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紙屋研究所


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2018-01-28 変化が大きすぎるだろ… 『これからの社会主義』6

ローマー『これからの社会主義 市場社会主義の可能性』(その6)


 はい、ローマーの『これからの社会主義』の書評です。で、今度こそ本当に最後ですわ。もう前の話とか忘れている人が多いですかね。別にいいんすけど。


 ローマーが『これからの社会主義』で紹介した「市場社会主義」は、「クーポン型市場社会主義」って言われているんですよね。

 それはどういうものかというと、

企業の利潤は、個人株主に配分される。はじめに、政府がすべての成年市民に一定数のクーポン(引換券)なりバウチャー(証票)なりを配布し、市民はそれらを、正規の通貨ではなくクーポンで価格表示されている企業の株式の購入に用いる。(ローマー『これからの社会主義』p.68)

クーポン株式市場では貨幣が使えないのであるから、少数の富裕な市民階級が株式の大部分を所有してしまうことにはならないであろう。そして、少人数の階級に企業の所有権が集中することは、こうして防げるのだから、そのような国民経済における経済政策は、資本主義経済政策とは顕著に異なるものとなるであろう。(同前p.69)

各人のクーポンの投資株式証券の束は、死亡時に国庫に返還され、成年に達した新たな世代に継続的にクーポンの配分がおこなわれるであろう。こうして、クーポン制度は、人びとにその生涯にわたり国民経済の総利潤の分け前を与え、同時にまた、企業の危険負担とモニターのための方策として株式市場が有する適切な特性を利用するための機構をなすのである。(同前)


 井上智洋は『人工知能経済と未来』(文春新書、2016)の中でこのローマーのクーポン型市場社会主義を紹介しています。なかなかうまくまとめているので、ここでも参考にさせてもらいます。


 この社会体制では、つまり国民全体が(強制的に)「資本家」になるのです。株は(今持っている人から取り上げて)国民みんなに平等に分配されます。しかも株はお金では売り買いできないので、大資本家・独占資本家が現れない。株は相続できない。死んだら国に返します。資本家階級を「撲滅」せずに、階級をなくす、というわけです。


人工知能と経済の未来 2030年雇用大崩壊 (文春新書) もともと井上は、AI人工知能)が中心になった経済=純粋機械化経済なら、国家がすべて生産手段やAIを管理する、ソ連型の集権型計画経済を使えばうまくいくんじゃないか? という問いを立ています。国が生産手段を所有・管理して、生み出された富も分配すればいいのですから。(ちなみに井上は、“ソ連社会主義というのはよく言われるように所得を平等にするのではなく、むしろ努力と能力に応じて報酬が得ることを目指すシステムだ”と正確に書いていてびっくりします。)


 その上で、井上は推論を進め、ソ連社会主義の失敗の原因は「所得の平等化」にあるのではなくて、中央計画当局による計画経済にあると指摘します。

 一元的計画経済は、(市場メカニズムほどには)需要・供給にもとづく資源の配分ができないだろ、というわけです。実際にこれはそうでした。


 仮にAIやコンピューターが発達して需給管理が一元的にできるようになったとしても、今度は「起業」ができない。つまり創意工夫を持って企業を起こしたりそれで競争するというイノベーションが起こせない、と指摘します。

 これはローマーの指摘とも一致していて、ソ連社会主義は確かに1970年代くらいまでは高い経済成長を示していたのに、その後失速していったのは、技術革新が起こせなかったからだといいます。


それら諸国経済は、第二次世界大戦によって大いに荒廃しており、その再建が、技術革新なしにも(いわゆる外延的拡大により)経済的福利を大きく増加したからである。一九八〇年代までには、あるいはもうすこし早い時期までには、経済的福利の成長は、技術革新をし、改善された諸商品を生産する新技術を採用する国民経済の能力にずっと大きく依存するようになっていた。……正確に述べれば、国内的および国際的な市場のもたらす競争なしには、産業企業は技術革新をせまられることにはならないし、競争という動機なしには、すくなくとも市場経済が産みだすほどの速度では技術革新はおこらない、ということになる。(ローマー前掲書p.60-61)


 そして井上は、ローマーのクーポン型市場社会主義を紹介し、これなら分権的だし、ソ連社会主義の欠点を克服しているように思えるとして

さしあたりこの体制は、資本家しか収入が得られない純粋機械化経済にふさわしいものと言えそうです。(井上、kindle2070/2514)

高い評価を与えるのです。

 「資本家しか収入が得られない純粋機械化経済」というのは、AIの時代になると、多くの仕事がAIに取って代わられてしまい、労働者搾取すらされなくなり、野垂れ死ぬしかなくなるのではないか? という予想を井上が立てているからです。儲けられるのはAIを持っている資本家だけ、ということです。


 だけど、ローマーの構想を聞いて、ぼくが感じたのは、ものすごく理性主義的な構想、言い換えると人造的な制度設計のように思ったのです。

 社会の中から生み出されて次第に広がっていく制度ではなく、いまある制度をぶち壊して人間が考えた制度を押し付けるようなイメージです。

 だってそうでしょ?

