Hatena::ブログ(Diary)

紙屋研究所


※すべての記事は上の「記事一覧」で見られます。
※上の「日記」で検索すると当ブログ内の検索ができます。
※旧サイトはhttp://www1.odn.ne.jp/kamiya-taです。
コメント・トラックバックには普段は反応・返答しませんのでご了承ください。
※メールはcbl03270(at)pop06.odn.ne.jp  ←(at)を@に直してください。
※うまくメールが送れないときはこちらからどうぞ。
※お仕事の依頼や回答が必要なことなどはメールでお願いします。

2018-07-31 地方自治の本旨 『潮谷義子聞き書き 命を愛する』

一瀬文秀『潮谷義子聞き書き 命を愛する』


 憲法には

地方公共団体の組織及び運営に関する事項は、地方自治の本旨に基いて、法律でこれを定める。

とある。この「地方自治の本旨」とは何か。憲法学者小林直樹

この言葉は、日本国憲法のなかで、最も不明瞭で把えにくい概念のひとつ(小林『憲法講義』p.772、強調は引用者)

と述べてきた。


 この件で、馬奈木昭雄の講演を聞く機会があった。

 馬奈木は水俣病じん肺諫早開門など、住民のたたかいの先頭に立ってきた弁護士だ。

 彼の考える「地方自治の本旨」はつまるところ「住民自治」であり、住民による徹底した話し合いと討論によって合意をつくりあげるという姿にその本質があると見ている。

 そこでは、行政はどっちつかずの中立者ではない。

 住民(国民)の基本的人権を保障するという立場に行政側が立つことだ。しかし住民の主張を鵜呑みにするのではなく、行政側が賛成・反対の幅広い意見に耐えうる情報提供を行い、住民が主権者として判断できるようにしてその合意を促すというイメージを馬奈木はあげた。*1


 その例として、馬奈木は熊本県知事だった潮谷義子が川辺川ダムをどうするかについて行った「住民討論集会」をあげた。

http://www.pref.kumamoto.jp/kiji_4555.html

川辺川ダム事業をめぐる論点について、県民参加のもと国土交通省、ダム事業に異論を主張する団体等並びに学者及び住民が相集い、オープンかつ公正に論議する場を提供します。


 原則的に論点に制限を設けず、時間の制限も設けない。

 よくもこんなことをやろうと思ったものだと感心する。


住民自治としての住民討論集会

潮谷義子聞き書き 命を愛する ぼくは馬奈木の話を聞いて、潮谷に興味を持った。

 潮谷に聞き書きをした『命を愛する』という手記を読んだ。

 キリスト者であり、社会福祉を学び行政福祉主事をへて、乳児ホーム(現在児童養護施設)で働き、そこの園長を務めてきた。

 潮谷は自民公明推して誕生した知事ではある。

 だが、彼女が知事時代の話としてあげている3つの大きな話題は、

であるように、本書を読むとそこに良心的な人間が行政のトップになったことによる素直な苦悩を、左翼のぼくでもストレートに感じることができた。

 潮谷が朝日茂を訪問したときに感じたことや、知事になる前から親しくしていた住民運動側の人たちにつらい、もしくは今思えば不十分な決定を押しつける羽目になったことを赤裸々に書いている。


 住民討論集会で賛成派が討論に不満なため一斉に帰ろうとする際に、止める様子が『命を愛する』にも書かれている。以下は公式記録に残された潮谷のアナウンスである。

知事です。退場なさる皆様達にお願いします。この論議はまだ終わっていないと私は思っております。退場なさる皆様達は、今、議長の方が、皆様に何時までいたしましょうかということを問いかけている時に、背を向けてお出になる方々がいらっしゃいますけれども、それでよろしいのでしょうか。ぜひ、留まっていただきたいと思います。司会者も、4時間に亘る長い間に、混乱があったり、皆様方の思いに沿わないところがあるかも知れません。それは、推進者の方にとっても、反対者の方にとっても、生じている現象であるかも知れません。でも県は、フェアな公正な立場を確保したい。そういう思いの中で、この会をいたしているところです。 私から提案をいたします。この会を7時半で終結をさせていただきますが、いかがでございま すでしょうか。よろしゅうございますでしょうか。

http://www.pref.kumamoto.jp/common/UploadFileOutput.ashx?c_id=3&id=4555&sub_id=1&flid=1&dan_id=1

 潮谷は、自民公明の推薦という、ぼくにいわせれば反動的な政治の枠組みの中で県政の舵取りをせざるを得なかった。

 しかし、潮谷は国の関係者を駆け回ったり、住民運動のリーダーたちと議論を重ねたりして、「合意」を必死につくろうとしてきた。その様子が『命を愛する』でよく伝わってくるのだ。*2

 潮谷県政の実際はそのような甘いものではないかもしれないし、全体の評価をした上での感想ではないが、先ほどあげた3つの問題では手記を読む限り、潮谷のきまじめさがわかる。*3


 知事時代の思い出を語るなら、もっと見栄えのいい、どこそこに何を作ったとか、どういう新しい制度を作って住民が喜んだとか、そんな手柄話をドヤ顔で書くというのが政治家の「回顧録」というものではないのか。

 あえて自分の一番苦悩したであろう3点を、苦悩のままに書くという真摯さに胸を打たれる。こんな真面目にやっていれば、3期目はなるほど「バーンアウトしてしまう」(潮谷の言葉)ことになったであろう。


 ぼくは町内会やその連合体の幹部を、行政側が手なづけて、あるいは煙に巻いて、「文句が出なかったので住民合意完了、一丁あがり」というやり方をしている様を各地で見てきた。住民の意思をくみとるために本当に努力している町内会もあるが、総じて行政が「住民合意」を振りかざすために都合よく使える道具として町内会は機能している。

