321 生老病呆死(57)「死」を超える対策その6 非業の死を思い描き

ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 321
321 生老病呆死(57)「死」を超える対策その6 非業の死を思い描きつつ 

 「ナンデモナイ、ナンデモナイ」と身を縮めておまじないを唱える。その一方で、歴史上のいろいろな他人の悲惨、非業の死を思い描きながら、「あれに比べればまだましではないか」、と自分に言い聞かせる。多分、ボクの死の床の作法はこの二本立てになるのでないか。 

 身体的、物理的に多少余裕があって感傷に沈んでいるときなら、吉野弘
「I was born」という詩を思い出すかもしれない。昭和52年に発表され、「どうしようもない傑作」と絶賛された戦後詩の代表的作品だ。そんな名詩を要約するなんてバカげているし無作法だが、すこし長いので乱暴に短くする。
         ――−−−−−△―――――――
 英語を習い始めたころだった。ある夏の宵、僕は父と一緒に寺の境内を歩いていた。白い女がこちらへやってくる。物憂げに、ゆっくりと。
 女は身重らしかった。父に気兼ねしながらも僕は女の腹から目を離さなかった。頭を下にした胎児の、柔軟な動きを、腹のあたりに連想し、それがやがて、世に生まれ出ることの不思議に打たれていた。
 女はゆき過ぎた。

 少年の思いは飛躍しやすい。その時、僕は<生まれる>ということが、まさしく<受け身>である訳を、ふと諒解した.僕は興奮して父に話しかけた。
――やっぱりI was bornなんだねーー受身形だよ。正しく言うと人間は生まれさせられるんだ。自分の意志ではないんだねーー

 父は無言で暫く歩いた後、思いがけない話をした。
――蜉蝣(かげろう)という虫はね。生まれてから二、三日で死ぬんだそうだが それなら一体 何の為に世の中へでてくるのかと そんなことがひどく気になった頃があってね。友人にその話をしたら ある日 これが蜉蝣の雌だといって拡大鏡でみせてくれた。説明によると 口はまったく退化して食物を摂るに適しない。胃の腑を開いても 入っているのは空気ばかり。みると その通りなんだ。ところが 卵だけは腹の中にぎっしり充満していて ほっそりした胸の方まで及んでいる。それはまるで 目まぐるしく繰り返される生き死にの悲しみが 咽喉もとまで こみあげているようにみえるのだ 淋しい 光の粒々だったね。私が友人のほうを振り向いて<卵>というと 彼も肯いて答えた。<せつなげだね>。そんなことがあって間もなくのことだったんだよ。お母さんがお前を生み落としてすぐに死なれたのはーー。
 ――ほっそりした母の胸の方まで 息苦しくふさいでいた白い僕の肉体――
       ――――――△――――――――――
 以上である。子は生まれる意志もないのに、なぜか親は命がけで生もうとする。いったん生まれたものは必ず死なねばならないのに。人間に限らず、動物も植物も虫たちも地上の生きものはすべてこのシステムを継承している。おまけに人間はやっかいなことに、事前に死を想像し死を恐れ死を悲しむ唯一の存在だという。
 先年亡くなった医者で、思想の科学社社長でもあった異色の思想家、上野博正とは2、3度お会いしたことがある。こんなことを書き残している。

内戦、圧政、極貧。そんな国々をみると、日本の現実の老いや死にこだわる贅沢さに思いいたる。われわれ日本人の多くもかつては、極度の貧しさからくる凄惨な死、例外者的死(暗殺、自殺、獄死、刑死、野垂れ死になど社会からの離反、反抗、拒絶に対する報いとして与えられた非日常的凄惨な死)の不安に立たされていた。
われら戦中派は、ただ生きているだけでありがたいとおもわなければいけないだろう。この先も畳の上で死ねれば、少々のことは我慢する、贅沢は言わない、というのが当然ではないか。
私たちは歴史の激動から思考の方法としての虚無を学ばなかった。生きることの肯定はこのような否定に媒介されたものであろう。世を無残、醜と見る諦念にたってのみ、ものみな美しく、懐かしく見え、人を許すやさしさが出てくる。
  ――――――――――――――――――――――――――――
ボクはいまのところ虐殺、刑死、野垂れ死にの可能性はほとんどない。畳の上か、ホスピスか、病院で、合法的な手当を受けながら死ぬに違いない。そう思うと腹の底から、わずかだが愉悦に似た安堵がこみあげてくる。その安堵を対照的に確認させてくれるもうひとつの事例は実験動物たちの悲劇だ。こんな残酷なことがこの世に白昼堂々とまかり通っているのかと、恥ずかしながら最近やっとボクは知った。(本ブログの動物実験シリーズ参照)
地球の歴史をさかのぼればボクたちと同じ血筋をひく同胞をこんな無残な目にあわせて、種としての人間はいずれにせよ、ただではすむまい。「自然」からしっぺ返しを食うような気がしてならない。

