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紙屋研究所


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2018-04-16 作ってみた☆ 『編プロ☆ガール』

川崎昌平『編プロ☆ガール』


編プロ☆ガール (ぶんか社コミックス) 『重版未定』のような話をもっと読みてぇ……と思っていたところに、本書『編プロガール』が出た! 

『重版未定』 - 紙屋研究所



 『重版未定』は弱小出版社の話だが、『編プロガール』は編集プロダクションの話である。

出版社の刊行物における編集業務を手伝うのが主な任務。(本書p.9)

 『重版未定』の主人公が『重版未定』の舞台、漂流社に勤める前に編集プロダクションの会社にいたときの話で、本作の主人公は『重版未定』の主人公の後輩の新人女性・瀬拍子束美である。

 「フィクション」と断りをしているが、『重版未定』の主人公=作者・川崎の一部分身であり、本作も川崎体験をベースにしている。


 『重版未定』の面白さを編集プロダクションでやっている、という感じで、まさに自分が望んだものだった。

 このテイストが痺れる。

 どうしても自分で書いてみたい。

 自分の体験ではないが、自分が聞き知った話を同じようなテイストで書けないか、ぼくも描いてしまった。カッとなってやった。後悔はしていない。

 オリジナルを見ずに描いた。

 むろん自慢ではない。そうすることで、自分の中でどこをこの川崎の作品の本質と捉えているのか、また、それがうまく再現できないことで、川崎のオリジナルの良さがどうやって保たれているのかもわかると思う。

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※1:質問骨子

議会質問を作る際、地方議員あるいは会派ごとに全く流儀が違う。個人個人が勝手に作って、最後に全体の了承をもらうだけ、というものもある。会派の了承をもらわないところさえある。この会派では、個人が起草するが、集団で練り上げていくスタイル。「質問骨子(しつもん・こっし)」というのは、その議会質問のロジックの大筋を書いたものであろう。もちろん「質問骨子」などという呼び方が世間一般共通しているものでもない。骨子で大筋を定めて、肉をつけていくのがここの会派の流儀のようである。


※2:質問3問

地方議会の質問は、市長などが出してくる議案を取り上げる「議案質疑」と、なんでも質問していい「一般質問」に大きく分かれる。本会議での一般質問は(1)演壇に質問者が立って、演説のような展開を述べて質問し、自治体当局が答弁する、というのを1回だけやるパターンの地方議会と、(2)この往復を3回繰り返す「3問3答」のパターンと、(3)短い質問と答弁を制限時間の範囲内で何回でも繰り返せるパターンとがある。この地方議会では「3問3答」なのだろう。1問目の質問が「この交差点での事故件数はどうなっているか」、市が「年間20件」ですと答えると、2問目が、他の交差点に比べて多いし、住民は「すごく心配だ」「早く信号をつけて欲しい」などと不安を述べ、アンケートでも8割が信号をつけてほしいと言っている、「住民のこの声をどう思うか」となる。市が「心配は聞いている。県警と連携し安全対策に万全を期します」と答えるので、3問目は「信号設置をすべきではないか」……という展開を丸めがねは考えたのであろう。


※3:県の予算

信号設置は県警の仕事。県が必要性を認め、県の予算で設置される。しかし、ここは市議会のようなので管轄外なのかというとそうでもない。市民の安全にかかわかることだし、信号設置で道路拡幅などが必要なら道路の拡幅は県道でもなければ市の予算で行う。よって、県と市は連携して信号設置について対処する場合が多い。丸めがねは「県の予算が乏しく、ここの箇所はなかなか実現しないのではないか」という趣旨のことを言っている。