 そのようなお手軽「住民合意」とは正反対の、「地方自治の本旨」として住民合意がここには描かれている。


団体自治の見本としての蜷川府政

地方自治の本旨」とは、要するに、人権保障と民主主義の実現という点にあり、このためには、「住民自治」が不可欠であり、住民自治を実現するための「団体自治」も不可欠となる。(浦部法穂憲法学教室』p.574)


 団体自治は、いわば国に唯々諾々と従うのではなく、自治体としての自分たちのことは自分で決めることである。時には国に逆らって。

 国策実行の道具であった戦前の地方制度が戦争と破滅を導いたという反省のもとに取り入れられたといえる。

 今日、例えば福岡市高島市政は、一見国とは違うような「先進的な」動きをしているように見える。しかし、高島のやっている政治は、国家戦略特区といい、観光呼び込み路線といい、「配る福祉から支える福祉へ」といい、国策路線の先取り、単に「露払い」「尻叩き」でしかない。


小説蜷川虎三 (西口克己小説集) 団体自治は、今沖縄県と国との闘争に典型的に見られるが、ぼくが最近印象深く読んだのは京都府蜷川虎三知事知事1950-1978年)についての小説であった。

 西口克己の『小説 蜷川虎三』には、蜷川が「地方自治の本旨」を考え抜くくだりが出てくる。

いったい、地方自治の本旨とは、なにか。虎三はつづいて〈地方自治法〉を精読した。その結果、虎三なりにいくつかのポイントをつかんだ。第一条には「……地方公共団体における民主的にして能率的な行政の確保を図るとともに、地方公共団体の健全な発達を保障する」とある。そして地方公共団体のうちの普通地方公共団体都道府県及び市町村なのである。第二条には「地方公共の秩序を維持し、住民及び滞在者の安全健康及び福祉を保持する」とある。また、「……その事務を処理するに当っては、住民の福祉の増進に努める」とある。つまり――と虎三は考えた――地方公共団体とは、住民の暮らしの組織であり、その本旨とは、結局住民の暮らしを守ることではないか、と。(西口前掲書p.142)


 蜷川府政が終わった時に毎日新聞社説でこの府政を「三十年近くにもわたって『住民の暮らしを守る』地方自治の精神を貫き通してきた」「“地方自治灯台”であったと評価してもよいのではないか」(1978年3月5日付)と書いた。


 中小企業の「ひき舟政策」、無担保無保証人融資京都食管、老人医療費助成など(現在これらの制度には様々な評価があるだろうが)、「住民の暮らしを守る」ことを基本に中央の政策とは別の路線での団体自治の在りようを掲げ続けた。


 結局「地方自治の本旨」とは、今ぼくが理解していることをまとめれば、住民の基本的人権を保障する(つまり「暮らしを守る」)ことを目的に、住民が住民自身で賛否含めとことん話し合って決める(住民自治)ということ、その際に国の干渉も受けないし、国とは独自に考える(団体自治)ということ……になるだろうか。


党派を超える瞬間

 議院内閣制の現場は政党間の力のぶつかり合いである。

 もちろん、いわば大統領である自治体首長選挙だって大きくは同じである。しかし、やはり大統領であるから、本来は党派を超えた包容力がそこに生まれなければいけない。そこは政治家個人のキャラクターによるところが大きい。ただし、馬奈木はそういう陳腐な結論にせずに、大きくはその背後にある住民の運動こそが自公推薦知事であったはずの潮谷を動かしたのだという史的唯物論的な確信を述べていた。

 そのような馬奈木の意見にも敬意を払いつつも、やはりぼくは首長のキャラクターというものを考えざるを得ない。

 潮谷の人生の歩みを読むと、社会福祉キリスト教慈善の精神が、あのような誠実な苦悩を生み、党派を超えてぼくの心を動かすのだと思う。


 蜷川は、府政晩期は共産党単独推薦で立候補をしていたが、もともとは吉田内閣中小企業庁長官であったし、社会党員になったし(形ばかりだが)、自民党から推薦状が送られてきたがゆえに共産党対立候補(河田賢治)を立てたこともあるような政治家だった。

 経歴を見てもその幅広さがうかがえる。

 そして、政敵・野中広務は次のように述懐する。

自民党府議として蜷川府政後半の一二年間、彼と対決した野中広務は「蜷川さんが二十八年間も知事の座にいたというのは、イデオロギーの問題ではなく、彼自身の魅力があった。それは、イデオロギー武装しようと思っても滲み出てくる日本人の精神とでもいおうか、彼はいわば生粋の明治人だった」と人柄を評価する。(岡田一郎『革新自治体』p.26-27)


 首長大統領であるがゆえに、その社会統合の象徴として党派を超える魅力がなくてはならない。「党派を超える」というのは単に八方美人ということではなく、与党だけでなく野党の論理を取り込むような、アウフヘーベンするような、より高い包括性が必要になるということだ。

批判とは、なにかものを外部からたたくというのではなく、いままで普遍的だとおもわれていたものが、じつはもっと普遍的なものの特殊なケースにすぎないことをあきらかにすることです。そのものを普遍的なものの一モメントにおとし、没落させる、これが批判ということです。(見田石介『ヘーゲル論理学研究 1』p.6-7)

 相手の批判が十分に取り込まれ、意識された、もっと大きな体系になっている。だから討論は意味がある、ということになる。*4

 革新であろうが保守であろうが、首長になる人にはそのような資質が必要なのだ。

*1:手元に正確な記録がないので、ぼくが聞いた「うろ覚え」の理解。

*2:この本は商業的にいうとタイトルで損をしている。いかにも説教くさい。しかし潮谷の立場はまさにこういう要約となるのだろう。自分の人生を正面に提示しようと思えば妥協なく真摯にこういうタイトルにしたのではないか。「売れるな〜」とか考えずに。

