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紙屋研究所


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2018-08-29 『分校の人たち』 「ユリイカ」での『レッド』論にも触れて

山本直樹『分校の人たち』 「ユリイカ」での『レッド』論にも触れて


ユリイカ 2018年9月臨時増刊号 総特集◎山本直樹 ―『BLUE』『ありがとう』『ビリーバーズ』『レッド』から『分校の人たち』まで― 「ユリイカ2018年9月臨時増刊号「総特集=山本直樹」で「猟奇からエロを経て人間的なものへ――『レッド』小論」を書いた。


 連合赤軍事件は、事件そのものとしてサブカル的な「面白さ」を持っている。

 だから『レッド』論ではなく連合赤軍事件論になってしまわないように、山本直樹の『レッド』という作品を評するように心がけた。


 とはいえ、『レッド』は当事者の記録に山本なりに忠実に描いた、いわゆるノンフィクションであるから、その「面白さ」は、連合赤軍事件そのものがもっている現実の豊かさに根拠がある。だから連合赤軍事件そのものが持っているサブカル的な興味としての「面白さ」を排除することはできず、むしろある部面ではそこを積極的に論じる必要があった。

 しかし、やはり『レッド』の中でのその「面白さ」の表現は、山本がこの事件のどこを切り取ってセレクトし、どのようにグラフィックにしたかということに依存している。

 だから作品としての「面白さ」と事件としての「面白さ」が、切り分け難く、糾える縄のごとく現れる。

 そのあたりを苦労しながら、しかし自分なりに描き出してみたつもりでいる。無理に『レッド』論にもしないし、かといって無理に連合赤軍論にもしない。作品を読んだ時に感じる『レッド』の「面白さ」、そのような「自分の感想」という特殊性・個別性の中にある普遍性を浮かび上がらせる作業をした。

 機会があればお読みいただきたい。


 「ユリイカ」で永山薫らが書いているが、森山塔として登場した山本の鮮烈さの記憶・位置付けは、ぼくの中にはまったくない。時代がもっと後だからである。ぼくが最初に山本直樹を読んだのは、「スピリッツ」で連載されていた「あさってDANCE」だった。そして『YOUNG&FINE』である。

山本直樹『YOUNG&FINE』 - 紙屋研究所

 永山たちの世代エロマンガをこれでもかと読んでいる人たちとは別に、なぜぼく自身が山本の作品をエロいと思っていたのか、あるいは山本のエロさ(例えば『ビリーバーズ』や『フラグメンツ』のいくつかのシーンなど)をいつまでも記憶しているのかは、自分の中での謎であった。上記の『YOUNG&FINE』についての感想はそれを自分なりに解き明かそうとする一つの試みであった。


 最近描かれた『分校の人たち』はフラットに他のエロマンガと比べても、(少なくともぼくにとって)相当にエロいな、と思う。

 中学生と思しき(明示されていない)男女3人(女ドバシ、男ヨシダ、転校生の女コバヤシ)が、好奇心で裸で抱き合ったり性器を触りあっているうちに、ペッティングやセックスに及んでいき、やがてのべつまくなしセックスをしているという身もふたもない話だ。

 東京都青少年健全育成条例の規制に挑戦するかのように、未成年(と思しき男女)の性行為の描写が、そして「汁」=体液のほとばしりが、ページの割合分量も気にせずえんえんと描かれている。あるいは、『レッド』でほとんど封じたエロ(山本によれば『レッド』はエロからの「出向」でありエロを禁じられた「下獄」である)を解き放つかのように念入りに描写している。

 反権力的で挑発的だからエロい、と感じたのでは全然ない(それはそれで別の立派さではある)。

 純粋にエロい。オカズとしてエロいのである。

 「ユリイカ」で多くの論者が述べているように、山本直樹が当事者に没入しない距離を保ち、クールに、突き放したように眺める視線が、『分校の人たち』でも十二分に生かされている。

 『YOUNG&FINE』でも『BLUE』でも『ビリーバーズ』でもエロの描写は物語の中のごく一部である。しかし『分校の人たち』では、服を脱がして、性器や乳首に触り快楽を得るまでの描写が細々と分解されて本当にずっと続く。

 ドバシは興味のないふりをしながら、あるいは小さく怒りながら、溺れこんでいく。コバヤシは積極的に性に関心を向けてまるで自然の観察でもするかのようにハマっていく。二人の少女の視線がまさに「クールに、突き放したよう」であるくせに、少女自身は恋愛的な感情を一切持たず、快楽のためだけにそこに没入していく。作者・山本はそれをもう一段外から「クールに、突き放したように」眺めている。