 ことし7月から米国カリフォルニア州ではフォアグラの生産・販売が禁止された。テレビニュースでふたつの画面を見た。
ひとつはいやがるガチョウたちの口中につぎつぎ器具を差し込みむりやり餌を押し込んでいるシーン。ガチョウを過食させ、病的に肥大した肝を人間は世界の三大珍味と称して高値で取引している。動物虐待と批判の声が高まっているが、原発同様、ここにも利権の構造にしがみついている旧勢力の反対運動が強いという。
もうひとつの画像は、金持ちそうな太った黒人が「自分のカネで好きなものを食う、そのどこが悪い! 国はフォアグラを食う国民の権利を守れ!」とわめいていた。

人も動物たちもいまもむかしも地上は、上野博正のいう「非日常的凄惨な死」に満ちている。ボクは卑しい小心者根性だが、それを思い浮かべながら、せめて合法的な手続きで死んで行ける自分をよしとしよう。「ナンデモナイ、ナンデモナイ」と唱えているうちにあの世に着陸するにちがいないのだから。
死んで不幸せになった人なんて聞いたことがない。不幸せはこの世特有の風土病なのだろう。ボクは永遠無限抱擁の時空に還るのだ。ふとカラ元気が出てくる。何も怖いものはないぞ!。親鸞のいう正定聚が瞬間風速的にボクの頭上をかすめたように思った。(しばらく中断)

320 生老病呆死(57)「死」を超える対策その5 ニヒルな視線 

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320 生老病呆死(57)「死」を超える対策その5 ニヒルな視線 

 前回の補足。
遠藤周作は亡くなった人たちと死後の再会を夢見ているが、それは自分が死ななくては実現しない。だが、ボクの場合は死ななくても自在に会える。はじめから生死の境界があいまいなのだから、別にあの世に行かなくても、死んだ両親や懐かしい人たちといつでも会うことができる。昨日も酔っぱらって夜道を帰りながら母と話していた。

母は二年前の正月に転倒し意識を失ったまま2カ月後に病院で死んだ。ボクたちにとっていい母でなく、とくに東京在住の妹との仲はさびついていた。母が救急車で運ばれたと連絡しても、妹はすぐにはかけつけてこなかった。やっと見舞いにきたのは一カ月ほどしてからだ。酸素マスクをしてひたすら眠り続ける母をベッドの両サイドから挟んでボクらはみつめた。「お母さん、H子がきたよ! ほらお母さん!」とボクは大声で知らせたが、反応はない。「ずっとこうなんだ」「もう意識が戻らないのしら」。
小声でささやいていると、看護師さんが入ってきた。「聴覚はまだ残っているかもしれませんよ。根気よく呼びかけてみてください」と親切にいってくれる。「ありがとうございます」と妹が頭を下げた。

そのときだ。突如母がろれつのまわらない幼児語で「ア・ン・ガ・ト・ゴ・ザ・マ・ス」と叫ぶように声を上げた。おまけに上半身を起こして、もう一度同じ言葉を発した。ボクらは茫然とした。妹が母を支えて元のように寝かせた。母は妹の方へ顔を傾けた。ボクには見えなかったが、「笑ってる、兄ちゃん、お母ちゃんが笑っているよ」と妹がうわずっている。「え、ほんとか」。ボクも興奮した。今度は母はボクの方を向いて泣き顔を見せた。

だがすぐに昏睡状態に戻った。「こんな話、よく聞くよなあ。作り話と思って信用していなかった。でも、ほんとうに目の前で起こったなあ」「うん…」「お前がきてうれしかったんだろ」。それから半時間ほどボクと妹は母の枕元で話し合った。妹は帰ることになり、病室のドアのところで、こどものころよくしたように「バイバイ」と母に手を振った。なんとそのとき、母も「バイバイ」と素っ頓狂な大声で手を振ったのだ。ボクも妹もぎょっとした。

