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紙屋研究所


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2018-05-02 『ママレ』の設定で考えるスワッピングと2家族同居

『ママレ』の設定で考えるスワッピングと2家族同居


 「サイゾー・ウーマン」の記事、「実写映画化『ママレード・ボーイ』はスワッピング漫画では!? トンデモ設定なのに支持されるワケ」でインタビューを受けて答えた。

http://www.cyzowoman.com/2018/04/post_182449_1.html


 このインタビューに関連して、もうちょっとここで書いてみたいことは、スワッピングと2家族の同居についてである。


 もともと編集部からの質問は、

しかし、大人になった今、改めて『ママレード・ボーイ』を読むと、離婚した光希と遊の両親が相手を入れ替えて再婚する設定に、「これって、2つの夫婦のスワッピング物語じゃないか?」と突っ込まずにはいられない。さらに再婚後、2組の家族が一緒に同居してるなんて、もはや乱交パーティーだ。にもかかわらず、なぜ誰もこのぶっ飛び設定に触れようとしないのか。

なのだが、ぼくは、こんなきわどい設定がなぜ読者である子どもたちに支持されたのか、という角度から答えた。

 回答そのものは、インタビュー記事の通りだが、少しだけ補足をしておく。


コミュニティ家族」

 「ぶっ飛んだ設定」はむしろ少女マンガで待ち望まれているが、その「ぶっ飛んだ設定」を持ち込むことで逆に子どもたちにとって魅力や理想や憧れが増すことだ大事だ。


 『ママレード・ボーイ』で「連れ子の同居の恋愛」にする場合、ひとり親同士の結婚という形や、2夫婦が同居せず子どもたちだけの同棲(よくある海外赴任。それがダブルで重なるとか)という形などがありえるが、わざわざ2夫婦(2家族)の同居というスタイルを選んだのはなぜか、ということを考える必要がある。


 『ママレード・ボーイ』読者である小学生女子がそこに魅力を見出すとすれば、それが「親しい友だち家族との楽しい同居」ではないか。

 ぼくの保育園や小学生の人間関係をみると、親同士が子どもを預けあって、家族同然の付き合いをして、子どもたちも親しいというコミュニティが結構ある。あのコミュニティが進化して一つ屋根の下での「家族」になってしまうという設定だ。「コミュニティ家族」とでも言おうか。

 親しい友だち家族で遊びに行ったり、お出かけしたりする時は、子ども心には、このままずっと遊んでいたらいいな、と思えるような時空間である。

 実際、『ママレ』には全巻通じて、2つの家族が家の中でゲームをしたり、宿題をしたり、テレビを見たり、食事をしたり、旅行に行ったりするシーンが描かれ続ける。つまり、家族が非常に仲がいいのだ。


 連れ子をお互いに持ったステップファミリー……という設定はよくあるが、『ママレード・ボーイ』のようなコミュニティ家族は家庭の雰囲気、楽しさの度合いが全く異なる。劇的に楽しいのだ。


 『サザエさん』のような2世代が同居する拡大家族が解体し、核家族となった80年代*1を経て、共働きが広がった90年代初頭に、普通の核家族の家庭ではそこに楽しさを作り出せないのである。


オトナ目線で『ママレ』のスワッピング・2家族同居を考える

 子ども目線を外れて(つまり子どもが納得するかどうかを全然別にして)、オトナの目線で、もう一度『ママレ』の家族を考え直してみると、ある種の合理性が浮かび上がる。


 もし仲の良い家族とコミュニティを作れたら、住居費・食費などの生活費用や家事労働コストは共有ゆえに低下するのではないか。

……例えば、メルシナ・フェイ・パースは一八六〇年代に協同家事(cooperative housekeeping)の概念を示していた。

 パースの考え方はひとことでいえば、協同組合組織による家事労働の集約化というものであった。一二人から五〇人の女性が協同組合をつくり、そこで、家事労働を集約的に行う。協同組合の建物や設備は、組合の会員によってまかなわれる。料理、洗濯、裁縫育児などがおここでおこなわれる。彼女たちには夫たちから賃金が支払われることになる。協同家事が成立すれば、家族向けのキッチンのない住宅と単身者むけのアパートメントをつくることができるとパースは考えていた。(柏木博『家事の政治学』p.13)

