Hatena::ブログ(Diary)

紙屋研究所


※すべての記事は上の「記事一覧」で見られます。
※上の「日記」で検索すると当ブログ内の検索ができます。
※旧サイトはhttp://www1.odn.ne.jp/kamiya-taです。
コメント・トラックバックには普段は反応・返答しませんのでご了承ください。
※メールはcbl03270(at)pop06.odn.ne.jp  ←(at)を@に直してください。
※うまくメールが送れないときはこちらからどうぞ。
※お仕事の依頼や回答が必要なことなどはメールでお願いします。

2018-03-07 そんなに噛みつかなくても 『リトル・ピープルの時代』

宇野常寛『リトル・ピープルの時代』


リトル・ピープルの時代 宇野常寛『リトル・ピープルの時代』を読み返す機会があった。

 宇野は『ゼロ年代の想像力』でもそうだったけど、「大きな物語」が失効した、というストーリーにこだわるので、村上春樹が「壁と卵」の例えを持ち出して悪と正義に世界を截然と分けるようなやり方に我慢がならない。

 宇野は、この時代の問題が「グローバル資本主義」という認識までは至っているんだけど、そういうものはジョージ・オーウェルが『1984』でスターリニズム批判として持ち出した「ビッグ・ブラザー」のようにわかりやすい悪の姿をとっていなくて、人々の内側に紛れ込んでしまっている、村上春樹の『1Q84

に出てくる「リトル・ピープル」みたいなもんだ、というような話をする。そういう時代にふさわしい想像力が必要なんだぜ、というのだ。

 この本は3.11の後に出された本だけども、例えば「原発」という問題は、原発を推進するような巨大資本の問題としては把握せずに、そういうものを前提にしているぼくらの日常、それを許してしまっている「システム」の問題……という具合に問題を組み替えてしまう。


 確かに、現代資本主義の問題っていうのは、例えば「いじめ」とか「DV」とか「生きづらさ」とか、そういう形をとって現れる時、必ずしもそれはストレートに資本主義の問題としては登場しない。

 「働き方改革」の問題一つとったって、飽くなき搾取をめざす日本独占資本主義の問題さ! とコミュニストたるぼくがいくら言っても、職場で非効率なやり方に固執する上司や同僚の問題だと思っている人にはあんまり響かない。「日本独占資本主義」には問題は向かわず、「無数の正義」の一つである、「ダメ上司」「無理解同僚」に矛先が向いてしまう。

 これほど「わかりやすい」はずの問題でさえこうなのだ。

 つまり、現代資本主義というのは、それが問題として我々の前に現れる場合、本質は本質のまま現れず、複雑に、倒錯して現象する。

 もっとも、資本主義というのは昔からそういうものだとも言える。だからこそマルクスヘーゲルの方法を使って対象のイデオロギー(観念形態)を暴露して本質を示すという手法をとったのであるが。*1


 そういう意味で、問題意識の入口においては、決してぼくは宇野には反対しない。コミュニストであるぼくにも思い当たる節がある。


 だけど、そんなに「大きな物語」を頑なに拒み、「壁と卵」のような比喩に噛みつかなくてもいいんじゃないかとも思う。つまり「グローバル資本主義と対決する」というタイプの想像力リアリティを獲得する場合もあるし、3.11を「第二の敗戦」という捉え方をして、人間の共同(震災ボランティア反原発デモ、あるいは右派のデモでさえもそこに含まれうる)に新しい光をみる――そういう想像力が新しさを得る場合もあるじゃん、とぼくは言いたいのである。


 その辺りの問題意識を今度の「ユリイカ」誌での押切蓮介論で書いてみた。

*1:例えば労働者は労働の対価をもらっているんじゃなくて、労働力価値を受け取っているのだが、賃金を「労働の対価としての時給」というイデオロギーをまとってもらっている。

2018-01-17 大分大学経済論集で研究対象にされたぼくの2著

大分大学経済論集で研究対象にされたぼくの2著

 「しんぶん赤旗」(2018年1月16日付)を読んでいたとき、由比ヶ浜直子*1の次の文章が目に止まった。

発信されたものの多くがその場限りで流れ去っていくなか、時として何度も味わったり、眺めたり、手触りを確かめずにはいられない文章に出会うことがあります。心に響くものを書きたいという願いは、今や多くの人に共通するものではないでしょうか。(由比ヶ浜宮本百合子没後67年に 何倍も長く立体的に生きた人生」/「しんぶん赤旗2018年1月16日付)


 まったくその通りだと思った。

 自分の書いたものが人の心に響いたら書き手冥利につきるというものである。


 「大分大学経済論集第69巻第3・4合併号(2017.11)別刷」という冊子が小学館から送られてきた。

 ぼくの町内会についての2つの著作、『“町内会”は義務ですか?』(小学館新書)と『どこまでやるか、町内会』(ポプラ新書)を研究の対象として一文を書いた研究者がいたのである。