 ヨシダには恋愛的な感情が見られない。どちらかといえば性欲に突き動かされている少年である。そして、一見主体性ありげに二人の少女の体を求めるけども、それはどちらにも拒絶されないという十分に安心な環境のもとで見せる能動性にすぎない。80年代的な、男性主体である。

森山塔は情熱的ではない。少なくとも情熱をむき出しに迫るようなことは描かない。森山塔のセックス描写即物的で、まるで生物学者が、とある生物の生殖行為を冷静に観察しているようにすら見える。(永山薫「身も蓋もなくエロス」/「ユリイカ」前掲p.38)

山本直樹の『分校の人たち』を読んだ時、「ああ、森山塔が帰ってきた」と感じた。……そこにあるのは性器というより泌尿器であり、即物的に反応する敏感な粘膜である。(永山前掲p.40-41)


 「少年と少女が遊んだりふざけあっているうちに、性を知り、そこにハマってしまう」というのはエロの中でもよくあるシチュだし、ぼくも好きな設定である。

 このシチュエーションが最大限に生かされるように、山本の淡々とした、突き放した視線が少女二人のキャラ設定を生み、没主体的な男性主体を生み、そして生物観察のような細かく長いエロ描写を生み出した。

 「よくある設定」だけど、それが山本の視線によって徹底的に・最大限に強化されているのである。

 他のエロマンガが、(今回の「ユリイカ」の特集でも言及されているが)性交時の擬音のうるさいほどの記述や、ページの制約で(比較的)あっさり絶頂に至ってしまうのに比べてなんという贅沢なつくりであろうか。

 「そうそう、こういうものを読みたかった」と読みながら思った。

2018-08-09 『はだしのゲン』は核均衡論の味方か

『はだしのゲン』は核均衡論の味方か


 マンガ評論家である呉智英氏が「週刊ポスト」(2018年8月14・27日号)のインタビューでぼくの近著『マンガの「超」リアリズム』(花伝社)にふれ、ぼくについて言及してくれています。

 ……実は核アレルギーに代表される感情的反核論の世界的広がりこそが核均衡論の基礎に必要なのである。『ゲン』がその重要な一翼を担っている。

 そう書いたのだが、共産党系のマンガ評論家紙屋高雪は、四月に出た『マンガの「超」リアリズム』で、「『ゲン』を高く評価するはずの呉は、驚くべきことに」「核均衡論を肯定的に紹介」と批判する。この批判の初出誌は民主教育研究所の「人間と教育」である。

 いや、まあ、なんと言おうか。この人たちは、ねぇ。

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180806-00000020-pseven-soci&p=2

マンガの「超」リアリズム これだけ読んでも分かりにくいかもしれません。

 朝日新聞が最近核抑止力論を特集し、核抑止力が平和を生み出してきたという「真実」を事実上、「良識派」たる朝日新聞がついに語り始めたと呉氏は喜んでいるのです。

 そして、呉氏が1996年に書いた『はだしのゲン』解説で、『はだしのゲン』が核抑止力論のバリエーションである核均衡論のベースになっているという主張が今にして思えば勇気のいるものだったと述懐します。

 この文脈の中で、呉氏が「共産党系」だと指摘する紙屋なる評論家が、最近の著作でもこの呉の認識に憤っているのですよ、と皮肉を言っているのです。ぼくが「共産党系」と規定され、ぼくの文章が「人間と教育」という雑誌であることを示すことで、ぼくの言説が旧式の「進歩的知識人」というか「既成左翼」の一環であることをほのめかしているわけですね。


 ぼくの考えを述べる前に、まず率直に呉氏にはお礼と感謝を述べておきます。

 他に適当な例がなかったせいもあるでしょうが、呉氏のような「大家」がぼくのような場末のブロガーの意見をわざわざとりあげて紹介してくれたことに、まず感謝したいのです。皮肉でもなく、本気で。ありがとうございます。

 さて、その上で、こっから先は、別に攻撃するためじゃなくていつもの通り、ニュートラルな意味合いで呉氏を呼び捨てしたいと思います。(これをことわっておかないと、「こいつ、呼び捨てにしている! どんだけ無作法なやつだ」と本気で思う人がいるのです。さすがに呉氏はわかってくれるでしょうが。)


「ぼくはこの呉の評価に近い」

はだしのゲン 1 最初に言っておきますと、ぼくはこの本の中で呉の『はだしのゲン』評を全体的には高く評価しているんですね。

 ぼくが『ゲン』について書いたのは、「『気持ち悪い』『グロイ』という『はだしのゲン』の読みの強さ」という章です。子どもたちの中で『ゲン』を読んだ人は多いんですが、彼らの感想に「気持ち悪い」「グロイ」というのがけっこうあります。それは悪いことじゃなくて、実は作者の中沢啓治が強く望んだ読まれ方であって、「気持ち悪い」「グロイ」ことが原爆被害の本質であり、そういう露悪的とも言えるリアリズムこそが強いんだとぼくは思ったんです。

