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紙屋研究所


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2018-09-27 まじめな筋トレ知識を得るために 『ダンベル何キロ持てる?』

MAAM、サンドロビッチ・ヤバ子『ダンベル何キロ持てる?』


 昨年の10月に筋トレを始めて、約1年になる。

 この記事を書いてから10ヶ月だ。

http://d.hatena.ne.jp/kamiyakenkyujo/20171218/1513606602


 インフルエンザの時以外、週に1日だけ休みをおいて、ほとんど毎日欠かさずやっている。もちろん、その時書いたように、毎日トレーニングする部位を変えている。内容は色々工夫して筋肉が慣れてしまわないようにした。NHKの例の動画も参考にしてな!

 そして、トレーニングの後に、プロテインを飲むようにした。

 自分の実感としては見た目に筋肉がついた。変化がわかるのは自分だけだが……。つれあいや家族は「……そう……?」みたいなうっすい反応


 この前保育園卒園した同じクラスの人たちと旅行に行ったときに、一部のパパたちと筋トレ話でむちゃむちゃ盛り上がり、彼らの「いやー紙屋さん、体つきが違ってたと思いましたよ、ホント」という、こちらの押し売り質問に対する「お……おう」的な当惑返答にも最大限に気をよくして、日夜トレーニングを続けている。


 「自重筋トレはすごくいいですよね」とホメてもらいつつも、「週に一度ジムに行くとさらにいいですよ」ともっとホメて伸ばすかのごとくの他のパパたちの反応。


 筋トレにハマる人がいるというのもわかる気がした。

 確かに「筋肉は裏切らない」ように思えてくる。鍛えただけ体が対応力を高めたり、見た目に筋肉がついたりすると、嬉しくなるのだ。


 さて、そこで本作である。

 筋トレをする女子高生の話で、「筋トレについての知識披露を、女子高生のビジュアルでやったらいいんだろ?」というエロ目線で発想されたようにも思うのだが、個人的にはそこには全然反応しない。

 ガチに筋トレ知識を得るつもりで読んでいる。

 例えば、2巻に出てくるレッグカール。

 脚の太ももの裏側の筋肉をどうしたら鍛えられるかと思っていて、前の記事の比嘉一雄の本では「スティッフド・デッドリフト」を勧めていてそれをずっとやっているのだが、プッシュアップをやった後のようなじんじんくる感じや「追い込まれた感じ」がないので、いまひとつここが鍛えられている実感が弱いのである。

 そこにレッグカールである。ハムストリングスを鍛えるにはこれがいいと書かれている。

 「き……きっつ…! 見た目より全然きついわ…」という登場人物の一人(立花里美)のキツそうな描写に、逆に「おお、これは効きそうじゃん」という垂涎を覚えてしまう。


 3巻で出てくる「猫背」も気になっていた。

 結局猫背を治す特効薬的なもの(どこかの筋肉を鍛えれば自然に治る……的な)はなく、

猫背を解決するには、日常から胸、肩甲骨のストレッチを行い、筋肉を動かすように心がけましょう。単純ですが、生活習慣を改善することが猫背解消の近道です。

とあり、逆にこれに大いに納得した。というのも、結局胸を張ったり、肩甲骨を寄せたりするしかないのかなと思っていたからである。


 4巻の「わき腹」を鍛えるサイドベントは、器具がなくてもできる上に、これまで鍛えていたのとは違う部位の筋肉だし、買い物袋とかを負荷にしてできそうなので、参考になる。

 ここでも登場人物の一人、愛菜るみかが、

こ、これ…! 見た目より全然キツいかも…!

と汗ぐっしょりに言うのが、たまらない。あー、効きそう、とか思ってしまう。



 てな具合に、日常に実際に筋トレで使う知識として本書を読んでいる。


筋トレを続けるコツ

 まだ1年しか経っていないのに、「筋トレを続けるコツ」などとドヤ顔で言うのもアレだが、言う。言わせてもらう(ドヤ顔)。

 「疲れた時はプッシュアップ1回でもいい」。

 これだね。

 これはスティーヴン・ガイズ『小さな習慣』(ダイヤモンド社)に学んだものである。つうかパクリである。

 ガイズが言うには、習慣にしてしまうには、モチベーションに頼っていてはダメで、とにかくやり始めてしまうことが大事だということ。小さな習慣にしてしまえば、少しはやるようになるからである。「プッシュアップ1回だけ」でもいいのであれば疲れ切ったときでもプッシュアップしようと思う。そしてやり始めしまったら「……まあ、1セット(15回)やっとくか」と思い、1セットやってしまえば3セット行ってしまうのである。

 でも、あくまでそれは副産物であって、決して欲張ってはいけない。

 「1回でもいいんだ」ということを自分に言い聞かせて習慣化させるのである。

2018-09-16 したたかなのか、もろいのか 『15歳、プロ彼女』

大久保ニュー『15歳、プロ彼女 元アイドルが暴露する芸能界の闇』


 大久保ニューのマンガを久しぶりに読む。というか、待っていた。2000年代初頭に『薔薇色のみっちゃん』や『ニュー・ワールド』を読んで「もっと読みたい!」と思いながら、店頭でなかなか出会えず、正直なところ、次第に忘れて行ってしまったのだ。