 研究者は高島拓哉。大分大学経済学部准教授で地域社会学が専攻である。

 「紙屋高雪の『町内会』2作から学ぶ ―アンペイドワークガバナンスの視点から―」というタイトルだった。「研究ノート」という付記があってよくわからないのだが、いわゆる「論文」ではなく、論文化する以前のノート、メモ・覚え書きのようなもの、ということになるのだろうか。


 実は、一度大分市でぼくは講演をしたことがあり、その際に高島が聞きにきてくれて、面識がある。書簡をやりとりしたこともある。ぼくが引っ越したせいで住所がわからなくなっていたためであろう、「論集」は出版社の方に届けられていた。


 家庭内のアンペイドワーク、いわゆる「無償労働」の議論というのは、女性の家事労働などでよく聞く話だが、高島は地域社会のアンペイドワークに関心を持っており、これまでにごみ出し・ごみ置き場の清掃などについて論じてきた。

 ぼくは『どこまでやるか、町内会』で1章を割いてこの問題を論じ、そこをヒントにして町内会が抱える問題、解決の糸口を論じているために、高島は特別の関心を寄せて本稿を書いたのだとしている。


 高島は、ぼくの立ち位置を、町内会の現状に批判的な外側の視点とともに、町内会自身の苦労や理屈を内面化させた視点も持っている立場として規定し、ともすれば「町内会必要論=現状肯定派」と「町内会不要論=現状全面否定派」に両極化しそうなこの問題を、止揚させうるというむねの指摘をしている。


アンペイドワークを半ば強制的に構成員に押し付ける社会装置であることをやめて、住民が楽しみながらできる範囲で参加する新しい町内会は、NPO主導のテーマ型コミュニティと対極にイメージされてきた従来型の町内会とは異なって、現代人にとって参加障壁が低く、担い手不足を解決し、組織の存続に前向きな展望が抱けるような、コミュニティガバナンスの革新的なモデルとなっている。(高島、p.21)

これまで全国にみられた町内会のありようを動かせないものと考える固定観念を排し、求められる役割を本当に果たすことができる組織にするために、そのありようを根本から見直すことが必要である。そのために、この「町内会」2作が最良の手引書となることは間違いない。(同前)

本2作は町内会肯定は、否定派、中立派、行政関係者など、どの立場の者も無視できない説得力を持っている。(同前)

町内会論にとって記念碑的な作品であると言っても過言ではない。(同前)

 本稿の前半には、高島自身が町内会についてどちらかといえば全否定的な見方をしていたことや、仮に改革する際にも親睦・交流的なものは副次的なものであり、安全・安心確保の活動のような活動こそ本質的であると考えていたことなどが、ぼくの2作を読んで考えが変わったことなどが記されている。


 高島が体験した町内会の現状で息を飲んだのは、高島の知り合いの高齢女性が、全身障害となった夫の交通事故対応で大変なときに町内会班長の役が回ってきて、なんとか順番を変わってくれないかと頼んだものの、結局押し付けられ、とうとう本人も入院するはめになってしまったという話だった。

(町内会)必要論・肯定派の人たちはよく、助け合いの組織だから、お互い様だと言っているが、この場合を見る限り、困っている人を助けるどころか崖から突き落とすような役割を演じてしまっている。(高島p.11)

 高島は自身の中にある町内会不要論の根っこにこうした強烈な体験があったことを本稿の中で告白している。

 ぼくもこのくだりを読んで「崖から突き落とす」という比喩が強く印象に残ってしまった。まさにその通りだなあと。


 高島は本稿で「自助・共助・公助」の序列論、「補完性の原理」について批判をしている。基本的にぼくが行なった「自助・共助・公助」論批判を肯定しつつ、それに補足をする展開になっている。

 その際、高島は「自助・共助・公助」の序列論について「実際におかれている混合的複合的形態から乖離した観念論」(高島p.18)「その責任や役割の序列を述べることはほとんど非現実的で無意味」(同p.19)としている。

 これは、現実はまったくその通りである。3者は混合された形で現実には存在している。

 しかし、ぼくは、あえて「公助」の責任、この部分だけは概念的にきちんと切り分けるべきであることをあえて強調しておきたい。すでにその趣旨は2著作の中でも書いているし、さいきまこ『助け合いたい』の批評の中でも表明してきたので繰り返さないが、町内会を熱心にやっている人、特に本来公的責任の後退には敏感なはずのサヨであっても、町内会に入って熱心にやればやるほどこの公的責任を肩代わりしてしまう熱心さに、いつの間にか取り憑かれているからである。



 それはともかく。

 自分の書いたものをここまで読み込んでもらい、しかも高く評価してくれたことに深く感謝したい。

 批評は作者でさえ気づかぬ、作品の価値をさまざまに照らし出してくれるという、その醍醐味を見た思いだ。

*1新日本婦人の会東京都本部副会長、多喜二・百合子研究会会員。

2018-01-06 「EX大衆」で『電影少女』論

「EX大衆」で『電影少女』論――『エロマンガ表現史』にもふれて


 双葉社から出ている雑誌「EX大衆」の2018年1月15日号に、桂正和『電影少女』について書きました。


電影少女 1 (ジャンプコミックスDIGITAL) 一つはグラフィックの点から。

 もともと編集の方からは、少女論としてのご依頼があったんですが、桂の場合はどうしても絵柄から魅力に迫るという点が外せないと思いました。

 年末年始に稀見理都『エロマンガ表現史』(太田出版)を読んでいたら、『電影少女』についての言及があって、稀見は「おっぱい表現」の歴史叙述の中でササキバラ・ゴウの『〈美少女〉の現在史』(集英社)を参照する形で次のように書いていました。

