け難く、糾える縄のごとく現れる。

 そのあたりを苦労しながら、しかし自分なりに描き出してみたつもりでいる。無理に『レッド』論にもしないし、かといって無理に連合赤軍論にもしない。作品を読んだ時に感じる『レッド』の「面白さ」、そのような「自分の感想」という特殊性・個別性の中にある普遍性を浮かび上がらせる作業をした。

 機会があればお読みいただきたい。


 「ユリイカ」で永山薫らが書いているが、森山塔として登場した山本の鮮烈さの記憶・位置付けは、ぼくの中にはまったくない。時代がもっと後だからである。ぼくが最初に山本直樹を読んだのは、「スピリッツ」で連載されていた「あさってDANCE」だった。そして『YOUNG&FINE』である。

山本直樹『YOUNG&FINE』 - 紙屋研究所

 永山たちの世代エロマンガをこれでもかと読んでいる人たちとは別に、なぜぼく自身が山本の作品をエロいと思っていたのか、あるいは山本のエロさ(例えば『ビリーバーズ』や『フラグメンツ』のいくつかのシーンなど)をいつまでも記憶しているのかは、自分の中での謎であった。上記の『YOUNG&FINE』についての感想はそれを自分なりに解き明かそうとする一つの試みであった。


 最近描かれた『分校の人たち』はフラットに他のエロマンガと比べても、(少なくともぼくにとって)相当にエロいな、と思う。

 中学生と思しき(明示されていない)男女3人(女ドバシ、男ヨシダ、転校生の女コバヤシ)が、好奇心で裸で抱き合ったり性器を触りあっているうちに、ペッティングやセックスに及んでいき、やがてのべつまくなしセックスをしているという身もふたもない話だ。

 東京都青少年健全育成条例の規制に挑戦するかのように、未成年(と思しき男女)の性行為の描写が、そして「汁」=体液のほとばしりが、ページの割合分量も気にせずえんえんと描かれている。あるいは、『レッド』でほとんど封じたエロ(山本によれば『レッド』はエロからの「出向」でありエロを禁じられた「下獄」である)を解き放つかのように念入りに描写している。

 反権力的で挑発的だからエロい、と感じたのでは全然ない(それはそれで別の立派さではある)。

 純粋にエロい。オカズとしてエロいのである。

 「ユリイカ」で多くの論者が述べているように、山本直樹が当事者に没入しない距離を保ち、クールに、突き放したように眺める視線が、『分校の人たち』でも十二分に生かされている。

 『YOUNG&FINE』でも『BLUE』でも『ビリーバーズ』でもエロの描写は物語の中のごく一部である。しかし『分校の人たち』では、服を脱がして、性器や乳首に触り快楽を得るまでの描写が細々と分解されて本当にずっと続く。

 ドバシは興味のないふりをしながら、あるいは小さく怒りながら、溺れこんでいく。コバヤシは積極的に性に関心を向けてまるで自然の観察でもするかのようにハマっていく。二人の少女の視線がまさに「クールに、突き放したよう」であるくせに、少女自身は恋愛的な感情を一切持たず、快楽のためだけにそこに没入していく。作者・山本はそれをもう一段外から「クールに、突き放したように」眺めている。

 ヨシダには恋愛的な感情が見られない。どちらかといえば性欲に突き動かされている少年である。そして、一見主体性ありげに二人の少女の体を求めるけども、それはどちらにも拒絶されないという十分に安心な環境のもとで見せる能動性にすぎない。80年代的な、男性主体である。

森山塔は情熱的ではない。少なくとも情熱をむき出しに迫るようなことは描かない。森山塔のセックス描写即物的で、まるで生物学者が、とある生物の生殖行為を冷静に観察しているようにすら見える。(永山薫「身も蓋もなくエロス」/「ユリイカ」前掲p.38)

山本直樹の『分校の人たち』を読んだ時、「ああ、森山塔が帰ってきた」と感じた。……そこにあるのは性器というより泌尿器であり、即物的に反応する敏感な粘膜である。(永山前掲p.40-41)