*3:住民討論集会にも様々な評価があることは、この『聞き書き』を読んでいてもわかる。

*4首長ではないんだけど、安倍政権はこの点でホント落第だと思う。また、福岡市の眦膸堋垢鰐擴疾討著書で述べているような“全員合意指向=「みんな病」の批判者”、“100人の合意より1人の覚悟”を地でいく典型的な「独創的実業人」タイプだ。一見「独創」的なアイデアを(その実、国策トレンドに従属して)バンバンやっていくやり方であり、社会合意をていねいに積み上げていく「地方自治の本旨」とは遠くかけ離れた人であろう。

2018-04-22 右傾化だって? 『社会のしくみが手に取るようにわかる哲学入門』

萱野稔人『社会のしくみが手に取るようにわかる哲学入門』

社会のしくみが手に取るようにわかる哲学入門~複雑化する社会の答えは哲学の中にある 「サイゾー」で萱野が連載していたものをまとめた本。

 ときどきの社会事象を、わかりやすく大もとから解説する。

 「わかりやすく大もとから」というのが、池上彰的なそれではなく、哲学的にやろうという態度。

 というのは、初心者の疑問というものはそもそもラジカルな、根元的な問いを含んでいる。そのことをきちんとわかりやすく説明しようとすると徹底的に考えざるを得なくなるからである。

 まあ、萱野の本書が結果的にその課題にうまく応えているかどうかは別問題であるけどね。


 「4 なぜ日本のポストモダン思想は不毛だったのか?」は次のような書き出しだ。

 私が大学に進学したのは1989年ですが、そのころの日本の人文思想界ではポストモダンが全盛期で、少しでも哲学や思想に興味のある学生はほとんどと言っていいほどポストモダン思想(として紹介されていたもの)に感化されていました。

 愛知県の某地方都市でさして文化度の高くない高校生活を送っていた私は、ポストモダンなどというものが思想界を席巻していることを大学に入るまでまったく知らず、したがって当時スタートしてあがめられていたデリダドゥルーズといった哲学者たちの名前も知らなかったので、大学で先輩や同級生ポストモダン用語思想家の名前をつかって議論を交わしているのをみて驚いたものです。(p.56)

 その上で、萱野は当時の状況を厳しく総括する。

ただ、その当時日本でなされていたポストモダン論議の大部分は、いまから振り返るとひじょうに空疎なものでした。そのころ日本でだされていた書物論文をいま読むと、あまりの無内容さと独りよがりな物言いに「よくこんなものにみんな熱中していたな」と恥ずかしくなってしまいます(もちろんだからといってドゥルーズフーコー議論が無内容だということではありません、あくまでも日本の思想界の話です)。(p.56-57)

 ポストモダン思想への嫌悪は、萱野の初期の著作『国家とはなにか』の頃からにじみ出ていて、その後の彼の著作を読むと端々にそれが感じられた。

 本書のこの部分では、岩井克人貨幣論』が槍玉に挙げられる。

ポストモダン思想における貨幣論では、往往にしてマルクスの『資本論』(第一巻:1867年)における価値形態論が引き合いにだされ、それが記号論的に読み替えられることで、次のように論じられることが定番でした。すなわち「貨幣貨幣としての価値をもつのは、みんながそれを貨幣として使っているからである(つまり、みんながそれを価値あるものとして受け取ってくれるから、私たちは紙幣を価値あるものとして受け取るのである)」と。(p.58)

 “こんなものは何も説明していない、単なるトートロジーではないか”と萱野は批判するのである。

 岩井克人が最近新聞に引っ張り出されてきて話をしているのをみたが、それはビットコインなどの仮想通貨についてのコメントであった。


 仮想通貨は、それ自体は無価値なものである。

 この点は紙幣と同じである。

 そのことはぼくも過日のエントリで書いた。

http://d.hatena.ne.jp/kamiyakenkyujo/20171224


 無価値なものが流通手段機能を果たし、通貨として働くのはなぜか?

 端的に言えば、岩井は「みんなが受け取ってくれるから」というわけだが、萱野は、本書で、「徴税力こそが貨幣の価値の裏づけとなる」(p.61)と言っている。萱野は徴税力を次のように補足的に説明する。

 徴税力とは単に政府の権力の大きさや国民からの支持だけを意味するのではありません。税を支払う人びと(国民)の経済力も、その政府がどれぐらいの額の税を徴収できるかを決定します。

 要するに徴税力とはその国の「国力」全体をあらわすものなんですね。(p.61)

 マルクスは紙幣がなぜ流通するのか、という問いに対して、国家による強制通用力があるから、説明していた。つまり、権力を持っていたからだ、というのである。


 権力を持っているから通用する、というのは「ほら、受け取れよ」ということを暴力をバックに強制できる、という意味であるが、マルクスの時代はその説明で済んだ。なぜなら、紙幣は価値の実態を持つ金(gold)の裏づけがあり、交換を保証してくれたからである。紙幣は単に「私は金100グラムを持ってますよ」という証明のようなものだった。


 しかし、今は金の裏づけはなくなっている。

 それなのに、なぜ紙幣という無価値なものが通用し続けるのか。

 萱野があげた「徴税力」は、いざというときは、国家が「徴税」という形で価値の実体のあるものをどこからか集めてきて引き換えてくれる、という意味にとっていいんじゃないかと思う。ぼく流の解釈だけど。

 そのコアにあるのは、国家権力、国家がふるえる物理的暴力の脅しである。

 ただ、いくら棍棒を持っていても、棍棒を振るわれる国民の方が富を持っていないと話にならないので、萱野のいう「国力」とは、「国家の棍棒+その国民の富」の大きさ、ということになる。いざというときは、その「国力」で、紙幣と富を引き換えてくれるから、安心して使ってください――こういう理屈で紙幣は通用する。