「エッチな肉体を持った、内面的キャラクター」において、その顔は美少女の内面を写した象徴としてマンガ的に描かれているのに対し、ボディは写実的で読者の肉体への欲望を象徴しているとし、両者の融合を試みた(稀見p.54)

 原稿でも書いたんですが、80年代末はすでに写実的なエロ劇画が衰退しているところに「ロリコン=美少女」ブームの流れでしたから、両者は矛盾する関係として存在していました。「ジャンプ」でいうと『シティーハンター』のような「お色気」と、『きまぐれオレンジロード』のような「美少女」が分裂していたわけです。

 その統一を果たそうとして技術開発が行われ、努力の結晶の一つが桂正和の『電影少女』なんですよね。

 ササキバラ・ゴウは両者の融合を「キメラ」的、つまりアンバランスなものとして規定していますし、稀見もこれを受け継いで『電影少女』という作画開発を「試行錯誤段階」(p.56)としているんですが、ぼくはそうは思いませんでした。これだ、って思ったわけです(笑)。

 平面的だった「ロリコン」*1系美少女が写実的で立体的な、質感のある肉体を持ったんだ、と。


エロマンガ表現史 稀見は『エロマンガ表現史』の後半で桂の乳首描写の描き直しへの執念について触れていますが、そこで

桂正和の真骨頂は、単に隠された表現を解禁させるということではなく、美しい表現をより美しく読者に届けたいというクリエイターとしてのこだわりであろう。(稀見p.316)

と述べているように、「美しい表現をより美しく読者に届けたいというクリエイターとしてのこだわり」に桂の「真骨頂」を見ています。

 ここはまったく同意。ぼくが『電影少女』を論じようと思ったさいに、まずグラフィックを、と思った点と重なるなと感じて読みました。


 稀見の本は脱稿後に読んだので、答え合わせをするみたいな感覚になりましたけど、原稿執筆の段階では、永山薫『エロマンガ・スタディーズ』で作画の潮流の整理などを参考にさせてもらいました。


 もう一つの論点は、編集の方からの依頼のあった少女論としてなんですが、夢とか才能の発見・肯定という点の新しさをそこに書きました。

 これはのちに、例えば河下水希『いちご100%』につながるような、オタク男子讃歌だと思いました。


 稀見は『エロマンガ表現史』でアダルトビデオ(AV)とエロマンガの相互作用についても随所で触れているんですが、稀見の記述のなかに、桂についてはそういう指摘は具体的にはありませんでした。

 ぼくは、1980年代後半から90年代前半にかけて隆盛となった宇宙企画=英知出版系の美少女と桂正和の親和性について触れました。宇宙企画=英知出版系の美少女は実体・内実・主体がない、いかにも80年代の空気をまとった形象だと思うんですが、そこに実体を与えたい、というのが桂の欲望だったのではないかと考えました。

 実体を与える、つまり魂=愛(あい)を埋め込むということです。

 作画として平面から質感を持ったリアルへの移行という意味でも、また物語として美少女に実体を与えるという意味でも、桂はこの作品のテーマにしたわけです。


 てなことを、この雑誌のテイストで語っていますので、よろしければお読みください。

*1:80年代的な意味でのそれ。「ロリコンマンガというジャンルも現在は主に、“中学生以下の女児を性の対象としたエロマンガ”という意味合いが強いが、八〇年当時『ロリコン』という言葉には、そこまで限定的なイメージはなく、純粋に美少女というかわいい、愛おしい、刹那的で可憐な存在を共有する仲間という意味合いが強かった」(稀見p.22)

2017-12-11 友情と恋愛と異文化 『このマンガがすごい!2018』『サトコとナダ』

『このマンガがすごい! 2018』『サトコとナダ』

このマンガがすごい! 2018 『このマンガがすごい! 2018』(宝島社)が届いた。

 今回もアンケートに協力した。

 150ページにぼくの回答が掲載されている(あと45ページの一部)。


 『このマンガがすごい! 2018』を読んで初めて知るマンガもあった。ユペチカ『サトコとナダ』(星海社、西森マリー監修)はその一つである。アメリカの大学に留学した日本の女性・サトコが、サウジアラビアからきた女性・ナダとルームシェアをする話。巻末に「フィクション」だと記されている。


 『このマンガがすごい! 2018』には『サトコとナダ』の作者のコメントがある。

『サトコとナダ』はイスラムの女性をテーマに描きたかったわけではなく、サトコがアメリカに行ったらルームメイトがたまたまナダで、そのナダがたまたまイスラム教徒で、サウジアラビア出身だということ。

サトコとナダ(1) (星海社コミックス) まあ作者の意図はそういうことなんだろうけど、やはり「イスラム教徒の現代女性って、どんな習慣なの? どんな言動をするの?」という異文化興味としてまずは読むわな。

