グローバルマインド

皆様、本年もよろしくお願いいたします

新年を迎え、1月ももう半ばです
関西の私立中高は中学入試にセンター試験、あわただしい
季節に突入しておられると思います

私事ですが、今年は縁あって海外で年越しをしました
ウクライナキエフにて
例年なら少しは目に入る紅白歌合戦や行く年来る年といった
TV番組はもちろん、ニュースや新聞からも隔絶された期間
生涯忘れられない、特別な年になりました

観光だけでなく、歴史を学ぶ講座や、現地の方々とも交流する
ワークショップ、現地の皆さんの年越しイベントなどにも参加
高校や大学で体験できなかったミニ留学気分を味わいました

その交流の中で感じたことです

同年代の多くの日本人と同じく、中学・高校・大学 のはじめまで
学んだはずなのに、ほとんど英語を話せない私は、現地の方と
1時間、2時間ともに行動しても、伝えられることはほんの少し

相手が英語が達者ならまだいいのですが、お互い、Too littleの
場合は、更に苦戦し、もどかしく、寡黙になり…
昔、もう少し話す練習しておけばと後悔しました

でも一方で、そんな私と目を合わせ、表情を見ながら気持ちを
読み取ろうとしてくれる相手の方の優しさ、心遣いに触れる
こともできました

目の色、肌の色、髪の毛の色、背の高さや体格、食文化や言葉、
数え上げれば、たくさんの違いを見つけることができます

しかし、表情や声、態度や気遣いから伝わってくる人の心には、
日本人と外国人に、違いなど何もない
外国人を何か特別な人にしているのは、私自身だと気づきました

コンビニや外食店の外国人スタッフ急増が示すように、少子高齢化
進む日本は既に、外国人を受け入れ、協働、共存していく道以外に、
国力を維持することが難しくなりつつあります

中高生、大学生の間に、心の壁をとっぱらってグローバルマインドを
身につける。そして国内でも海外でも、どんな国の方々とも、
心を通わせることができる人へ

これからの日本人の基本要件ではないかと感じました
さぁ、かなり遅まきながら、ではありますが、もう一度英語に…

後に続く人たちにできること

今年も残り1カ月あまり
見かける生徒の皆さんも、マフラーやコートの
方が増え、冬の到来を感じます

本日は、ある学校で卒業生の方との交流を伺い、
感じたことをお伝えします

長い歴史をもつ私学各校の最大の資産は、
何と言っても多くの卒業生とのつながりだと思います

その学校で伺ったのは、事業で成功して海外に拠点をもち、
活動されている卒業生が、毎年私費で何名かの生徒を招き、
様々な体験を積む機会を提供しておられるというお話

学校にとっても嬉しいことですが、対象の生徒さんに
とっては、まさにドリームチケット
一定の経済力をもつ私学の保護者であっても、海外経験に
かかる費用を捻出できる家庭ばかりではないと思います

よく海外の有名大学が、卒業生である著名な企業経営者の
寄付で建物、講座を設けている、といった話を聞きます
しかし、それほどの寄付ができる資産家は限られます

母校の後輩たちのために、一定の経済的成功をおさめた
先輩卒業生が力を貸す
ドリームチケットを使えるのが、大学生になってからでは
なく、中高生の時に、というのが更に価値があります