※4:質問は本当に質問するのではない

そのテーマを取り上げるとき、議員は議場に到着したときには、すでにあらかじめの調査でそのテーマの全貌をおさえ、数字もつかんでおかねばならず、当日の議場の質問では、それを前提にして問題点を浮き彫りにしていくような論理の展開をしなければいけない。議会「質問」というので、「夏休みこども電話相談」のようにソボクに当局に質問する議員がいれば完全に当局の手のひらで転がされるだけであり、完全な敗北を意味する。ただの無能なアホ。もともと予算をたて、執行するのは行政当局であるから、議員はそれをチェックするしかないわけで、チェックの武器が質問である。質問によって事実上問題点を浮かび上がらせて要求することが求められる。当局は議場では「まいりました」とは言わないが、裁判と同じように明らかに問題が浮かび上がるかどうかが大事。


※5:住民のナマの声をぶつける意義

この会派の責任者と思しき議員が言っているのは、質問に難しい論理の展開がなくても、議員は住民の代表として住民の声を議会行政に届けることにあるのだから、行政が知らないような住民の声・実態を届けることが大事だという指摘。特に新人議員は、問題点を浮き彫りにするような考え抜かれた質問はできなくても、まず自分がつかんだ住民の声や実態を行政に伝えるという基本の質問はできる。その原点を言っている。しかし、行政も認識を改めるような「住民の声や実態」でなければやはり行政は動かないので、とにかく「住民の声」っぽいものを質問に散りばめればいい、というものではない。


※6:1問目がヌルい

行政当局の問題を明らかにせず、ぼんやりとした質問になっていること。このベテランっぽい女性議員は、事故件数を尋ねるだけでは3問しかない中で、勿体無いと思ったのだろう。数字を聞くことは、議事録に公式に残るので意味がないわけではないし、単に統計書や行政の報告に出ている範囲ではない数字を行政に特別に計算させて初めて明らかにすることは意味がある。それがインパクトのある数字なら、新聞などでも報道されやすい(例えば異様に事故件数が多いなど)。しかし、もう行政もよくわかっているしちょっと統計を見ればわかるような数字を聞く意味は乏しいと感じられたのであろう。


※7:市の認識を聞く

議会質問ではよく使う手。例えば信号機の設置の場合、予算不足などなんらかの都合で実現していないけども、市は今の信号機がない現状を「問題がある」と思っている……ということをあぶり出す。現状が法令違反である場合はもちろん、何らかのガイドラインに照らしてまずい場合などがそれに該当するし、わかりやすく問題を浮き上がらせるので、そういう基準を持ち出すことが多い。


※8:3問目とダブる

2問目に「信号をつけるべきではないか」あるいはそれに近い質問をしてしまうと、3問目も同じような質問になってしまい、答弁もかぶるし、もったいないということ。1〜2問目は行政の部長・局長が答弁に立ち、3問目だけ市長が立つ……というようなケースの地方議会もあるので、あえて2問目と3問目に同じ質問をすることもある。


※9:担当者に電話

相手の基本的な認識がわからないと質問は作れない。それもわからずに質問をするのは時間の無駄である。ここの会派は担当者に電話で聞く、という簡単な「ヒアリング」をしたようだ。


※10:武器がない

ここで「武器」と言っているのは、質問において当局の対応の問題を浮かび上がらせる有利な材料のこと。例えばもし信号機の設置が「事故件数◯件以上なら設置」という国のガイドラインがあったとしたら、それ以上の事故件数があれば「未設置はガイドライン違反」は武器として使える。他にも過去の当局の答弁と矛盾するとか、学者や有識者の意見を持ち出すとか、統計や住民アンケートを使うなどがある。つまり「大事だからお願いします」というような質問ではなく、相手も認めざるを得ないような根拠を質問に入れること。もちろん「武器」という言い方は普遍的なものではなく、この会派だけでしか通用しないのではないか。