 株式を平等に国民みんなに配って、「は〜い、これからみなさん、資本家になってどこでもいいので投資してくださいね〜」「収入はその儲けだけになりま〜す」ってやるんですよ。


 これは、利潤分配の機会平等という点ではいいですけど、もうからない企業に投資してしまうと所得の最低保障もないし、経済が利潤追求の競争にまきこまれて合理的に規制・コントロールできる保障もありません。自然破壊をやったり、働きすぎが起きても必死で利潤確保をしようとするので、それだけでは止められません。


 井上も、ローマーの構想をいったん持ち上げて、その後で疑問を書いています。

 つまりいま株を持っている株主から株を取り上げるわけで、ものすごい大きな抵抗が考えられます。「黙示録的な革命が必要」とまでいっています。

 そして、株価が下がれば収入が減るし、赤字になれば配当はなく、倒産すれば株式は「紙屑同然」となります。

 この批判全く正しいのではないでしょうか。



 ローマーは自分の構想が日本や西ヨーロッパのようないわゆる「先進国」では無理だろうなということを告白しています。

先進民主主義資本主義では、見通しうる将来について、市場社会主義への転形はごくありそうもないと思う。というのは、そこでは私有財産を保障する法律と制度とが、国民の圧倒的多数に支持されているという意味において安定的だからである。(ローマー、p.161)

 おいおい、なんだよそりゃ……。

 ローマーは、南アフリカ、エル・サドバドル、ブラジルなどを例にあげて、そういう国なら市場社会主義への変化はありうると言うのです。つまり、今の資本主義体制にあんまり支持がなく、思い切った社会変革を望んでいる国なら候補になるなと思っているわけです。

 これはまあ2000年代前半に中南米で左派政権が次々誕生したことを予期していたと言えるわけだけども、結局先進資本主義国じゃあ俺の構想は無理だな、と白旗を初めからあげていたとも言えます。


 いずれにせよ、ローマーの市場社会主義は、社会主義を考える上では比較のためにあれこれ参考になったのですが、ぼくはその構想自体を支持することはできません。


 これでローマーについては終わりです。

2017-12-28 他人に雇われる働き方はなくなるのか?

他人に雇われる働き方はなくなるのか?



 今回、不破哲三社会主義論にちょっと戻ります。

 不破が『マルクス友達になろう』で述べている次の箇所についてです。

 「生産手段の社会化」によって、社会がどう変わるか。具体的に見てみましょう。

 まず、人間の労働のあり方が根本から変わります。他人に雇われて他人の利潤のために働くという雇用」関係そのものがなくなって、労働が、自分自身と共同社会のための生産活動という、本来の性格をとりもどすのです。(不破前掲書p.47、強調は引用者、以下同じ)


 これをどういうふうに読むか、ってことです。

 ふつうに読むと、雇用関係の否定ですよね…。

 だって「他人に雇われて他人の利潤のために働くという『雇用』関係そのものがなくな」る、ってあるもの。特に「他人に雇われて」の部分。

 だから、不破の考えている社会主義経営体って、労働者経営者、あるいは協同組合のようなものかと思いますよね。

 協同組合とは何か、についていろいろ議論がありますが、ざっくりと言えば、「利潤追求ではなく、生産・生活の向上などの目的をもったメンバー(組合員)による、平等で民主的な運営にもとづく経営体」とでもいいましょうか。