 しかし、戦後民主主義は、戦争は「聖戦」ではなくむごい侵略戦争であったという露悪のリアリズムを発揮していた戦後直後は生々しかったんですが、次第に「平和」や「民主主義」というタテマエから現実を裁断するようになって形骸化が生じるようになります。

 呉は60年代後半以降の戦後民主主義批判の潮流の中に出現して、その流れから『ゲン』を戦後民主主義的なタテマエで評価するむきに痛撃な批判を加えたのです。

 呉は『ゲン』を「平和を希求する希求する良識善導マンガ」として評価することを強く批判し、『ゲン』は民衆の中にあった怨念、原初的な家族愛を描いた民話(フォークロア)として評価します。

ぼくはこの呉の評価に近い。その素朴な怨念や原初的感情が、意図せざる露悪のリアリズムとなって、戦争の本質を衝くのである。(拙著p.56)

 てな具合です。

 もともとぼくの文章は、そういう呉評価の文章であることをわかってほしいのです。


呉のポジショントーク

 その上で、ぼくは呉への批判も書いているんですね。

 その批判の箇所こそが、呉がとりあげて皮肉を書いている部分なのです。

 呉は「『ゲン』は反戦反核を訴えたマンガである」(政治思想の道具としての作品)という読み方に反対し、反戦反核という思想が本当に正しいのか、という問いを立て、その中で反戦反核の対極にあると考えられる「核兵器の恐怖の均衡が戦後の平和をもたらした」という核均衡論を肯定的に紹介します。


 だけど、誰がどう読んでも「『ゲン』は反戦反核を訴えたマンガ」だと思うんですよ。それが「平和」とか「民主主義」とかいうタテマエからじゃなくて、原初的な感情や怨念から強いほとばしりとなって表現されているので、立場をこえて心を打つわけです。別に「反戦反核」に同意していない人であっても、面白がれるんです。

 そういう意味では原初的な感情や怨念反戦反核は、中沢啓治において癒着しているんですね。離れがたい。

 そこを呉が無理に引き剥がそうとするので、呉の言説のその部分はかなり見劣りするなと書いたわけです。

 はっきり言えば呉のポジショントークです。

 戦後民主主義的良識を反発的・機械的批判しようとするあまり、無理筋な立論をやっちゃっているのです。

 もう詳しく見てみましょう。


 呉は今回のインタビューでこう言っています。

『ゲン』の中に一貫して流れる原爆への原初的恐怖と怒りこそこの作品の大きな価値であり、また、これは核均衡論の重要な基盤でもある、と。もし、核兵器の威力が大したものでないと誤解されていたら、すぐに核の撃ち合いが始まるからだ。……だとすれば、実はアレルギーに代表される感情的反核論の世界的広がりこそが核均衡論の基礎に必要なのである。『ゲン』がその重要な一翼を担っている。(強調は引用者)

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180806-00000020-pseven-soci&p=2

 もとの中公文庫の解説では、『ゲン』と核均衡論を直接に結びつけずに、「核はいやだ、理屈抜きに原爆はいやだ、という観念的な平和主義や核アレルギーが実は核均衡論を支えているのである」(呉「不条理な運命に抗して」*1)というふうに「核均衡論の根底には、核への恐怖がある」という一般論を述べていました。

 ところが、今回のインタビューでは呉はふみこんで、「核アレルギーに代表される感情的反核論の世界的広がりこそが核均衡論の基礎に必要なのである。『ゲン』がその重要な一翼を担っている」とまで書いています。『ゲン』が広がったからこそ、原初的恐怖が煽られ、核均衡論の基礎がつくられた……というふうに具体的な因果として読めます。


史実的につじつまがあわない

 第一に、これはそもそも史実的に無理があると思うのです。

 核均衡論は核抑止力論の一変種ですが、呉も書いているとおり、中でも米ソの核均衡に着目した考え方です。ソ連が崩壊するのが1992年で、『ゲン』が翻訳されて国際的に広がって言ったのは2000年代からですから*2、「感情的反核論の世界的広がり」を基礎として「核均衡論」があり、その「重要な一翼」を『ゲン』が「担っている」というのは明らかに言い過ぎです。

 そして、『ゲン』が国際的に広げられていった2000年代を契機に、むしろ「核兵器の非人道性」を強調する国際世論が強まり、2013年には「核兵器の人道的影響に関する国際会議」が開かれ、ついには核兵器禁止条約へと結実しました。