※11:当局に台本

会派によっては「当たり前」になっている。自分の読む部分が黒、当局の答弁が赤……のような色分けをしているケースもある。当局に原稿を書いてもらうために、当の議員が質問中に漢字が議場で読めなくなり、立ち往生してしまうというアホな話もある。

http://d.hatena.ne.jp/kamiyakenkyujo/20150521/1432151288


 という具合に作ってみたが、まず絵柄として「答え合わせ」をしてみたら、頭身が小さくなってしまうんだよな。川崎のオリジナルは手が大きく、独特のゆるキャラみたいな感じ。ぼくが描いたものはどうしても頭が小さくなってしまう。


 あと、結局全体が会話シーンになってしまった。

 会話シーンになってもいいんだけど、川崎オリジナルの会議シーンは、『重版未定』でも『編プロガール』でも読ませる。なんで読ませるのかといえば、『重版未定』ではやっぱりセリフが効いてる。「ちょっと待ってください。冗談でしょう? こんな企画」という殴り込みの論争を吹っかけるバケツの言い草がいい。まさにハードボイルド。『編プロガール』は短く要点を切り取っている。ダラダラとしていない。特に誤植シーンは誤植自体が笑えるので、うちの小5の娘も真似しているほどだ。


 やっぱり、会話シーンの連続、という普通に単調になってしまう展開なのに、そこをぐいぐい読ませているというところに『重版未定』『編プロガール』のすごさはあるよな、と思う。それはつまり本質をつくセリフ、夾雑物を排除しズバリと見せる思い切りがある、ということなんだ。


 というわけで、プロのすごさを改めて知る。


 ライターに逃げられた時、川崎自身が新書の半分を書いたことがある……って、『重版未定』2のあのエピソード、おおよそ実話なんかーい!

2018-04-11 ビルトインされたポリコレ棒 『ゴールデンカムイ』をめぐって

ビルトインされたポリコレ棒 『ゴールデンカムイ』をめぐって

ゴールデンカムイ 1 (ヤングジャンプコミックスDIGITAL) これなんだけどね。

「ゴールデンカムイは少女が性的搾取されないから良い!」という持ち上げ方に疑問を感じる人たち - Togetter

 明治時代北海道で隠されたとされる金塊を争奪する物語、野田サトルのマンガ『ゴールデンカムイ』について。ヒロインのアシㇼパの「サービスシーン」「エッチ展開」がない=少女が性的搾取されないからよい、いやそんな理由で勧めるのはおかしい、的な論争。


 ある倫理基準がその人の中にしっかりとビルトインされている場合、ごくごく自然にその倫理基準に沿うかどうかで好悪を分けてしまうということは実によくあることである。そして、それは決して不自然な行為ではない。


 女性の人権をめぐって日々の生活の中でせめぎ合い・葛藤・闘争をしているようなセンシティブな毎日であれば、そのこと一つで作品に引っ掛かりを感じてしまう、あるいは作品全体がダメなふうに感じてしまう、というのはきわめて自然なことだ。


 別の言い方をすると、“本当は面白いと思っているんだけど「ポリコレ棒(政治的な正しさを基準にして物事価値判断し、攻撃すること)」が自分の外側にあってその外にある基準で作品を裁いちゃってる”わけではないのだ。その人たちは、ポリコレ棒は自分の感情や生活としっかりと一体化していて(こう言ってよければ)、作品を読んだ時の自然な感情として湧き出てくるのである。

 政治的なこと(女性の人権はその一つである)に毎日懊悩していなければ、あるいはポリコレ棒が自分の中にあまり一体化していなければ、ポリコレ棒で外から叩いているように見えてしまう。


 例えば、「いじめられるやつはそいつに絶対悪いところがある」というような描き方をされているマンガがもしあったとして、いくら他の要素がよくても、そこが障害になって、全然入り込めないという人はいるだろう。その人の中では「いじめ」ということがものすごく大きな負荷になっているのである。

