ナチ密度1000%!
ナチスに興味があるか極限戦好きでこの映画を見てない人は人生損してます。断言。
そしてぼくは人生の損失を少しだけ取り戻しました。
1945年、長きに渡る戦いで消耗しきったドイツ軍東部戦線は、ソ連軍が首都ベルリンまで数kmの位置に迫るまで押されていた。
ナチスドイツの首脳部は地下壕の中に籠もり、そこでは外の砲撃の音が響く。地響きだけが伝わり、電気は明滅する。でもそれだけ。
ソ連軍の砲弾が届くけれど兵士はまだたどり着かないベルリンには、日常をまだ続けられるのではないかという幻想の繭に籠もる心地よさと期待感が微かに残っていた。
夜は普段通り開かれるダンスパーティ。日常は終わらない。
それをソ連軍の砲撃という現実が吹き飛ばしていく。
苛烈な現実をくい止めようとする者たちは、修羅の道を行くしかない。
16にもならないような子供達が嬉々として「ぼくらはここを絶対に死守する!」と叫び、後退させようとする大人達をなじる。
後退命令を出す兵とあくまでもその一点を死守しようとする兵は味方同士銃を向けあい脅しあう。
市民は治安維持のためという名目で、何もしていないのに、いや何もしていないからか、「ボルシェビキの手先」と札をかけられ街頭に吊されていく。
老人でさえ国民突撃隊としてかり出され、戦えるわけがないのに上手く戦えなければ彼らもまた処刑される。
ヒトラーの描写は、自軍が全滅しつつあるという事実に即して「数日持ちこたえればドイツが共産主義の防波堤になりうるという交渉材料が手に入り上手く負けることができる」と判断する将軍たちを「やる気がない」とパラノイア的になじったあと*1ソ連戦車2両を撃破した少年兵を「素晴らしい。将軍たちよりずっと素晴らしい」と緊張を解いて褒め称え、勝とうとしない将軍をなじった後に上手く確実に自殺する方法を嬉しそうに考え、どれだけ切羽詰まった状態でも秘書や愛人にだけは優しかったり、そんな気分の揺れの激しさが非常にリアル。
ヒトラーやナチス関係の描写でいくつかの批判があったそうですが、これで批判をされるのなら、全く非現実的な純粋悪と描くしかないと思いました。
セリフはドイツ映画なので当然完全ドイツ語で素晴らしい雰囲気ですが、登場人物や情報量が非常に多いので吹き替えで見たほうが圧倒的に理解しやすくなります。ナチ密度か、分かりやすさか、どちらを優先するか。
岡本喜八の戦争映画みたいに*2「国民啓蒙宣伝省大臣ゲッベルス」とか「建築家・軍需省大臣シュペーア」*3とか「SS第38擲弾兵師団 ニーベルンゲン司令部」といった紹介テロップを入れられる機能がついていたらさらに良かったと思います。
あんまり登場人物が多いものだから、有名女性テストパイロットのハンナ・ライチュまで出ていたことなんかはエンドクレジットでやっと気が付いたくらいです(笑)
- 主人公格になるのは「秘書」と「少年兵」。どちらもこれといった活躍はなく「最善を尽くした傍観者」として動く。
- 秘書達が砲撃の合間に外で煙草を吸ってダラダラするシーンが好き。戦闘ってものはずっと絶え間なく続いてるんじゃなくてちょっと間があって、その間が考える暇になって、それが今まさに世界が崩壊しようとしているという現実を忘れさせてくれる。
- 少年兵のソ連戦車との戦いや市民の救助といったわずかなヒロイックさと、死者を傍観するしかない悲劇性は、話を見続けるモチベーションを持続させてくれる。
- 秘書と少年兵が共に走るシナリオとしてのラストシーンは、もう死ぬことも殺すこともない、瓦礫の中からだって立ち上がれるんだって嬉しさでいっぱい。嘘みたいに幸せでいられる一瞬。
- 美しいナチス、ゲルマニア、第三帝国、千年帝国。それのない世界で子供達を育てていくなんて考えられません!嗚呼、アーリア人の帝国よ永遠なれ・・・・・・ ナチスと心中しようとするゲッベルス夫人の狂った意気はみどころ。
- リアリズムを重視したこの映画でも、ナチスはカッコイイと思ってしまう。規律と幻想が崩壊していく過程を美しいと感じる。これは思っちゃったんだからしょうがない。
- ナチスやナチス的なものが危ないのは「カッコイイから」だと思っている。ダサかったらこうも支持されなかったはず。自分だって1930年代のドイツ人だったらヒトラー・ユーゲントなりSSなりに憧れる感覚をきっと持っていただろうとも思う。
- ナチス自体何故か最後に破滅が待ち受けている匂いがする。そこはかとなく漂う祝祭感から?終わりのない祭りは無い。
- 自分自身はナチスみたいな集団が主導権を握ったら真っ先に排除されるようなタイプだけど「完璧な世界作りを目指すこと」と「さもなくば死」という指向には憧れてしまうのだよね。
- ベルリン防衛戦時にドイツ兵が言った有名な言葉「おれたちが占領地でやったことのほんの一部でも敵がここでやったら・・・・・・」にあらわされる要素は描かれていませんが、これは言うまでもない前提でここまで描写すると手を広げすぎになると思いました。(これに限らず「言うまでもない前提」として話を進めているらしき要素は多い)
- 最後に本人が登場して当時はナチスの非道さを知らなくて云々の話をするのは政治的には正しいと思うけれど、作品としては貴重な本人に無駄話をさせたとしか思えない。