 この説明はなかなかよくできている。

 単に「国家権力の裏づけがあるから」という説明だけだと、例えば貧しい国家の紙幣はあんまり信用されない理由がわからない。貧しい国家は、いくら棍棒を振るっても国民も貧しいので富が集められないのだ。


 この説明は、ビットコインのような仮想通貨と紙幣の違いをも説明する。

 同じ無価値なものであっても、仮想通貨には「徴税力」の裏づけがない。だから、資産価値がゼロになった時(つまり「欲しい」という需要がなくなった時)、本当に無価値になってしまう。


 他方で、ビットコインのような仮想通貨がなぜ流通するのか、という説明としては萱野の説明は苦しい。岩井の説明、「みんなが受け取るからそれは貨幣なのだ」がまさに仮想通貨を言い当てているかのようである。


 萱野が不換紙幣・管理通貨制度下の紙幣の根拠が「徴税力」=「国力」であるというなら、逆に言えば、仮想通貨のようなものは通貨たり得ない、と主張していることになる。

 これは萱野の予言ではないか?

 つまり、ビットコインのような仮想通貨は実は通貨たり得ず、やがて消えて行くのだ、という。今通貨としての通用力をもっているのは、一時的な現象に過ぎない……と。いや別に萱野はこんなことを言っているかどうか知らないが、萱野の主張を延長していくとこういうことが言えてしまうのではないか。


 紙幣自体は、金と違い*1、価値を持たない、無価値なものである。

 しかし、紙幣は国家が「徴税力」=国力の裏付けを持っているので、いざという時はなんとかしてくれるかもしれないという期待がある。

 ところが、仮想通貨はそうではない。

 仮想通貨は、それ自体は紙幣と同様に無価値なものである。だから「1万円」という表示がしてあっても、それ自体が1万の価値を持っているのではなく、「1万円の価値物との交換をしてくれる」証票のようなものにすぎない。価値の実体的な裏付けも、客観的な担保もないのに、「貨幣として受け取る」という合意だけで成立しているのが仮想通貨である。これほど岩井の想定を裏付ける存在はあるまい。

 岩井は、朝日新聞のインタビューで、仮想通貨が無価値な流通手段のままでいることをやめて、分不相応な資産的価値を持ってしまったことを嘆いている。

――貨幣になるには、何が不足しているのでしょうか。

「いえ、逆に過剰な価値を持ってしまったのです。あるモノが貨幣として使われるのは、それ自体にモノとしての価値があるからではありません。だれもが『他人も貨幣として受け取ってくれる』と予想するからだれもが受け取る、という予想の自己循環論法によるものです。実際、もしモノとしての価値が貨幣としての価値を上回れば、それをモノとして使うために手放そうとしませんから、貨幣としては流通しなくなります」

https://www.asahi.com/articles/DA3S13318005.html

 もし、今の仮想通貨バブルが弾ければ、仮想通貨資産価値を持たなくなる。

 その時、初めてただの流通手段・決済手段としての純粋な通貨として仮想通貨が現れる可能性は確かにある。


 萱野的な予測が勝利するのか、岩井の理屈が勝つのかは、ぼくには今のところどちらとも軍配をあげにくい。


 なお、萱野は、本章を

国家は単に犯罪を取り締まり、市場での交換のもととなる所有権を保護することによって、外在的に市場とかかわっているのではありません。徴税をつうじて貨幣の価値を支えることで内在的に市場を構成しているのです。(p.63)

と結んでいる。

 これはマルクス主義を意識しているのだろう。

 つまり、資本主義国家は経済にとって外在的な存在なのだというアレだ。この点への批判もまた萱野が『国家とはなにか』から唱え続けていることだ。

 しかし、この萱野の考え(国家は貨幣という点で市場に内在的に役割を果たす)は、例えば近代初期において金・銀が国家の関わりなく国際的な決済に使われ、人々によって追い求められてきた、という歴史をうまく説明できなくなるマルクスは、商品経済の中で、貨幣が国家権力の媒介なく自立的に登場して「金」という形態を得ることを、萱野が参考文献として紹介したはずの『資本論』のなかで説明しているのだ。


 萱野の説明は、不換紙幣の説明としてはうまくできているが、それ以前の価値物としての貨幣、それ以後の仮想通貨を説明するのには向いていない、という気がする。


萱野は右傾化したか

 なお、萱野については「右傾化した」という批判がネットを中心に非常に多い。

 正直、本書でも各テーマのポジショニングだけを問題にすればそれは「右」の方にいるな、ということは言える。テレビや新聞で萱野の発言を見ていても、同断である。


 萱野は例えば『ナショナリズムは悪なのか』(NHK出版新書)でも表明しているし、本書でも上記のような物言いをしているように、自身の学生時代に自分の周囲にいたであろうポストモダン的な左派に非常に強い嫌悪感を覚えている。いったん、自身がそこに身を沈めつつ、違和感からそこを脱却したような感じであろう。

 ナショナリズムが俗悪な形で現れた時(例えばヘイトスピーチのような排外主義)、それは「反ナショナリズム」でいいのか、という問いの仕方は、ぼくは誠実なものだと考える。


 他に、萱野は例えばベーシック・インカムには批判的である。

 ぼくも現時点ではベーシック・インカムの現実的導入には課題が多すぎると感じていて、具体的な社会保障制度の改革が積み重なって結果的にベーシック・インカムのような「最低生活保障」に到達する、というのが一番現実的ではないかと思っている。だからベーシック・インカムに手放しで賛成する向きに批判的な萱野の気持ちはわからないでもない。


 萱野が結果的に「右」にきてしまっているのは、彼なりの知的誠実さの結果だと思いたい。むしろ萱野を乗り越えるつもりで左派は具体的対案を考えるべきで、萱野が「右」に行ってしまったこと自体を非難することに、あまり意味はないと思う。