 因果関係がどれくらいあるかは別にして、歴史的に起きている流れは逆ですよね。『ゲン』が国際的に広まっていない間は、核均衡論が強く、『ゲン』の国際的受容とともに廃絶論が勢いを増した、っていうことですから。


「原初的恐怖」ではなく理屈上の恐怖

 第二に、先ほどのコロラリーでもありますが、米ソの世論においては、「原初的恐怖」ではなく「理屈上の恐怖」がゲームとしての核均衡論を支えた、と考えた方が理解しやすいんじゃないでしょうか。

 「原初的恐怖」というほどの恐怖を体験した人は、常識的に考えて、見るのも触るのも嫌なはずで、自国が「核均衡」というようなゲームの道具に使う政治を支えるでしょうか、と思います。

 例えば性暴力を「原初的恐怖」で受けた人は、性暴力を利用する手法に賛成するでしょうか。なるほど、性暴力の「原初的恐怖」を脅しに使うことで相手を支配する(抑止する)ことはできると思いますが、「核均衡」は自国の政府がその手法を使うことへの支持が含まれていますから、それは支持されないと考えるのが常識的な理屈の流れじゃないですかね。

 むしろ「原初的恐怖」ではなく、理屈の上での「恐怖」から編み出されたものがゲームとしての「核均衡」であるように思われます。

 アメリカなどで被爆者が広く講演をしたりしてその実相を明らかにするのは、戦後もかなりたってからです。「原初的恐怖」を民族的・個別的な体験として持たないアメリカなどで、それを経験し子孫が日常的に教育されている日本とは核被害についての認識に大きな落差があったのは当然です。拙著『マンガの「超」リアリズム』でも「クリーンな言語」で戦争を「ゲーム」のように語るアメリカシンクタンクの人たちの話(竹田茂夫の『ゲーム理論を読みとく』の冒頭)を紹介していますが、極端に言えばああいう感覚ですよね。ゲームにおける行動の動機となるような、理屈の上での「恐怖」。



日本の戦後の特殊性をうまく説明できない

 第三に、呉の議論では、核被害と戦争被害を味わった日本国民*3が「あんな怖い思いは二度と嫌だから強力な軍備を持とう」「核武装をしよう」という意識・選択にならなかった歴史をうまく説明できません。戦後の日本は、憲法9条を変えず、核兵器廃絶を曲がりなりにも民族的要求として掲げてきたわけですから。*4

 呉が好んで使っている「核アレルギー」という言葉は、米国高官がこのような日本世論の特殊性に呆れ果てて使った言葉がきっかけだとされています。

この言葉〔核アレルギー*5〕が使われるようになった契機は、一九六四年夏に起こったアメリカ原子力潜水艦シードラゴン号の佐世保寄港受け入れ問題であった。寄港反対運動が起きるという予測が強まるなか、日本の世論の反応を楽観しているというアメリカ国務省高官の声が報じられた。新聞記事は「米側をもっと信頼してもらいたい、ということ、それに時間をかければ日本の『核兵器アレルギー』はおさまるだろうということがあるようだ」と推測していた(『朝日新聞』夕刊、一九六四年八月二九日)。(山本昭宏『核と日本人』p.100-101)

 この経緯を調べた山本昭宏は、「アメリカ日本政府核戦略に沿わない世論が目立つときに『日本人の核アレルギー』という言葉がアメリカ高官や日本の政治家の口から発せられる傾向にあったのである」(山本前掲書、p.102)と述べています。


 歴史の歩みで見てみると、『ゲン』のような核被害の「原初的恐怖」があまり知られておらずブッキッシュな一般論として核の「威力」が考えられていた国際環境では核均衡論が勢いがあったけど、『ゲン』をはじめ被爆者の証言などで「原初的恐怖」が広く国際的に知られる中で核均衡論や抑止力論にかわり核兵器廃絶の潮流が大きく育ってきた、ということになります。

 そして、核への「原初的恐怖」を民族的体験として持っていた日本だけは、はじめから日米支配層がいうところの「核アレルギー」と言われるほどの拒絶感を持っていたというのが歴史の現実じゃないでしょうか。


 核均衡論や核抑止力論が「現実的政策」かどうかを今ぼくは問題にはしていません。『ゲン』がその「重要な一翼を担った」マンガだったなどという横車を押すのは、やりすぎだということです。

 『マンガの「超」リアリズム』でも書いた通り、戦後民主主義形骸化した部分への批判者として、呉には歴史的な役割が確かにありました。しかし、その身振りが石化してしまい、逆の硬直を生んでしまっているんじゃないかと思います。