15歳、プロ彼女〜元アイドルが暴露する芸能界の闇〜 1巻 (女の子のヒミツ) 本作は、元ネタがあってそれをマンガ化したもの。

 「プロ彼女」というのは、本作第1話によれば、「財力と権力を持った男性だけを狙う」女性集団のメンバーのことで、「狙う」とは「結婚する」という意味である。主人公・メイの述懐体裁をとっていて、メイは15歳の売れないアイドルだった。

 展望の見えない下っ端アイドルグループの行く末に絶望を感じていたメイが同じグループのコにTVプロデューサーや芸能人が参加する「ヤリコン」(乱行パーティー)に誘われたこと、そして、ふとしたことで女優が主催する「金持ちと結婚する会」(のようなもの)に参加したことをきっかけにして、有名俳優、スポーツ選手、政治家コンサル、医者などとのセックス体験、それをめぐりカネと仕事がどう動いたかを「実話」形式で描いている。


 率直なところ、これが本当の話かどうか、あるいは芸能界のすべてではないにせよその一端の真実を表しているかどうか、ぼくには判断する材料がない。もちろん自分に経験のない、あらゆる「ノンフィクション」はそういうものだろうが、せめて関連する本を少しでも読んでいれば多少の嗅ぎ分けはできるだろう。でもこの分野はまったくぼくは知らないのである。


 それでもこの本に惹きつけられたのは、二つ理由がある。

 一つは、自分の容姿(カラダを含む)を武器にして「安定」「カネ」「名声」を獲得しようとする、男権社会下での、ある種の女性の気分をむき出しに、そしてクールに描いているからである。

 同じアイドルグループのコたちからは「枕(有力者とセックスして仕事をもらう「枕営業」のこと)」「枕ちゃん」などと陰口(というか公然とした攻撃)を言われたり、体を露出させてテレビに出るメイを軽蔑するような、興味があるような矛盾する目で追う一般クラスメートの視線を感じたりする。

 そのたびに、メイは自分の中で対抗する論理をつぶやく。

 あるいは、メイのまわりの女性たちが公然と反撃する。

 例えば、「金持ちと結婚する会(仮)」の男性たちとの食事会でメイが物事を知らないふりをして注目を集める手口をとることに、同席の女性たちから不満が出る。しかし、主宰者である女優(冬月麻美)はメイを擁護する。

私達は仲間だけれど 仲良しグループじゃないのよ?

私だって15歳の隣りに座るのは怖いわ

でもその分エステの回数を増やすことにした

キレイでいるための刺激にしているの

メイちゃんは悪くない

だって彼女がしていることは 正しいことだもの

男を喜ばせて男からむしり取る

それが私達の目指す姿でしょ?

「ビッチなお姫様」

メイちゃんは完璧よ

妬むヒマがあったらメイちゃんから勉強することね

 ぼくの知り合いで、インテリゲンチャ(大学の研究者)の女性がいるが、ある種の女性が容姿を武器にすることを軽蔑している。

 彼女の考えはこうである――「容姿」と「仕事的才能」という二つに分けられる人生の武器があるとして、どういう天賦の武器があるにせよ、結局「仕事的才能」を持たぬ者の末路は悲惨だ。

 両方あればそれに越したことはない。

 「仕事的才能」だけならそれを武器に世渡りできる。

 しかし「容姿」だけに頼ることは、早めに「いい男」を「捕まえて」それに依存=寄生する生き方であり、危険極まりない、と。

 この人生観は別にそう珍しいものではない。

 この種の人生観をじっと眺めてみると、とにかく「仕事的才能」さえあれば生きていけるということに尽きる。「容姿」を人生の武器にする、ということが一体どういうことなのかを戦略的に突き詰めて考えた様子はない。

 エンゲルス階級社会一夫一婦制について、「一方の性による他方の性の隷属化として、それまで先史時代全体をつうじて知られていなかった両性間の抗争の宣言」であり、財産の相続を動機とした「打算婚」であり、売春と姦通(不倫)によって補足された制度だと指摘した。

 つまり、基本的には男の支配であり、女はそれと抗争をせざるを得ず、そしてお金の打算として結婚があり、お金のためのセックスがあり、「正規」の婚姻以外のところでのセックスがあることを特徴づけたのだが、メイの行動と論理はこの指摘を先鋭化させたものであることがわかる。

 有名芸能人の家で輪姦されるエピソードも出てくる。

 その自分を冷徹に観察し、どう対処するか計算するメイが描かれる。その苛酷さは、支配と抗争と打算の縮図である。

 ただ、大久保がそのシーンを描くトーンは、必ずしも「悲劇」ではない。起きていることは苛酷なのであるが、むしろそれに抗おうとするメイの「したたかさ」のようなものが読む者に伝わってくる。

