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2018-09-23 仏教の生き残り方 『なぜ今、仏教なのか』

ロバート・ライト『なぜ今、仏教なのか 科学の知見で解く精神世界』


 仏教は、湧き上がる不安や欲望――つまり「煩悩」をどうコントロールするのかという無神論の精神管理技術じゃねーのか、ということをブログでもくり返し書いてきたんだけど、

http://d.hatena.ne.jp/kamiyakenkyujo/20151025/1445776901

http://d.hatena.ne.jp/kamiyakenkyujo/20180224/1519454846

http://d.hatena.ne.jp/kamiyakenkyujo/20180403/1522728098

それは別にぼくオリジナルの大発見とかいうわけではなく、すでに初期仏教の核心だけを取り出して現代化した「西洋仏教」ではフツーの解釈(無神論であり瞑想を中心とした宗教)なのだとこの本を読んで今さらに知った。


なぜ今、仏教なのか――瞑想・マインドフルネス・悟りの科学 本書(熊谷淳子訳、早川書房)はこの立場をさらに徹底している。

 ダーウィンの自然選択とか、心理学上の成果をちりばめながら、欲望や不安を解釈し、その管理技術として、仏教の世界観と瞑想技術はまあ役に立つよ、ということを書いている。

 しかも本人は「俺は悟りを開いたぜ」「瞑想の天才だよ」的なドヤ顔トークがまるでなく、むしろダメ瞑想参加者、悟りとは程遠い人間として語っていて、逆にぼくのような「無宗教現代人」が読んだ時に宗教書としての説得力は格段に大きくなっている


日経書評を読んで読もうと思った

 もともとこの本を読もうと思ったきっかけは日経2018年9月1日付)の書評だった。本書の核心部分がとても短い言葉ですぐれた要約がなされているので紹介する。

 私たちの心はいくつもの「モジュール」でできており、それらが常時主導権を奪い合っている。また何かを知覚するときに善しあしの価値判断を抜きにすることはできない。人間の心はそういう挙動をするようにできたシステムであり、それを制御する方法が瞑想だという。

https://www.nikkei.com/article/DGKKZO34832190R30C18A8MY7000/

 もう少し詳し目の要約は本書の巻末につけられた「仏教の真実一覧」とした12のテーゼでわかる。


 著者ロバート・ライトによれば、認知科学心理学の成果では、ぼくらが思っているような「自分」を統御する単一の主体(ライトのふざけた言葉でいえば「CEO自己」)というものはない。心の中にある「モジュール」(構成単位、部品)の争いでしかない、という。

 この発想が仏教「無我」に違いことはすぐわかるだろう。


 人間が今のような文明社会を築くはるか前に、自然選択によって生まれたもので、例えば砂糖がけのドーナツを物欲しそうに次々求めてしまうような甘いもの好きはそうした方がカロリーを集め生きるために有利だったからで、しかも「あま〜い、おいし〜」という満足感の報酬が長く続かないのは、いつまでも満足してもらっていては生存戦略上困るからだという。「ああ、もっと甘いものはないかな」といつも不満足に甘いものを求めていないと生き延びられない。

 しかし、現代の文明社会ではこれは余計なものになってしまっている。

 過剰なカロリーを取り、健康を損ねるからだ。

 だから、人は何か欲望したこと、理想としていたことが満ち足り続きはしないという。いつも不満であり、飽き足りないと。


 では、こういう欲望を「自己」が統御できるかというと、そんなことはないとライトはいう。モジュール同士の争いであり、闘争して勝利して報酬をえたモジュールは力をつけるので、次もまた勝ちやすい。

 瞑想の一つのタイプは、このモジュールの動きを否定しようとするのではなく、モジュールが動き出す様をじっくりと眺めてみてはどうかというのである。自分の中で欲望が駆動してくるのを、あたかも他人のように眺め続けるのだ。

 自分では制御できないモジュールがあって、それは自分じゃねーんだよ、ということを受け入れて眺め続けるしかない。

 しかしそうやってまるで他人事のように自分の中の衝動を眺め続けた結果、ひょっとしたら、その衝動を自分ではない他人のように眺められることもある……かもしれない……とライトは気弱にいう。自分の小さな成功体験をそこで控えめにいう程度なのだ。いつも成功するわけではない。


 ぼくは仏教を精神のコントロールだと言ってきたが、むしろ仏教は、感覚や意識のありようがコントロールできない部分があることを受け入れることから始めると言える。

ブッダが言っていたのは、基本的に「いいかい、あなたのなかに自分の思いどおりにならない部分があって、それがあなたを苦しめるのなら、悪いことはいわないから、それを自分と同一化するのをやめなさい」ということだ。(p.94)

自己がコントロールをにぎっていないこと、そしてある意味で自己が存在しないかもしれないことを受け入れれば、自己(あるいは自己のようなもの)にコントロールをにぎらせることができるかもしれないという矛盾だ。(p.118)

 自分の感覚に固執しない、つまり感覚が絶対固定のものだと見なさないこと自体が、感覚を「空」(くう)だととらえることになる。

 しかもそれだけではない。

 対象となっている客観物でさえ、ぼくらは固定した本質を持っていると思いがちだが、そもそも客観物自体(そしてそれを眺めてている「ぼく」=自我さえも)が相互に依存するものから成り立っているのであり、決して不変固定なものではない。

 だとすれば、客観物や「私」に備わっていると考えていたものに執着したり、固執したりすることもおかしなことではないのか――これが仏教でいう「縁起」(相互依存)であり「無色」(弁証法的運動)である。まさにヘーゲル


怒りや欲望をなくすのではなく明晰に見えるようになる

 では、瞑想によって、欲望、渇望、不安、怒りなどに打ち勝って、平安無事な境地――涅槃ニルヴァーナ)にいけるのか?