 「少年と少女が遊んだりふざけあっているうちに、性を知り、そこにハマってしまう」というのはエロの中でもよくあるシチュだし、ぼくも好きな設定である。

 このシチュエーションが最大限に生かされるように、山本の淡々とした、突き放した視線が少女二人のキャラ設定を生み、没主体的な男性主体を生み、そして生物観察のような細かく長いエロ描写を生み出した。

 「よくある設定」だけど、それが山本の視線によって徹底的に・最大限に強化されているのである。

 他のエロマンガが、(今回の「ユリイカ」の特集でも言及されているが)性交時の擬音のうるさいほどの記述や、ページの制約で(比較的)あっさり絶頂に至ってしまうのに比べてなんという贅沢なつくりであろうか。

 「そうそう、こういうものを読みたかった」と読みながら思った。

2018-05-02 『ママレ』の設定で考えるスワッピングと2家族同居

『ママレ』の設定で考えるスワッピングと2家族同居


 「サイゾー・ウーマン」の記事、「実写映画化『ママレード・ボーイ』はスワッピング漫画では!? トンデモ設定なのに支持されるワケ」でインタビューを受けて答えた。

http://www.cyzowoman.com/2018/04/post_182449_1.html


 このインタビューに関連して、もうちょっとここで書いてみたいことは、スワッピングと2家族の同居についてである。


 もともと編集部からの質問は、

しかし、大人になった今、改めて『ママレード・ボーイ』を読むと、離婚した光希と遊の両親が相手を入れ替えて再婚する設定に、「これって、2つの夫婦のスワッピング物語じゃないか?」と突っ込まずにはいられない。さらに再婚後、2組の家族が一緒に同居してるなんて、もはや乱交パーティーだ。にもかかわらず、なぜ誰もこのぶっ飛び設定に触れようとしないのか。

なのだが、ぼくは、こんなきわどい設定がなぜ読者である子どもたちに支持されたのか、という角度から答えた。

 回答そのものは、インタビュー記事の通りだが、少しだけ補足をしておく。


コミュニティ家族」

 「ぶっ飛んだ設定」はむしろ少女マンガで待ち望まれているが、その「ぶっ飛んだ設定」を持ち込むことで逆に子どもたちにとって魅力や理想や憧れが増すことだ大事だ。

ママレード・ボーイ コミック 全8巻  完結セット

 『ママレード・ボーイ』で「連れ子の同居の恋愛」にする場合、ひとり親同士の結婚という形や、2夫婦が同居せず子どもたちだけの同棲(よくある海外赴任。それがダブルで重なるとか)という形などがありえるが、わざわざ2夫婦(2家族)の同居というスタイルを選んだのはなぜか、ということを考える必要がある。


 『ママレード・ボーイ』読者である小学生女子がそこに魅力を見出すとすれば、それが「親しい友だち家族との楽しい同居」ではないか。

 ぼくの保育園や小学生の人間関係をみると、親同士が子どもを預けあって、家族同然の付き合いをして、子どもたちも親しいというコミュニティが結構ある。あのコミュニティが進化して一つ屋根の下での「家族」になってしまうという設定だ。「コミュニティ家族」とでも言おうか。

 親しい友だち家族で遊びに行ったり、お出かけしたりする時は、子ども心には、このままずっと遊んでいたらいいな、と思えるような時空間である。

 実際、『ママレ』には全巻通じて、2つの家族が家の中でゲームをしたり、宿題をしたり、テレビを見たり、食事をしたり、旅行に行ったりするシーンが描かれ続ける。つまり、家族が非常に仲がいいのだ。


 連れ子をお互いに持ったステップファミリー……という設定はよくあるが、『ママレード・ボーイ』のようなコミュニティ家族は家庭の雰囲気、楽しさの度合いが全く異なる。劇的に楽しいのだ。


 『サザエさん』のような2世代が同居する拡大家族が解体し、核家族となった80年代*1を経て、共働きが広がった90年代初頭に、普通の核家族の家庭ではそこに楽しさを作り出せないのである。