 イスラム圏の女性といえば、被り物の印象が強い。特にサウジアラビアは「ニカブ」という目の周りだけ出すのがスタンダードだから、よけいに気持ちや実像がわからない。

 それが、本書でよくわかるのである。

 むろん、それは「サウジアラビアのナダ」のサンプルとしてに過ぎないのだろうけど。

 そのようなガイド、ルポとして、とりあえず知的興味を満たす。

 サウジの料理と日本の料理にやや飽きた二人が、アメリカ風のチキンスープがえらく美味しそうで、その後すぐぼく自身も作ってみた。いや、ただ野菜とチキンを切って、チキンブイヨンで煮込むだけだが。


 作者の「ルームメイトがたまたまナダで、そのナダがたまたまイスラム教徒で」という強調は、ルームメイトつまり友達っていうことが基本にあり、さらにいえば、友情ということがベースにあるので、おたがいのことをよく知りたいという気持ちがそのまま異文化交流になっている、ということ。


たった3分で友だちになれる! 魔法のマップ (齋藤孝の「ガツンと一発」スペシャル) 齋藤孝の子ども向けの本で『たった3分で友だちになれる! 魔法のマップ』(PHP)というのがある。

 そこで齋藤は、

「友だち」とは、好きなことの話を楽しくできる相手のこと

というクリアな定義を示して、

いいインタビュアーになろう

ということを行動基準として与えている。

 友だちになる、というのは、好きなことの話を楽しくできる相手なのだから、相手と自分が好きなことが重なることでまずカンタンにできるのであるが、重なるものがない場合でも、相手の好きなことを突っ込んで聞くうちに自分もそれを好きになってしまう、という副作用を期待しての行動基準である。


 齋藤は、自分がコイン集めが趣味だったが、全然興味もなかった友人が、いっしょにコイン屋に行ってからそいつもコインにハマりだしたというエピソードを紹介している。


 つまり、相手のことに興味を持つ。

 興味を持って関心を向けることが、相手の前向きなフィードバックを引き出して、「好きなことの話を楽しくできる相手」へと変えていくということだろう。


 友達である、つまりなんらかの好意を持って相手に関心を寄せることと、異文化に関心を持ってそれを知ろうとする態度は重なる。

 恋人や夫婦という「異文化」においても、それは同じ。

 「友情とは恋愛の一部である」という例のテーゼを活かせば、サトコとナダの友情は、恋愛にも似ているし、そのような気持ちが相手の異文化を知りたいと思わせていることをよく表した1冊だ。

2017-11-19 道徳と科学 『君たちはどう生きるか』

『君たちはどう生きるか』


漫画 君たちはどう生きるか 民主青年新聞(2017年 11月 20日付)に吉野源三郎『君たちはどう生きるか』のマンガ版(マンガ:羽賀翔一)についてのコメントを寄せました。

 戦前(1937年)に子どもに向けて書かれた本で、「コペル君」というあだ名の主人公が叔父さんとノートを使って交流しながら、いじめ、勇気、貧乏、偉人、社会とのつながりなど、自分にあった出来事の意味をいろいろ考えていくという筋書きです。


マンガ版の新鮮な感動と危うさ

 ぼくは、今から四半世紀も前になる学生時代にこの本を左翼仲間の先輩たちに勧められて読み、それっきりだったのですが、このマガジンハウスのマンガ版をきっかけに読み直し、「一体自分は学生時代に何を読んでいたのだ」と猛省し、新鮮な感動を覚える読書体験をしました。

 そして、あわせて、もう一度原作を読み直したのです。

 すると、マンガ版は原作と似てはいるし、必要な要素を揃えているのですが、強調ポイントが大きく違っていることに気づきました。

 しかも、原作の再読で比較して見ると、マンガ版が独特の危うさを持っているのではないかという危惧さえ覚えたのです。

 マンガ版で新鮮な感動をしたはずなのに、原作を読み直して、マンガ版の強調の仕方に危惧を覚える――実に奇妙な事態でした。

 もう一度ぼくは考えました。

 コペル君のように、自分の頭で。

 ぼくがマンガ版で新鮮な感動をした事実と、原作を再度読んで感じた危うさ、という二つの背反する事柄をきちんと考えたい。

 そして、そのことを短い(500字)という制約の中でコメントにしたい。

 その課題を果たすつもりで、民主青年新聞のコメントをしました。

 全体的には、マンガ版に高い評価を与えながら、その中に潜んでいる危うさを示しておこうと思ったのです。


 もうコメントは掲載された後だし、ここには500字という制約もありません。そこで、このブログで民主青年新聞のコメントをもう少し突っ込んでお話ししてみたいと思います。


「自分で考え、決断する」ことの強調

 この本は、どうしても「友人がいじめられていた時、自分ならどうするのか」という本として読みがちだと思います。

 もちろん、本書のクライマックスのエピソードでもあり、それを本書の魅力だと考えることは自由ですし、まずそこからお互いに話し始めることは、決して悪い入り口ではないでしょう。