 株式会社との違いをかいた下記のJAの解説がわかりやすいでしょう。

https://org.ja-group.jp/about/cooperative

f:id:kamiyakenkyujo:20171228232925j:image


 マルクス協同組合を、社会主義社会でのひとつのスタイルとしてあげたことがあります。


 ただ、当の不破自身は別のところでこう言っています。

 〔生産手段の――引用者注、以下同じ〕社会化の方式には、いろいろな形態がありうるでしょう。マルクスエンゲルスにしても、その具体的な形態として「国有化」をあげたこともあれば、当時、イギリスなどでかなりの発展をとげていた労働者の集団による協同組合工場を頭に描いて、協同組合による社会化の形態を実例としてあげたこともあります。高度に発展した生産力をふまえて、生産手段の社会化を実現するというのは、人間社会にとって新しく開拓される経験ですから、当然、そこには、いろいろな形態が生まれ、その有効性、合理性が実際の経験によって試されて、またそれにもとづく淘汰や進化の過程をへることでしょう。

 〔日本共産〕党綱領は、そのことを考慮して、これが社会化日本的な形態となるだろうという調子で、あれこれの特定の形態をあげることはしていません。(不破『新・日本共産綱領を読む』p.367-368)


 不破が「他人に雇われて他人の利潤のために働くという『雇用』関係そのものがなくなって」と言っているのは、どうも協同組合(もしくは公有企業)のようにしか思えないけど、「特定の形態をあげることはしていません」というのとは矛盾するんじゃないか、という思いも一瞬持ちます。

 もしここで不破のいう「他人に雇われて」が文字通りのことしか意味しないんだったら、ぼくはこういう社会主義像は狭すぎると思いますね。


 これでは株式会社のような形態や利潤追求型の企業体は、すべて否定されてしまうんじゃないでしょうか。あくまで不破が書いた「他人に雇われて他人の利潤のために働くという『雇用』関係そのものがなくな」る、ということをその通りに受け取れば、ですが。



 結論めいたことを先に書いておけば、今の株式会社で働いている人たちが経営に民主的に参加できるルートができることが「他人に雇われて他人の利潤のために働くという『雇用』関係そのものがなくな」る一つの道だし、また、その従業員である人たちが、同じ企業や別の企業の株主消費者取引先、地域住民など、その会社に外側からかかわっている人(いわゆるステークホルダー)となって、会社の経営に口を出して参加していく多様なルートもふくめて、そういうものが全体としてあわさって「他人に雇われて他人の利潤のために働くという『雇用』関係そのものがなくな」ることではないかと思うのです。


社会主義の形態は別に協同組合と決まっちゃいねーよ

 この点で、松竹伸幸の指摘は示唆に富んでいます。

http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/Lenin-saigono-mosaku.html

 …マルクスレーニン協同組合を強調したからといって、現在の日本に生きる人びとが社会主義とは協同組合前進させることなのだと考える必要はまったくない。マルクスレーニンが、目の前に存在するものから将来社会の形態を洞察したように、日本の現実をふまえて考えればよいのである。 


 たとえば、第二次世界大戦以降の資本主義においては、協同組合企業というものは目を見張るような発展をみせずに、逆に、株式会社がどんどん力をもつようになっていった。同時に、そういう力を得た株式会社を国民がどう規制していくのかが問われるようになった。

 株主となって発言権を得るというのも、その一つである。問題のある商品を生産している企業には投資しないというやり方も生みだされた。それらをつうじて、企業の社会的責任という概念が誕生し、消費者、従業員、地域、環境に対する責任を企業がどう果たしていくのかが問われるようになった。


 現在、ポスト資本主義の道を探っていくうえでも、資本主義の枠内の改革をめざしていくうえでも、大切なことは目の前の現実である。その現実のなかに、新しい社会の要素があるのかないのかを見極めることが、変革を成し遂げるうえで不可欠なのである。株式会社というのものを、そういう目で分析し、考察する必要がある。(松竹レーニン最後の模索』p.128)

 松竹は、レーニンに学ぶというのは、レーニンが目の前の現実の苦闘の中からネップを編み出したその着眼に学ぶということであり、レーニンの片言隻句を紹介したり、逆に「今さらレーニンかよw」と嘲弄することでもないとしています。


株式会社でもいいんじゃねーの?