*1中沢啓治はだしのゲン中公文庫7巻所収。

*2:1970年代後半にごく限られた翻訳はあります。

*3:もちろん日本は侵略戦争や植民地支配の加害をしてきたのですが、日本人の多くに「戦争は嫌だ」「核兵器は嫌だ」という意識が広がった現実について述べています。

*4米軍の駐留を容認し、米国核の傘にいたではないか、という反論はあり得ますが、米軍沖縄へ集中され、核兵器の持ち込みの現実は「核密約」にされ、いわば日本人多数が日常的に意識しないところに隠されていったからではないでしょうか。

*5引用者注

2018-07-11 不倫マンガあと5つ紹介

不倫マンガあと5つ紹介


 「週刊プレイボーイ」(2018年6月18日号)で「不倫マンガ」を紹介したことは、Twitterでお知らせしたけど、そのときに他に5つほど作品を紹介したんだが、のらなかった。つうか、他の人とカブった(そして編集部の「不倫」の定義にも合わないものがあった)。

 そこであと5つほど不倫マンガをぼく流で紹介しておきたい。



 不倫マンガの楽しみ方はおおざっぱにいえば、ふた通り。

 一つ目は、「やったらダメ」っていうタブーを乗り越えて、それでもしちゃうという背徳感いっぱいのエロさを味わえる。同じタブーでも、近親相姦タブーとかよりはずっと身近でずっとリアル。黙っとけばわからないし。そのシチュエーションのリアルなエロさを楽しむ。

 二つ目は、それはあくまで妄想であって、実際にやっちゃったら、そしてバレちゃったら、夫婦が壊れ、家族が壊れ、人生が壊れたりするから、そういうホラーとして楽しむ。


こやまゆかり・草壁エリザ『ホリデイラブ 〜夫婦間恋愛』

ホリデイラブ 〜夫婦間恋愛〜 (1) いまあげた二つ目の方、「不倫の怖さ」の代表格は、こやまゆかり原作・草壁エリザ作画『ホリデイラブ 〜夫婦間恋愛』(講談社)

 ゼネコンに勤めている夫・純平(32歳)が、そこの派遣社員・里奈と不倫しちゃうという筋で、発覚してから派遣社員の女性のダンナ・井筒に純平が怒鳴り上げられ、罵られるシーンがもうね(下図)。心がささくれ立つっつうか。

f:id:kamiyakenkyujo:20180711223221p:image*1


 「この腐りきった汚い男が!!」

というちょっと生真面目な、ストレートすぎる、いやもうちょっとひねろうよ……みたいな不自然なまっすぐさが井筒の酷薄さをよく表現している。


 不倫したら、その怒りの主要な部分がどこに向くか。パートナーに向くか、不倫相手に向くかっていうことだけど、井筒が印象的なのは、不倫相手の純平に向けられるからなんだよね。マンガではけっこう珍しい。

 不倫で壊れる家族のリアルにまで立ち入った、不倫マンガの巨峰・『スイート10』を描いた、こやまゆかりの原作だけあって、不倫がもたらす代償、家族がどう壊れていくかをえぐるように描いていくんだよね。

 えっ? そんなもの見たくない?

 うん。そういう人、少なくないと思うんだけど、他方でそのリアルさが見たいっていう人も多いんだよねえ。例えば「ホラーなんて見たくない」って常識的には思うけど、ああいうものを見たがるのと同じなわけ。


黒沢R『金魚妻』

金魚妻 (ヤングジャンプコミックスDIGITAL) 一つ目の方、不倫のエロさの代表格は、黒沢R『金魚妻』(集英社)だ。

 不倫は、そこで壊れる家庭や夫婦のことを考えなくて、刹那に楽しむことだけできればこんなドキドキするシチュエーションはない。そこだけを短編として見事に切り取る。

 1巻の中にある短編「見舞妻」で、息子の担任教師を車ではねちゃった元ヤン妻が、見舞いに通っているうちに、近くにきて欲しいとか、おっぱいを見せて欲しいとか、小さな要求を「どこまで許されるか?」みたいなゲームをやっているような感覚でお互いにやっているうちにセックスに至ってしまう、っていうだらしなさが、たまらんわ。

 そして何よりもこの作品はグラフィックの美しさ、エロさに魅了される。

 同じく1巻に載っている「弁当妻」は、自分の妻を後輩とセックスさせることで興奮するという、いわゆる「寝取られ(NTR)もの」だけど、この話の肝は何と言っても寝取られる方の妻のショートカットの「健全さ」だと思う。背徳感がいやます。