*1マルクスの説明では、金はその採掘に莫大な労働量を投下すし少ない量で大きな価値を表すとされている。

2018-04-04 『ねないこだれだ』は「しつけ絵本」か

長谷川摂子『子どもたちと絵本』・せなけいこ『ねないこだれだ』


子どもたちと絵本 (福音館の単行本) 「マンガをどう語りたいか」という問題についていえば、ぼくはまず文体や語り口へのあこがれから入っている。

 よくこのブログで書いているように「関川夏央のように書きてえ」というのが出発点なんだけど、子どもを育てて絵本をいっしょに読むうちに、長谷川摂子『子どもたちと絵本』(福音館書店)に出会い、「こんなふうにマンガを論じたい」とも思うようになった。


 この長谷川の本について、ぼくは、ブログの中で、『よつばと!』を論じたときに、紹介した。

児童マンガとしての『よつばと!』 - 紙屋研究所 児童マンガとしての『よつばと!』 - 紙屋研究所


 ぼくは今度4月に出す拙著『マンガの「超」リアリズム』の中で、「2. いわさきちひろはどう批判されたか」という章で、長谷川摂子による痛烈ないわさきちひろ批判を紹介している。長谷川のいわさき批判はこの本(『子どもたちと絵本』)に書かれている。

 どこを見ても「いわさき賛美」しかない左翼業界に暮らすぼくにとって、なかなか新鮮な一文であり、引き込まれるように読んでしまった。


 そんな長谷川の本の語り口は、子育てとの関わりをリアルに結びながら、一見「エッセイ」の体裁を取りつつ、骨太の絵本論になっている。長谷川個人の特殊性・個別性に甘んじることなく、長谷川個人の感想が持っている特殊性・個別性の中に潜む普遍性を見事にすくいだしている。

 このようにマンガを論じたい、という気持ちでいっぱいの、一つの手本であった。


マンガの「超」リアリズム 例えば、『ねないこだれだ』は「しつけ絵本」かという問題を考えてみる。

 絵本につい託してしまいそうな機能として「道徳」「しつけ」がある。

 歯を磨いたり、早く寝たりするような「きまり」を教え込む絵本というのは書店にいけば、山のようにあるのだ。

 そういう「しつけ絵本」の「正しさ」に、乳幼児の親であったぼくは、2%くらい期待したけど、98%くらいはげんなりしたものだった。

 そして、そういう「しつけ絵本」と一見似ている絵本が、せなけいこ『ねないこだれだ』(福音館)である。

 表紙を見て思い出す人もいるだろう。

 夜更かしをしている子どもを、最後はおばけが連れて行ってしまうのである。

 筋だけ聞けば、完全に脅迫系しつけ絵本だ。


 しかし、長谷川は、せなの「いやだいやだの絵本」シリーズ(『ねないこだれだ』をふくむ『にんじん』『もじゃもじゃ』『いやだいやだ』の4冊セット)を次のように評する。

 大人はこわいものの話を、子どもをさとす方便に使っているけれども、子どもはこわさをバネに、想像の世界を色濃く紡ぎ出しているに違いない。大人のほうでも、現実と幻想の境界を見定めない子どもの迫真の想像力に便乗して、幼児のいる暮らしの心豊かさを味わっているのだと思う。

 わたしは、せなけいこの〈いやだいやだの絵本〉……を、そんな幼児のいる暮らしの正直な産物として受けとって、とても楽しんできた。(長谷川p.102)

 そして、これはいわゆる「しつけ絵本じゃねーの?」という疑問を「一面的」と退けた後で、次のような見方を披露する。

世の中の母親というものは、毎日子どもを叱り、なだめ、着替えや食事、睡眠と、暮らしの流れに子どもをのせていかねばならないのだ。その中で、子どもに話しかけねばならないことが、どんなに多いことか。けれど、「〇〇しなさい」「××しちゃだめ」といった命令と禁止の言葉の連続で一日が過ぎていくのは親も子もたまらない。食べさせたり、ねかせたりするとき、そんなあからさまな命令や禁止の言葉でなく、イメージ豊かな楽しい言葉かけで、子どもが生活のリズムにすすんでのってくれれば、どんなにか暮らしが、平和で落ちつくことか。そこのところが、幼児をもつ母親の生きる術(すべ)のようなものだとわたしは思っている。そういう親子の切実な関係から、せなけいこの絵本は生まれてきた。(長谷川p.103)

ねないこだれだ (いやだいやだの絵本) 長谷川は、しつけ意識ではなく、生活の野太いリアルを土台にした、しかし日常からの跳躍という、いわば想像力がせなの世界なのだとする。

 したがって、『ねないこだれだ』は「しつけ」として夜、寝る前に読むもんじゃない、と長谷川は批判する。むしろ、真っ昼間に、雨の日で室内でエネルギーを持て余している時なんかにキャーキャー騒いで楽しみながら読むものだと、長谷川は考える。

次々に出てくる、みみずく、どらねこ、ねずみ、泥棒、おばけたちはみんな、背後に夜の闇をただよわせてこわいのだけれど、子どもたちの心とまっすぐ手をつなぐおおどかさがあって、すばらしい表情をしている。(長谷川p.104)

 「おおどかさ」とは「おおらかさ」という意味である。

 本当にただ脅かして怖がらせるだけなら、『SIREN』の1シーンでも載せておけばいい。そうではなくて、「子どもたちの心とまっすぐ手をつなぐおおどかさ」がそこにはある、と長谷川はいう。

 だから、ラストのおばけに連れていかれるシーンは確かに「掛け値なしにこわい」と長谷川はいう。こわいよ。ぼくら夫婦、ぼくら親子も「KOEEEEEEEEEEEEEEE」とか言いながら読んでたもん。