 そう、全体として、メイは「強い」存在として、ぼくらに迫ってくるのだ。


 本作に惹きつけられたもう一つの理由は、有名人や有力者とのセックスをやはり冷静に、そして理屈っぽく観察しているからである。

 メイは「15歳のセックス好き」という設定だから、ぼく自身の中にこの作品をポルノ的に消費しているところがあるのかなと思った。もちろん多少はあると思うのだが、大久保ニューの絵柄はポルノとしての物語を駆動させる形では働いていないように感じられた。

 むしろ、メイがセックスする相手を観察し、それを言語化するクールさを興味深く読んでいる自分がいた。

 例えば、ある有名俳優は、いとも簡単に旅館の備品を盗む。平気で灰皿を車外に捨てる。「育ちが悪い」のだとメイは観察する。

 あるいは、概して政治家は、年齢がいっているのに、セックスのテクニックが全く未熟。

 逆に、相撲取りは「低学歴で頭が良くない」というイメージだったのに、そうではなかった……などである。

 別にメイのこうした人間観察の結論を肯定するつもりないし、その材料もぼくは持ち合わせていない。

 しかし、客観的に自分のセックス相手を眺め、それを言葉にしていく作業は、「容姿」を戦略的武器に使おうとする女性の中心問題の一つなのだろう。カネや権力で女を抱こうとする人間の品性が一つひとつていねいに観察され、暴かれていく様をみるのは、痛快だ。


 さっき、ぼくの知り合いの女性が「容姿を武器にする女性は危うく、もろい」という類の印象を持っていることを述べたが、全体としてメイの印象は逆である。したたかであり、痛快なのだ。だが、それでも知り合いの女性は、おそらく「本人の主観、生き方はそうであっても、さらにその人生をメタに眺めればやはり危うく、もろい」と言い張るであろうが。

2018-08-29 『分校の人たち』 「ユリイカ」での『レッド』論にも触れて

山本直樹『分校の人たち』 「ユリイカ」での『レッド』論にも触れて


ユリイカ 2018年9月臨時増刊号 総特集◎山本直樹 ―『BLUE』『ありがとう』『ビリーバーズ』『レッド』から『分校の人たち』まで― 「ユリイカ」2018年9月臨時増刊号「総特集=山本直樹」で「猟奇からエロを経て人間的なものへ――『レッド』小論」を書いた。


 連合赤軍事件は、事件そのものとしてサブカル的な「面白さ」を持っている。

 だから『レッド』論ではなく連合赤軍事件論になってしまわないように、山本直樹の『レッド』という作品を評するように心がけた。


 とはいえ、『レッド』は当事者の記録に山本なりに忠実に描いた、いわゆるノンフィクションであるから、その「面白さ」は、連合赤軍事件そのものがもっている現実の豊かさに根拠がある。だから連合赤軍事件そのものが持っているサブカル的な興味としての「面白さ」を排除することはできず、むしろある部面ではそこを積極的に論じる必要があった。

 しかし、やはり『レッド』の中でのその「面白さ」の表現は、山本がこの事件のどこを切り取ってセレクトし、どのようにグラフィックにしたかということに依存している。

 だから作品としての「面白さ」と事件としての「面白さ」が、切り分け難く、糾える縄のごとく現れる。

 そのあたりを苦労しながら、しかし自分なりに描き出してみたつもりでいる。無理に『レッド』論にもしないし、かといって無理に連合赤軍論にもしない。作品を読んだ時に感じる『レッド』の「面白さ」、そのような「自分の感想」という特殊性・個別性の中にある普遍性を浮かび上がらせる作業をした。

 機会があればお読みいただきたい。


 「ユリイカ」で永山薫らが書いているが、森山塔として登場した山本の鮮烈さの記憶・位置付けは、ぼくの中にはまったくない。時代がもっと後だからである。ぼくが最初に山本直樹を読んだのは、「スピリッツ」で連載されていた「あさってDANCE」だった。そして『YOUNG&FINE』である。

山本直樹『YOUNG&FINE』 - 紙屋研究所

 永山たちの世代やエロマンガをこれでもかと読んでいる人たちとは別に、なぜぼく自身が山本の作品をエロいと思っていたのか、あるいは山本のエロさ(例えば『ビリーバーズ』や『フラグメンツ』のいくつかのシーンなど)をいつまでも記憶しているのかは、自分の中での謎であった。上記の『YOUNG&FINE』についての感想はそれを自分なりに解き明かそうとする一つの試みであった。


 最近描かれた『分校の人たち』はフラットに他のエロマンガと比べても、(少なくともぼくにとって)相当にエロいな、と思う。

 中学生と思しき(明示されていない)男女3人(女ドバシ、男ヨシダ、転校生の女コバヤシ)が、好奇心で裸で抱き合ったり性器を触りあっているうちに、ペッティングやセックスに及んでいき、やがてのべつまくなしセックスをしているという身もふたもない話だ。