米代添『あげくの果てのカノン』

あげくの果てのカノン 1 (ビッグコミックス) ちょっと珍しい不倫マンガといえば、SFと不倫の設定をからめた、米代添『あげくの果てのカノン』(小学館)だろう。

 クラゲに似たエイリアンとたたかう特殊部隊の一員・境宗介は、妻帯者であるにもかかわらず、高校時代からストーカー気味に境を偏愛している主人公・高月かのんと密会するようになる。

 境はエイリアンと戦うたびに身体をひどく損傷するが、“修繕”と呼ばれる再生技術によって元に戻る。しかし“修繕”で身体が変化するたびに嗜好、つまり心も少しずつ変わっていってしまう。

 境の妻・初穂は、境に対して、“修繕”で心変わりが進むのは仕方ないよねと言いながら、「……だけどね、勘違いしないで? そんな一時の感情より、『結婚』の方がね、ずうっと重いの。わかってるわよね…?」と諭し、不倫の連絡道具である境のスマホを静かに味噌汁に浸けるのだった。

 境は、初穂のいうことを「正しい」としつつ、自分の気持ちを「誠実に」初穂に伝える。

「だけどもう…違うんだ。勝手なことを言っているのはわかってる。これがおかしいことも…君を傷つけることも……だから君の正しさにはこたえられない。」

 初穂はそれを聴きながら、「宗介の好きだったところ… 誠実に、真摯に考え、言葉を紡いで、真っすぐにそれを、語りかけてくれるところ…その彼が今、目の前にいる。」と絶望する。

 自分が好きだったはずの「誠実さ」という境の美点が、不倫を正当化する道具になっちゃっているのである。

 結婚とは「変わらない」ことであり、不倫とは「変化する」ことである。だが、「変わらない」ことがこの場合は「正しい」かもしれないが、「変わらない」ものなどない。だから、「変化する」ということ、つまり不倫こそが「自然」で「誠実」なものだ――あれ……? なんかおかしくねえか?

 おーい。初穂ー。もしもーし。「キミも好きだけど、あの娘を好きな気持ちもホンモノなんだよ!」って、よくある不倫の陳腐な言い訳だから! それ「誠実」でも「真摯」でもなんでもないから! 


NON『ハレ婚。』

ハレ婚。(1) (ヤングマガジンコミックス) 不倫の話は、バレてしまうスリルや裏切りの背徳のような暗さが必ずつきまとうんだけど、「本妻も愛人もみんなハッピー!」みたいな男の都合良さ全開の作品はないかな……と思っていたら、そうだ、あるじゃん、NON『ハレ婚。』(集英社)。

 とある自治体で一夫多妻のハーレムを認める条例ができたという設定で、一夫三妻のとんでもねー家族を描く。

 主人公の小春ははじめ夫の龍之介が嫌いなのに、お金のために結婚してしまい、本当に好きな感情が湧いてくるまでの数巻は話がちょっとドタバタしている。しかし、小春がいったん龍之介を好きになってからは、なんかすごく幸せな、いい家族みたいな話になってるんですけど!?

 描かれているのは小春と龍之介のセックスなんだけど、一夫多妻の下で全ての男女が最終的には嫉妬や排除をせずに、愛と理解のある関係の中で営まれているから、同じセックスを眺めていても、全然違う風景に見える。もうただのセックスじゃない。そこにあるのは、男の身勝手な欲望も全面肯定なのである。

 そしてやっぱり絵柄がきれいでいやらしい。

 いろいろ都合が良すぎるけど、エロいので許す。


板倉梓『間くんは選べない』

間くんは選べない : 1 (アクションコミックス) 不倫は基本的に既婚者でのことだけど、独身の人たちでのいわゆる「二股」も広い意味で不倫と言える。

 既婚者の不倫の「もう飽きてしまった配偶者vs新鮮な愛人」ではなく、独身者の二股は、「どちらを選んだらいいかわからないくらい迷っちゃう!」というジレンマの物語になる。板倉梓『間くんは選べない』(双葉社)はその典型。

 取引先の女性か、女子高生か。

 そんなもん選べって言われても…。二股をやってれば絶対に破局が訪れることはわかっている。だから選ばなくちゃ! って主人公の間くんはいつも思うのに選べない。選べないようにホントにうまく書いている。「うわー、こんなに自分を好いてくれる健気な女子高生、捨てられんやろ…」とか「いや、だからと言ってこんなにキレイな女と別れるわけにはいかん」とか読んでいるぼくらが迷いまくりになる。選べないのだ。

 そして、二股を正当化する主人公の理屈のすごさ。そのコと会ってる時は全力に、誠実に愛しているって…お前…いやいやこれこそ不倫・二股の代表的な言い訳。そのダメさがすごいと思う。

*1:こやまゆかり原作・草壁エリザ作画『ホリデイラブ 〜夫婦間恋愛』(講談社1巻、kindle版87/195)