 単婚家族にはない、賑やかさ。楽しさ。


 そして、2夫婦のスワッピングは、一夫一婦制のもとでのセックスのタイミングのズレ、セックスレス、パートナーに「飽きる」という問題に対して、一つの解決策を与える。

 スワッピングについては坂爪真吾が『はじめての不倫学』の中でも論じているが、簡単に言えばよほど条件が整わなければストレスなしには広く実行できない、という旨のことを述べている。

 だが、逆に言えば、もしお互いの夫婦で完全な合意があれば、理想的とも言える解決策となる。


 これはぼくの勝手な設定(つまり妄想)だけど、『ママレ』の2夫婦は、単純にパートナーを交換しただけじゃなくて、前のパートナーともセックスしてるんじゃないのか。つまり実は「2夫婦」じゃなくて「4人で1組の夫婦=セックスグループ」だったんじゃないのか、と思う。

 坂爪が紹介しているが、スワッピングが単なるセックスのための交換であるのに対して、複数の恋愛感情を許容する「ポリアモリー」というものが存在する。

 もし『ママレ』が前のパートナーにもいまのパートナーにも恋愛感情を持っていたら、それはすでにスワッピングを超えた、ポリアモリーであるとさえ言える。


 しかし……家でセックスするのは相当にきついな、と思う。何よりも物理的に。完全に防音でプラベートな空間が設定されていればいざ知らず、2つの夫婦がいて、高校生の男女の子どもがいる住宅で、セックスをするのは至難であろう。ホテルとかに行くしかない。それと、セックスしなくても家でイチャイチャするというのは厳しいような気がする。


 ここでも逆に、子どもたちがおらずに4人の夫婦だけしかいなければ、全く問題がないようにも思われる。


 いずれにせよこんな具体的なことは小学生女子は考えないはずである。

 オトナが妄想して楽しむにはもってこいだ。

*1核家族が広がった……というのは統計上は単純に言えないと言われている。「核家族世帯は、実は戦前から『主流派』だった」(H18版少子化社会白書 http://www8.cao.go.jp/shoushi/shoushika/whitepaper/measures/w-2006/18webhonpen/html/i1511110.html )。ただ80年代から単独世帯の割合が急増し、拡大家族の割合が減っていったことは間違いない。

2018-05-01 本を出します 『マンガの「超」リアリズム』

本を出します 『マンガの「超」リアリズム』


マンガの「超」リアリズム 4月に花伝社から『マンガの「超」リアリズム』という本を出します。マンガ評論の書籍は2冊目になります。連載当時から反響があって、連載をしていた雑誌の編集の方から書籍化を強くすすめていただき、花伝社での出版の運びとなりました。

 これは教育誌「人間と教育」に約5年間連載していた「マンガばっかり読んでちゃいけません!」がベースです。

 この連載をまとめたものを2016年に文学フリマに同人誌として出させてもらいましたが、さらに全体に加筆・補正を加え、なおかつ「ユリイカ」「星灯」などに書いた文章をいれました。


 主な目次は次の通りです。


  1. 大人と幼児が同時に楽しめるマンガはあるか?
  2. いわさきちひろはどう批判されたか
  3. ダメ人間マンガ」はなぜ増えているのか?
  4. 「スポ根」マンガは死んだのか?
  5. 「ヤンキーマンガ」と「an・an」の接点は?
  6. 「気持ち悪い」「グロイ」という『はだしのゲン』の読み方の強さ
  7. ONE PIECE』はなぜつまらないのか
  8. エロマンガは規制されるべきか?
  9. 少女マンガエロマンガよりも「有害」か
  10. なぜ女性向けエロマンガ強姦シーンがあるのか?
  11. このマンガがすごい! 2015 』第1位のマンガを読む
  12. 「マンガ家になりたい」という子どもを待ち受けているもの
  13. 戦争を楽しむマンガと戦争の悲惨さを描くマンガはどこが違うのか(上)
  14. 戦争を楽しむマンガと戦争の悲惨さを描くマンガはどこが違うのか(下)
  15. 鶴見俊輔は『サザエさん』をどう論じたか
  16. その美少女の中身はおっさん、もしくはオタク男子である
  17. 『さびしすぎてレズ風俗に行きましたレポ』は「道徳教材」たるか
  18. この世界の片隅に』は「反戦マンガ」か
  19. この世界の片隅に』みたいに戦争を描かないとダメなのか?
  20. 東堂太郎のように一人でモノを言おう