 前に『ママ友のオキテ』を人に勧めたことがあったのだが、その人は読むのが本当にしんどそうだったな。同作はママ友間の憎悪的・同調圧力的な空気のルポとしてすぐれていると思うのだが、言い方を変えれば「『空気読めよ』と非難する側の論理で充満」したマンガであり、非常に「下品」なのである。その空気を「あるある!」と楽しめずに本気で苦しみ、闘っている人には、気分が悪くなるしかない作品だっただろう。すまないことをした。


 フェミニズムというのは、ぼく流の見解を言わせてもらえば、女性がふつうに尊厳を持って生きる上で、現在の男権社会は抑圧や攻撃に溢れているで、「ふつうに」生きようと思えばそれと闘わざるを得ず、そのような解放思想なのだと思っている。

 だとすれば、日常の中にある抑圧や攻撃に敏感に反応し、そのことが他のテーマ・話題よりも突出しているのは、当然だと言える。

 だから、「『ゴールデンカムイ』にある殺人とか暴力はスルーかよ」という指摘は、まあ客観的にみればそうなんだけど、日々女性性への抑圧を気にしている人からすればそこに反応が弱いのは「自然」だとも言える。

 「いじめ」にセンシティブになっている人に、それ以外の話題への反応が薄いではないかと非難してもあまり意味がないのと同じである。


 正直、ぼくなんかも、すぐマンガの中にある性的な要素に(*´Д`)ハァハァするタイプだし、むしろその(*´Д`)ハァハァしたことを表明し、どうして(*´Д`)ハァハァしたのかを書いてしまうので、そういう意味では、下記のツイートでいうところの「錆びついたアンテナ」と言われるほうなのだろうと思う。


 ぼくとしてはマンガについての感想を書く際には、(*´Д`)ハァハァしたという事実、それはなぜ(*´Д`)ハァハァしたのか? を書いて、共感も批判も受けるべきではないかと思う。


 また、ぼくはコミュニストなので、確かにある程度自分の中にポリコレがビルトインしているんだけど、いわゆる反動的な要素や筋があったとしても「読めない」ということはないし、マンガとして面白ければ面白がれるほうである。槇村さとるのマンガに強い「自己責任論」を見てしまうことがあるが、それはそれでヒリヒリしながら読むのである。『皇国の守護者』だって、任務の是非を問わずそれを墨守する軍人像を描いていて、リアルにこんなやつの配下には居たくないぜと思うが、作品としては十分楽しんでいる。

 いや自慢ではない。「それだけお前は真剣に政治闘争をやってないのだ」と左翼仲間から言われそうな気がする。たぶん本当にささくれだって自己責任論とか命令の無条件実行とかを嫌悪している人なら、読めないはずだから。ぼくの心は、呑気なのである。


アシㇼパがエロ展開にならないのはマンガとして安易でつまらないから

 ただ、『ゴールデンカムイ』についていえば、少女アシㇼパと、主人公の元軍人・杉元は安易な恋仲とかにはならないでほしい、といつもハラハラしながら見ている。また、アシㇼパには性的な要素は感じないし(このマンガ全体にそれを感じないし、期待もしていない)、むしろアシㇼパに性的「サービスシーン」をこなさせる展開になることを恐れている。

 それは「ありきたり」で「つまらない」と思うからだ。

 前に、たかぎ七彦『アンゴルモア 元寇合戦記』の感想を書いた時、輝日姫の描き方に苦言を呈したのだが、端的に言えばああいう安易さを恐れるからである。

2018-04-05 ふくよかな肉体に目がいく 『銃座のウルナ』1〜4

伊図透『銃座のウルナ』1〜4


銃座のウルナ 1 (ビームコミックス) 架空の戦役とその退役後を描く伊図透『銃座のウルナ』を今日4巻まで読んだ。

 本作はまだ結末を見ていない。ゆえに、作品全体をどうこう言うことは今の段階ではできない。


 だけど、結末がどうなろうとも、4巻までで、引き込まれるように読んだことは事実。

 この作品の何に目を留めたのか。

 正直に書けば、主人公・ウルナや戦友の女性たちの肉体、概して豊満なそれ、である。ウルナが縛られているシークエンスでも、縄からこぼれそうになっている乳房に目がいくし、交情が描かれるときのふくよかな肢体の質感に興奮する。