 ライトは、いやそんなことはないなあ、少なくとも自分はね、とまたしても控えめにいう。

私は悟りを求めてはいるけれど、悟りを境地ととらえるかわりに、過程ととらえている。……ゲームの目的は、少し遠い未来に真の解放や真の悟りにいたることではなく、それほど遠くない未来に少しだけ解放され、少しだけ悟ることだ。(p.304)

 悟りは境地ではなくプロセスだという。

 欲望や渇望、不安を否定せず、明晰に見る。

 見えるようになることでその付き合い方が生まれるということだ。それは感情がなくなるというのではない。

 このことは、ライトの次の文章でぼくには腑に落ちた。

一つ例をあげると、私は過去二〇年間のアメリカによる軍事介入のほとんどがあやまちであり、脅威に対する過剰反応とそれによる深刻化の実例だと考えているし、軍事介入を強く支持してきた人たちには腹が立ってしかたがない。そして、ある程度はこのまま腹を立てていたいと思う。瞑想の道を突き進んでニルヴァーナに近づきすぎ、闘争心がなくなってしまうのはごめんだ。完全な悟りにいたることが、どんな種類の価値判断をするのもやめ、改革を要求するのもやめることなら、私を抜きにしてもらいたい。しかしそのような地点までたどりつく危険性は、少なくとも私にとっては間近に差し迫ったことではない。とにかく、設問は、そうした人たちとのイデオロギー闘争を賢明かつ誠実に展開できる地点まで私がたどりつけるかどうかだ。それはつまり、私の自然な傾向より客観的に、ある意味でより寛大にその人たちを見ることができるかどうかだ。(p.310-311

 これは本当にすばらしい態度だ。

 理想と言ってもいい。


 仏教がもしも欲望や煩悩を「なくして」しまうものであるなら、そう、まさに政治の世界の闘争心を奪ってしまうものなら、ぼくもご遠慮こうむりたい。しかしそうではない、とライトはここで明確に述べている。

 相手への怒りで前が見えなくなる、公正な判断ができなくなるほどの曇りようをするのではなく、明晰にそれを見ること、その感情と受け入れること、そして逆に自分に不利な材料への不安を受け入れることでもある、とライトはいう。

 ネットでそれぞれの陣営が怒りのままに我を忘れて相手を罵り合うという問題への処方箋そのものである。なんという現代性。

 もちろん、それだけでなく、例えば子どもを失った悲しみとか、激しい性欲とか、そういう問題にも応用が可能なものだろう。

 本書の特徴をまとめた日経の次の部分にも圧倒的に賛同する。

神秘的な仏教の概念を、普通の人に理解できる言葉で説明したところが本書の手柄だろう。/認知科学心理学の知見に基づく記述とユーモアあふれる語り口が、本書を一味違った仏教入門書にしている。

https://www.nikkei.com/article/DGKKZO34832190R30C18A8MY7000/

ぼくの田舎で信仰されている世俗仏教との差

 さてここまで仏教の現代性を見てきた上で、いまぼくの田舎の実家で進行しているような「仏教」のありようとの差について最後に考えて見る。


 もともと、仏教は(自分あるいは肉親の)「死」の恐ろしさ、悲しみ、苦しみとどう向き合うかということから生まれたものであり、葬式・法事は肉親の死への悲しみに対する一つの向き合い方だった。直後の悲しみに付き合いながら、次第に忘れていくような儀式装置だ。

 実家の父親や母親たち(そして多くの仏教の世俗信仰者)は、それを素朴な祖先信仰と結びつけている。死者はあの世に行って、お盆に帰ってくる。そのような連綿と続く「家(イエ)」の一員として、「イエ」を受け継いでいくこと、歴史のリレーをすることに自分が生きる存在意義を感じている。だからこそ、ぼくの父母にとって墓や仏壇や、それらを管理する寺は重要なものなのである。


 このような日本の世俗の「仏教」と、ライトが描いた、そして西洋で興隆する瞑想を中心とした精神管理技術としての仏教とは、共通点もあるが、かなり隔たりがある。

 「イエ」を軸にした従来の日本の世俗の「仏教」は少なくともシステム(特に寺を軸にした檀家制度)としては維持できまい。

 ただ、そのシステムのうち、葬式と先祖供養というか、死の悲しみの受容、それの一定期間での回顧、そして自分のルーツに関わる部分を管理したり偲んだりする部分はこれからも必要とされる。

 西洋仏教的な精神コントロールとしての現代性を軸に若い人を獲得しながら、「死」の管理、つまり葬式・法事・先祖供養を思い切って合理化・統合することに成功すれば、世俗仏教(の界隈の産業)は生き延びられるのではないかと思う。ただしそれは相当なリストラ、スリム化が必要になるだろうけど。

2018-09-19 誰が読むのか 『公務員が議会対応で困ったら読む本』

田村一夫『公務員が議会対応で困ったら読む本』


公務員が議会対応で困ったら読む本 誰が読むんだこんな本…。

 といいつつ、買って読んで面白がっているのはぼくである。

 地方議会で答弁するのは、首長知事とか市長)だけじゃないの? と思う人もいるかもしれない。「いや市長だけじゃなくて担当の役人が答弁しているのをなんか見たことあるよ」と答えた人は、地方議会を何度か傍聴したり、テレビで関心をもってみている人であろう。「本会議では部長答弁、委員会では課長答弁」と答えたあなたは、ただのマニアである。*1


 本書は東京多摩市副市長までつとめた著者が、こうした部長・課長クラスはもとより、その答弁準備をする部下たちのために書いた、実にニッチな本である。類書もあるのだが、実名でこの種のノウハウ本を書けるというのは珍しい。


 「ご飯論法」が少し話題になったけど、安倍政権の答弁や話法のひどさは別格として、「昔からある役人の答弁術」というレベルの話でいえば、そのレトリックはどうなっているのかを学べる奇書である。