 東京都の青少年健全育成条例の規制に挑戦するかのように、未成年(と思しき男女)の性行為の描写が、そして「汁」=体液のほとばしりが、ページの割合分量も気にせずえんえんと描かれている。あるいは、『レッド』でほとんど封じたエロ(山本によれば『レッド』はエロからの「出向」でありエロを禁じられた「下獄」である)を解き放つかのように念入りに描写している。

 反権力的で挑発的だからエロい、と感じたのでは全然ない(それはそれで別の立派さではある)。

 純粋にエロい。オカズとしてエロいのである。

 「ユリイカ」で多くの論者が述べているように、山本直樹が当事者に没入しない距離を保ち、クールに、突き放したように眺める視線が、『分校の人たち』でも十二分に生かされている。

 『YOUNG&FINE』でも『BLUE』でも『ビリーバーズ』でもエロの描写は物語の中のごく一部である。しかし『分校の人たち』では、服を脱がして、性器や乳首に触り快楽を得るまでの描写が細々と分解されて本当にずっと続く。

 ドバシは興味のないふりをしながら、あるいは小さく怒りながら、溺れこんでいく。コバヤシは積極的に性に関心を向けてまるで自然の観察でもするかのようにハマっていく。二人の少女の視線がまさに「クールに、突き放したよう」であるくせに、少女自身は恋愛的な感情を一切持たず、快楽のためだけにそこに没入していく。作者・山本はそれをもう一段外から「クールに、突き放したように」眺めている。

 ヨシダには恋愛的な感情が見られない。どちらかといえば性欲に突き動かされている少年である。そして、一見主体性ありげに二人の少女の体を求めるけども、それはどちらにも拒絶されないという十分に安心な環境のもとで見せる能動性にすぎない。80年代的な、男性主体である。

森山塔は情熱的ではない。少なくとも情熱をむき出しに迫るようなことは描かない。森山塔のセックス描写は即物的で、まるで生物学者が、とある生物の生殖行為を冷静に観察しているようにすら見える。(永山薫「身も蓋もなくエロス」/「ユリイカ」前掲p.38)

山本直樹の『分校の人たち』を読んだ時、「ああ、森山塔が帰ってきた」と感じた。……そこにあるのは性器というより泌尿器であり、即物的に反応する敏感な粘膜である。(永山前掲p.40-41)


 「少年と少女が遊んだりふざけあっているうちに、性を知り、そこにハマってしまう」というのはエロの中でもよくあるシチュだし、ぼくも好きな設定である。

 このシチュエーションが最大限に生かされるように、山本の淡々とした、突き放した視線が少女二人のキャラ設定を生み、没主体的な男性主体を生み、そして生物観察のような細かく長いエロ描写を生み出した。

 「よくある設定」だけど、それが山本の視線によって徹底的に・最大限に強化されているのである。

 他のエロマンガが、(今回の「ユリイカ」の特集でも言及されているが)性交時の擬音のうるさいほどの記述や、ページの制約で(比較的)あっさり絶頂に至ってしまうのに比べてなんという贅沢なつくりであろうか。

 「そうそう、こういうものを読みたかった」と読みながら思った。

2018-08-09 『はだしのゲン』は核均衡論の味方か

『はだしのゲン』は核均衡論の味方か


 マンガ評論家である呉智英氏が「週刊ポスト」(2018年8月14・27日号)のインタビューでぼくの近著『マンガの「超」リアリズム』(花伝社)にふれ、ぼくについて言及してくれています。

 ……実は核アレルギーに代表される感情的反核論の世界的広がりこそが核均衡論の基礎に必要なのである。『ゲン』がその重要な一翼を担っている。

 そう書いたのだが、共産党系のマンガ評論家紙屋高雪は、四月に出た『マンガの「超」リアリズム』で、「『ゲン』を高く評価するはずの呉は、驚くべきことに」「核均衡論を肯定的に紹介」と批判する。この批判の初出誌は民主教育研究所の「人間と教育」である。

 いや、まあ、なんと言おうか。この人たちは、ねぇ。

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180806-00000020-pseven-soci&p=2

マンガの「超」リアリズム これだけ読んでも分かりにくいかもしれません。

 朝日新聞が最近核抑止力論を特集し、核抑止力が平和を生み出してきたという「真実」を事実上、「良識派」たる朝日新聞がついに語り始めたと呉氏は喜んでいるのです。

 そして、呉氏が1996年に書いた『はだしのゲン』解説で、『はだしのゲン』が核抑止力論のバリエーションである核均衡論のベースになっているという主張が今にして思えば勇気のいるものだったと述懐します。

 この文脈の中で、呉氏が「共産党系」だと指摘する紙屋なる評論家が、最近の著作でもこの呉の認識に憤っているのですよ、と皮肉を言っているのです。ぼくが「共産党系」と規定され、ぼくの文章が「人間と教育」という雑誌であることを示すことで、ぼくの言説が旧式の「進歩的知識人」というか「既成左翼」の一環であることをほのめかしているわけですね。


