ミナモザ「みえない雲」(シアタートラム)


ミナモザ 第16回公演「みえない雲」

原作:グードルン・パウゼヴァング、訳:高田ゆみ子(小学館文庫)
上演台本・演出:瀬戸山美咲

シアタートラムで、12月14日(日)14:00開演のステージを見た。

過去ログのこの(http://d.hatena.ne.jp/kamuro/20141024/p1)公演。

上演時間は、約2時間30分。途中休憩なし。

客席は、1列目は撤去で、B列が最前列。チケットを買うとき、最前列にしようか2列目にしようか迷って、2列目のC列にしたが、それでよかったと思う。


チェルノブイリ原発事故のあと、もし西ドイツで原発事故が起きたら、という想定で書かれた小説の舞台化。もちろんフィクションなのだが、福島での原発事故を経たいま、この物語は、おそろしいぐらいのリアリティをもって迫って来る。

演劇というものが持つ力を感じる舞台で、とにかく、すごかった。終演後、席を立って、客席の階段を上がって出口に向かうのに、よろめきそうな衝撃があった。
国政選挙の投票日のこの日に、この舞台を見たことを、きっと忘れないだろう。どうして、あのとき反対しなかったのか・・・・今回の選挙の投票率の低さに鑑みれば、その後悔は、近い将来の現実として確実にやって来るにちがいない、と思う。

序盤の、ヤンナ・ベルタが、弟とふたりで、自転車で逃げる場面が、すごい。もう、すごいとしかいいようがない。弟のウリが人形なのだが、その人形の姿に、原発事故の非日常性と、迫り来る不条理が重ねられているようで、見ていて、あり過ぎるほどの臨場感。

ヤンナ・ベルタという少女を主人公にした「みえない雲」のストーリーの間に、演出家とイコールであろう「私」が、「みえない雲」の読書体験や、原発事故についての思いを語ったり、原作者をドイツに尋ねるドキュメンタリーシーンが挿入される構成になっている。

語り手として「私」が存在する効果はあるし、終盤に「私」が怒りや葛藤を表現するシーンは、共感出来ること大なのだが、ただ、演劇としては、やや直截に過ぎる。この「私」=作者の身もだえする怒りや葛藤には頷きつつも、これで舞台が終わっちゃったら困惑しそうだ、と思っていたら、幸いにそんなことはなくて、まだあとがあり、最後は、真実を語ることを決意したヤンナ・ベルタの姿での幕切れとなる。ヤンナ・ベルタのラストシーンは、決然として、神々しいまでに美しいが、しかし、この少女のことばを人びとは、いや、もし自分が劇中の当事者だったら、はたして受け止められるだろうか。そう思うところに、現実や日常というもののこわさがある。


次々と繰り出される演出の、その手法の多彩さも、特徴的。

たとえば・・・予想を裏切る奈落の使い方(奈落を使えるようにステージがつくってある)、ライティングだけでの場面転換の多用、ヤンナ・ベルタ役以外のキャストがコロスのように何役も入れ替わりながら演じ、大人が子どもを演じたり、男性キャストが女性役を演じもする、そこにいる人物を演じる役者がいない状態で進行するシーンがあったり、主人公の弟である人形の操作と声を同時に複数のキャストが行うなど、あの手この手が使われるが、でもそれが見ていて不思議とどれも違和感がない。

劇中で、ヤンナ・ベルタが舞台を走るシーンがあって、その力感は印象的だった。

この舞台を見て、上白石萌音さんを評価しないひとはいないのではないかな。