 本書の中身を少し紹介してみよう。


答弁には議会ならではの「定型フレーズ」がある。臨機応変に使えるよう身につけておこう。

  • 「確認する」……事実を確認する。
  • 「調査する」……主に外部の情報を収集し、実態を把握する。
  • 「研究する」……実施可能性を勉強する意味で、検討よりも消極的なニュアンス。
  • 「検討する」……実施できる可能性はあるが、執行部側としての方針が未定の場合に使う。
  • 「前向きに検討する」……実施の可能性が高く、取り組むことが効果的な場合に使う。
  • 「対応する」……何かをしなければならないときに使う。
  • 「実施する」……執行部側の取組み方針が決まっている場合に使う。
  • 「いかがなものか」……同意・賛成できない場合に否定的な意味合いで使う。

(本書p.27)


 もちろん、これは著者・田村の経験での使い方であって、全国の地方公務員の間でこれに準拠するなどというマニュアルがあるものではない。自治体によって使い方が多少、あるいはまったくちがうところもある。ただ、ここにニュアンスの差があるのだ。


 他にもある。

 ぼくがよく傍聴する福岡市議会で見てみよう。

 たとえば「今後とも」。

 旧民主党系の議員の質問で「市の東と西に農業と身近に森林浴を体験できるような公園整備を検討してはどうか」というのがあった。

 これに対する住宅都市局長の答えは、「今後とも、市民に身近な公園整備を進めるとともに、市民やNPOなどと連携し、農業体験や樹林の保全活動など、自然に触れ合える取り組みを進め、生活の質の向上につながる魅力的な公園づくりに取り組んでいく」である。

 一瞬聞くと「あっ、『公園整備を進め』たり、『公園づくり』に『取り組んで』くれるのかな?」と思ってしまう。

 しかしここで曲者なのは「今後とも」である。

 「今後とも」とは、「今すでにやっているし、これからもやっていきます」という意味だ。

 つまり「もうお前の言っている趣旨のことはすでにやってるわ。新しくやる気はねえよ。バー」という意味でしかない。


 こんなもん、知ってどうなるのか、と思うかもしれない。

 しかし、ぼくらは何かのきっかけで署名運動をしたりするかもしれない。幼稚園の存続とか、家の前に大型の道路をつくらないでほしいとか。そういうときに、人はにわかに議会に興味をもつ。というか、もたざるを得ない。

 そんなとき、相手が言っていることに、だまされないことが大事だし、逆に過剰に失望したりしないことが大事なのだ。


 よくあることだが、公園をつくってほしいという署名運動をやっていたとして、相手が議会で「つくります」といわなかったことをもって「もうだめだ」とあっさり失望したりする。そんなことを簡単に言うわけがないのである。

 だいたい本書の150ページになんと書いてあるか。

議員の主張がもっともだと思っても、そのまま受け入れてしまうような答弁を管理職がしてはならないことを肝に銘じて欲しい。(p.155、強調は引用者、以下同じ)

 おいおい「肝に銘じ」られちゃったよ。

 というぐらい、課長クラスではやってはいけないのである。(もちろん、市長(理事者)はやってもいい。)

 「前向きに検討します」はよく日常会話では、役人の「逃げの言葉」として皮肉られるんだけども、上記にあるように議会答弁でこのフレーズが出たら、実は相当積極的に考えているシグナルだと思っていい。喜ぶべきことなのだ。

 「研究します」「検討します」だって、動きのある答弁なのである。

 運動は粘り強くないといけないのだから、ゼロかイチかで一喜一憂するようなことではいけない。そのためにもこのニュアンスの差を知っておくことは悪いことじゃない。

 もちろん、さっきも言ったようにこれはマニュアルじゃない。

 本当に言い逃れで「検討します」という時もあるだろうし、逆に与党などの顔色をうかがってはいるけども、本当は実施したい気持ちで「検討します」を言う時もあるだろう。そのあたりはまさに「文学」である。


 他にも、この本は、そうだな、議員などが読むといいと思う。

 というのは、役人(執行部側)がどんな(ヘンな)努力をしているかを知れるからだ。

 たとえば、議員からの資料要求に「どこまで応えるべきか」というQ&Aがある。

提出資料については、基本的に大まかな内容のものにとどめておくほうがよい。できれば事業概要や決算資料で使ったデータ程度で済ませることが望ましい。あまり細かな内容のデータを渡すと、後で突っ込まれる恐れもある。(p.77)

 事業概要や決算資料が来たら、バカにされているということなのだ。(とはいえ、その程度のデータさえも知らない議員が多いので、それだけでも大喜びしてしまう議員は多数実在する。)

野党的な立場の議員に対しては、必要最低限の情報を提供する。つまり、聞かれたことだけに答えることに徹し、議会で相手の思惑に使われてしまいそうな心配がある情報についてはできるだけ出さないように工夫しよう。(p.76)

 あけすけである。

 公然と言う、言わないは別にして、役人はこう思っているだろう。

 だから、資料の取り方を工夫しないとまずいのである。

 「朝ごはんについて資料を求める」という質問に「食べた」と一言書いたペーパーをもっていくのが役人的にはベストなのだ。朝ごはんの種類や量、経年での推移などをよくわかるようにと「サービス」して持っていっては絶対にいけないのである。(安倍政権で横行する「ご飯論法」はこの領域を超えている。「朝ごはんを食べたか」との問いに「食べておりません(心の中のつぶやき:ご飯でなくパンは食べたけどね)」と答えるのだから。事実上のウソである。)

 ゆえに、資料の取り方を議員(とくに野党議員)は工夫しなければならない。

 相手が出さざるを得ないような、うまい取り方を。


 「施策の明らかな欠陥を指摘されてしまった」というQ&Aもある(p.116)。

 ここでもやはり、

担当課長も部長のその場で結論を出すことは避けなければならないし、審議途中での方針修正はしてはならないと考えるべきである。(p.116-117)