オトナ目線で『ママレ』のスワッピング・2家族同居を考える

 子ども目線を外れて(つまり子どもが納得するかどうかを全然別にして)、オトナの目線で、もう一度『ママレ』の家族を考え直してみると、ある種の合理性が浮かび上がる。


 もし仲の良い家族とコミュニティを作れたら、住居費・食費などの生活費用や家事労働コストは共有ゆえに低下するのではないか。

……例えば、メルシナ・フェイ・パースは一八六〇年代に協同家事(cooperative housekeeping)の概念を示していた。

 パースの考え方はひとことでいえば、協同組合組織による家事労働の集約化というものであった。一二人から五〇人の女性が協同組合をつくり、そこで、家事労働を集約的に行う。協同組合の建物や設備は、組合の会員によってまかなわれる。料理、洗濯、裁縫、育児などがおここでおこなわれる。彼女たちには夫たちから賃金が支払われることになる。協同家事が成立すれば、家族向けのキッチンのない住宅と単身者むけのアパートメントをつくることができるとパースは考えていた。(柏木博『家事の政治学』p.13)

 単婚家族にはない、賑やかさ。楽しさ。


 そして、2夫婦のスワッピングは、一夫一婦制のもとでのセックスのタイミングのズレ、セックスレス、パートナーに「飽きる」という問題に対して、一つの解決策を与える。

 スワッピングについては坂爪真吾が『はじめての不倫学』の中でも論じているが、簡単に言えばよほど条件が整わなければストレスなしには広く実行できない、という旨のことを述べている。

 だが、逆に言えば、もしお互いの夫婦で完全な合意があれば、理想的とも言える解決策となる。


 これはぼくの勝手な設定(つまり妄想)だけど、『ママレ』の2夫婦は、単純にパートナーを交換しただけじゃなくて、前のパートナーともセックスし続けてるんじゃないのか。つまり実は「2夫婦」じゃなくて「4人で1組の夫婦=セックスグループ」だったんじゃないのか、と思う。

 坂爪が紹介しているが、スワッピングが単なるセックスのための交換であるのに対して、複数の恋愛感情を許容する「ポリアモリー」というものが存在する。

 もし『ママレ』が前のパートナーにもいまのパートナーにも恋愛感情を持っていたら、それはすでにスワッピングを超えた、ポリアモリーであるとさえ言える。


 しかし……家でセックスするのは相当にきついな、と思う。何よりも物理的に。完全に防音でプライベートな空間が設定されていればいざ知らず、2つの夫婦がいて、高校生の男女の子どもがいる住宅で、セックスをするのは至難であろう。ホテルとかに行くしかない。それと、セックスしなくても家でイチャイチャするというのは厳しいような気がする。


 ここでも逆に、子どもたちがおらずに4人の夫婦だけしかいなければ、全く問題がないようにも思われる。


 いずれにせよこんな具体的なことは小学生女子は考えないはずである。

 オトナが妄想して楽しむにはもってこいだ。

*1:核家族が広がった……というのは統計上は単純に言えないと言われている。「核家族世帯は、実は戦前から『主流派』だった」(H18版少子化社会白書 http://www8.cao.go.jp/shoushi/shoushika/whitepaper/measures/w-2006/18webhonpen/html/i1511110.html )。ただ80年代から単独世帯の割合が急増し、拡大家族の割合が減っていったことは間違いない。

2018-05-01 本を出します 『マンガの「超」リアリズム』

本を出します 『マンガの「超」リアリズム』


マンガの「超」リアリズム 4月に花伝社から『マンガの「超」リアリズム』という本を出します。マンガ評論の書籍は2冊目になります。連載当時から反響があって、連載をしていた雑誌の編集の方から書籍化を強くすすめていただき、花伝社での出版の運びとなりました。

 これは教育誌「人間と教育」に約5年間連載していた「マンガばっかり読んでちゃいけません!」がベースです。

 この連載をまとめたものを2016年に文学フリマに同人誌として出させてもらいましたが、さらに全体に加筆・補正を加え、なおかつ「ユリイカ」「星灯」などに書いた文章をいれました。