ドリームチケットをもらって視野と可能性を広げ、
社会をもっと良く、という志をもち活躍する
その多くが、いずれは後輩たちにドリームチケットを渡す

こういう振る舞い、生き方を身にまとった卒業生が多い学校、
魅力的ですね

著名な経営者、資産家になっても、自身の報酬や蓄財にばかり
熱心な人物では、残念です

そう思いつつ、自分は何ができているか、考えました
残念ですが、事業の成功も資産家にもなれていません
でも一つだけ

大学で所属した体育会ハンドボール部のOB会という組織
があります
毎年のOB会費の請求に、20代の頃から応えてきました

上に述べた方々には遠く及びませんが、後輩部員の応援を
20年以上してこれたかな
いずれはもっと…と願いつつ、日々の仕事に力を尽くします

骨太のリーダーを育てる

もう10月も下旬
週末に近所の体育館のトレーニングジムに行くのですが、
先週末、体育館前に近づくと、賑やかな音楽や歓声が聞こえます

近隣の幼稚園の運動会
保護者などたくさんのギャラリーで溢れています
今回は、この様子を見ながら感じたことをお伝えします

私の子供の頃、運動会、体育祭といえば秋の行事の代表格
走るのはまあまあ早かったので、徒競走もいい思い出です

でも最近、訪問した学校の先生方とお話ししていると、
5〜6月に実施する学校全体が少なくありません
理由を伺うと、「夏休み以降は、受験勉強に集中させ…」
それを聞くと、本当にがっかりします

行事を減らし、受験勉強以外の生徒の負荷を、とにかく
小さくすることに熱心な学校
それは本当に“生徒のため”になっていますか?

例えば、以下のような弊害がありそうです
・今この時にしかできない多様な経験、刺激を受ける
機会が失われる
・生徒の自己管理力や集中力を信頼していないこと
の帰結であり、精神面、肉体面の成長機会を奪う
・社会に出れば、日々多くの課題に直面しますが、
その疑似体験、失敗や乗り越えて自信をもつ機会も減る

その他、クラスや学年、異学年との協働や切磋琢磨から
自身とは違う見方、考え方を知り、関係性、社会性を培う
機会も乏しくなると思います

生徒の皆さんが生きる時代は、残念ながら我々の世代が
生きた時代より、かなり困難な時代になるでしょう

その困難な時代を生きる人たちに、前を歩く者として
できるのは、我々よりもタフな心身を培えるよう、
導くことだけです

特に、公立以上の教育を提供する責任をもつ私学各校には、
生徒一人ひとりを大切に、またときに厳しく鍛えあげること

そして、社会のどこにいても志をもち、困難を乗り越え、
周囲を巻き込み、励ましながら前に進む、骨太なリーダーを
育てる責任があると思います

安易な“行事軽視”に陥った自覚のある学校の皆様、今からでも
遅くはありません
タフなリーダーに近づける行事を3倍にし、生徒の伸びも3倍に
する教育改革に、舵を切りましょう
全身全霊で応援します

教職協働の奨め

9月も半ばを過ぎ、ようやく秋の気配を
感じるようになりました

学校は行事ラッシュ。学校全体が一丸となり、
今この瞬間しか体験できないことに取り組み、
何かが一人ひとりの心に残る

どれほど学習教材が進化し、PCで世界中の情報や
映像が見られても、皆で何かを目指し、対話し、
ふれあい、創り出す協働体験は唯一無二です

一方、新教育への挑戦は、アクティブラーニング、
教科横断の探究活動、、高大連携、産学連携など、
これまで以上に時間とエネルギーを必要とします
もちろん、知識伝達型の教科教育も必要です

カリキュラムをゼロベースで再構築すれば、
より魅力的かつ効果的な生徒の学びを設計する
ことは可能だと思います

課題は提供する教師サイド

教師の時間やエネルギーは有限です。いかに新教育
への情熱溢れる教師でも、すべてを自前で提供するのは
現実的ではありません。

唯一無二の行事がどんどん減っては大変だし、
無理を重ね続ければ、結局は教育の質が低下し、
教師自身はもちろん、生徒にもマイナスです

では、どんな対策が考えられるでしょうか
私は、その打ち手の一つは教職協働の推進と考えます
具体例を挙げてみます

◆職員の役割を拡大し、人員も拡充する
・クラブ指導の顧問
・行事運営補佐
・外部連携の窓口、折衝業務、運営補佐
・海外の教育提携校の開拓業務
・海外研修、留学等の引率、現地でのサポート
・教師の事務サポート、授業準備支援、授業運営補佐
・生徒のプレゼン、レポートの評価、採点補佐

これまでも、「教師だけで教える」体制から「チームで
教育する」体制への移行が必要とお伝えしてきました
これを一気に加速する提案です

職員の皆さんにとっても、役割の拡大は成長機会であり、
やりがいの拡大にもつながると思います
もちろん、研修や適材適所の配置、採用方針、基準の再設定
も必要になると思います