 別の角度から言いましょう。

 「他人に雇われて他人の利潤のために働くという『雇用』関係そのものがなくな」る、というのは、契約をして雇用されるという働き方の否定、あるいは利潤追求企業や株式会社を否定することなのでしょうか。

 そうではないと思います。

 契約を結んで雇用される、その会社は株式会社である――そうであったとしても、「他人に雇われて他人の利潤のために働くという『雇用』関係」を克服して、「労働が、自分自身と共同社会のための生産活動という、本来の性格をとりもどす」ことはできるのではないでしょうか。


企業とは何か―企業統治と企業の社会的責任を考える 会計学者である角瀬保雄は、マルクス協同組合株式会社に、経営体の公共性共産主義社会の萌芽を見たとして、そのいずれについても「マルクスが一九世紀の協同組合工場にみたアソシエイションの今日的展開」(角瀬『企業とは何か』p.208)としました。

 角瀬は、ヨーロッパ資本主義の中で、例えばドイツにおける労使の「共同決定」などを紹介します。

ドイツ株式会社では監査役取締役の上に立ち、取締役を選任するという独自の構造をもっていて、監査役の地位はたいへん高いものがあります。そして従業員二〇〇〇人以上の企業では監査役の半数が株主代表と並んで従業員代表から選ばれなければならないと法律で決まっています。(角瀬前掲p.136)

 この他に、社会的パートナーシップとか欧米における労働者の所有参加について書いています。

 「所有参加」などは、日本の上場企業での従業員持株制度が紹介されています。数%株を持てば大株主という状況の中で、従業員は1%持っているんですけど、「多くは会社では総務部長が株式を預かっていて、その議決権は社長の力を強めるだけの役割しか果たしていません」(角瀬p.140)という状況が書かれています。


 現実にどれくらい機能しているか別にして、株式会社の中で労働者が経営に参加するしくみはいろいろ生まれています。でも、さっき言った「持株制度」のように、そういう制度があってもそれを使って経営に参加しようとはしない、その経験を積もうとしていないのが現状です。


 角瀬はすでに「大企業は事実上、『誰のものでもない』もの、社会的な存在になっていると考えられます」(角瀬p.141)とまで言っているのですが、

ここで重要なのは経営への参加が実現しても、労働者が経営の主体として管理能力を身につけ自らを高めない限り、その参加は形式に終わり、実体をもったものにはなりえないということです。実際に管理する能力がなければ、現実には専門経営者のいうままとなります。したがって、経営参加は到達点ではなく、これから進むべき始まりでしかないのです。(角瀬p.141-142)



 ぼくは、生産手段が社会化され、経済において社会が主人公になる、社会が経済をコントロールするようになるには、一番大事なのは、市場経済私企業を前提としつつ、やはり国家や自治体がどんな法律計画金融・財政を使ってその市場を手なずけていくのか、というその大枠のところだと思います。

 そういう大きなレールがきちんと敷かれていないと、個々の企業体がいくら民主化しても、身動きできる余地などほとんどないからです。

 だから、生産と労働の現場である経営体が民主化されるのは大事なことですが、それは社会主義にとっては副次的なことではないかと思います。


 

経営体の民主化よりもAIとBIによる労働時間短縮の方が効く

 そもそも、もし労働者が「健康で文化的な最低限度の生活」を保障され、そうですね、例えば住居費・教育費・医療費介護費・保育費などが完全に社会の負担になったとして、本当に日々の生活分だけを労働で稼げばいいような社会になった場合、それこそ労働時間が抜本的に短縮されるので、「生産と労働の現場である経営体」での働き方には、みんなあまりこだわらなくなるんじゃないでしょうか。

 それこそ、職場ではなくて、社会参加のようなものが進み、そちらの分野での社会的コントロールのツールが発達していくような気がします。

 え? 具体的にどういうことかって?

 まあ、あくまで例えですけど、例えば今、福岡市消費生活審議会っていう市レベルの審議会があるんですよね。

http://www.city.fukuoka.lg.jp/shimin/shohiseikatsu/life/syouhiseikatusentauhoumupeiji/singikai.html

 福岡市消費者教育推進計画っていうのをつくって、そこで消費者の教育をどう進めるかを議論していて、市のPTAの副会長さんなんかも入っているんですが、率直に言っておざなりなんです。少し意見を言って終わり。

 そういう審議会が部会ごとに分かれて多数の市民が参加し詳細な議論をして、本当に身になる計画もつくって、実効ある消費者教育運動にして企業の行動も変えていく……そんなふうになるには、多くの人が参加できるような時間的余裕がないとダメです。


 労働と所得が次第に切り離されるようになっていくと、社会参加が進むと思います。もちろんみんなそんなことをやりたいわけではないと思いますが、要するにヒマな人が増えるので、当然母数も増えていくわけです。


 こういう条件を整えるのは、企業体の民主化運動よりも、むしろAI人工知能)による生産性の飛躍的上昇とその社会的利用、BI(ベーシックインカム)に見られるような公的生存権の保障じゃないかと思います。この社会主義にとってのAIとBIの問題は、また別の機会に論じます。