母は妹よりボクを溺愛した。最後まで母を介護したのもボクだった。そのボクがいくら声をかけても母は反応しなかった。なのに妹にはバイバイまでしてみせた。また、妹には笑顔を、ボクには泣き顔を見せた。意図的に使い分けたのかどうか。――母の死後、妹とよくそのことを話し合った。最近は母に直接その理由を質すことが多くなった。母はうなずいたり、謎めいた笑いを浮かべたり、いじわるな顔をして無視することもある。ふと気付くと、いかめしい死に装束だった母が、むかしの普段着のあまり好きでなかった母に戻ってボクの日常会話の相手をしている、そんな錯覚に襲われる。母のわずかな遺産を長男のボクは分捕ろうとしたが、考え直して平等に分けた。曽野綾子さん流にいうと、死者である母の視線がそう願っていたからである。

本題に戻ろう。ボクの死への心構えその5は、「ニヒルな視線」を忘れるな。
この世なんてしょせんはフィクションなのさ、という捨て台詞を用意しておくことである。このことを端的に教えてくれたのはこれまでしばしば引用した北森嘉蔵牧師の次の短い言葉である。
「その牧師がニセモノかホンモノかを見分けるには、その牧師がニヒルかどうかを知ることだ。キリスト教はニヒル、人間への絶望から出発する」
 ニヒルでない牧師はニセモノというわけだ。荒っぽいが端的で鋭い表現である。一度は絶望の淵、ニヒルの霧をさまよった人にこそ神の愛が語れるのだ。

この考え方はキリスト教に限らない。仏教はその本家といえるし、哲学も基盤をそこに置いている。いや、とくに宗教や哲学に限らずとも、どんな分野であれ、その道を極めた人にはどこか虚無の雰囲気が漂っている。福澤諭吉のようにこの世に徹したリアリストでも、「人間はしょせん蛆虫にすぎない、この世なんて夢幻…」というもうひとつのドスを懐にしのばせていた。(本ブログ301、302参照)。この世を逆手にとって開き直るようなニヒルの姿勢はときとして現実的なパワーをもたらすのだろう。

モームの傑作『人間の絆』に考えさせられる挿話がある。
むかし、ある国の王が「人間の歴史」を知りたいと思い、学者に書物を集めさせる。学者は500巻の書物を選ぶが、政務に忙しい王は「短く要約せよ」と学者に命じる。
20年後、学者は50巻にまとめて持参する。王は時間の余裕はあったが、すでに体力気力が衰えていた。もっと短くせよ、とさらに要約を命じた。
20年後、白髪の学者は一巻にまとめた書物を持参した。しかし、王はすでに死の床にあり、読むことはできない。王は短く口で話してみよ、と命じる。学者は王の耳元で「人は生れ、苦しみ、そして死にます。王よ、これが人間の歴史です」それを聞いて王はにっこり笑って死んでいった。

この挿話を仏教評論家のひろさちやさんは次のように説明する。
「人は生れ、苦しみ、そして死ぬーー人間の歴史はわずか1行で語られる。人生の意味などなにもない。人間の一生もまた何の役にも立たない。自分が生れてこようと、来なかろうと、生きていようと、死んでしまおうと、そんなことはいっさい何の影響もない。生も死も無意味。人生は無意味だ」と主人公のフィリップは気付いた。「人生に意味がある」と私たちに思わせようとしているのはじつは世間だった。人生に意味なんてない。人間は生れてきたついでに生きているだけだ。そう思うと、フィリップは重荷になっていた世の中の束縛から解放され、自由と力を得た。

「ニヒル」というのは分厚い雲間からチラっと日射しが差し込むような不思議な明るさとパワーを伴うものだとこのごろボクも感じることがある。(つづく)

319 生老病呆死(56)「死」を超える対策その4 生死の境界をあいま

ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 319
319 生老病呆死(56)「死」を超える対策その4 生死の境界をあいまいに  