 主な目次は次の通りです。


  1. 大人と幼児が同時に楽しめるマンガはあるか?
  2. いわさきちひろはどう批判されたか
  3. 「ダメ人間マンガ」はなぜ増えているのか?
  4. 「スポ根」マンガは死んだのか?
  5. 「ヤンキーマンガ」と「an・an」の接点は?
  6. 「気持ち悪い」「グロイ」という『はだしのゲン』の読み方の強さ
  7. 『ONE PIECE』はなぜつまらないのか
  8. エロマンガは規制されるべきか?
  9. 少女マンガはエロマンガよりも「有害」か
  10. なぜ女性向けエロマンガで強姦シーンがあるのか?
  11. 『このマンガがすごい! 2015 』第1位のマンガを読む
  12. 「マンガ家になりたい」という子どもを待ち受けているもの
  13. 戦争を楽しむマンガと戦争の悲惨さを描くマンガはどこが違うのか(上)
  14. 戦争を楽しむマンガと戦争の悲惨さを描くマンガはどこが違うのか(下)
  15. 鶴見俊輔は『サザエさん』をどう論じたか
  16. その美少女の中身はおっさん、もしくはオタク男子である
  17. 『さびしすぎてレズ風俗に行きましたレポ』は「道徳教材」たるか
  18. 『この世界の片隅に』は「反戦マンガ」か
  19. 『この世界の片隅に』みたいに戦争を描かないとダメなのか?
  20. 東堂太郎のように一人でモノを言おう

 もともと雑誌連載時には、「オタクの親が子育てでどんなふうにマンガと接するのか」ということを問題意識で書いていました。

 絵本と子育てについては山のように文献があるのですが、マンガとのつきあいについては図書館や書店に行ってもほとんど出会うことができませんでした。手探りでつきあい方を考えるしかなかったのです。*1


 その中で芽生えた問題意識を整理すると、「正しい価値を使える教育という行為と、心がギラギラするような興奮を覚えるサブカルチャーはどう両立するのか?」ということが一つ。くそつまらないタテマエなんか誰も聞きたくないわけです。だからマンガを読みたい。じゃあ、両者は対立するものなのか、ということ。

 二つ目は、ギラギラするような欲望や興奮や本音を扱うサブカルチャーすなわちマンガを子育てにそのまま持ち込めるのかということ。もっとくだけていうと、エロとか暴力とかそういうものを描くマンガは子どもから遠ざけるべきなのか、読ませるべきなのか。あるいはどう距離をとるべきなのか。

 三つ目は、子育てしているお母さんや教育の現場にいる教師に対して、じゃあエロマンガを一緒に読んでみましょうか、ヤンキーマンガを見てみましょうか、ということをやっています。


 この3つのことをだいたい扱った本になったのですが、「この3つを貫くものはマンガが描き出している豊穣なリアルじゃないんでしょうか」と考えてこういうタイトルになったのです。

 ですから、子育てしている親御さん・教育関係者の方たち、できればマンガとは縁遠くなっているような人たちに一度読んでもらいたいなと思っていますし、他方で、この間ネットなどで大いに問題になってきた「ポリティカル・コレクトネスと性表現」のような問題も扱っていますので、ぜひオタクの皆さんにも読んでほしいと思っています。


 表紙は、「ケンタウロスを打つヘラクレス」です。非常にクールに仕上げていただきました。デザイナーの方に深く感謝です。


 ぜひご一読ください。

*1:特に子育て初期の頃は。

2018-04-21 拙著が大学入試の問題に採用

拙著が大学入試の問題に採用


(118)どこまでやるか、町内会 (ポプラ新書) さっき、出版社から通知が来ていて、ぼくの『どこまでやるか、町内会』(ポプラ新書)の文章が鳥取大学の小論文の入試問題に採用されていて、ついては過去問集に載せたいから著作権者として許諾をくれ、ということが書かれていた。


 ぼくは知らなかったのだが、著作権法第36条には次のような定めがある。

第三十六条 公表された著作物については、入学試験その他人の学識技能に関する試験又は検定の目的上必要と認められる限度において、当該試験又は検定の問題として複製し、又は公衆送信(放送又は有線放送を除き、自動公衆送信の場合にあつては送信可能化を含む。次項において同じ。)を行うことができる。ただし、当該著作物の種類及び用途並びに当該公衆送信の態様に照らし著作権者の利益を不当に害することとなる場合は、この限りでない。