 いじめは、子どもたちにとって、切実きわまるテーマです。

 教育学者の佐貫浩は、次のように書いています。

 競争に負け、尊厳を奪われても自己責任を問われるのが当たり前の社会の中で、子どもたちは自分のプライドや居場所をどう確保するか、命をかけるほどの苦闘を強いられています。

 生きていく上で最も重要なのは、自分の居場所があること。排除されるのは非常につらい。「いじめはいけないこと」というのは当然の規範ですが、実行すれば今度は自分がいじめの対象になる恐れがある。子どもが、集団の中で排除も攻撃もされずに生きようとすればそんな規範を実現できない状況があるのです。(佐貫/「しんぶん赤旗」2015年9月7日付)

 実行できない規範を前にして、規範を実行する「勇気」だけが問われることは苦闘を強いられる大問題です。

 マンガ版は、原作に比べると、自分が考えて自分が決める(そして実行する)という「自己判断」「自己決定」にとても重きが置かれています。「決断」と言ってもいいでしょう。

 コペル君は、親友がいじめられる苦境に、約束を破って何もできなかったことに苦しみます。先ほども述べたように、ここはこの作品のストーリー上のクライマックスです。このエピソードへの向き合い方は、この作品の主張の重要な要素をなすと言えましょう。

 原作では叔父さんはコペル君に対して、親友へすぐに手紙を出すようにアドバイスします。


 ところが、マンガ版での叔父さんは、「手紙を出す」という「答え」を言いません。自分で答えを出すことと、そのだした答えに対して、優柔不断に悩み続けることをどこかで断ち切って、決断=実行して、責任を取るように促すものに見えます。


 「自分で考えるんだ」というメッセージは、マンガ版により強く打ち出されています。

 例えばマンガ版では、いじめを受けている浦川君に対してどうすべきか相談をコペル君から受けた叔父さんは「そりゃあ コペル君 決まってるじゃないか」と思わせぶりに言いながら、ページを繰った大きなコマで「自分で考えるんだ」(p.70)とアドバイスするだけなのです。

 原作では、そもそもコペル君自身が、浦川君に対してこういう悩み方をしません。


君たちはどう生きるか 「自分で考え、自分で結論を出し、自分で行動し責任を取る」ということの強いメッセージ性は、マンガ版全体に強調されています。


 叔父さんが出した「答えのない質問」――「君は、毎日の生活に必要な品物ということから考えると、たしかに消費ばかりしていて、なに一つ生産していない。しかし、自分では気がつかないうちに、ほかの点では、ある大きなものを、日々生み出しているのだ。それは、いったい、なんだろう」(原作p.151)を出し、「コペル君。/僕は、わざとこの問題の答えをいわないでおくから、君は、自分で一つその答えを見つけて見たまえ」(同p.152)としています。

 原作にはその答えらしきものをコペル君が書いているのですが、マンガ版では問い(p.179)はあっても、答えらしきものがありません。自分で考えるようになっているのです。


 他にもなぜ主人公(本田潤一)が「コペル君」と言われるようになったのか、という点についても、原作とマンガ版では、強調点が違います。

 原作では、その理由は叔父さんのノートに書かれていることになっており、「自分から世界を見る」という、狭い自分中心のファインダーから解放し、「世界(自然)の中の自分」「社会の中の自分」「友人社会の中の自分」という、視点を逆転させること――すなわち天動説から地動説に変わったのと同じような「コペルニクス的転回」を遂げることをコペル君(つまり少年一般)が期待されている形象だからです。

 ところがマンガ版では、上記のことはラストにようやく解説がきます。

 最初のところでなぜコペル君と呼ばれるのかについては明確な説明がなく、コペル君自身がその理由を自分で解釈し

あのコペルニスクみたいに まわりの人に どれだけ間違っていると言われても 自分の考えを信じぬける立派な人間に 僕もなってみたいって……(マンガ版p.60)

と考えます。これは民主青年新聞の記事でも同様の解釈が引き継がれていて、「迫害されながらも自説を曲げなかった天文学者のコペルニクスのように立派な人間になってほしいという願いからです」と書かれています。

 史実の問題で言えば、コペルニクスの地動説は、生前あまりローマ教皇から異端視はされず、コペルニクスがそれで苦しんだという事実はありません。コペルニクスの学説がローマにとって有害視され始めたのは、彼の死後です。むしろコペルニクスは「宗教上の懸念もあって」(ブリタニカ国際大百科事典)、『天体の回転について』の全編刊行をためらいました。ゆえに、原作には、こうした「迫害と戦ったコペルニクス」観やそれにもとづく「コペル君」命名由来譚は見られません。


自分で考えたら、それでいいのか?