2018-03-07 そんなに噛みつかなくても 『リトル・ピープルの時代』

宇野常寛『リトル・ピープルの時代』


リトル・ピープルの時代 宇野常寛『リトル・ピープルの時代』を読み返す機会があった。

 宇野は『ゼロ年代の想像力』でもそうだったけど、「大きな物語」が失効した、というストーリーにこだわるので、村上春樹が「壁と卵」の例えを持ち出して悪と正義に世界を截然と分けるようなやり方に我慢がならない。

 宇野は、この時代の問題が「グローバル資本主義」という認識までは至っているんだけど、そういうものはジョージ・オーウェルが『1984』でスターリニズム批判として持ち出した「ビッグ・ブラザー」のようにわかりやすい悪の姿をとっていなくて、人々の内側に紛れ込んでしまっている、村上春樹の『1Q84』

に出てくる「リトル・ピープル」みたいなもんだ、というような話をする。そういう時代にふさわしい想像力が必要なんだぜ、というのだ。

 この本は3.11の後に出された本だけども、例えば「原発」という問題は、原発を推進するような巨大資本の問題としては把握せずに、そういうものを前提にしているぼくらの日常、それを許してしまっている「システム」の問題……という具合に問題を組み替えてしまう。


 確かに、現代資本主義の問題っていうのは、例えば「いじめ」とか「DV」とか「生きづらさ」とか、そういう形をとって現れる時、必ずしもそれはストレートに資本主義の問題としては登場しない。

 「働き方改革」の問題一つとったって、飽くなき搾取をめざす日本独占資本主義の問題さ! とコミュニストたるぼくがいくら言っても、職場で非効率なやり方に固執する上司や同僚の問題だと思っている人にはあんまり響かない。「日本独占資本主義」には問題は向かわず、「無数の正義」の一つである、「ダメ上司」「無理解同僚」に矛先が向いてしまう。

 これほど「わかりやすい」はずの問題でさえこうなのだ。

 つまり、現代資本主義というのは、それが問題として我々の前に現れる場合、本質は本質のまま現れず、複雑に、倒錯して現象する。

 もっとも、資本主義というのは昔からそういうものだとも言える。だからこそマルクスはヘーゲルの方法を使って対象のイデオロギー(観念形態)を暴露して本質を示すという手法をとったのであるが。*1


 そういう意味で、問題意識の入口においては、決してぼくは宇野には反対しない。コミュニストであるぼくにも思い当たる節がある。


 だけど、そんなに「大きな物語」を頑なに拒み、「壁と卵」のような比喩に噛みつかなくてもいいんじゃないかとも思う。つまり「グローバル資本主義と対決する」というタイプの想像力がリアリティを獲得する場合もあるし、3.11を「第二の敗戦」という捉え方をして、人間の共同(震災ボランティアや反原発デモ、あるいは右派のデモでさえもそこに含まれうる)に新しい光をみる――そういう想像力が新しさを得る場合もあるじゃん、とぼくは言いたいのである。


 その辺りの問題意識を今度の「ユリイカ」誌での押切蓮介論で書いてみた。

*1:例えば労働者は労働の対価をもらっているんじゃなくて、労働力価値を受け取っているのだが、賃金を「労働の対価としての時給」というイデオロギーをまとってもらっている。

2018-01-17 大分大学経済論集で研究対象にされたぼくの2著

大分大学経済論集で研究対象にされたぼくの2著

 「しんぶん赤旗」(2018年1月16日付)を読んでいたとき、由比ヶ浜直子*1の次の文章が目に止まった。

発信されたものの多くがその場限りで流れ去っていくなか、時として何度も味わったり、眺めたり、手触りを確かめずにはいられない文章に出会うことがあります。心に響くものを書きたいという願いは、今や多くの人に共通するものではないでしょうか。(由比ヶ浜「宮本百合子没後67年に 何倍も長く立体的に生きた人生」/「しんぶん赤旗」2018年1月16日付)


 まったくその通りだと思った。

 自分の書いたものが人の心に響いたら書き手冥利につきるというものである。


 「大分大学経済論集第69巻第3・4合併号(2017.11)別刷」という冊子が小学館から送られてきた。

 ぼくの町内会についての2つの著作、『“町内会”は義務ですか?』(小学館新書)と『どこまでやるか、町内会』(ポプラ新書)を研究の対象として一文を書いた研究者がいたのである。

 研究者は高島拓哉。大分大学経済学部の准教授で地域社会学が専攻である。

 「紙屋高雪の『町内会』2作から学ぶ ―アンペイドワークとガバナンスの視点から―」というタイトルだった。「研究ノート」という付記があってよくわからないのだが、いわゆる「論文」ではなく、論文化する以前のノート、メモ・覚え書きのようなもの、ということになるのだろうか。