 もともと雑誌連載時には、「オタクの親が子育てでどんなふうにマンガと接するのか」ということを問題意識で書いていました。

 絵本と子育てについては山のように文献があるのですが、マンガとのつきあいについては図書館や書店に行ってもほとんど出会うことができませんでした。手探りでつきあい方を考えるしかなかったのです。*1


 その中で芽生えた問題意識を整理すると、「正しい価値を使える教育という行為と、心がギラギラするような興奮を覚えるサブカルチャーはどう両立するのか?」ということが一つ。くそつまらないタテマエなんか誰も聞きたくないわけです。だからマンガを読みたい。じゃあ、両者は対立するものなのか、ということ。

 二つ目は、ギラギラするような欲望や興奮や本音を扱うサブカルチャーすなわちマンガを子育てにそのまま持ち込めるのかということ。もっとくだけていうと、エロとか暴力とかそういうものを描くマンガは子どもから遠ざけるべきなのか、読ませるべきなのか。あるいはどう距離をとるべきなのか。

 三つ目は、子育てしているお母さんや教育の現場にいる教師に対して、じゃあエロマンガを一緒に読んでみましょうか、ヤンキーマンガを見てみましょうか、ということをやっています。


 この3つのことをだいたい扱った本になったのですが、「この3つを貫くものはマンガが描き出している豊穣なリアルじゃないんでしょうか」と考えてこういうタイトルになったのです。

 ですから、子育てしている親御さん・教育関係者の方たち、できればマンガとは縁遠くなっているような人たちに一度読んでもらいたいなと思っていますし、他方で、この間ネットなどで大いに問題になってきた「ポリティカル・コレクトネスと性表現」のような問題も扱っていますので、ぜひオタクの皆さんにも読んでほしいと思っています。


 表紙は、「ケンタウロスを打つヘラクレス」です。非常にクールに仕上げていただきました。デザイナーの方に深く感謝です。


 ぜひご一読ください。

*1:特に子育て初期の頃は。

2018-04-21 拙著が大学入試の問題に採用

拙著が大学入試の問題に採用


(118)どこまでやるか、町内会 (ポプラ新書) さっき、出版社から通知が来ていて、ぼくの『どこまでやるか、町内会』(ポプラ新書)の文章が鳥取大学小論文入試問題に採用されていて、ついては過去問集に載せたいから著作権者として許諾をくれ、ということが書かれていた。


 ぼくは知らなかったのだが、著作権法第36条には次のような定めがある。

第三十六条 公表された著作物については、入学試験その他人の学識技能に関する試験又は検定の目的上必要と認められる限度において、当該試験又は検定の問題として複製し、又は公衆送信(放送又は有線放送を除き、自動公衆送信の場合にあつては送信可能化を含む。次項において同じ。)を行うことができる。ただし、当該著作物の種類及び用途並びに当該公衆送信の態様に照らし著作権者の利益を不当に害することとなる場合は、この限りでない。


2 営利を目的として前項の複製又は公衆送信を行う者は、通常の使用料の額に相当する額の補償金を著作権者に支払わなければならない。

 いちいち入学試験についての規定があるんかい……と驚かざるを得なかった。もともと学校教育で使うものは規制が緩和されていることは知っていたが、入試は後で付け加えられた条項のようだ。グレーゾーンだったから整理したのだろう。


 どんな問題か、興味はある。

 よく言われるように、著作者がうまく問題を解けない、みたいな話はある。

 その入試では、ぼくが新聞記事や政府の事例集などを引用している部分を使って問題を出していた。「そこを使うのか」と意外に思わないでもなかったが、たしかに「著者の主張」はそこにおいて出ている。