というぐらいかたくなである。

 議会の場では基本、執行部側はまちがいを認めない。

 それでも、絶体絶命に陥る瞬間がある。

そのような事態になったときには、議会事務局(→議長)に申し出て一度審議を中断してもらい、理事者や関係所管により対応を速やかに協議しなければならない。/対応策について一定の結論に至った場合、あるいは対応策がまとまらなくとも、何らかの修正が必要だと判断した場合には、議会を再開してもらい、再開後に「議員の指摘はもっともな点もあるので、早急に調査検討を行い、改善すべき点は改善する」などと答弁することになるが、これは理事者の役割と考える。(p.117)

 つまり、いったん審議が中断して答弁が変われば、「まいりました。ごめんなさい」といわなくても、追及側のポイントなのである。

 ぼくはつい最近、これを福岡市議会でみた

 公共事業の残土を不法に捨てているのではないかという共産党側の追及で何回も同じ答弁をくりかえしていた局長に、後ろから何回もメモが回ってきて、最後は「業者に確認して県に伝える」と答弁を変えたのである。


 「野党的な立場の議員の質問に肯定的に答弁しなければならない」というQ&Aもある。

 市側が内部検討をはじめていた問題を、野党議員に先に質問されてしまった場合、「やりまーす」「あっ、それやるつもりでした!」などと能天気に答えてはいけないというのである。

ストレートに肯定的な答弁をすると、今度は与党的な立場の会派の議員がへそを曲げてしまう危険性もある。(p.157)

 だから、「理解できる」といいいつ「一方では………という課題もあり…」と難しいニュアンスに変えてしまったりする。

 さらに

そのようなことがあらかじめ予測されるような場合には、日頃から執行部に協力的ないわゆる与党的な立場の議員先に質問してもらい方向性を示しておけば問題ない。(同前)

 

 典型的な「やらせ質問」だ。

 野党議員が質問準備で取材や資料とりが始まると、市側が感づいてこういうことをやるのである。


 本書は、このように地方議員市民運動をやっている・やるかもしれない市民が読むとただちに面白いと思うけども、何よりも役人というもののメンタリティーや生態を垣間見る上では実に興味深い一冊である。

 

*1:政令市である福岡市では、本会議では市長クラスか局長、委員会では基本は課長、たまに部長。

2018-09-02 「正しい」をつくる 『会社員のための「使える」労働法』

今野晴貴『会社員のための「使える」労働法』



ブラック企業から身を守る! 会社員のための「使える」労働法 類書はたくさんある。

 だから、正直「今さらまたこのタイプの本か」というような気持ちで手にとった。

 だが、つい終わりまで読んでしまった。そして読み終わると思いを新たにしたことがある。


知らなかった知識もある

 一つは、そうは言ってもやっぱり知らなかったこと。

 基本的なことだけど、傷病手当と、労災と認めてもらってもらう休業補償給付の違い。その違いに着目してググればそう難しい違いではないのだが、そもそもその違いに頭を向かせること自体が、あまりない。



頼ってはいけないもの

 二つ目は、頼ってはいけないものを教えていること。

自分で弁護士を探しても、多くの弁護士がハズレだ。(p.28)

手頃なのが、会社にある労働組合。企業ごとに作られている労働組合である。/でも、これはぜんぜん使えない場合が少なくない。(p.87)

社会保険労務士や産業医たちは基本的に「経営者側」なので、労働者が相談をするとひどい目にあうことが多い。(p.29)

 厚労省の出先である地方労働局の「総合労働相談コーナー」でどういう人が相談者として雇われているかを聞いたことがある。職員は「例えば社会保険労務士の方ですとか……」と答えた。本書にも労基署の「総合相談窓口」の職員は「社労士や労務関係者のアルバイトが対応する」(p.45)とある。

 まあ、そういうことだ。


 労基署については駆け込むことを本書では推奨しているが、「労働基準監督署は、確実に解決しそうなケースしか動こうとしない」(p.43)と述べ、証拠固めなど3つのポイントを示し、それをやった上での相談(正確には「申告」)を勧めている。



「自分がどうすべきか」という視点

 三つ目は、「ルールの解説」というより、「自分がどうすべきか」という視点。そして最終的には一人ひとりが主張することでルールや道徳が決まるという、市民社会というアリーナでの生き方を考えるもの。

 これが本書を読む一番大事な意義ではないかと思う。

 国家が決める最低限の法律はある。しかしその権利は使わないとどんどん薄められ、改悪されてしまう。「どんどん労働法が改正されて、解雇しやすくなってきたのは、争う人が少なくなってきたというのも理由の一つなんだ」(p.165)。


 法律の基準自体が動く。

 あるいは法律を超えてどこまでが「守られるべき労働条件のレベル」なのか?

 それは、自分たちがたたかって決めるしかない、と本書は言う。

 8時間働いたら帰ることは正しいのか? 正しくないのか? 法律には8時間までと書いてある。でもそんなものを守っている職場は本当に少ない。


 本来、「これが正しい」なんてものは、この世の中には存在しない。

 だけど、一人ひとりが交渉したり、主張したりしていくことによって、世の中の道徳やルールが決まってくる。これが市民社会なんだ。

 そういう意味で、労働法というのは、まさに、市民社会のアリーナなんだ。

 だから、話し合ってみる、争ってみる。それによって、いろんな可能性が出てきて、よりよい道徳が生まれてきたりするわけだ。

 個人のレベルだったら裁判、もっと社会的なレベルだったら、労働組合。

 それらによって、ルールを作り変えていこう、ということだ。(p.166)

 「アリーナ」はもともと階段状の客席に囲まれた闘技場・劇場を意味する言葉だけど、参加者が意見を戦わせながら合意形成をしていく場所というようなイメージで使われている。


 大勢に逆らう意見を言うことは、ネガティブにいえば、「もめごとを起こす」ことである。

 「当事者たちの努力」という範囲を超えてその環境や条件を問い直す。そうした意見をいうことは、まさに職場や集団にとっては「もめごと」である。

 別に職場でなくてもいい。

 PTAだっていい。

 一人ひとりに強制しないで、任意を前提でやって見てはどうでしょう?