 人間は顎を引いたとき、ガリガリの人か、よほど若い人でなければ、「二重顎」のようなラインが入る。萌えを求めたりするようなマンガには当然そんなラインは入らない。そしてわざわざ入れない。*1


 本作では、律儀に顎に線が入ったり、入りそうになったりする(下図:伊図透『銃座のウルナ 4』KADOKAWA / エンターブレイン、KindleNo.109/238)。気になる。気になるというのは、ウルナが少しふくよかな女性なのだということが常に意識させられるということなのだ。もちろん他にも首や二の腕の太さが全体としてそういう印象を強く与えるのだが、顔まわり、顎は特に意識させられる。

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 戦場は暴力に満ちた現場であり、そこでの強姦や各種の性暴力は対象への圧倒的な支配欲の表れであると思うが、本作で描かれている戦場のセックスは、そういう性暴力的な支配欲とは違うような気がする。

 死ぬこと、殺されることとの絶対的な対比としての生命力の表現のようにして肉体の交わりが、これでもかというほど肉感的に描かれている。復員後の銃後社会でのセックスも同じである。死の影がつきまとうかつての戦場と対比されるように、描かれている。


 こうした描写が結局何を意味するのか、どんな効果なのかは、作品の結末を読んだ時でないと最終的には何もいえない。

 ただ、4巻までで、ぼくはそこに目をずっと注いでいるという事実だけがある。


 ぼくは戦争を描いているマンガなのかどうかということに一つは関心がある。

 「戦争の悲劇」が描いてあれば戦争マンガだとは思えない。戦争はあくまでモチーフであって、何かのドラマや娯楽を見せようというマンガもある。もちろん、それがいけないとか、そういうものは駄作だということでは全くない。それが戦争マンガに比べて上だとか下だとかいう話でもない。単にジャンルが違うというだけの話なのだ。(そういうことを拙著『マンガの「超」リアリズム』でも書いたので、興味ある人は読んでみてほしい。)


 別の言い方をすれば、現実の戦争を詳細に調べていくことの豊かさに、フィクションが勝てるのか、という問題意識がある。

 戦争そのものを描きたいなら、現実を精緻に調べ抜いてその事実をリアルに描くことで圧倒的な力が生まれる。貧相な虚構など要らないではないか、と。もちろん豊穣な虚構が薄っぺらい現実を乗り越えていくことも往往にしてある。

 他方で、戦争ではなく、あくまで戦争を「ダシにして」、例えば何か美しいものが描きたかったのか、あるいは、何か不思議なものが描きたかったのか――それならそれでいいのだが、本作は結局どちらの作品になるのか、今後の展開を待っていたい。

*1:うさくん『マコちゃん絵日記』でママの口元にほうれい線のようなものを入れるか入れないかで騒がれたことがあったなあ。

2018-03-31 美しいコマ 『金剛寺さんは面倒臭い』1

とよ田みのる『金剛寺さんは面倒臭い』1



 どうしても『ラブロマ』と比べてしまった。

 高校生の初々しい、しかし変なカップル、主に男子の側のエキセントリックさに焦点をあてて書かれた、とよ田の出世作。

 今から自分が15年も前に書いたレビューを読み直しながら、『金剛寺さんは面倒臭い』は、最初は『ラブロマ』の男女の攻守が逆転しただけなのかと思ったが、やはりそんなことはない。

 『ラブロマ』の時、ぼくはエキセントリックな男の子(星野くん)の側に立って、その心情を理解してくれる女子との邂逅の物語として読んでいた。「心は星野くん」であった。


 『金剛寺さんは面倒臭い』は、柔道が強く、成績は優秀、しかし、クールというか四角四面なまでに形式論理的で一本調子な女子高生が、樺山プリンという男子高校生(実は鬼なのだが)と出会い、恋をする物語である。