 だけど、その「掛け値なしのこわさ」を長谷川は再解釈する。

けれど、最終ページ、星空を手をつないでとんでいる大小のおばけのシルエットは、じっと見ていると、どこかしら茶目っ気があって、こわさの余韻の果てに子どもの心の風景そのものを見ているような、ふしぎな奥行きを感じさせる。(長谷川p.104)

 「こわさの余韻の果てに子どもの心の風景そのものを見ているような、ふしぎな奥行きを感じさせる」という表現はまさに長谷川一流のものだ。子どもの心とつながろうとする長谷川の意思が、そこはかとなくにじみ出ている。

 

 そしてこの文章の終わりに、巷間にあふれる「しつけ絵本」を想定したかのように、長谷川は鋭い一撃を加える。

このたぐいの絵本は、イメージが思いきって飛躍せず、日常から横すべりしただけのものだと、作者の母親意識があらわに見え、子どもも大人も遊べない絵本になるおそれを、多分にはらんでいるのだ。(長谷川p.105)

 この一文は、子育ての現場での親と絵本の向き合い方が実によく出ていながら、それでいて痩せたしつけ・道徳論に堕さず、絵本のリアル・絵本の想像力というものを短く、鋭く剔出している。

 「こんなふうにマンガと子育てを論じられたらいいな」というあこがれで文章を書いていた。書いたものは似ても似つかぬものになってしまったが、ぼくが『マンガの「超」リアリズム』のもとになる連載を書いていた時、そんな思いで筆を走らせていた。

2018-04-03 現代の仏典か 『「若者」をやめて「大人」を始める』

熊代亨『「若者」をやめて「大人」を始める』

 

「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか? これは俺のことが書いてある本じゃないのか? と思った。

 「若者」のやめどきを見失い、いつまでもオタクライフの「最前線」にいるようなつもりになって、そのステージから降りられず、とはいえ実態としてはとっくにそんな第一線からはおいてけぼりをくっている。しかも体がついていかず、仕事にも家庭にもオタクライフにも支障、つうか破滅してしまう。

 いや、ここまで劇的な破綻っぷりじゃない。

 だけど、20代から30代のころに続けてきたオタク生活がどうもうまく続けられない。ブログで書いたこともほとんど反応がない。つまり自分の体力ももう昔のように徹夜はできないし、「これが面白い」という感覚も若い人とズレてきているように思える…。

 本書は、こうした問題を、「あなたは若者から大人への移行をうまくできていないんじゃないか?」と諭しているのだ。俺のことじゃねーか。


 そういう移行は、結婚・子育てというライフイベント、そして職場では部下をもつようになる昇進によっておそらく果たされてきた。つまり「後進を育てる」という契機が外から与えられることになる(本書ではさらに地域社会での「子ども会」→「青年団」→「町内会」のような移行についても書いている。そのしくみは解体しているが)。

 簡単にいえば、その「後進の育成」に楽しみを見出せ、ということになるのだが、それは自分を大きく変えるような若者的成長をあきらめろ、という道でもある。

 加齢にともない自分が「何者かになる」=立場やアイデンティティを確立するという安定への志向(焦燥)と、同時にアイデンティティや立場を固定して成長できずに停滞することへのおそれというジレンマ、若者から大人への移行の危機をどう乗り切るのか、というのが本書のテーマでもある。

 その提要はなにか?

 本書は「変化できなくなった自分―フットワークの重い自分―流行に鈍感な自分―そういう未来の自分を、あなたは肯定的に捉えられますか?」(p.96)と覚悟をうながしたうえで次のように諭す。

全面的に「若者」的に生きていくのではなく、どうしても必要なところだけはアップデートして、それ以外の部分はいままでに確立したやりかたを変えずに生きたほうが楽で、なにより効率的です。(p.97)

 仕事や家庭ではこの生き方はあまり矛盾なく受け入れられる、というのがぼくの実感。

 問題は、これをオタクライフにどう適用するのか?

 本書ではいくつかの処方箋が用意されているが、その一つがこれだ。

いちばん簡単な方法は、自分が若かった頃に好きだったコンテンツや、その続編シリーズだけを追いかけていくことです。(p.194)

 当然この方針には疑問がつきまとう。これは新しいものを受け入れられなくなった、保守的で懐古趣味のおやじ・おばさんの成れの果てではないのか。それはオタクの死だ、ああはなりたくない、反面教師ではないのか、と。著者・熊代は次のように我々を諭す。

ですが、サブカルチャーを心底楽しんでいた青春時代が終わって、もっと他のことにも目を向けなければならない年頃になってからの落としどころとしては、いちばん無理がありませんし、そういった道を選んだからといって、人生の選択を誤っているとは私には思えません。むしろ、自分にとって本当に大切なコンテンツに的を絞ることで、最小の労力で自分の趣味の方面のアイデンティティをメンテナンスし続けられているとも言えます。(p.195)

 ぼくはこの語りに諭された。なるほど、と。

 もうちょい言えば、楽になった(少しだけだが)

 本書にはいくつもの仏教タームが登場するように、本書は煩悩や迷いに対してどう心の安定・平安を得るのかという、まるで仏教書のようである。前にも述べたように、仏教は人生のいろんな局面で起きる迷いや執着を達観し、悟りを開く精神コントロール術だと思うので、熊代の本書はいわば現代の仏典とも言える。仏教者は、本来このような悩みに応えるべきではなかろうか。


 ただ、熊代の語りに諭されたからといっても、熊代の結論に自分の行動を従わせるというふうには思わなかった。

 自分はもともとマンガを通じて社会や人生を語り合うという、関川夏央のような語りをめざしていたので、引き続き自分なりの語りを追求していけばいいんだろうと改めて思い直した。今のマンガがわからなくなっている、面白がれずにいる、という感情が生じてもそこに焦燥を感じる必要はない……と。