 言わないと始まらない。あれこれ意見が出て変わっていく――というふうにならないのだ。


自治体のブラック企業規制条例

 前も今野晴貴の著書を論じたところで書いたが、もしブラック企業規制条例を自治体でつくるとなると、このような中身になるのではないか。

http://d.hatena.ne.jp/kamiyakenkyujo/20151020/1445281623


 どこかの市だけ労働法の規制を強めるのではなく(そもそも労働法は全国一律が望ましい)、市民の中に無数に相談が受けられる場を作り、また市民の中に「ブラック企業対抗ワクチン」とも言うべき労働法の知識、権利を使いこなす感覚を育て、できれば労働組合をあちこちにつくらせていく、つまり市をあげて市民の中に「ブラック企業への対抗力」を育てる――このようなことに資する行政をつくることこそ、自治体が定めるべき「ブラック企業規制・根絶条例」になるのではなかろうか。

2018-07-31 地方自治の本旨 『潮谷義子聞き書き 命を愛する』

一瀬文秀『潮谷義子聞き書き 命を愛する』


 憲法には

地方公共団体の組織及び運営に関する事項は、地方自治の本旨に基いて、法律でこれを定める。

とある。この「地方自治の本旨」とは何か。憲法学者の小林直樹は

この言葉は、日本国憲法のなかで、最も不明瞭で把えにくい概念のひとつ(小林『憲法講義』p.772、強調は引用者)

と述べてきた。


 この件で、馬奈木昭雄の講演を聞く機会があった。

 馬奈木は水俣病、じん肺、諫早開門など、住民のたたかいの先頭に立ってきた弁護士だ。

 彼の考える「地方自治の本旨」はつまるところ「住民自治」であり、住民による徹底した話し合いと討論によって合意をつくりあげるという姿にその本質があると見ている。

 そこでは、行政はどっちつかずの中立者ではない。

 住民(国民)の基本的人権を保障するという立場に行政側が立つことだ。しかし住民の主張を鵜呑みにするのではなく、行政側が賛成・反対の幅広い意見に耐えうる情報提供を行い、住民が主権者として判断できるようにしてその合意を促すというイメージを馬奈木はあげた。*1


 その例として、馬奈木は熊本県知事だった潮谷義子が川辺川ダムをどうするかについて行った「住民討論集会」をあげた。

http://www.pref.kumamoto.jp/kiji_4555.html

川辺川ダム事業をめぐる論点について、県民参加のもと国土交通省、ダム事業に異論を主張する団体等並びに学者及び住民が相集い、オープンかつ公正に論議する場を提供します。


 原則的に論点に制限を設けず、時間の制限も設けない。

 よくもこんなことをやろうと思ったものだと感心する。


住民自治としての住民討論集会

潮谷義子聞き書き 命を愛する ぼくは馬奈木の話を聞いて、潮谷に興味を持った。

 潮谷に聞き書きをした『命を愛する』という手記を読んだ。

 キリスト者であり、社会福祉を学び行政の福祉主事をへて、乳児ホーム(現在児童養護施設)で働き、そこの園長を務めてきた。

 潮谷は自民・公明が推して誕生した知事ではある。

 だが、彼女が知事時代の話としてあげている3つの大きな話題は、

  • 川辺川ダム
  • 水俣病
  • ハンセン病元患者差別

であるように、本書を読むとそこに良心的な人間が行政のトップになったことによる素直な苦悩を、左翼のぼくでもストレートに感じることができた。

 潮谷が朝日茂を訪問したときに感じたことや、知事になる前から親しくしていた住民運動側の人たちにつらい、もしくは今思えば不十分な決定を押しつける羽目になったことを赤裸々に書いている。


 住民討論集会で賛成派が討論に不満なため一斉に帰ろうとする際に、止める様子が『命を愛する』にも書かれている。以下は公式記録に残された潮谷のアナウンスである。

知事です。退場なさる皆様達にお願いします。この論議はまだ終わっていないと私は思っております。退場なさる皆様達は、今、議長の方が、皆様に何時までいたしましょうかということを問いかけている時に、背を向けてお出になる方々がいらっしゃいますけれども、それでよろしいのでしょうか。ぜひ、留まっていただきたいと思います。司会者も、4時間に亘る長い間に、混乱があったり、皆様方の思いに沿わないところがあるかも知れません。それは、推進者の方にとっても、反対者の方にとっても、生じている現象であるかも知れません。でも県は、フェアな公正な立場を確保したい。そういう思いの中で、この会をいたしているところです。 私から提案をいたします。この会を7時半で終結をさせていただきますが、いかがでございま すでしょうか。よろしゅうございますでしょうか。

http://www.pref.kumamoto.jp/common/UploadFileOutput.ashx?c_id=3&id=4555&sub_id=1&flid=1&dan_id=1

 潮谷は、自民・公明の推薦という、ぼくにいわせれば反動的な政治の枠組みの中で県政の舵取りをせざるを得なかった。

 しかし、潮谷は国の関係者を駆け回ったり、住民運動のリーダーたちと議論を重ねたりして、「合意」を必死につくろうとしてきた。その様子が『命を愛する』でよく伝わってくるのだ。*2

 潮谷県政の実際はそのような甘いものではないかもしれないし、全体の評価をした上での感想ではないが、先ほどあげた3つの問題では手記を読む限り、潮谷のきまじめさがわかる。*3


 知事時代の思い出を語るなら、もっと見栄えのいい、どこそこに何を作ったとか、どういう新しい制度を作って住民が喜んだとか、そんな手柄話をドヤ顔で書くというのが政治家の「回顧録」というものではないのか。

 あえて自分の一番苦悩したであろう3点を、苦悩のままに書くという真摯さに胸を打たれる。こんな真面目にやっていれば、3期目はなるほど「バーンアウトしてしまう」(潮谷の言葉)ことになったであろう。