 町内会をめぐる問題を基本点から学生たちにわかるように、しかも著作権法上の規定を損なわずにぼくの著作から利用し、しかも著者であるぼくの主張のコアもきちんと汲み取らせるというのは、なかなかできることではない。出題者に脱帽である。


 ぼくが『どこまでやるか、町内会』で提起したこと――町内会活動の本当のコアはコミュニティ意識やお隣さん意識の醸成さえあれば良く、町内会の負担の抜本的リストラを行うべきである、それこそが町内会の自発的な担い手を増やし、町内会の本来的な発展の道だ――は、新自由主義のもとで市町村が次々に公的な責任を解除して仕事を町内会に下請けさせる流れがつよまる中で、ますます問われるテーマになっている。


 つい今しがた、隣町の元町内会長――彼はもう高齢コミュニストである(仮にAさん、としておく)――から電話があった。隣町ではいまの町内会長が就任後すぐに病で倒れ、副会長がずっと代行していたのだが、隣町の会長報酬50万円(年間)は倒れていた会長に渡ったが、事実上会長の職務をほぼ1年間代行していた副会長には手当の増額も何もないのだが、今後もそれでいいのか、意見を聞かせてほしいという相談だった。


 Aさんが会長をしていたのはほんの数年前だが、その時に「これでは担い手ができない」というので会長手当を30万円(年)に引き上げたという。シルバー人材センターで働いても年間それくらいは稼ぐから、ということが根拠のようだった。

 Aさんは役所から持ち込まれる「依頼仕事」に抗しつづけてきたが、会長も代わり、今ではAさんの時よりもはるかにたくさんの仕事が行政から持ち込まれてきているという。そのもとで本当に会長の引受手はいない、という。

 業務量がリストラできればいいけども、もしそれができない場合は、会長や役員の手当を引き上げることは、町内会の合意さえあれば、致し方ないことだとぼくは思う。しかし、そうやってもやがては破綻するのではないかと心配する。


 資本主義のもとでの現在はもちろん、ぼくがめざしている、あるいはコミュニストであるAさんもめざしている共産主義の社会になっても、自主的な地域の活動の発展と、公的行政の責任をどう組み合わせるかは問われざるを得ない。

 それは抽象的な理念や知的ヒップスターを追いかけることから生まれるのではなくて、現実との格闘からしか生まれるのだと考える。


 ところで、ぼくの町内会関係の本を読んで、批判の記事を書いた人がいた。

 この記事について、ぼくのマンガ評論(『オタクコミュニスト超絶マンガ評論』)を評価してくれていることには、まずお礼を言いたい。


 そして町内会関連の著作への批判については、少し時間をおいて考えてみることにしたい。

 3日で考えを終えることもあるかもしれないし、5年かかるかもしれないが、時間をおいて考えてみるつもりでいる。*1

*1:こう書くと、結局反省しないんだろ、と抗議する人がいる(無論、上記ツイートの人とは無関係である)。実際最近も、ぼくのマンガの解釈(こうの史代の作品論)に抗議して来た人がいて、それに対して「よく考えておく」という趣旨の返事をしたら「批判意見はスルーかよ」「クソ左翼」などといった激昂した再反論を送り返してきた「残念な人」がいた。

2018-03-07 そんなに噛みつかなくても 『リトル・ピープルの時代』

宇野常寛『リトル・ピープルの時代』


リトル・ピープルの時代 宇野常寛『リトル・ピープルの時代』を読み返す機会があった。

 宇野は『ゼロ年代の想像力』でもそうだったけど、「大きな物語」が失効した、というストーリーにこだわるので、村上春樹が「壁と卵」の例えを持ち出して悪と正義に世界を截然と分けるようなやり方に我慢がならない。

 宇野は、この時代の問題が「グローバル資本主義」という認識までは至っているんだけど、そういうものはジョージ・オーウェルが『1984』でスターリニズム批判として持ち出した「ビッグ・ブラザー」のようにわかりやすい悪の姿をとっていなくて、人々の内側に紛れ込んでしまっている、村上春樹の『1Q84』