 ぼくの考えを述べる前に、まず率直に呉氏にはお礼と感謝を述べておきます。

 他に適当な例がなかったせいもあるでしょうが、呉氏のような「大家」がぼくのような場末のブロガーの意見をわざわざとりあげて紹介してくれたことに、まず感謝したいのです。皮肉でもなく、本気で。ありがとうございます。

 さて、その上で、こっから先は、別に攻撃するためじゃなくていつもの通り、ニュートラルな意味合いで呉氏を呼び捨てしたいと思います。(これをことわっておかないと、「こいつ、呼び捨てにしている! どんだけ無作法なやつだ」と本気で思う人がいるのです。さすがに呉氏はわかってくれるでしょうが。)


「ぼくはこの呉の評価に近い」

はだしのゲン 1 最初に言っておきますと、ぼくはこの本の中で呉の『はだしのゲン』評を全体的には高く評価しているんですね。

 ぼくが『ゲン』について書いたのは、「『気持ち悪い』『グロイ』という『はだしのゲン』の読みの強さ」という章です。子どもたちの中で『ゲン』を読んだ人は多いんですが、彼らの感想に「気持ち悪い」「グロイ」というのがけっこうあります。それは悪いことじゃなくて、実は作者の中沢啓治が強く望んだ読まれ方であって、「気持ち悪い」「グロイ」ことが原爆被害の本質であり、そういう露悪的とも言えるリアリズムこそが強いんだとぼくは思ったんです。

 しかし、戦後民主主義は、戦争は「聖戦」ではなくむごい侵略戦争であったという露悪のリアリズムを発揮していた戦後直後は生々しかったんですが、次第に「平和」や「民主主義」というタテマエから現実を裁断するようになって形骸化が生じるようになります。

 呉は60年代後半以降の戦後民主主義批判の潮流の中に出現して、その流れから『ゲン』を戦後民主主義的なタテマエで評価するむきに痛撃な批判を加えたのです。

 呉は『ゲン』を「平和を希求する希求する良識善導マンガ」として評価することを強く批判し、『ゲン』は民衆の中にあった怨念、原初的な家族愛を描いた民話(フォークロア)として評価します。

ぼくはこの呉の評価に近い。その素朴な怨念や原初的感情が、意図せざる露悪のリアリズムとなって、戦争の本質を衝くのである。(拙著p.56)

 てな具合です。

 もともとぼくの文章は、そういう呉評価の文章であることをわかってほしいのです。


呉のポジショントー

 その上で、ぼくは呉への批判も書いているんですね。

 その批判の箇所こそが、呉がとりあげて皮肉を書いている部分なのです。

 呉は「『ゲン』は反戦反核を訴えたマンガである」(政治思想の道具としての作品)という読み方に反対し、反戦反核という思想が本当に正しいのか、という問いを立て、その中で反戦反核の対極にあると考えられる「核兵器の恐怖の均衡が戦後の平和をもたらした」という核均衡論を肯定的に紹介します。


 だけど、誰がどう読んでも「『ゲン』は反戦反核を訴えたマンガ」だと思うんですよ。それが「平和」とか「民主主義」とかいうタテマエからじゃなくて、原初的な感情や怨念から強いほとばしりとなって表現されているので、立場をこえて心を打つわけです。別に「反戦反核」に同意していない人であっても、面白がれるんです。

 そういう意味では原初的な感情や怨念と反戦反核は、中沢啓治において癒着しているんですね。離れがたい。

 そこを呉が無理に引き剥がそうとするので、呉の言説のその部分はかなり見劣りするなと書いたわけです。

 はっきり言えば呉のポジショントークです。

 戦後民主主義的良識を反発的・機械的に批判しようとするあまり、無理筋な立論をやっちゃっているのです。

 もう詳しく見てみましょう。


 呉は今回のインタビューでこう言っています。

『ゲン』の中に一貫して流れる原爆への原初的恐怖と怒りこそこの作品の大きな価値であり、また、これは核均衡論の重要な基盤でもある、と。もし、核兵器の威力が大したものでないと誤解されていたら、すぐに核の撃ち合いが始まるからだ。……だとすれば、実は核アレルギーに代表される感情的反核論の世界的広がりこそが核均衡論の基礎に必要なのである。『ゲン』がその重要な一翼を担っている。(強調は引用者)

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180806-00000020-pseven-soci&p=2

 もとの中公文庫の解説では、『ゲン』と核均衡論を直接に結びつけずに、「核はいやだ、理屈抜きに原爆はいやだ、という観念的な平和主義や核アレルギーが実は核均衡論を支えているのである」(呉「不条理な運命に抗して」*1)というふうに「核均衡論の根底には、核への恐怖がある」という一般論を述べていました。

 ところが、今回のインタビューでは呉はふみこんで、「核アレルギーに代表される感情的反核論の世界的広がりこそが核均衡論の基礎に必要なのである。『ゲン』がその重要な一翼を担っている」とまで書いています。『ゲン』が広がったからこそ、原初的恐怖が煽られ、核均衡論の基礎がつくられた……というふうに具体的な因果として読めます。