 ぼくは町内会やその連合体の幹部を、行政側が手なづけて、あるいは煙に巻いて、「文句が出なかったので住民合意完了、一丁あがり」というやり方をしている様を各地で見てきた。住民の意思をくみとるために本当に努力している町内会もあるが、総じて行政が「住民合意」を振りかざすために都合よく使える道具として町内会は機能している。

 そのようなお手軽「住民合意」とは正反対の、「地方自治の本旨」として住民合意がここには描かれている。


団体自治の見本としての蜷川府政

「地方自治の本旨」とは、要するに、人権保障と民主主義の実現という点にあり、このためには、「住民自治」が不可欠であり、住民自治を実現するための「団体自治」も不可欠となる。(浦部法穂『憲法学教室』p.574)


 団体自治は、いわば国に唯々諾々と従うのではなく、自治体としての自分たちのことは自分で決めることである。時には国に逆らって。

 国策実行の道具であった戦前の地方制度が戦争と破滅を導いたという反省のもとに取り入れられたといえる。

 今日、例えば福岡市の高島市政は、一見国とは違うような「先進的な」動きをしているように見える。しかし、高島のやっている政治は、国家戦略特区といい、観光呼び込み路線といい、「配る福祉から支える福祉へ」といい、国策路線の先取り、単に「露払い」「尻叩き」でしかない。


小説蜷川虎三 (西口克己小説集) 団体自治は、今沖縄県と国との闘争に典型的に見られるが、ぼくが最近印象深く読んだのは京都府の蜷川虎三知事知事1950-1978年)についての小説であった。

 西口克己の『小説 蜷川虎三』には、蜷川が「地方自治の本旨」を考え抜くくだりが出てくる。

いったい、地方自治の本旨とは、なにか。虎三はつづいて〈地方自治法〉を精読した。その結果、虎三なりにいくつかのポイントをつかんだ。第一条には「……地方公共団体における民主的にして能率的な行政の確保を図るとともに、地方公共団体の健全な発達を保障する」とある。そして地方公共団体のうちの普通地方公共団体が都道府県及び市町村なのである。第二条には「地方公共の秩序を維持し、住民及び滞在者の安全健康及び福祉を保持する」とある。また、「……その事務を処理するに当っては、住民の福祉の増進に努める」とある。つまり――と虎三は考えた――地方公共団体とは、住民の暮らしの組織であり、その本旨とは、結局住民の暮らしを守ることではないか、と。(西口前掲書p.142)


 蜷川府政が終わった時に毎日新聞は社説でこの府政を「三十年近くにもわたって『住民の暮らしを守る』地方自治の精神を貫き通してきた」「“地方自治の灯台”であったと評価してもよいのではないか」(1978年3月5日付)と書いた。


 中小企業の「ひき舟政策」、無担保無保証人融資、京都食管、老人医療費助成など(現在これらの制度には様々な評価があるだろうが)、「住民の暮らしを守る」ことを基本に中央の政策とは別の路線での団体自治の在りようを掲げ続けた。


 結局「地方自治の本旨」とは、今ぼくが理解していることをまとめれば、住民の基本的人権を保障する(つまり「暮らしを守る」)ことを目的に、住民が住民自身で賛否含めとことん話し合って決める(住民自治)ということ、その際に国の干渉も受けないし、国とは独自に考える(団体自治)ということ……になるだろうか。


党派を超える瞬間

 議院内閣制の現場は政党間の力のぶつかり合いである。

 もちろん、いわば大統領である自治体首長選挙だって大きくは同じである。しかし、やはり大統領であるから、本来は党派を超えた包容力がそこに生まれなければいけない。そこは政治家個人のキャラクターによるところが大きい。ただし、馬奈木はそういう陳腐な結論にせずに、大きくはその背後にある住民の運動こそが自公推薦知事であったはずの潮谷を動かしたのだという史的唯物論的な確信を述べていた。

 そのような馬奈木の意見にも敬意を払いつつも、やはりぼくは首長のキャラクターというものを考えざるを得ない。

 潮谷の人生の歩みを読むと、社会福祉とキリスト教的慈善の精神が、あのような誠実な苦悩を生み、党派を超えてぼくの心を動かすのだと思う。


 蜷川は、府政晩期は共産党単独推薦で立候補をしていたが、もともとは吉田内閣の中小企業庁長官であったし、社会党員になったし(形ばかりだが)、自民党から推薦状が送られてきたがゆえに共産党が対立候補(河田賢治)を立てたこともあるような政治家だった。

 経歴を見てもその幅広さがうかがえる。

 そして、政敵・野中広務は次のように述懐する。

自民党の府議として蜷川府政後半の一二年間、彼と対決した野中広務は「蜷川さんが二十八年間も知事の座にいたというのは、イデオロギーの問題ではなく、彼自身の魅力があった。それは、イデオロギーで武装しようと思っても滲み出てくる日本人の精神とでもいおうか、彼はいわば生粋の明治人だった」と人柄を評価する。(岡田一郎『革新自治体』p.26-27)


 首長は大統領であるがゆえに、その社会統合の象徴として党派を超える魅力がなくてはならない。「党派を超える」というのは単に八方美人ということではなく、与党だけでなく野党の論理を取り込むような、アウフヘーベンするような、より高い包括性が必要になるということだ。

批判とは、なにかものを外部からたたくというのではなく、いままで普遍的だとおもわれていたものが、じつはもっと普遍的なものの特殊なケースにすぎないことをあきらかにすることです。そのものを普遍的なものの一モメントにおとし、没落させる、これが批判ということです。(見田石介『ヘーゲル大論理学研究 1』p.6-7)

 相手の批判が十分に取り込まれ、意識された、もっと大きな体系になっている。だから討論は意味がある、ということになる。*4

 革新であろうが保守であろうが、首長になる人にはそのような資質が必要なのだ。

*1:手元に正確な記録がないので、ぼくが聞いた「うろ覚え」の理解。

*2:この本は商業的にいうとタイトルで損をしている。いかにも説教くさい。しかし潮谷の立場はまさにこういう要約となるのだろう。自分の人生を正面に提示しようと思えば妥協なく真摯にこういうタイトルにしたのではないか。「売れるな〜」とか考えずに。