2017-12-23 補足:所有について 『これからの社会主義』5

ローマー『これからの社会主義 市場社会主義の可能性』(その5)


 ローマーの『これからの社会主義』については「あと1回」と書いたけど、前回記事のコメント欄を読んでみて思うところがあり、もう1回、前回の補足をしておきます。

 所有と企業の民主化についてです。


世の中の「所有」のイメージが貧しすぎる

f:id:kamiyakenkyujo:20171223014806j:image:right まず、所有について。

 ローマーが紹介している3つの市場社会主義のモデルのうちの3番目、企業の所有権はかわらず、法律金融・税制・ステークホルダーなどでコントロールする、というタイプについて、「ぼくの考えは3.に近い」と書きました。

 そのさい「企業の所有権は変わらない」ということを少し考えてみます。


 民法では「所有権」は「自由に使用、収益、処分をなすことのできる権利」と定義されています。日本の憲法では、「財産権は、これを侵してはならない」(29条)と定めています(財産権は所有権を含むさらに広いものです)が、実際には社会権を実現するためにいろんな制限をかけています。「侵してはならない」などと大見得を切りながら、「絶対的に自由に使用・収益・処分してやるぜ!」ってことはできないわけです。

 よくある例では、労働者保護のための規制、私的独占の排除、公害防止、文化財の保護……なんかがあげられますよね。「俺の財産をどう使おうが自由だろ?」と言って、工場つくって有害な煙をもくもく吐き出したらマズいわけです。


 つまり、それは、現代の資本主義日本であっても所有(権)が実際には社会によって侵され、制限をかけられ、コントロールをされていることになります。

 しかし、かんたんにいえば、その度合いはとても小さいものです。

 いち企業の所有に対する制限・コントロールの度合いも弱いし、仮にある企業やある部門への所有に干渉して、かなりの制限・コントロールが効くようになってきたとしても、社会全体としては「もうけ最優先」「利潤ファースト」とも呼べる原理をくつがえすところまではいっていない。「社会的理性」が「祭り」の「前」から働くようにはなっていないわけです。


 所有への干渉はいま現在すでにおきているわけで、それを見てもわかるように、所有への干渉の深め方、つまり生産手段の社会化のありようは、一律ではないはずです。

 なるほど、会社が民主化されて、協同組合のようになることもあるでしょう。

 しかし、そうではなくて、株式会社のままであったとしても、外から法令でコントロールすることもできます。

 あるいは、政府自治体金融や財政(融資とか補助金など)で誘導することもできるでしょう。

 強弱や範囲の大小はあっても、いま日本でも普通に行われているような、政府自治体による「計画」によって企業行動を変えることもできるでしょう。

 株主は株券を握りしめたまま、しかし、社会はすでにその企業の所有に、実際にはかなりのコントロールを効かせる、すなわち所有に大胆に干渉し、実質的には奪っている、というようなことができるのではないでしょうか。

 このような多様なチェンネルあるいはハンドルあるいはスイッチによって、社会が合理的経済を「運転」(管理・運営)できるようになって、「利潤ファースト」の社会のありようを覆すなら、すでにそれは社会主義社会だと言えます(マルクスが工場立法のようなものを「新しい社会の形成要素」と呼んだこともここにつながります)。「修正資本主義」ではありません。


 「所有」という言葉には、狭いイメージがつきまとっています。

 「私的所有から社会的所有に」、というと、本当に狭いイメージになってしまいます。

 「生産手段を社会的所有にする」といわずに「生産手段を社会化する」という言い方をした方がいいとぼくが思うのは、単にごまかすためではなくて、「所有(権)の変更」という狭いイメージから抜け出すのには、その方がいいと思うからだし、すでに現実に資本主義の中でその萌芽が生まれていることを示せると思うからです。

 企業の従業員に所有を移行することを「社会化」「社会的所有」のメルクマールにしてしまうことは、社会化の多様な形態、イメージを奪ってしまうし、あとで述べるように合理的でもありません。


企業が民主化されたら社会は合理的な決定を下せるのか?