 自分で考えればそれでいいのでしょうか。

 自分の心の声に耳をすませたらそれでいいのでしょうか。


 先ほど紹介した教育学者の佐貫浩は「ヒドゥン(隠れた)・カリキュラム」を生徒たちが学んでしまう問題について指摘しています。

表現の自由や暴力禁止を強調する表のメッセージに対して、いじめの空間は、自己表現を抑えて同調すること、暴力が自分に向けられないためにはその暴力に加担することなどを、その場でサバイバルの戦略として選ばせるものとなっている。(佐貫『道徳性の教育をどう進めるか 道徳の「教科化」批判』新日本出版社、p.67)

 いわゆる、建前と本音、表と裏です。本音や裏のメッセージを規範として受け取り、学んでしまいます。本音や裏のメッセージには、ある種のリアルさがあります。そのリアルさを考えに考えて学び取って実行しまうことは、本当によくあることです。

 このような体験に対して、一般的・抽象的に「自分で考えろ」という命題は、無力です。「自分で考えて」本音・裏メッセージにたどり着いてしまうのですから。


 では、「いじめを見過ごすな」という建前の規範(徳目)を実行するよう命じればいいのでしょうか。それは、「自分で考える」ことにも反しますし、そもそもリアリズムに勝てません。実行されないでしょう。

 「徳目」という「正解」を選びとらせる「道徳の授業」のようなものの無力性は、佐貫が指摘するとおりです。

多くの文学作品が、道徳教材として短く切り取られて、その中に学ぶべき教訓や徳目があるものとして提示され、それを発見することが授業の課題とされるのである。生徒は敏感にその意図を見抜き、「正解」を読みとる。かくして内面的道徳性の形成をパスして、ただ表面的な「よい子」探しへと矮小化される。その結果、道徳教育は、見え透いた「建前」をいい当てるゲーム、教師の期待する「よい子」を演じる訓練の場、したがってまた本音にもとづいて発言し真剣に論争する表現の自由を抑圧すべき場へと堕してしまうのである。(佐貫前掲書、p.64)

「徳目」を守ったケースと「徳目」を無視したケースを提示して、どちらが良いのかを問うという稚拙な方法では、「正解」を言えばおしまいになり、それは自分の全存在をかけた姿勢の形成にはつながらないのである。(同前p.66)

 コペル君がそうであったように、いじめに見て見ぬ振りをした人間は、無条件に従ったのではなく、自分で考えに考え抜いて生存戦略を決定しています。「自分で考え・決断すること」と「規範の実行」との間がバラバラになっているのです。


君たちはどう生きるか (岩波文庫) 本書『君たちはどう生きるか』は、日中戦争(1937年)が起きた年に刊行されており、近衛内閣による「国民精神総動員」運動による「滅私奉公」が強調され始めた時代でした。

 その時に「立派な人間」になることをテーマとして書かれたものですが、吉野のめざした「立派な人間」とは、もちろん戦争の動員される「滅私奉公」の人間ではなく、「荒れ狂うファシズムのもとで、……ヒューマニズムの精神」(吉野、岩波文庫版「あとがき」p.312)を守る人間として企図されました。


 しかし、戦争に反対して抗議の声をあげること(規範の実行)がそもそもできるのでしょうか?

 あるいは「自分で考えて」、戦争に賛成した場合はどうなるのでしょうか? それは吉野(や吉野の本書をシリーズに加えた作家・山本有三)の企図するところだったのでしょうか?


 その問題に本書が応えていないとしたら、本書は無力であり、陳腐な道徳教科書に成り下がるしかありません。

 本書は、倫理の本、つまり道徳の本です。

 それは間違いありません。

 しかし、道徳の本であるなら、本書の評価はそのようなスリリングな試練の上に定められるべきものです。



道徳とは個人の徳目ではなく共同性の実現に関わるもの

 教育学者・佐貫浩は抽象的な徳目を抜き出して個人に押しつけたり、道徳を個人の心のありようだけに還元する態度を厳しく批判しつつ、本来の道徳性について次のような定義を与えます。

道徳性とは、何が自分の取るべき態度(正義)であるのかを、他者との根源的共同性の実現――共に生きるということ――という土台の上で、反省的に吟味をし続ける力量であるということができる。(同前)

道徳性の教育をどう進めるか 道徳の「教科化」批判 孤立した、抽象的な、無条件で守るべき徳目が道徳なのではなく、他者との共同性の実現がどうやってできるかをいつも考えられる力が道徳なのだと言います。

 しかし、佐貫は「『共同性』というのは相当厄介なものである」(佐貫前掲書p.189)とも言います。

 他の人と「いい関係」でやっていく、一体感を得る、ということだけが抽象的に提起されるのなら、例えばいじめというのは、一種の「共同性」だからです。みんなでスケープゴートをいじめることでつながる一体感であり、そこで抗議しないで空気を読むことが「何が自分の取るべき態度(正義)であるのかを、他者との共同性の実現」「共に生きること」になってしまうからです。

 佐貫は、民族の一体性・共同性をうたい文句にしてユダヤ人を迫害することも、ある種の「共同性」(の操作)だとします。

確かに同じ目的をもって協力し合うことは、価値あることであると考えられ、共同体の決定や支配的動向を批判することは反価値とされることが多い。しかし、共同体が誤りを犯そうとしているときに、その共同性を切り裂いて、抵抗し批判することが求められるときもある。(佐貫前掲書p.145)