*3:住民討論集会にも様々な評価があることは、この『聞き書き』を読んでいてもわかる。

*4首長ではないんだけど、安倍政権はこの点でホント落第だと思う。また、福岡市の眦膸堋垢鰐擴疾討著書で述べているような“全員合意指向=「みんな病」の批判者”、“100人の合意より1人の覚悟”を地でいく典型的な「独創的実業人」タイプだ。一見「独創」的なアイデアを(その実、国策のトレンドに従属して)バンバンやっていくやり方であり、社会合意をていねいに積み上げていく「地方自治の本旨」とは遠くかけ離れた人であろう。

2018-04-22 右傾化だって? 『社会のしくみが手に取るようにわかる哲学入門』

萱野稔人『社会のしくみが手に取るようにわかる哲学入門』

社会のしくみが手に取るようにわかる哲学入門~複雑化する社会の答えは哲学の中にある 「サイゾー」で萱野が連載していたものをまとめた本。

 ときどきの社会事象を、わかりやすく大もとから解説する。

 「わかりやすく大もとから」というのが、池上彰的なそれではなく、哲学的にやろうという態度。

 というのは、初心者の疑問というものはそもそもラジカルな、根元的な問いを含んでいる。そのことをきちんとわかりやすく説明しようとすると徹底的に考えざるを得なくなるからである。

 まあ、萱野の本書が結果的にその課題にうまく応えているかどうかは別問題であるけどね。


 「4 なぜ日本のポストモダン思想は不毛だったのか?」は次のような書き出しだ。

 私が大学に進学したのは1989年ですが、そのころの日本の人文思想界ではポストモダンが全盛期で、少しでも哲学や思想に興味のある学生はほとんどと言っていいほどポストモダン思想(として紹介されていたもの)に感化されていました。

 愛知県の某地方都市でさして文化度の高くない高校生活を送っていた私は、ポストモダンなどというものが思想界を席巻していることを大学に入るまでまったく知らず、したがって当時スタートしてあがめられていたデリダやドゥルーズといった哲学者たちの名前も知らなかったので、大学で先輩や同級生がポストモダンの用語や思想家の名前をつかって議論を交わしているのをみて驚いたものです。(p.56)

 その上で、萱野は当時の状況を厳しく総括する。

ただ、その当時日本でなされていたポストモダン論議の大部分は、いまから振り返るとひじょうに空疎なものでした。そのころ日本でだされていた書物や論文をいま読むと、あまりの無内容さと独りよがりな物言いに「よくこんなものにみんな熱中していたな」と恥ずかしくなってしまいます(もちろんだからといってドゥルーズやフーコーの議論が無内容だということではありません、あくまでも日本の思想界の話です)。(p.56-57)

 ポストモダン思想への嫌悪は、萱野の初期の著作『国家とはなにか』の頃からにじみ出ていて、その後の彼の著作を読むと端々にそれが感じられた。

 本書のこの部分では、岩井克人『貨幣論』が槍玉に挙げられる。

ポストモダン思想における貨幣論では、往往にしてマルクスの『資本論』(第一巻:1867年)における価値形態論が引き合いにだされ、それが記号論的に読み替えられることで、次のように論じられることが定番でした。すなわち「貨幣が貨幣としての価値をもつのは、みんながそれを貨幣として使っているからである(つまり、みんながそれを価値あるものとして受け取ってくれるから、私たちは紙幣を価値あるものとして受け取るのである)」と。(p.58)

 “こんなものは何も説明していない、単なるトートロジーではないか”と萱野は批判するのである。

 岩井克人が最近新聞に引っ張り出されてきて話をしているのをみたが、それはビットコインなどの仮想通貨についてのコメントであった。


 仮想通貨は、それ自体は無価値なものである。

 この点は紙幣と同じである。

 そのことはぼくも過日のエントリで書いた。

http://d.hatena.ne.jp/kamiyakenkyujo/20171224


 無価値なものが流通手段機能を果たし、通貨として働くのはなぜか?

 端的に言えば、岩井は「みんなが受け取ってくれるから」というわけだが、萱野は、本書で、「徴税力こそが貨幣の価値の裏づけとなる」(p.61)と言っている。萱野は徴税力を次のように補足的に説明する。

 徴税力とは単に政府の権力の大きさや国民からの支持だけを意味するのではありません。税を支払う人びと(国民)の経済力も、その政府がどれぐらいの額の税を徴収できるかを決定します。

 要するに徴税力とはその国の「国力」全体をあらわすものなんですね。(p.61)

 マルクスは紙幣がなぜ流通するのか、という問いに対して、国家による強制通用力があるから、説明していた。つまり、権力を持っていたからだ、というのである。


 権力を持っているから通用する、というのは「ほら、受け取れよ」ということを暴力をバックに強制できる、という意味であるが、マルクスの時代はその説明で済んだ。なぜなら、紙幣は価値の実態を持つ金(gold)の裏づけがあり、交換を保証してくれたからである。紙幣は単に「私は金100グラムを持ってますよ」という証明のようなものだった。


 しかし、今は金の裏づけはなくなっている。

 それなのに、なぜ紙幣という無価値なものが通用し続けるのか。

 萱野があげた「徴税力」は、いざというときは、国家が「徴税」という形で価値の実体のあるものをどこからか集めてきて引き換えてくれる、という意味にとっていいんじゃないかと思う。ぼく流の解釈だけど。

 そのコアにあるのは、国家権力、国家がふるえる物理的暴力の脅しである。

 ただ、いくら棍棒を持っていても、棍棒を振るわれる国民の方が富を持っていないと話にならないので、萱野のいう「国力」とは、「国家の棍棒+その国民の富」の大きさ、ということになる。いざというときは、その「国力」で、紙幣と富を引き換えてくれるから、安心して使ってください――こういう理屈で紙幣は通用する。