f:id:kamiyakenkyujo:20171223014811j:image:right 次に、企業の民主化について。

 企業の民主化、例えば今述べた「企業の従業員に所有を移行すること」は、社会主義にとって必要不可欠なことでしょうか。

 ローマーがあげたモデルのうち1.の自主管理企業は、このスタイルでしょう。*1

 別に自主管理企業でなくてもいいんですけど、いずれにせよ、ある企業が従業員のものになり民主的な職場になったとしても、それは社会全体の合理的な決定になにか意味をなすものになるでしょうか? 別の言い方をすると、ミクロの企業が民主的になることと、マクロでの社会の合理的な意思決定とは別の話ではないかということです。

 結局、企業がもうけて利潤を稼いでそれを従業員に分配するというだけなら、企業はもうかるにはどうしたらいいかを考えることになり、みんなで民主的に話し合って、とんでもねーブラックな決定をしてしまうことだってあると思います。*2

 むろん、職場はなんらかの形で民主化された方がいいに決まっています。それは直接には働きやすさのためです。だとすれば労働組合をちゃんと機能するようにすればいいわけであって、狭い意味での所有権の移行をする必要は必ずしもないように思われます。


 ゆえにローマーが3.としてあげた「企業の所有権は変わらない」という点について、所有権はそのままかもしれないけど、実質的には社会がそこに干渉して、コントロールを効かせているわけで、資本家の所有権は空洞化していることになります。つまり、「企業の所有権は変わらない」ということに、ぼくは同意しているとも言えるし、同意していないとも言えるのです。

*1ローマーは別の章でユーゴスラビアの経験を取り上げていますが、ユーゴでは結局国がけっこうイニシアチブとっていて、本当の意味で「自主管理」になってなかったんじゃねーの? というのがローマーの言い分のようです。まあ、それはともかく。

*2社会主義になってもそういう企業のありよう自体は、ぼくは広く残ると思っています。

2017-12-20 旧ソ連失敗の原因 『これからの社会主義』4

ローマー『これからの社会主義 市場社会主義の可能性』(その4)


 ローマーの『これからの社会主義』について引き続きコメントをします。

 今日は第5章「集権的計画経済はなぜ失敗したか」と第6章「市場社会主義の現代的モデル」についてです。


 第5章「集権的計画経済はなぜ失敗したか」は、旧ソ連・東欧の「社会主義経済の失敗の原因をローマーが簡単に述べている章です。

 ざっくり言えば、計画立案者(政治家や官僚)、経営者(企業体のトップ)、労働者の3者がいて、理想的には、

となるはずだけど、それぞれは経済的な誘因なしにはそうしようとはしなかった、ということ。


  • 労働者は解雇もなく、住宅を含めた消費財は企業から与えられていたので、あまり熱心に働かなかった。
  • 経営者計画の完全な実行ではなく、計画立案者と交渉し経済効率的には許されないような貸付や免税を引き出した。
  • 一党独裁だったので競争がなく、計画立案者は民衆のためのプランを熱心に考えなかった。

 ローマーは、資本主義はこの問題はうまくやっている、ということで、株主資本主義や90年代までの日本のような銀行の「系列」による支配を説明しています。

 ただ、ローマーは慎重で、こういう説明をすると、1970年代くらいまでのソ連・東欧の経済成長の高さを説明できなくなると考えます。

 ローマーがその説明として考えたのは、1970年代くらいまでは大きな技術革新がなくても旧技術のままでそれなりに働いたら一定の経済成長が望めるんじゃないかということでした。


 これは旧ソ連・東欧経済の破綻の説明としてそれなりに説得力があるように思えます。

 そうするときにローマーは

そこで、社会主義者にとっての問題は、技術革新はおこなわれるが、資本主義に特徴的な所得配分には進化してゆかないような、経済機構は構想されうるのか、ということになる。さらに特定化していえば、技術革新にみちびく産業企業間の競争は、生産手段の私的所有の体制なしにも誘発されうるのであろうか。(p.62-63)

という問題意識を掲げて、次章に移ろうとします。


 要するに、企業が公有・国有化されていて、中央の計画のもとに動くような非市場の経済じゃなくて、経済主体、つまり企業がバラバラに存在して競争しあっているようなシステムじゃないとダメだというのがローマーの結論なんですね。

 企業を全部計画的に管理するのか(集権的)、企業はバラバラな主体でいいのか(分権的)、と問題をざっくりと二つに分けた場合、ローマーは後者しかないだろうと結論したわけです。

 ここにはぼくも賛成します。


 それで、第6章で3つのタイプの市場社会主義、というか分権的社会主義をあげます。

  1. 労働者の自主管理企業。
  2. 基幹部分を公的企業がにぎり、それ以外を私企業がうめる。国民は売買できない株式(クーポン)をもち、投資する。
  3. 企業の所有権はかわらず、法律金融・税制・ステークホルダーなどでコントロールする。