に出てくる「リトル・ピープル」みたいなもんだ、というような話をする。そういう時代にふさわしい想像力が必要なんだぜ、というのだ。

 この本は3.11の後に出された本だけども、例えば「原発」という問題は、原発を推進するような巨大資本の問題としては把握せずに、そういうものを前提にしているぼくらの日常、それを許してしまっている「システム」の問題……という具合に問題を組み替えてしまう。


 確かに、現代資本主義の問題っていうのは、例えば「いじめ」とか「DV」とか「生きづらさ」とか、そういう形をとって現れる時、必ずしもそれはストレートに資本主義の問題としては登場しない。

 「働き方改革」の問題一つとったって、飽くなき搾取をめざす日本独占資本主義の問題さ! とコミュニストたるぼくがいくら言っても、職場で非効率なやり方に固執する上司や同僚の問題だと思っている人にはあんまり響かない。「日本独占資本主義」には問題は向かわず、「無数の正義」の一つである、「ダメ上司」「無理解同僚」に矛先が向いてしまう。

 これほど「わかりやすい」はずの問題でさえこうなのだ。

 つまり、現代資本主義というのは、それが問題として我々の前に現れる場合、本質は本質のまま現れず、複雑に、倒錯して現象する。

 もっとも、資本主義というのは昔からそういうものだとも言える。だからこそマルクスはヘーゲルの方法を使って対象のイデオロギー(観念形態)を暴露して本質を示すという手法をとったのであるが。*1


 そういう意味で、問題意識の入口においては、決してぼくは宇野には反対しない。コミュニストであるぼくにも思い当たる節がある。


 だけど、そんなに「大きな物語」を頑なに拒み、「壁と卵」のような比喩に噛みつかなくてもいいんじゃないかとも思う。つまり「グローバル資本主義と対決する」というタイプの想像力がリアリティを獲得する場合もあるし、3.11を「第二の敗戦」という捉え方をして、人間の共同(震災ボランティアや反原発デモ、あるいは右派のデモでさえもそこに含まれうる)に新しい光をみる――そういう想像力が新しさを得る場合もあるじゃん、とぼくは言いたいのである。


 その辺りの問題意識を今度の「ユリイカ」誌での押切蓮介論で書いてみた。

*1:例えば労働者は労働の対価をもらっているんじゃなくて、労働力価値を受け取っているのだが、賃金を「労働の対価としての時給」というイデオロギーをまとってもらっている。

2018-01-17 大分大学経済論集で研究対象にされたぼくの2著

大分大学経済論集で研究対象にされたぼくの2著

 「しんぶん赤旗」(2018年1月16日付)を読んでいたとき、由比ヶ浜直子*1の次の文章が目に止まった。

発信されたものの多くがその場限りで流れ去っていくなか、時として何度も味わったり、眺めたり、手触りを確かめずにはいられない文章に出会うことがあります。心に響くものを書きたいという願いは、今や多くの人に共通するものではないでしょうか。(由比ヶ浜「宮本百合子没後67年に 何倍も長く立体的に生きた人生」/「しんぶん赤旗」2018年1月16日付)


 まったくその通りだと思った。

 自分の書いたものが人の心に響いたら書き手冥利につきるというものである。


 「大分大学経済論集第69巻第3・4合併号(2017.11)別刷」という冊子が小学館から送られてきた。

 ぼくの町内会についての2つの著作、『“町内会”は義務ですか?』(小学館新書)と『どこまでやるか、町内会』(ポプラ新書)を研究の対象として一文を書いた研究者がいたのである。

 研究者は高島拓哉。大分大学経済学部の准教授で地域社会学が専攻である。

 「紙屋高雪の『町内会』2作から学ぶ ―アンペイドワークとガバナンスの視点から―」というタイトルだった。「研究ノート」という付記があってよくわからないのだが、いわゆる「論文」ではなく、論文化する以前のノート、メモ・覚え書きのようなもの、ということになるのだろうか。


 実は、一度大分市でぼくは講演をしたことがあり、その際に高島が聞きにきてくれて、面識がある。書簡をやりとりしたこともある。ぼくが引っ越したせいで住所がわからなくなっていたためであろう、「論集」は出版社の方に届けられていた。