 この説明はなかなかよくできている。

 単に「国家権力の裏づけがあるから」という説明だけだと、例えば貧しい国家の紙幣はあんまり信用されない理由がわからない。貧しい国家は、いくら棍棒を振るっても国民も貧しいので富が集められないのだ。


 この説明は、ビットコインのような仮想通貨と紙幣の違いをも説明する。

 同じ無価値なものであっても、仮想通貨には「徴税力」の裏づけがない。だから、資産価値がゼロになった時(つまり「欲しい」という需要がなくなった時)、本当に無価値になってしまう。


 他方で、ビットコインのような仮想通貨がなぜ流通するのか、という説明としては萱野の説明は苦しい。岩井の説明、「みんなが受け取るからそれは貨幣なのだ」がまさに仮想通貨を言い当てているかのようである。


 萱野が不換紙幣・管理通貨制度下の紙幣の根拠が「徴税力」=「国力」であるというなら、逆に言えば、仮想通貨のようなものは通貨たり得ない、と主張していることになる。

 これは萱野の予言ではないか?

 つまり、ビットコインのような仮想通貨は実は通貨たり得ず、やがて消えて行くのだ、という。今通貨としての通用力をもっているのは、一時的な現象に過ぎない……と。いや別に萱野はこんなことを言っているかどうか知らないが、萱野の主張を延長していくとこういうことが言えてしまうのではないか。


 紙幣自体は、金と違い*1、価値を持たない、無価値なものである。

 しかし、紙幣は国家が「徴税力」=国力の裏付けを持っているので、いざという時はなんとかしてくれるかもしれないという期待がある。

 ところが、仮想通貨はそうではない。

 仮想通貨は、それ自体は紙幣と同様に無価値なものである。だから「1万円」という表示がしてあっても、それ自体が1万の価値を持っているのではなく、「1万円の価値物との交換をしてくれる」証票のようなものにすぎない。価値の実体的な裏付けも、客観的な担保もないのに、「貨幣として受け取る」という合意だけで成立しているのが仮想通貨である。これほど岩井の想定を裏付ける存在はあるまい。

 岩井は、朝日新聞のインタビューで、仮想通貨が無価値な流通手段のままでいることをやめて、分不相応な資産的価値を持ってしまったことを嘆いている。

――貨幣になるには、何が不足しているのでしょうか。

「いえ、逆に過剰な価値を持ってしまったのです。あるモノが貨幣として使われるのは、それ自体にモノとしての価値があるからではありません。だれもが『他人も貨幣として受け取ってくれる』と予想するからだれもが受け取る、という予想の自己循環論法によるものです。実際、もしモノとしての価値が貨幣としての価値を上回れば、それをモノとして使うために手放そうとしませんから、貨幣としては流通しなくなります」

https://www.asahi.com/articles/DA3S13318005.html

 もし、今の仮想通貨バブルが弾ければ、仮想通貨は資産価値を持たなくなる。

 その時、初めてただの流通手段・決済手段としての純粋な通貨として仮想通貨が現れる可能性は確かにある。


 萱野的な予測が勝利するのか、岩井の理屈が勝つのかは、ぼくには今のところどちらとも軍配をあげにくい。


 なお、萱野は、本章を

国家は単に犯罪を取り締まり、市場での交換のもととなる所有権を保護することによって、外在的に市場とかかわっているのではありません。徴税をつうじて貨幣の価値を支えることで内在的に市場を構成しているのです。(p.63)

と結んでいる。

 これはマルクス主義を意識しているのだろう。

 つまり、資本主義国家は経済にとって外在的な存在なのだというアレだ。この点への批判もまた萱野が『国家とはなにか』から唱え続けていることだ。

 しかし、この萱野の考え(国家は貨幣という点で市場に内在的に役割を果たす)は、例えば近代初期において金・銀が国家の関わりなく国際的な決済に使われ、人々によって追い求められてきた、という歴史をうまく説明できなくなる。マルクスは、商品経済の中で、貨幣が国家権力の媒介なく自立的に登場して「金」という形態を得ることを、萱野が参考文献として紹介したはずの『資本論』のなかで説明しているのだ。


 萱野の説明は、不換紙幣の説明としてはうまくできているが、それ以前の価値物としての貨幣、それ以後の仮想通貨を説明するのには向いていない、という気がする。


萱野は右傾化したか

 なお、萱野については「右傾化した」という批判がネットを中心に非常に多い。

 正直、本書でも各テーマのポジショニングだけを問題にすればそれは「右」の方にいるな、ということは言える。テレビや新聞で萱野の発言を見ていても、同断である。


 萱野は例えば『ナショナリズムは悪なのか』(NHK出版新書)でも表明しているし、本書でも上記のような物言いをしているように、自身の学生時代に自分の周囲にいたであろうポストモダン的な左派に非常に強い嫌悪感を覚えている。いったん、自身がそこに身を沈めつつ、違和感からそこを脱却したような感じであろう。

 ナショナリズムが俗悪な形で現れた時(例えばヘイトスピーチのような排外主義)、それは「反ナショナリズム」でいいのか、という問いの仕方は、ぼくは誠実なものだと考える。


 他に、萱野は例えばベーシック・インカムには批判的である。

 ぼくも現時点ではベーシック・インカムの現実的導入には課題が多すぎると感じていて、具体的な社会保障制度の改革が積み重なって結果的にベーシック・インカムのような「最低生活保障」に到達する、というのが一番現実的ではないかと思っている。だからベーシック・インカムに手放しで賛成する向きに批判的な萱野の気持ちはわからないでもない。


 萱野が結果的に「右」にきてしまっているのは、彼なりの知的誠実さの結果だと思いたい。むしろ萱野を乗り越えるつもりで左派は具体的対案を考えるべきで、萱野が「右」に行ってしまったこと自体を非難することに、あまり意味はないと思う。

*1:マルクスの説明では、金はその採掘に莫大な労働量を投下すし少ない量で大きな価値を表すとされている。