史実的につじつまがあわない

 第一に、これはそもそも史実的に無理があると思うのです。

 核均衡論は核抑止力論の一変種ですが、呉も書いているとおり、中でも米ソの核均衡に着目した考え方です。ソ連が崩壊するのが1992年で、『ゲン』が翻訳されて国際的に広がって言ったのは2000年代からですから*2、「感情的反核論の世界的広がり」を基礎として「核均衡論」があり、その「重要な一翼」を『ゲン』が「担っている」というのは明らかに言い過ぎです。

 そして、『ゲン』が国際的に広げられていった2000年代を契機に、むしろ「核兵器の非人道性」を強調する国際世論が強まり、2013年には「核兵器の人道的影響に関する国際会議」が開かれ、ついには核兵器禁止条約へと結実しました。

 因果関係がどれくらいあるかは別にして、歴史的に起きている流れは逆ですよね。『ゲン』が国際的に広まっていない間は、核均衡論が強く、『ゲン』の国際的受容とともに廃絶論が勢いを増した、っていうことですから。


「原初的恐怖」ではなく理屈上の恐怖

 第二に、先ほどのコロラリーでもありますが、米ソの世論においては、「原初的恐怖」ではなく「理屈上の恐怖」がゲームとしての核均衡論を支えた、と考えた方が理解しやすいんじゃないでしょうか。

 「原初的恐怖」というほどの恐怖を体験した人は、常識的に考えて、見るのも触るのも嫌なはずで、自国が「核均衡」というようなゲームの道具に使う政治を支えるでしょうか、と思います。

 例えば性暴力を「原初的恐怖」で受けた人は、性暴力を利用する手法に賛成するでしょうか。なるほど、性暴力の「原初的恐怖」を脅しに使うことで相手を支配する(抑止する)ことはできると思いますが、「核均衡」は自国の政府がその手法を使うことへの支持が含まれていますから、それは支持されないと考えるのが常識的な理屈の流れじゃないですかね。

 むしろ「原初的恐怖」ではなく、理屈の上での「恐怖」から編み出されたものがゲームとしての「核均衡」であるように思われます。

 アメリカなどで被爆者が広く講演をしたりしてその実相を明らかにするのは、戦後もかなりたってからです。「原初的恐怖」を民族的・個別的な体験として持たないアメリカなどで、それを経験し子孫が日常的に教育されている日本とは核被害についての認識に大きな落差があったのは当然です。拙著『マンガの「超」リアリズム』でも「クリーンな言語」で戦争を「ゲーム」のように語るアメリカのシンクタンクの人たちの話(竹田茂夫の『ゲーム理論を読みとく』の冒頭)を紹介していますが、極端に言えばああいう感覚ですよね。ゲームにおける行動の動機となるような、理屈の上での「恐怖」。



日本の戦後の特殊性をうまく説明できない

 第三に、呉の議論では、核被害と戦争被害を味わった日本国民*3が「あんな怖い思いは二度と嫌だから強力な軍備を持とう」「核武装をしよう」という意識・選択にならなかった歴史をうまく説明できません。戦後の日本は、憲法9条を変えず、核兵器廃絶を曲がりなりにも民族的要求として掲げてきたわけですから。*4

 呉が好んで使っている「核アレルギー」という言葉は、米国高官がこのような日本世論の特殊性に呆れ果てて使った言葉がきっかけだとされています。

この言葉〔核アレルギー*5〕が使われるようになった契機は、一九六四年夏に起こったアメリカの原子力潜水艦シードラゴン号の佐世保寄港受け入れ問題であった。寄港反対運動が起きるという予測が強まるなか、日本の世論の反応を楽観しているというアメリカ国務省高官の声が報じられた。新聞記事は「米側をもっと信頼してもらいたい、ということ、それに時間をかければ日本の『核兵器アレルギー』はおさまるだろうということがあるようだ」と推測していた(『朝日新聞』夕刊、一九六四年八月二九日)。(山本昭宏『核と日本人』p.100-101)

 この経緯を調べた山本昭宏は、「アメリカと日本政府の核戦略に沿わない世論が目立つときに『日本人の核アレルギー』という言葉がアメリカ高官や日本の政治家の口から発せられる傾向にあったのである」(山本前掲書、p.102)と述べています。


 歴史の歩みで見てみると、『ゲン』のような核被害の「原初的恐怖」があまり知られておらずブッキッシュな一般論として核の「威力」が考えられていた国際環境では核均衡論が勢いがあったけど、『ゲン』をはじめ被爆者の証言などで「原初的恐怖」が広く国際的に知られる中で核均衡論や抑止力論にかわり核兵器廃絶の潮流が大きく育ってきた、ということになります。

 そして、核への「原初的恐怖」を民族的体験として持っていた日本だけは、はじめから日米支配層がいうところの「核アレルギー」と言われるほどの拒絶感を持っていたというのが歴史の現実じゃないでしょうか。