その前段階として、教師の業務を現時点ですべて可視化し、
教師が今後も担う業務を絞り込み、負荷軽減策も検討し、
協働可能業務を検討・設定するプロセスは不可欠です

効果的な協働ができれば、教師の働き方改革にも
前進があるでしょう
ただ、主眼はそこではありません。
教職協働が生徒一人ひとりの学び、成長機会を
より豊かにしてこそ、やる価値があります

教師は自学と切磋琢磨の環境創造デザイナーとして、
教育チームの中核となる
新ステージの創造。本気で応援して参ります

新しい学校像

皆さまはお盆休み、いかが過ごしでしょうか

私は数日夏休みをいただくことにし、
外出中の家族にかわって猫のめんどうをみながら、
たまの読書や考えごとをしました

いつも学校に関わる話題、相談に明け暮れる毎日ですが、
目の前の課題解決に追われるばかりで、全体像をふまえ、
大きく思考する余裕がない

でも日頃は、そのことを自覚することもなく、日々が
過ぎていく
3日間、猫と留守番をしていて、それに気づきました
今回は、改めて「学校」について考えたことです

日本の教育が転換期にあることは、皆様ご承知の通り
です。大学入試改革、新学習指導要領…

一方で、それを提供する「学校」そのものについての
議論は、多忙な教師の働き方を改善するために…
程度で、従来からの「学校」が変わる気配はありません

むしろ、私立高校の無償化(東京)、私立大学の無償化検討の
動きからは、既存の「学校」はそのまま変わらないことを
前提としているようにも思え、違和感を覚えます

そもそも、「学校」はなぜ必要なのでしょうか

世界を見渡すと、シリア等の多くの難民を生み出した紛争、
テロ、貧困などの渦中にあって「学校」を失った子供たちの姿
その子供たちに何とかして教育機会を、という活動があります

一方で、そんな危機のない恵まれた日本のような国では、
学校はあって当然。大半の親は、学校に通わせるのは親の責任
であり、不自由なく学校で学ばせたいと思っています

ただ子供たちの方は、その境遇に感謝し、目を輝かせて学ぶ
一部の子供もいるでしょうが、大半は学校に通うのが普通だから、
当然だから、通っているだけ

「健康」や「家族」と同様、「学校」も失ってはじめて、
その大切さが身にしみる、ということかもしれませんが、
そう達観し、静観しているだけでは何も変わりません

教育内容のリニューアルにとどまらず、一人ひとりの子供たちの
心を動かし、目線を上げ、今よりもっと良い世界、社会に近づける
者となるために通う“新しい学校像”を模索し、創造する時ではないか

同時に、学校が当たり前に存在する、その学校に通わせている
だけで安心し、依存し、家庭や社会が果たすべき役割(家庭教育、
社会教育)への自覚、責任感が希薄な多くの社会人たち
恥ずかしながら私自身もその一人ですが、この点への対処も含めた
新しい学校の創造活動に取り組み、貢献したい…

あ〜っと、そろそろ、明日の仕事の予定が気になりはじめました
大きな思考が…

給食は全部食べよう

連日暑い日が続きます
皆様、体調はいかがですか

体が丈夫なことだけが取り柄で生きてきた
私ですが、自宅でもあまりに室温が高く、
やろうと思っていたことに手がつかず…
やはり、気力・体力が基本であることを実感します

さて本日は、「10年前より給食の食べ残しが増えている…」
という調査を紹介する記事を読みながら考えたことです

今から10数年前、我が家の次女が小学生のころ、
野菜や魚を残す様子を見て、給食について話したことを
思い出しました

私ー「給食は、全部食べてるんだろう」
娘ー「食べたくないものは残してる」
私ー「えーっ、なんでだ。給食は全部食べるのが当たり前だろう」

娘ー「食べたくないものは、残していいって」
私ー「先生がそう言うのか?」
娘ー「そうだよ」

もちろん、給食が「食べたくないものは残していい」からと
いって、家の食事でも「残していい」わけではありません
食べるように言いましたが、残すことに抵抗の無い娘は、
食べません
不本意ながら、好きなものしか食べないまま、大学生になりました