マンガの「超」リアリズム ついでに宣伝するけど(別の機会にまたいうけど)、今回本を出すことにしたが、そこでは自分のこのような原点に戻っての語りをしている。

 というわけで本書の圧巻は第7章であった。最も読み応えがある。


8章は納得いかぬ

 最後の8章は、人生全体にこの悟りを押し広げているのだが、ここはほとんど共感し得ない。正直に言えば「あいまいで何を言いたいかわからない」といったところだ。

 熊代は「良いことも悪いこともすべて自分の歴史になる」と述べた後で、

個人史も、数人単位の家族関係やコミュニティの歴史も、もっと大きな国や社会といった最大単位の歴史さえすべて繋がっていて、最終的には歴史の大河をかたちづくっています。良い行いも悪い行いもすべて有意味で、大きな歴史の一滴となって堆積していくのです。(p.220)

といっている。

 これはぼくが前に述べた、人生の意味ということに似ている。

http://d.hatena.ne.jp/kamiyakenkyujo/20160609/1465400752


 しかし、確かに歴史は「良い行いも悪い行いもすべて有意味で、大きな歴史の一滴となって堆積していく」かもしれないが、そこに自分が貢献したという思いを込められるのは、歴史に進歩という物差しを導入しない限り、無理だろう。自分のやったことが、人類史の進歩に貢献したかどうかだ。それはマルクス主義者か進歩主義者であってのみ、可能なことだ。

 自分は反動に奉仕したのか、進歩に貢献したのか。そこが大事なところだ。

 まあ、でもそこはそれ。

 自分と年齢も近く、本業を持ちながらネットを通じて文章を書き、本も出している――という経歴が自分に似ていて興味深く読めた。そして、小さな気づきを得た本であった。

2018-03-14 朝鮮戦争の構図で今をとらえろ 『朝鮮戦争は、なぜ終わらないのか』

五味洋治『朝鮮戦争は、なぜ終わらないのか』


 ちょうど一年前くらいに書いた記事の通りで、今ぼくが自分の中で一番大きな心配をしているのが米朝の衝突である。そのことはこの1年間変わらなかった。*1

http://d.hatena.ne.jp/kamiyakenkyujo/20170417/1492360721


 九州に住んでいる、そして日米安保条約下の日本に住んでいるぼくとしては、戦争に巻き込まれる危険を強く感じた1年であった。

 奇しくも1月に発表された内閣府の調査でも

現在の世界の情勢から考えて日本が戦争を仕掛けられたり戦争に巻き込まれたりする危険があると思うか聞いたところ、「危険がある」とする者の割合が85.5%(「危険がある」38.0%+「どちらかといえば危険がある」47.5%)、「危険はない」とする者の割合が10.7%(「どちらかといえば危険がない」8.1%+「危険はない」2.5%)となっている。

https://survey.gov-online.go.jp/h29/h29-bouei/2-6.html

ということが鮮明になった。

 興味深かったのは、巻き込まれる理由として「日米安全保障条約があるから」をあげた人が16.4%もあったことだった。昨年度は12.9%だから上昇している。

 ぼくが前の記事で書いた、そして一貫して主張していることでもある。

日本が不条理に着上陸侵攻されるわけでもない事態なのに、日米安保条約があることによって、日本が米軍の戦争に巻き込まれ、軍事攻撃を受けるリスクにさらされている

http://d.hatena.ne.jp/kamiyakenkyujo/20170417/1492360721

 だから、米朝が直接対話をする方向に傾いたことは心から歓迎している。戦争以外にはそれしか解決方法がないのだもの。


朝鮮戦争は、なぜ終わらないのか (「戦後再発見」双書7)


朝鮮戦争の継続、そのもとでの日米安保として現在の朝鮮危機をとらえる

 さて本書である。

 タイトル『朝鮮戦争は、なぜ終わらないのか』が示す通り、現在の北朝鮮をめぐる緊張を、朝鮮戦争の継続、そして朝鮮戦争を直接の原因として作られた日米安保体制のもとでの日本の位置、という構図から考えている

 小学生の娘のクラスでは「北朝鮮の無法」は同級生の間のジョークになるほど浸透しているし、この前娘の「2分の1成人式」とやらに行ったときには、ある男の子が将来の夢としてミサイルを防げるロボットの開発者になりたいという作文を読んでいた。*2

 テレビだけから情報を得ている人の頭の中が拡大辞で反映されているようで興味深かった。

 すなわち「北の狂気じみた無法」という側面だけがそこにある。

 むろん、北朝鮮の核開発は国際法を無視したものであることは疑いない。

 しかし、いま朝鮮戦争がただ「休戦」しているだけで、法的には継続していて、日本はその一方の当事者の側に立って事実上の兵站を担い、米側は北朝鮮のすぐ南の韓国に軍隊を駐留させ、北朝鮮の近くで軍事演習という示威をして続けている、という構図の中でとらえなければ、問題の解決には近づけない。

 本書は、その構図の「そもそも」のところから、ぼくようなシロートにもわかるように問題を解き明かしている。

 ぼくは、前の記事で、

 横田の米軍基地には、国連旗が掲げられている。

 休戦状態にあるが、横田にいる「朝鮮国連軍」は事実上の米軍であり、形式の上では、いまなお北朝鮮と戦争をしている当事者の基地なのである。

http://d.hatena.ne.jp/kamiyakenkyujo/20170417/1492360721

と書いたけども、「朝鮮国連軍」の存在に本書は問題を解く鍵を見ている。

なぜ北朝鮮は休戦協定を結んだ相手の国連ではなく、アメリカを相手に、休戦協定を平和協定に切りかえるよう求めているのでしょうか。(五味p.234)