 つまり、その共同性が偽りのものでないかを絶えず吟味し、偽りだと早々にわかってもそこから抜け出すにはどうしたらいいかをやはり吟味する必要があります。


人間は、徳目を、ただ道徳性のある人間として生きていることを証明するために実践するのではない。そうではなくて、自分の直面する課題を解決するために諸実践を行うのであり、そのときの実践の方法が、道徳性をもっているかどうかが吟味されるのである。すなわち、そこで実践されるべき徳目は、問題を解決する方法を吟味するということにおいて実践されるのである。ということは、問題がどこにあり、それを解決していくにはどういう方法を用いるのかという、まさに課題解決の方法を発見することこそが第一義的な課題となるのである。(佐貫前掲書p.146-147)

 マナーを守りましょう、とかルールを守りましょう、ということは、「マナーを守る良い人間」ということをひけらかすためでも「和を以て貴しとなす」ためでもありません。解決すべき問題があって、そのためにルールを守ることが必要だからルールを守る必要性が説かれるのです。

 「クラスみんなで無欠席!」というのは、クラスみんなで健康でいきましょう、ということが課題としてあるべきで、「クラスみんなで無欠席!」という標語と目標にしてしまえば、無欠席であることを強要する暗黙のルールに転化しやすく、課題解決の共同性のありようとして間違っています。


課題解決の方法を探る=科学の蓄積

 課題解決の方法を探る、その力の大もとはどこから来るのでしょうか?

 

そして人類は、そのための特別の方法として、科学や文化を発達させ、蓄積してきたのである。(佐貫前掲書p.153)

 ここで科学・文化と道徳が結びつきます(ここでいう「文化」は、問題解決のための蓄積であって、科学に近いものをさします)。

 道徳とは、問題解決のための共同がそれでいいかどうかを吟味し続ける力なのです! したがって、道徳の正しさは科学が前提となるのです。これはちょっとした驚きではありませんか? 


 話が少し抽象的になってきたので、具体的な例を出して考えます。


 例えば、ゴミ出し。

 数軒ごとにもうけられたゴミ集積所にルール通りにゴミを出す、そのために町内会に入り、お金を払い、月に1度の集積所の掃除をする――これがゴミ出しのマナーでありルールとして住民に示されます。町内会に入らずにゴミを出そうとする人は、マナー違反・ルール違反として批判されます。

 これが町内会をめぐり各地で起きてきたトラブルです。

 一見「道徳心の問題」として扱われるように思われます。

 しかし、廃棄物処理法第6条二で

市町村は、一般廃棄物処理計画に従つて、その区域内における一般廃棄物を生活環境の保全上支障が生じないうちに収集し、これを運搬し、及び処分…しなければならない。

http://elaws.e-gov.go.jp/search/elawsSearch/elaws_search/lsg0500/detail?lawId=345AC0000000137&openerCode=1

と定められているように、ゴミの収集は市町村=行政の責任です。

 町内会に入る・入らないで収集がなされないような制度設計をすることは、そもそもが間違っています。

 廃棄物の処理は、とうてい小共同体である町内会の手に負えるものではありません。少なくとも大量生産・大量消費・大量廃棄が前提にある社会では、廃棄物処理(収集を含む)は公的なサービスでなければ維持できないからです。

 さらに、戸別収集をする技術も可能であり、すでに実施している自治体がたくさんあることも、問題解決の大きなヒントとなるでしょう。

 このように「モラル破壊」「ルール・マナー違反」と思われている問題を社会科学として突き詰めていけば、問題解決は、社会の側を改造することによって得られます。個人のマナーの問題に解消して、その規範を内面化して、葛藤させて済む問題ではないことがわかります。


 「自分で考える」とは、共同体によってあらかじめ与えられた縛りを外して、科学に基づいて問題解決の道筋を考え、そのための共同を組み直すために必要なのです。


コペル君はどう問題を解決すべきだったのか

 『君たちはどう生きるか』で、コペル君は友達がいじめられたらその場でお互いに壁になる、という「約束」をするのですが、ぼくからすれば、こんなハードルの高い約束をそもそもすべきではなかったと思います。

 約束が間違っています。

 原作とマンガ版では上級生がいじめをする状況が少し違うのですが、原作にそってぼくなりに「問題解決」を提案すると、こうなります。

  • 上級生たちの「愛国心」のとらえ方は偏狭であり、いかに狭いかを学び、そこにそもそもの根本批判の視点を持つようにします。
  • 暴力に直面したときは、ただちに動ける者がその場を離脱し、大人(先生・親など)を連れて来るようにします。自分たちだけで暴力からの防衛をする必要はありません。また、上級生のバカな後輩いじめ解決のためにも、大人社会の全面的な関与が必要です。
  • 排除などのいじめを相対化するために、学校というコミュニティ以外にも別の居場所をつくったり、佐々木陽子『タイムスリップオタガール』などを読んで、後(大人になって)から見ればそういう排除自体がいかに卑小でくだらないことかを学ぶのも役に立つと思います。