 家庭内のアンペイドワーク、いわゆる「無償労働」の議論というのは、女性の家事労働などでよく聞く話だが、高島は地域社会のアンペイドワークに関心を持っており、これまでにごみ出し・ごみ置き場の清掃などについて論じてきた。

 ぼくは『どこまでやるか、町内会』で1章を割いてこの問題を論じ、そこをヒントにして町内会が抱える問題、解決の糸口を論じているために、高島は特別の関心を寄せて本稿を書いたのだとしている。


 高島は、ぼくの立ち位置を、町内会の現状に批判的な外側の視点とともに、町内会自身の苦労や理屈を内面化させた視点も持っている立場として規定し、ともすれば「町内会必要論=現状肯定派」と「町内会不要論=現状全面否定派」に両極化しそうなこの問題を、止揚させうるというむねの指摘をしている。


アンペイドワークを半ば強制的に構成員に押し付ける社会装置であることをやめて、住民が楽しみながらできる範囲で参加する新しい町内会は、NPO主導のテーマ型コミュニティと対極にイメージされてきた従来型の町内会とは異なって、現代人にとって参加障壁が低く、担い手不足を解決し、組織の存続に前向きな展望が抱けるような、コミュニティ・ガバナンスの革新的なモデルとなっている。(高島、p.21)

これまで全国にみられた町内会のありようを動かせないものと考える固定観念を排し、求められる役割を本当に果たすことができる組織にするために、そのありようを根本から見直すことが必要である。そのために、この「町内会」2作が最良の手引書となることは間違いない。(同前)

本2作は町内会肯定は、否定派、中立派、行政関係者など、どの立場の者も無視できない説得力を持っている。(同前)

町内会論にとって記念碑的な作品であると言っても過言ではない。(同前)

 本稿の前半には、高島自身が町内会についてどちらかといえば全否定的な見方をしていたことや、仮に改革する際にも親睦・交流的なものは副次的なものであり、安全・安心確保の活動のような活動こそ本質的であると考えていたことなどが、ぼくの2作を読んで考えが変わったことなどが記されている。


 高島が体験した町内会の現状で息を飲んだのは、高島の知り合いの高齢女性が、全身障害となった夫の交通事故対応で大変なときに町内会班長の役が回ってきて、なんとか順番を変わってくれないかと頼んだものの、結局押し付けられ、とうとう本人も入院するはめになってしまったという話だった。

(町内会)必要論・肯定派の人たちはよく、助け合いの組織だから、お互い様だと言っているが、この場合を見る限り、困っている人を助けるどころか崖から突き落とすような役割を演じてしまっている。(高島p.11)

 高島は自身の中にある町内会不要論の根っこにこうした強烈な体験があったことを本稿の中で告白している。

 ぼくもこのくだりを読んで「崖から突き落とす」という比喩が強く印象に残ってしまった。まさにその通りだなあと。


 高島は本稿で「自助・共助・公助」の序列論、「補完性の原理」について批判をしている。基本的にぼくが行なった「自助・共助・公助」論批判を肯定しつつ、それに補足をする展開になっている。

 その際、高島は「自助・共助・公助」の序列論について「実際におかれている混合的複合的形態から乖離した観念論」(高島p.18)「その責任や役割の序列を述べることはほとんど非現実的で無意味」(同p.19)としている。

 これは、現実はまったくその通りである。3者は混合された形で現実には存在している。

 しかし、ぼくは、あえて「公助」の責任、この部分だけは概念的にきちんと切り分けるべきであることをあえて強調しておきたい。すでにその趣旨は2著作の中でも書いているし、さいきまこ『助け合いたい』の批評の中でも表明してきたので繰り返さないが、町内会を熱心にやっている人、特に本来公的責任の後退には敏感なはずのサヨであっても、町内会に入って熱心にやればやるほどこの公的責任を肩代わりしてしまう熱心さに、いつの間にか取り憑かれているからである。



 それはともかく。

 自分の書いたものをここまで読み込んでもらい、しかも高く評価してくれたことに深く感謝したい。

 批評は作者でさえ気づかぬ、作品の価値をさまざまに照らし出してくれるという、その醍醐味を見た思いだ。

*1:新日本婦人の会東京都本部副会長、多喜二・百合子研究会会員。