 核均衡論や核抑止力論が「現実的政策」かどうかを今ぼくは問題にはしていません。『ゲン』がその「重要な一翼を担った」マンガだったなどという横車を押すのは、やりすぎだということです。

 『マンガの「超」リアリズム』でも書いた通り、戦後民主主義の形骸化した部分への批判者として、呉には歴史的な役割が確かにありました。しかし、その身振りが石化してしまい、逆の硬直を生んでしまっているんじゃないかと思います。

*1:中沢啓治『はだしのゲン』中公文庫7巻所収。

*2:1970年代後半にごく限られた翻訳はあります。

*3:もちろん日本は侵略戦争や植民地支配の加害をしてきたのですが、日本人の多くに「戦争は嫌だ」「核兵器は嫌だ」という意識が広がった現実について述べています。

*4:米軍の駐留を容認し、米国の核の傘にいたではないか、という反論はあり得ますが、米軍は沖縄へ集中され、核兵器の持ち込みの現実は「核密約」にされ、いわば日本人多数が日常的に意識しないところに隠されていったからではないでしょうか。

*5:引用者注。

2018-07-11 不倫マンガあと5つ紹介

不倫マンガあと5つ紹介


 「週刊プレイボーイ」(2018年6月18日号)で「不倫マンガ」を紹介したことは、Twitterでお知らせしたけど、そのときに他に5つほど作品を紹介したんだが、のらなかった。つうか、他の人とカブった(そして編集部の「不倫」の定義にも合わないものがあった)。

 そこであと5つほど不倫マンガをぼく流で紹介しておきたい。



 不倫マンガの楽しみ方はおおざっぱにいえば、ふた通り。

 一つ目は、「やったらダメ」っていうタブーを乗り越えて、それでもしちゃうという背徳感いっぱいのエロさを味わえる。同じタブーでも、近親相姦タブーとかよりはずっと身近でずっとリアル。黙っとけばわからないし。そのシチュエーションのリアルなエロさを楽しむ。

 二つ目は、それはあくまで妄想であって、実際にやっちゃったら、そしてバレちゃったら、夫婦が壊れ、家族が壊れ、人生が壊れたりするから、そういうホラーとして楽しむ。


こやまゆかり・草壁エリザ『ホリデイラブ 〜夫婦間恋愛』

ホリデイラブ 〜夫婦間恋愛〜 (1) いまあげた二つ目の方、「不倫の怖さ」の代表格は、こやまゆかり原作・草壁エリザ作画『ホリデイラブ 〜夫婦間恋愛』(講談社)

 ゼネコンに勤めている夫・純平(32歳)が、そこの派遣社員・里奈と不倫しちゃうという筋で、発覚してから派遣社員の女性のダンナ・井筒に純平が怒鳴り上げられ、罵られるシーンがもうね(下図)。心がささくれ立つっつうか。

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 「この腐りきった汚い男が!!」

というちょっと生真面目な、ストレートすぎる、いやもうちょっとひねろうよ……みたいな不自然なまっすぐさが井筒の酷薄さをよく表現している。


 不倫したら、その怒りの主要な部分がどこに向くか。パートナーに向くか、不倫相手に向くかっていうことだけど、井筒が印象的なのは、不倫相手の純平に向けられるからなんだよね。マンガではけっこう珍しい。

 不倫で壊れる家族のリアルにまで立ち入った、不倫マンガの巨峰・『スイート10』を描いた、こやまゆかりの原作だけあって、不倫がもたらす代償、家族がどう壊れていくかをえぐるように描いていくんだよね。

 えっ? そんなもの見たくない?

 うん。そういう人、少なくないと思うんだけど、他方でそのリアルさが見たいっていう人も多いんだよねえ。例えば「ホラーなんて見たくない」って常識的には思うけど、ああいうものを見たがるのと同じなわけ。


黒沢R『金魚妻』

金魚妻 (ヤングジャンプコミックスDIGITAL) 一つ目の方、不倫のエロさの代表格は、黒沢R『金魚妻』(集英社)だ。

 不倫は、そこで壊れる家庭や夫婦のことを考えなくて、刹那に楽しむことだけできればこんなドキドキするシチュエーションはない。そこだけを短編として見事に切り取る。

 1巻の中にある短編「見舞妻」で、息子の担任教師を車ではねちゃった元ヤン妻が、見舞いに通っているうちに、近くにきて欲しいとか、おっぱいを見せて欲しいとか、小さな要求を「どこまで許されるか?」みたいなゲームをやっているような感覚でお互いにやっているうちにセックスに至ってしまう、っていうだらしなさが、たまらんわ。

 そして何よりもこの作品はグラフィックの美しさ、エロさに魅了される。

 同じく1巻に載っている「弁当妻」は、自分の妻を後輩とセックスさせることで興奮するという、いわゆる「寝取られ(NTR)もの」だけど、この話の肝は何と言っても寝取られる方の妻のショートカットの「健全さ」だと思う。背徳感がいやます。