 いまぼくは、3点から問題解決の視点を示しました。

 このような視点は、実は『君たちはどう生きるか』の中に含まれている視点なのです。

 その一番大きなものは、「自分から世界を見る」という、狭い自分中心のファインダーから解放し、「世界(自然)の中の自分」「社会の中の自分」「友人社会の中の自分」という、視点を逆転させることにあります。まさにコペル君の由来であるコペルニクス的転回をすることなのです。


科学的認識を道徳=人間の共同性と結びつける

 叔父さんのノートに出てくる世界と自分とのつながりという視点から、生産関係の話が登場します。コペル君の「発見」した「人間分子の網の目の法則」は、例えばマルクスの生産関係論として結実していました。

 つまり、社会科学的な視点を持つことを示唆しています。

 また、原作のオチでは、ガンダーラ美術の話が登場します。

 貧困と労働生産物の問題も登場します。

 また、ニュートンが万有引力を発見するときの想像力の問題も登場します。

 これらは、自分を中心にした目の前の事象は、目の前にあるものとしてだけでなくて、自然や社会の法則とつながっていることを示します。

 社会や自然によって人間が規定されている以上、その変革は、決して個人の心の有り様を変えればそれで万事OKというわけではなく、必ず社会や自然の変革と関わっているし、それを見抜く社会科学や自然科学の力が必要になってくるのです。

 つまり問題解決のために自然・社会・人文科学の力が前提になるのです。

 豆腐屋の浦川君の貧困は、浦川君の家の自己責任ではないし、浦川君への同情とか優しさだけでなんとかなる問題ではありません。貧困を生み出す社会を変える視点がなければ、その道徳性は完結しないのです。


タイムスリップオタガール(1) (ポラリスCOMICS) コペルニクス的転回は、自分中心の狭い視野を離れる、という点で、『タイムスリップオタガール』の視点に重なります。

 佐々木陽子のマンガ『タイムスリップオタガール』は、アラサーのフリーター女子でオタクの主人公が、中学生時代にタイムスリップしてしまう話です。しかし、あんなにも生きづらかった中学時代が、大人になった後で振り返ってみると、そのときやり過ごしてしまえさえすれば、あるいはそのための処方さえ身につけてしまえば、いかに「小さな」ことだったかを実感を持って描いています。自殺したくなるほどのコミュニケーションの牢獄と思われたその瞬間も、実は後から振り返れば大したことないんだよ、と励ましてもらえるマンガです。特に、まだ深刻でない小学生時代、独立独歩ができる高校時代と違って、そのどちらにも身を処せない、一番苦しい時期がやはり中学時代だろうと思います。


戦後直後と現代の違い

 佐貫は、戦後すぐに道徳教育について論じた勝田守一という教育学者の議論を紹介しています。

 勝田は、「人間の尊厳」「自主的判断」「科学的認識」の3つの要素を「道徳性を構成する最も中心的な内容と考えた」(佐貫p.54)のです。これはまさに『君たちはどう生きるか』に出てくる要素そのものです。

 しかも、勝田はそのうち「自主的判断」はそれがなければ道徳性そのものがなりたたないとして特別に強調しています。

 勝田は戦争の反省からこの指摘に行き着いたわけですが、そういう意味では、「自分で考えるんだ」という点を強調する、マンガ版の強調はこうした戦後の道徳性の議論の王道を行くものだと言えます。そして、そこに着目した民主青年新聞の記事も正鵠を射ていたと言えます。したがって、その点では、非常に正しい。


 ただ、「自分で考える」ということは、それだけが丸裸であると、逆に危険なものに転化してしまうことさえある、そういう意味でぼくは危うさをも覚えたのです。下手をすれば、自己責任論と結びついて、自分を苦しめるだけの道具になりかねないのです。コペル君は、社会の中の自分という視点に立ち返り、上級生たちの異常さをもっと広い視野から問うべきでしたし、守れないような約束を作り、それを破ってしまったことに悩むべきではないと思いました。

 文科省が最近作った『私たちの道徳』には、『宇宙兄弟』の南波六太の言葉が登場し「自分の内なる敵と戦え、困難の原因はお前のなかにある」という趣旨のセリフを名言扱いさせています。

 約束の妥当性を問わず、問題の根源にある上級生の歴史的役割を問わずに、約束を破った自分だけを責めるコペル君は、自己責任論で自分を責める人に似ていないでしょうか。

 もちろん、それは「危うさ」に過ぎず、こうした描き方をしたから直ちにマンガ版の価値が否定されるものでもありません。

 

 

 ぼくはこれまで述べてきたように、「科学的認識」の部分、つまり道徳性の基礎に科学の認識が必要であり、そのために、自分中心の視点を離れて社会の中の自分という視点を獲得することが、道徳性にとって大きな意義を持つという部分こそ、本書の重要な価値だと考えます

 そして、ぼくが、四半世紀ぶりに読んだ本書――それはまずマンガ版でしたが、それを手にしたとき、まず一番にぼくの中に飛び込んできたのは、「社会の中での自分」という視点を獲得するということの大事さでした。「自分で考える」などということは、むしろ当たり前のような気がして読み飛ばしてしまっていたのです。

 特に、そのことを気づかせてくれたのは、(マンガ版での)叔父さんのノートの部分をじっくり読むことによってでした。