金剛寺さんは面倒臭い(1) (ゲッサン少年サンデーコミックス) 確かに、『金剛寺さんは面倒臭い』における女子・金剛寺さんはエキセントリックであるが、だからといって金剛寺さんに感情移入したり共感するわけではない。といって、それを見つめる樺山君の視点でもない。樺山君は、主人公の一人ですらない。彼は狂言回しにすぎない。


 そう、ぼくが見ていたいのは、金剛寺さん、ただ一人なのである。

 思えば、この表紙の絵、これは第1話のラストの大ゴマをそのまま持ってきているのだが、本当に正解だ。

 この絵に魅入られてしまったと言ってもよい。

 告白した男子であり今しがたそれを反転させて告白し返された男子=樺山君の視点を拝借して、金剛寺さんを見つめる。

 恋した相手にだけ現れる(そんなものは見たことはないが)光輪が散りばめられ、あのクールでロジカルで無表情なはずの女子が、いま相好を崩して

「私も、君が好きだ。」

とあの、とよ田独特の太い字でぼくにはっきりと応えてくれている。

 今しがた「樺山君の視点でもない」と言ったばかりなのに、樺山君の視点でこの非常に美しいコマを見ているとは? 一体? あえて言おうッ!! その瞬間だけ樺山君の視点をまさに「借りる」だけなのだッ!! それ以外、終始、ぼくは樺山君には共感もしないし感情移入もしない。しかしこの瞬間だけは樺山君の視点が、どうしても、なんとしても必要なのであり、その視点こそが、本巻で最も美しいコマなのであるッ!!

 彼の視点を借りて、その可愛い金剛寺さんを見つめ続けるのである。

 ぼくはこの作品で金剛寺さんばかりを見つめ続けている。

 その中でも白眉がこの第1話ラストの告白のコマなのである。なんとも美しい。

 こんな美しいシーンが人生にあったら、それだけで生きていけるんじゃないか?

2018-03-17 娘と何歳まで一緒に風呂に入るか

娘と何歳まで一緒に風呂に入るか



 親子混浴はいつまで許されるのか。

 異性の親子、特に父親と娘という関係では非常にデリケートな問題だ。

 すでにぼくの家ではこのテーマは過去の問題となっている。

 なっているので、書く。


 アメリカなどでは混浴自体が問題視され、別文化であるアジア移民系の父親が「性的虐待」とされたニュースも聞いたことがある。

中華系団体の調停員、李江華氏がこのほど、数年前に起きたある悲劇について紹介した。中新網が23日伝えた。その悲劇とは、10歳の少女が学校で教師から「お風呂は誰と入っているか?」と尋ねられ、素直に「パパ」と答えたために通報された中国人男性が、娘の養育権を剥奪されて逆上、ナイフを振り回して暴れたため、警察官に射殺されたというものだ。(2013年6月24日「新華網」)

 日本では自治体の条例で、公衆浴場における混浴の年齢制限をしている。例えば下記は福岡市の公衆浴場法施行条例である。

第5条 前条第1項に定めるもののほか、普通公衆浴場に関する措置の基準は、次のとおりとする。……

(4) 10歳以上の男女を混浴させないこと

http://www.city.fukuoka.lg.jp/d1w_reiki/reiki_honbun/q003RG00001215.html

 これはだいたいスタンダードな条文で、多くの自治体の条例では「10歳」は一つの区切りである。お父さんやお母さんと銭湯や温泉に行って子どもであることを理由に一緒に入れるのは、10歳までということだ。*1第二次性徴の始まりを意識した区分と言える。