米代添『あげくの果てのカノン』

あげくの果てのカノン 1 (ビッグコミックス) ちょっと珍しい不倫マンガといえば、SFと不倫の設定をからめた、米代添『あげくの果てのカノン』(小学館)だろう。

 クラゲに似たエイリアンとたたかう特殊部隊の一員・境宗介は、妻帯者であるにもかかわらず、高校時代からストーカー気味に境を偏愛している主人公・高月かのんと密会するようになる。

 境はエイリアンと戦うたびに身体をひどく損傷するが、“修繕”と呼ばれる再生技術によって元に戻る。しかし“修繕”で身体が変化するたびに嗜好、つまり心も少しずつ変わっていってしまう。

 境の妻・初穂は、境に対して、“修繕”で心変わりが進むのは仕方ないよねと言いながら、「……だけどね、勘違いしないで? そんな一時の感情より、『結婚』の方がね、ずうっと重いの。わかってるわよね…?」と諭し、不倫の連絡道具である境のスマホを静かに味噌汁に浸けるのだった。

 境は、初穂のいうことを「正しい」としつつ、自分の気持ちを「誠実に」初穂に伝える。

「だけどもう…違うんだ。勝手なことを言っているのはわかってる。これがおかしいことも…君を傷つけることも……だから君の正しさにはこたえられない。」

 初穂はそれを聴きながら、「宗介の好きだったところ… 誠実に、真摯に考え、言葉を紡いで、真っすぐにそれを、語りかけてくれるところ…その彼が今、目の前にいる。」と絶望する。

 自分が好きだったはずの「誠実さ」という境の美点が、不倫を正当化する道具になっちゃっているのである。

 結婚とは「変わらない」ことであり、不倫とは「変化する」ことである。だが、「変わらない」ことがこの場合は「正しい」かもしれないが、「変わらない」ものなどない。だから、「変化する」ということ、つまり不倫こそが「自然」で「誠実」なものだ――あれ……? なんかおかしくねえか?

 おーい。初穂ー。もしもーし。「キミも好きだけど、あの娘を好きな気持ちもホンモノなんだよ!」って、よくある不倫の陳腐な言い訳だから! それ「誠実」でも「真摯」でもなんでもないから! 


NON『ハレ婚。』

ハレ婚。(1) (ヤングマガジンコミックス) 不倫の話は、バレてしまうスリルや裏切りの背徳のような暗さが必ずつきまとうんだけど、「本妻も愛人もみんなハッピー!」みたいな男の都合良さ全開の作品はないかな……と思っていたら、そうだ、あるじゃん、NON『ハレ婚。』(集英社)。

 とある自治体で一夫多妻のハーレムを認める条例ができたという設定で、一夫三妻のとんでもねー家族を描く。

 主人公の小春ははじめ夫の龍之介が嫌いなのに、お金のために結婚してしまい、本当に好きな感情が湧いてくるまでの数巻は話がちょっとドタバタしている。しかし、小春がいったん龍之介を好きになってからは、なんかすごく幸せな、いい家族みたいな話になってるんですけど!?

 描かれているのは小春と龍之介のセックスなんだけど、一夫多妻の下で全ての男女が最終的には嫉妬や排除をせずに、愛と理解のある関係の中で営まれているから、同じセックスを眺めていても、全然違う風景に見える。もうただのセックスじゃない。そこにあるのは、男の身勝手な欲望も全面肯定なのである。

 そしてやっぱり絵柄がきれいでいやらしい。

 いろいろ都合が良すぎるけど、エロいので許す。


板倉梓『間くんは選べない』

間くんは選べない : 1 (アクションコミックス) 不倫は基本的に既婚者でのことだけど、独身の人たちでのいわゆる「二股」も広い意味で不倫と言える。

 既婚者の不倫の「もう飽きてしまった配偶者vs新鮮な愛人」ではなく、独身者の二股は、「どちらを選んだらいいかわからないくらい迷っちゃう!」というジレンマの物語になる。板倉梓『間くんは選べない』(双葉社)はその典型。

 取引先の女性か、女子高生か。

 そんなもん選べって言われても…。二股をやってれば絶対に破局が訪れることはわかっている。だから選ばなくちゃ! って主人公の間くんはいつも思うのに選べない。選べないようにホントにうまく書いている。「うわー、こんなに自分を好いてくれる健気な女子高生、捨てられんやろ…」とか「いや、だからと言ってこんなにキレイな女と別れるわけにはいかん」とか読んでいるぼくらが迷いまくりになる。選べないのだ。

 そして、二股を正当化する主人公の理屈のすごさ。そのコと会ってる時は全力に、誠実に愛しているって…お前…いやいやこれこそ不倫・二股の代表的な言い訳。そのダメさがすごいと思う。

*1:こやまゆかり原作・草壁エリザ作画『ホリデイラブ 〜夫婦間恋愛』(講談社1巻、kindle版87/195)