つまり10年以上前、既に「食べたくないものは残していた」
わけですから、この状況はいっそう重症化しているでしょう

なぜ、「食べたくないものは残していい」のか?
“食べたくないもの” と “食べられないもの” は違います

私は小学生の頃、給食はすぐに食べ終えて外に出て行く
子供でした
でも、今でも覚えています。給食にであった小1のはじめの
ころ、どうしても苦手なものが食べられず、その日は
昼休みが始まっても外に行けず、給食と格闘し続けました

でも、そのつらい経験により、私は「嫌いなものを最初に食べ、
息もつかずに牛乳で流し込む」、という技を体得しました
おかげで今も、いくつか嫌いなものはありますが、
出していただいたものはすべて、食べられます

給食はすべて、栄養のことを考え、子供の体の成長に必要な
食材で作っていただいています。「残していい」ものなど無く、
本当は食べたいけれど、体質的に食べられないものを除いては、
「全部食べるのが当たり前」です

以前、アフリカの貧困層の子供たちが、給食を目当てに
遠くの村からでも通ってくる、という話を聞きました

少し視野を拡げれば、現在でも貧困で満足な食事が得られない
人たちがおり、一方で先進国では大量の食品が捨てられている
それらの食材を集めて届ける活動も展開されている
探究活動で世界の課題を知り、例えばこの貧困への対策を考え、
発表する機会も、増えていくことでしょう

一方で、自分は生涯、「食べたくないものは残す」人のまま
“食べたくないものは残す” 親が、子供に「給食は全部食べなさい」
と言えるでしょうか

「世界に通用する人へ」
世界に通用する人が備えるべき力の源は、健全な心身です
その出発点は、「給食を全部食べる」ことからではないでしょうか

さぁ私も、帰りにスーパーに立ち寄り、野菜、魚、果物、いろいろ
買って帰ろうと思います

子供を子供にしているのは?

もう6月下旬。用事で須磨に行き、海岸を見ると、
海の家の建設が着々と進んでいます
青い海を眺めるだけで、なにか心がうきうきしてきますね

さて本日は、先日、「成人20才以上から18才以上へ」 の
ニュースを聞きながら、考えたことをお伝えします。

ニュース映像に登場した高校生が、「急に大人と言われ
ても…」とコメントしていました
それを聞いて、確かにそうだろうな、と思ったのですが、
同時に、「私のこの感想、感覚は何だろうか?」とも
感じました

もう1年以上前のことですが、ドイツの大学に在学中の娘の
縁で、子供の頃からドイツで育った日本人の高校3年生の方と
話したことがあります

彼女は日本の大学に進学したいと、親戚を頼り、高3の途中
から日本の高校に転入しました。話したのは大学入学を
控えた2月ごろだったでしょうか

「転校後、周りの高校生たちと接してどう感じましたか?」
という私の質問に、彼女は「みんな可愛い…」と答えました
行間を補足すると、「みんな(幼くて)可愛い…」でしょうか

ドイツで生まれ育った彼女は、当時18才でももう“大人”
ドイツ の学友たちと比較した素直な感想のように聞こえました
もちろん、日本の高校生を下に見るような意図ではありません

ドイツの国情や政治との距離感に関心があった私は、質問を
いくつかしました。メルケル首相について、政治への信頼感…
彼女は落ち着いた表情で、自身の意見を語ってくれました

それを思い出しながら、以前、授業見学やインタビューをさせて
いただいた、ある中学の社会の先生の言葉を思い出しました
「中学生は、大人が思っているほど子供ではない。何でもできる」

その先生は、授業でディスカションを多く取り入れる、いわゆる
探究的な活動を授業に組み込み、自分たちで思考し、活動し、
アウトプットすることを重視しておられました

中学生で何でもできるのであれば、高校生はもっとやれるはず
それなのに、「みんな可愛い…」のは、なぜでしょうか

国連で長年活躍された伊勢桃代さんの講演録を拝見した中に、
「小学校から子供たちが議論し、成長する教育を」という
お話がありました

どうやら私自身も、「子供を子供のままにしている」大人の
一人のようです
遅ればせながら、これから日本が力を入れていく新しい教育の
一翼を、担っていこうと思います
中学生も高校生も、何でもできる!