 そして五味自身は、この問いをあまり深く考えたことはなく、

朝鮮国連軍の主体が米軍だからだろうという程度の理解でした(同前)

という認識を吐露し、自省をしている。

 「朝鮮国連軍の主体が米軍だからだろう」ということでないとすれば、一体なぜなのか。

 そこに働く北朝鮮という国のロジックを平易に、五味は記している。どのようなロジックであるかは、実際に本書を読んでほしいのだが、本書を読むと北朝鮮という国がかなり理屈っぽい国であることを感じる。ただの「狂犬国家」だという認識でいると、間違う。


 五味は、逆に、アメリカがこれまで朝鮮国連軍を解体せずに、韓国に駐留し続けてきた理由についても考察している。そして、朝鮮国連軍の解体を思い切って提案する。

 今日のニュースで米朝会談を前にして、北朝鮮側が「在韓米軍の無条件撤収」を改めて主張したことが報じられていた。

北朝鮮の国営メディアは、韓国に駐留するアメリカ軍について、「南の人民が願うのは、朝鮮半島の平和を脅かすアメリカ軍の無条件撤収だ」と主張し、ことし5月までに開かれる見通しの米朝首脳会談を前に、従来の立場を改めて示しました。

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20180314/k10011364961000.html

 「在韓米軍の撤収」と「朝鮮国連軍の解体」は別の要求である。

 だとすれば、在韓米軍の撤収を主張しつつ、朝鮮国連軍の解体を落とし所にして平和協定を結ぶということもあるのかもしれない。まあ、それは門外漢の、なんの根拠もない、床屋政談の域を出ない雑談であるが。

 ただ、それでも、ぼくらは「北朝鮮の無法」という一面だけでなく、あくまで「朝鮮戦争の継続」という構図の中でこの緊張に接しているのだということは忘れるべきではない。


日本が戦争に巻き込まれるかもしれないという正当な強調

 そして、本書のもう一つの大事な問題提起は、日本が戦争に巻き込まれるかもしれないという側面の正当な強調である。

日本にとって朝鮮半島が「きびしい情勢」であるのはまちがいないでしょうが、その一方で、私たちにとってみれば、「朝鮮国連軍」を中心とした現在の対立構図を維持していくことは、アメリカの極東戦略や世界戦略に、日本が軍事的に否応なく巻きこまれていく危険性がつづくことを意味しています。(五味p.270-271)

 このことを、五味は単に最近の情勢からだけではなく、日米間の密約などにさかのぼって解明している。

 さらに、本書で大事な点は、朝鮮戦争における日本の協力の歴史を書いていることだ(本書第4章「朝鮮戦争と日本の戦争協力」)。その歴史の延長として、継続している朝鮮戦争への後方支援基地として現在も日本が存在し、密約によって戦時になればそこに参加してかざるをえないことが、本書によって平易にわかる。

 非常に重要な解明だ。


 なぜ、日本の左翼はこのような「構図」「絵図」をもっと示さないのか。


 平和的解決をしなければ、甚大な犠牲が生じるということは、確かにぼくが恐れる最も危険なポイントであるし、それは右派・保守派を含めて合意せざるを得ないことだ。

 しかし、朝鮮戦争の構図に立ち入って、日本がその兵站基地を担っている危険・有害性を暴露するのが左翼の役目ではなかろうか。


 北朝鮮側に立っているかのように思われるのが怖いからか? 

 しかし、日米安保条約の最大の有害性は他のどこでもない、まさに今ここに現れているのであって、それを暴かなくてどうして日本の左派たり得るだろうか。


 この点で、本書は非常に貴重な役割を果たしている。

 今この時期にこそ読まれるべき1冊である。


余談2話

 一つは、やっぱり『この世界の片隅に』。

 ぼくは最初からその作品を読んだ・観た一人として、空襲というものの現実的危険について考え、声を上げざるを得ないと思っている。そのことは前の記事でも書いた。

http://d.hatena.ne.jp/kamiyakenkyujo/20170417/1492360721

http://d.hatena.ne.jp/kamiyakenkyujo/20170503/1493804521

 そして「ユリイカ」で論考を書いたときも、『この世界の片隅に』を「反戦マンガ」「戦争マンガ」として捉える角度で寄稿した。

 そういうものとして読まない人がいるのは勝手であるが、目の前で起きている戦争の危険や空襲の現実化の危機にあえて意識を鈍麻させ、現実と創作の想像力とを切り離し、できるだけその結合を「偏った」意見として排するつもりであるなら、一体『この世界の片隅に』を読み、観て涙したものは何であったのかとさえ問いたい。


 もう一つは、空襲被害者救済法案の骨子素案が超党派でまとめられたこと。

空襲被害者救済、一時金法案の素案を了承 超党派議連


 太平洋戦争中の民間戦災被害者の救済問題に取り組む超党派の国会議員連盟は27日、国会内で総会を開き、戦災による身体障害がある人に限り、50万円の一時金支給などを柱とする素案を了承した。各党で調整し、今国会で議員立法による提案をめざす。国はこれまで民間被害の救済に消極的で、実現すれば初の国費による給付となる。

……1970〜80年代、旧社会党を中心に「戦時災害援護法案」が国会に14回提案されたが、すべて廃案になった。自民党を含む超党派での国会提案は初めて。各党内での手続きを経た上で、今国会に提案し、成立をめざす。

https://www.asahi.com/articles/ASK4T73Y4K4TOIPE034.html

 空襲の被害を救済することは、空襲の被害に向き合うことである。空襲を生み出す戦争という現実を「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意」のもとに変えねばならない。条約を結び一方の兵站を担っているという現実を直視することに、それはつながる。

 

*1:他の問題がくだらないという意味ではない。

*2:ちなみに娘の夢はマンガ家だった。