 ローマーの考えは2.であり、ぼくの考えは3.に近い。

 1.は企業体が民主的に運営される。

 2.は「利潤配分に平等化効果がある」(p.67)。

 3.は「先進資本主義社会における、より民主的な経済への移行に向けての提案としては、最も直接的に有用なものである」(p.72)。


 前にも書きましたが、ローマーは、企業の効率性を確保した上で、格差が開かず、所得が平等になることに重きをおきすぎています。

 ローマーが構想するようなクーポン・株式の発行は現在の企業体制からあまりに大きな変化となり、とても現実的なものとは思われません。


 ぼくは、次の社会として準備された社会主義というものは、資本主義社会の中から「自然に」育ってくるものだと思うので、3.こそが最も「自然史」的な過程であるし、無理がないと考えます。

 要は資本主義=利潤第一主義が社会を覆っている状況を変えて、経済を社会の必要に奉仕するようにコントロールできるような社会になればいいわけですから、企業の所有権を無理に変える必要はありません。


 ローマーの考える「社会主義」っぽさというのは、「平等」に偏っていると思うんです。「社会主義」という考え方が狭いんですよね。そして、日本の90年代ごろまでの「系列」のモデルに高い評価を与えています。英米型の株主資本主義とは違う、効率性と調整を両立させるシステムだと見ているわけです。


 『これからの社会主義』は、まだ途中なのですが、あとはローマーの提唱するモデルの解説だったり、ユーゴ型自主管理企業の解説だったりします。あまりそこに深く付き合う必要はないと思うので、もうあと1回くらいやって、この本とはおさらばします。

2017-12-06 「公的所有」のイメージの狭さ『これからの社会主義』3

ローマー『これからの社会主義 市場社会主義の可能性』(その3)


 ローマーの『これからの社会主義』について引き続きコメントをします。途中から読んでもらってもわかると思います。

 ローマーはソ連タイプの「社会主義」を批判し、「市場社会主義」をかかげているアメリカのアナティカル・マルクス派の人です。


 さて、今回は第2章「公的所有」と第3章「長期と短期」、第4章「市場社会主義の理念の小史」についてです。


 第2章「公的所有」はどういうことが書いてあるかというと、かんたんにいえば、「これまでの社会主義者たちは生産手段の私的な所有から公的な所有にうつすことにこだわりすぎていた」という、これまでの社会主義者たちへの批判です。

 ローマーは、「投資を私的な思惑、つまり市場にだけゆだねられないのはそうなんだけども、それは市場のシステムだけでは先のことを読み取る力もないし、環境問題のような失敗をおかすから、外から介入しないといけないのであって、これまでの社会主義者たちのように『投資につかうような余分なお金は、俺たちのもんだ!』という理由で主張するんじゃないよ」と言っているのです。

 ここでローマーが問題にしたいのは「公的所有」のイメージの狭さです。「公的所有」とはだいたい「国家所有」がイメージされていて、経済が生み出したもの(余剰)をどうやって決めるかということは、これまでは「みんなで決める」「みんなで決めるには公的所有しかない」「公的所有なら、まあ国家所有だ」というパターンにおちいっていて、ローマーはその思考パターンを批判したいということなんだろうと思います。

 だから、ローマーは、いろんな所有の形態があるよ、といって、労働者管理企業とか非営利企業とか有限責任会社とかいろんなスタイルの企業の姿をあげていきます。


 これは半分正しい。

 ローマーがやろうとしているのは、「公的所有」のイメージのせまさを批判することです。ただちに国家所有がイメージされてしまうのはたしかになんとかしたい。

 だけど、ローマーはそのあといろんな企業の形の話にいってしまい、あとで自分がとなえる「みんなに株をくばって経済と社会に平等に関与する企業」というスタイル(この章では32ページに出てくる)に話を流し込む布石にしています。


 ここには「生産手段の公的所有とは何か」という問題があります。

 ぼくもそうですし、不破哲三もそういっていますが「生産手段の社会化」という言い回しのほうがいいと思うのです。

 なぜなら、「所有」という言葉をつかうと、すごく狭いイメージ、つまり法律上の所有ということだけがイメージされてしまうからです。*1

 「生産手段の社会化」つまり生産手段を社会のものにする、という場合、実はさまざまな形で社会が生産手段(あるいは経済全般)に関与し、影響力を行使し、最終的に生産手段と経済全体をコントロールできるようになる、広い意味での操作ハンドルをイメージしやすいと思います。