 紙屋家ではどのような方針をとったか。

  • 「娘が『もうお父さんとは入らない』と宣言する」もしくは「自然に一緒に入らなくなる」までは、父親の側から「今日からやめよう」とは言わない。
  • 娘が小学校に入ったら、父親の側から「一緒に入ろう」とは言わない。*2

というものだった。

 以上の2箇条は、決して娘には言わず、不文律として自分に課す(そして家庭内ではつれあいにだけは言う)。つまり「自然に混浴が消滅する」ということを狙った。


 これは、娘が保育園のときに、保育園保護者会の役員会で一緒だった男性で、教員をしているWさんから聞いた話に影響を受けたからである。

父親の側から「もう一人で入りなさい」とか言わないほうがいいですよ。強い形で性を意識させてしまうことになる。自然に入らなくなるとか、娘さんが「もう一緒に入らない」って言うのを待つほうがいい。とにかく何歳であっても、娘さんが自然に違和感を持つようになるのを辛抱強く待つ方がいいです。

 非常に納得がいった。

 だから他のパパ友から「紙屋さんはいつまで娘さんといっしょに風呂に入るつもりですか?」と聞かれた時、上記のように答えていたが、「じゃあ、娘さんが言い出さなかったり、一緒に入ろうとし続けたらどうするんですか?」と追及されるので「その場合は……まあ、高3の夏までかな」などとトボけていた。

 確かにこの方針をとる以上混浴はずっと続いてしまう可能性はあるわけで、ぼくもやきもきしたものであるが、結局条例通り(笑)、10歳で自然消滅した。


 ぼくが、Wさんの方針に強く共感し、支持したのは、常々、「父親は性的な存在であるという側面を持っている」ということを、できるだけ自然な形で娘に知ってもらいたいと思っているからである。

 このために、性的な部分をまったく隠蔽すること、逆に性的な存在であることを不必要に強調することは、娘の性教育にとってまことに不健全であると考えていた。

 その原則からいえば、「今日からお父さんと一緒にお風呂に入るのは、やめなさい」と突然宣告するのは、父親が性的な存在であることを急激に娘に意識させ、また、性的な存在であることを「恥ずかしい」と思わせる意識を植え付けかねないという危惧があった。


 だから、家のマンガ棚には性的なコンテンツもある。

 『分校の人たち』が1巻と3巻、置いてある(笑)。

 別に山本直樹とか鬼束直とかだけじゃなくて、例えば西炯子のコミックにはセックスのシーンが描いてある。そういうものが置いてある。

 娘は父親であるぼくの知らないうちにそれを勝手に読んでいる。

 セックスそのものについて父娘の間で議論になることは、ほとんどない。

 しかし「ストライク・ウィッチーズ」のどのキャラが「好み」かを娘が聞いてきて、それにぼくが答える際に、父親がどのような「性的な好み」であるかを示すもの*3だということを薄々認識しながら娘はその答えを聞くことになる。実際なぜルッキーニが好きなのかとか、なぜミーナなのかと理由を聞かれるので、「もし顔だけの好みなら」とか「もし一緒に生活するパートナーなら」とかぼくが言うのである。

 そしてまあ、おおっぴらじゃないけど、つれあいとイチャイチャすることもあって、そのことを娘が全然知らないわけではないと思う。

 つまり、そこでは、ある程度の性的な歪みを伴った、しかし、生身の父親という身近にいる男性が、女性に性的な視線を注いでいる、または女性に欲望を向けている「性的な存在」であることが示されるのだ。

 娘にはその欲望は決して向けられていない、しかし、父親も性的な欲望を持っている存在、もしくは性的な存在であることを「自然に」知ってもらうのが、ぼくなりの性教育だと思っている。

 「自然に」というのがまた微妙で、「ナチュラルメイク」がナチュラルでもなんでもないように、「自然に」というのは無防備・無自覚的に伝えるのではなく、相当に意識的な「温度設定」をして伝えるということである。