2 営利を目的として前項の複製又は公衆送信を行う者は、通常の使用料の額に相当する額の補償金を著作権者に支払わなければならない。

 いちいち入学試験についての規定があるんかい……と驚かざるを得なかった。もともと学校教育で使うものは規制が緩和されていることは知っていたが、入試は後で付け加えられた条項のようだ。グレーゾーンだったから整理したのだろう。


 どんな問題か、興味はある。

 よく言われるように、著作者がうまく問題を解けない、みたいな話はある。

 その入試では、ぼくが新聞記事や政府の事例集などを引用している部分を使って問題を出していた。「そこを使うのか」と意外に思わないでもなかったが、たしかに「著者の主張」はそこにおいて出ている。

 町内会をめぐる問題を基本点から学生たちにわかるように、しかも著作権法上の規定を損なわずにぼくの著作から利用し、しかも著者であるぼくの主張のコアもきちんと汲み取らせるというのは、なかなかできることではない。出題者に脱帽である。


 ぼくが『どこまでやるか、町内会』で提起したこと――町内会活動の本当のコアはコミュニティ意識やお隣さん意識の醸成さえあれば良く、町内会の負担の抜本的リストラを行うべきである、それこそが町内会の自発的な担い手を増やし、町内会の本来的な発展の道だ――は、新自由主義のもとで市町村が次々に公的な責任を解除して仕事を町内会に下請けさせる流れがつよまる中で、ますます問われるテーマになっている。


 つい今しがた、隣町の元町内会長――彼はもう高齢のコミュニストである(仮にAさん、としておく)――から電話があった。隣町ではいまの町内会長が就任後すぐに病で倒れ、副会長がずっと代行していたのだが、隣町の会長報酬50万円(年間)は倒れていた会長に渡ったが、事実上会長の職務をほぼ1年間代行していた副会長には手当の増額も何もないのだが、今後もそれでいいのか、意見を聞かせてほしいという相談だった。


 Aさんが会長をしていたのはほんの数年前だが、その時に「これでは担い手ができない」というので会長手当を30万円(年)に引き上げたという。シルバー人材センターで働いても年間それくらいは稼ぐから、ということが根拠のようだった。

 Aさんは役所から持ち込まれる「依頼仕事」に抗しつづけてきたが、会長も代わり、今ではAさんの時よりもはるかにたくさんの仕事が行政から持ち込まれてきているという。そのもとで本当に会長の引受手はいない、という。

 業務量がリストラできればいいけども、もしそれができない場合は、会長や役員の手当を引き上げることは、町内会の合意さえあれば、致し方ないことだとぼくは思う。しかし、そうやってもやがては破綻するのではないかと心配する。


 資本主義のもとでの現在はもちろん、ぼくがめざしている、あるいはコミュニストであるAさんもめざしている共産主義の社会になっても、自主的な地域の活動の発展と、公的な行政の責任をどう組み合わせるかは問われざるを得ない。

 それは抽象的な理念や知的ヒップスターを追いかけることから生まれるのではなくて、現実との格闘からしか生まれるのだと考える。


 ところで、ぼくの町内会関係の本を読んで、批判の記事を書いた人がいた。

 この記事について、ぼくのマンガ評論(『オタクコミュニスト超絶マンガ評論』)を評価してくれていることには、まずお礼を言いたい。


 そして町内会関連の著作への批判については、少し時間をおいて考えてみることにしたい。

 3日で考えを終えることもあるかもしれないし、5年かかるかもしれないが、時間をおいて考えてみるつもりでいる。*1

*1:こう書くと、結局反省しないんだろ、と抗議する人がいる(無論、上記のツイートの人とは無関係である)。実際最近も、ぼくのマンガの解釈(こうの史代の作品論)に抗議して来た人がいて、それに対して「よく考えておく」という趣旨の返事をしたら「批判意見はスルーかよ」「クソ左翼」などといった激昂した再反論を送り返してきた「残念な人」がいた。