 つまり、「生産手段の社会化」というのは、単に所有だけでなく管理や運営はもちろん、多少の影響力の行使など、さまざまなツールを使うことだといえます。

 たとえば、法律で環境基準を企業に強制する、誘導計画をつくって自主的に企業にやってもらう、奨励金などのインセンティブで企業行動を変える、世論のキャンペーンで購買行動をつくり企業に圧力をくわえる、金融でコントロールする、株主総会で決める……などなどです。

 これはすでに資本主義のなかで生まれている「社会化」のための豊富なツールです。(この意味では前の記事のコメント欄で、バッジ@ネオ・トロツキストさんが「生産手段」や「所有」へのこだわりを批判していますが、一理あると思います。)


 また、「あ」さんが前回記事のコメント欄で、「日本社会の成員一人一人がやるようになることだ」…というような話をかいていますが、決定は単一のものではないのは確かです。国会レベルで決まること、自治体レベルで決まること、企業レベルで決まること、地域で決まること、社会集団の有形無形の行動圧力として影響を与えること。そういう無数の決定や力がうまく働くように社会をデザインするということが、新社会では求められることになると思います。このような方向はすでに現在の資本主義社会のなかでも部分的に行われているのですが、なにせ社会全体は利潤第一主義の原理が覆っているのですから、それは社会全体でコントロールを働かせるというふうにはなっていないわけです。


 たしかに社会主義者にも、一般の市民にも「生産手段の社会化」といったときのイメージの貧しさ(イメージのなさ)は問題だといえるのです。


 次に第3章「長期と短期」についてですが、ここはローマーのめざす社会主義が第1章であげた3つの意味での平等主義(個人の幸福、政治的影響力、社会的地位)を目的にしているのは、ジョン・ロールズの影響が大きいという話が書かれています。

 これは前回も書きましたが、理性による理想を目標においた社会主義というニュアンスが、ローマーには強すぎるなと思います。


 そして第4章「市場社会主義の理念の小史」です。

 ここでは、ハイエクとランゲの論争がかんたんに紹介されています。

 それは、単一の計画経済は、市場システムにかなわないということをランゲの側(社会主義者の側)が認めていく「敗北と後退の歴史」として描かれます。

 ローマーはこの点でのハイエクの正しさを認めます。

 けっきょく単一の計画、そのための公的な所有なんて、いらねえんじゃね? というのがローマーの結論です。

 しかし、そこまで言ってしまうとローマーは「じゃあ、おれって社会主義者なの?」と不安になったのでしょう。自分の社会主義者性をどこに求めたかというと計画経済とか公的所有じゃなくて、平等主義の達成に求めようとしています。


 ここは、すでに前の記事で、ぼくは「市場経済資本主義を混同しないようにしようぜ」と主張しているので、ぶっちゃけハイエクのランゲ批判はだいたい正しいんだろうと思います(論争そのものを読んでいないので軽々にはいえませんが)。

 ただしローマーのように、だからといって、平等主義をめざすということを社会主義の目的にしようとは思いません。

 そうではなくて、資本主義のなかで利潤第一主義をおさえるさまざまなツールがそだち、それが経済をコントロールする新しい社会を準備しつつあることに次の社会の「芽」をみようと思うのです。


 面白いことに、ローマーも、ハイエクvsランゲの論争をふりかえりつつ「いやーなんか社会主義者が資本主義者たちに負けっぱなし、譲歩しっぱなしみたいに思えるけど、実は資本主義はこの1世紀でだいぶ社会主義に譲歩してるんだぜ?」といって4つの資本主義の「譲歩」をしるしているのです。

  1. 資本主義諸国での公共部門の増大。
  2. 北欧的社会民主主義の成功にみる所得配分の平等化。
  3. 日本などでの経済への政府の干渉ツールの発達。
  4. 法人資本主義における依頼人・代理人問題の解決可能性。

 (4.はわかりにくい話ですからここではわからなくてもけっこうです。)


 あと、ランゲがすでに強力なコンピューターがあれば社会主義はできるぜと、すでに1940年前後に主張しているというのが印象にのこっりました。「コンピューター社会主義」というのは、可能性としてはまだ残されているとは思います。


 






 

*1:民法では「所有権」は「自由に使用、収益、処分をなすことのできる権利」と定義されている。