 実は、一度大分市でぼくは講演をしたことがあり、その際に高島が聞きにきてくれて、面識がある。書簡をやりとりしたこともある。ぼくが引っ越したせいで住所がわからなくなっていたためであろう、「論集」は出版社の方に届けられていた。


 家庭内のアンペイドワーク、いわゆる「無償労働」の議論というのは、女性の家事労働などでよく聞く話だが、高島は地域社会のアンペイドワークに関心を持っており、これまでにごみ出し・ごみ置き場の清掃などについて論じてきた。

 ぼくは『どこまでやるか、町内会』で1章を割いてこの問題を論じ、そこをヒントにして町内会が抱える問題、解決の糸口を論じているために、高島は特別の関心を寄せて本稿を書いたのだとしている。


 高島は、ぼくの立ち位置を、町内会の現状に批判的な外側の視点とともに、町内会自身の苦労や理屈を内面化させた視点も持っている立場として規定し、ともすれば「町内会必要論=現状肯定派」と「町内会不要論=現状全面否定派」に両極化しそうなこの問題を、止揚させうるというむねの指摘をしている。


アンペイドワークを半ば強制的に構成員に押し付ける社会装置であることをやめて、住民が楽しみながらできる範囲で参加する新しい町内会は、NPO主導のテーマ型コミュニティと対極にイメージされてきた従来型の町内会とは異なって、現代人にとって参加障壁が低く、担い手不足を解決し、組織の存続に前向きな展望が抱けるような、コミュニティ・ガバナンスの革新的なモデルとなっている。(高島、p.21)

これまで全国にみられた町内会のありようを動かせないものと考える固定観念を排し、求められる役割を本当に果たすことができる組織にするために、そのありようを根本から見直すことが必要である。そのために、この「町内会」2作が最良の手引書となることは間違いない。(同前)

本2作は町内会肯定は、否定派、中立派、行政関係者など、どの立場の者も無視できない説得力を持っている。(同前)

町内会論にとって記念碑的な作品であると言っても過言ではない。(同前)

 本稿の前半には、高島自身が町内会についてどちらかといえば全否定的な見方をしていたことや、仮に改革する際にも親睦・交流的なものは副次的なものであり、安全・安心確保の活動のような活動こそ本質的であると考えていたことなどが、ぼくの2作を読んで考えが変わったことなどが記されている。


 高島が体験した町内会の現状で息を飲んだのは、高島の知り合いの高齢女性が、全身障害となった夫の交通事故対応で大変なときに町内会班長の役が回ってきて、なんとか順番を変わってくれないかと頼んだものの、結局押し付けられ、とうとう本人も入院するはめになってしまったという話だった。

(町内会)必要論・肯定派の人たちはよく、助け合いの組織だから、お互い様だと言っているが、この場合を見る限り、困っている人を助けるどころか崖から突き落とすような役割を演じてしまっている。(高島p.11)

 高島は自身の中にある町内会不要論の根っこにこうした強烈な体験があったことを本稿の中で告白している。

 ぼくもこのくだりを読んで「崖から突き落とす」という比喩が強く印象に残ってしまった。まさにその通りだなあと。


 高島は本稿で「自助・共助・公助」の序列論、「補完性の原理」について批判をしている。基本的にぼくが行なった「自助・共助・公助」論批判を肯定しつつ、それに補足をする展開になっている。

 その際、高島は「自助・共助・公助」の序列論について「実際におかれている混合的複合的形態から乖離した観念論」(高島p.18)「その責任や役割の序列を述べることはほとんど非現実的で無意味」(同p.19)としている。

 これは、現実はまったくその通りである。3者は混合された形で現実には存在している。

 しかし、ぼくは、あえて「公助」の責任、この部分だけは概念的にきちんと切り分けるべきであることをあえて強調しておきたい。すでにその趣旨は2著作の中でも書いているし、さいきまこ『助け合いたい』の批評の中でも表明してきたので繰り返さないが、町内会を熱心にやっている人、特に本来公的責任の後退には敏感なはずのサヨであっても、町内会に入って熱心にやればやるほどこの公的責任を肩代わりしてしまう熱心さに、いつの間にか取り憑かれているからである。



 それはともかく。

 自分の書いたものをここまで読み込んでもらい、しかも高く評価してくれたことに深く感謝したい。

 批評は作者でさえ気づかぬ、作品の価値をさまざまに照らし出してくれるという、その醍醐味を見た思いだ。

*1:新日本婦人の会東京都本部副会長、多喜二・百合子研究会会員。