 ぼくは小さい頃、兄の引き出しからエロ本が出てきたのを発見した時、1日眠れないくらいの打撃を受けた。また、両親がセックスをしているときの「喘ぎ声」を聞いた時、やはり同様の打撃を受けた。今まで1グラムも性的な側面があるとは思いもしなかった家族が実は性的な存在だったという突然の事実に、距離感が取れなくなってしまったのだ。もちろん、それゆえに「セックスなんてフケツだ!」みたいな反応をこじらせることはなかったわけで、子ども(人間)にはそこを乗り越えていく力があるとは思うのだが、乗り越えられずにいろいろと歪んでしまう場合も少なくない。*4

 


 性的なコンテンツとかポルノというのは(被写体の人権侵害の側面はいまは措くとして)、それを見る者に、そこに描かれている・映されている・写されている人間が性的な存在であることを一面的に強調する。人間の中にある豊かな側面・要素は捨象され、性的な喜びを感じ、それだけに左右されるかのような存在であるように描かれる。だから興奮するのだとも言える。

 そういうファンタジーだと思って、鑑賞するわけだ。

 「ファンタジーだ」というフェンスで囲って鑑賞するのであるから、そのファンタジーの中ではどんな想像も解放されうる。クジラックスとか月吉ヒロキのような、子どもへの性暴力という形で自分の中にある支配への志向や攻撃性を消費する作品さえも、そのフェンスの中では「楽しむ」ことができるだろう。(もちろん本人はフェンスで囲っているつもりでも、「女性とは性的な存在でしかない」「攻撃してもよい性的な存在である」というメッセージは、「ヒドゥン・カリキュラム」として作用し、知らないうちに自分のリアルな性意識をどこかで歪ませ、強化しているかもしれない。だからこそ、そのようなポルノへの批判はありうることだし、「リアルと虚構の区別くらいはついてますよ!」などとナイーブにポルノを楽しんですむものではないとは思うが。)


 ポルノそのものが性教育教材になりにくいのは、性的な存在であることの過度のデフォルメであるからだし、一面的な強調とそれによる歪みが現実の性意識の中にうっかり入り込みやすいからだ。

 人間は性的な存在であることをなんらかの形で伝えるべきだと思うが、それはポルノのような形ではない、ということである。

 しかし、父親がポルノ(ぼくの場合はエロマンガ)を「使って」、自分の性的な欲望と付き合っている存在であることは、娘には少しぐらい知っておいてほしいとさえ思っている。「こっそりと本棚の隅にエロマンガがある家庭という風景」は、性教育にとって一つの理想ではないか?


 要するに、娘には「人間は多様な側面があるけど、そのうちの一つが性的な存在だという側面だ」ということを「自然に」知ってもらいたいと思っていて、それがぼくなりの性教育だと思っている。「性的な存在でしかない」とか「性的な存在では全くない(性的な存在であることは恥である)」とかいう強調は間違っていると考えていて、特に子育てや教育の現場では、後者になりやすい。


 ぼくは以前の記事で、娘に性についての絵本を与えたことを書いた。

 必要最小限に「性において正しいこと、間違ったことは何か」を伝える程度のことはしなくてはならないが、それは性教育のほんの一要素でしかない。

 むしろ自分自身が生き方全体の中でどのように性的存在であるのか、または性的存在ではないのかを実地で示すことにこそ、性教育の広大なフィールドがある。*5

*1:現実に9歳の子どもが異性用の風呂にいたら相当違和感があるとは思うけど。

*2:娘が断りにくくなっている可能性もあるから。

*3:二次元だけどね。

*4:いや、もちろん、娘がぼくの本棚のエロマンガを手にとって衝撃を受けているかもしれないし、ぼくら夫婦がどこかでイチャイチャしているのを知って衝撃を受けているのかもしれない。ぼくが知らないだけで。

*5:この記事全体がヘテロセクシュアルを前提に書いているけど、それを同性愛について置き換えても同じである。