 前回の補足。
 「自分の物語」をもつとは、この世の自分の生涯を解釈し、言い訳し、正当化することにほかならない。どうしようもなくボクに与えられた時代や家庭、もろもろの環境の制約のなかでボクはもっと気に入った環境を得ようと奮闘し、小細工し、計算しながら自分の時間を刻んできた。振り返ると、無数のボクの残骸が明滅している。
若かったのにけっこうずるく立ち回ったなあ、とわれながら恥ずかしくなったり、あの上役のために出世できなかった、といまでも腹が立ったりする。女性たちの顔も並ぶ。高嶺の花との思いもよらぬ熱情もあれば、軽く見てちょっかいを出しただけなのに予想外の深手にうめいたこともある。思い出す度に申し訳なさで滅入ってくる心優しい少女たちとの無残な別れも。
 そしてともかく、老いたボクはここに佇んでいる。自分を「どんな物語」にゆだねようとするのか。
 
 内田樹さんは仏教の因果を踏まえて「あなたのこれまでの経験から何か一つの因子を選び、因果関係を作ってみよう」と教えてくれている。対談相手の釋徹宗さんは「宗教とは自分の内面の意味付けにある。それにふさわしい言葉だ」と応じている。そうなのだ、物語づくりは自分の生きた内面の意味を自らに問う作業なのだ。

 もうひとつ、物語づくりに関連して重要だと思うのは、本ブログ268回に引用した玄侑宗久さんの「仏教は過去を変えることのできる唯一の思想」という表現だ。因果はつねに変転し、とどまることがない。状況しだいで意味付けも解釈もかわってくる。何事もむやみに喜ぶことも、悲しむことも、悔いることもないのかもしれない。ボクの物語とは無限無常の時空をルールさえ知らずに渡っているボクの束の間を綴る自己証明なのだ。

 さて、死を超えるボクの対策その4は、生死の境界をあいまいに、である。
 玄侑さんはお坊さんでもあるが、著書には科学のデータがふんだんに盛り込まれている。宗教といえば非科学、非科学といえば非現実の妄想、ときめつけたがる向きになんとかわかってもらおうという努力だろう。近年は宗教と科学の接近が科学者の側からも積極的になされている。玄侑さんはアインシュタインファインマンハイゼンベルク、ボーム、それに量子力学創始者であるボーアやシュレディンガーなど著名な科学者の研究やコメントを引きながら、この世に「あの世」が共存する可能性さえあることを最新の科学は示していることを力説している。

たとえばノーベル賞を受賞した江崎玲於奈博士のおもな業績は「トンネル」の発見だった。ひとことでいうと電子がA地点からB地点に移ったのに、A~Bの間の空間を通っていない。どこを通ったかわからない。この世ならぬあの世のトンネルをこっそりぬけたのでないかというわけだ。科学では理解できないことだそうだ。そんな例が数多くあげられている。
もっと極論すれば、本ブログ186回に紹介したように、人類の脳には生まれつき独特のクセ、ゆがみがあり、そもそも現実を正確に認識できない、という致命傷を抱えているのだ。
科学はあくまで「部分的・限界的」なことしかわからない。見えない世界があることを私たちは謙虚に認識せねばならないのだ。

 まあそんな理屈はどうでもよろしい。要するにボクの死後は満天の星であっても、母の羊水に満たされた子宮のような海であっても、あるいは案外わが家の庭先あたりであっても、…死後はあるとしたほうがボクの物語の構成には好都合なのだ。ボクが幸せに生きるために、心豊かにこの世に納得し、晴れ晴れとあの世に旅立つために、ボクの物語にはあの世がなくてはならない。あの世の定義、性格づけ、属性や形状、それだってどうでもよい。

 ただ、物語をつくるに際して、この世とあの世の境界をあいまいとする。登場人物も出来事も、往来自由。あっちへはみ出ようと、こっちへ舞い戻り、またあっちへ行こうと、厳密には問わない。好きなときに出没する。
 河合隼雄は「死者に聴くことはいい。死んだ人と話してみるのは死の準備になる。ある歌舞伎役者が死んだ師匠がみているとおもって稽古するといっているが、死人は客観的だ。すてきな方法」という意味のことを書いている。
曽野綾子は「死者の視線を意識する」としばしば表現している。
 
遠藤周作は次のように書く。
 「われわれの人生は目には見えないが、何かに包まれ、何かに繋がっているのでないだろうか。われわれの命もより大きな命に包まれていないと、どうして言えるだろうか。その大きな命がわれわれにわからないのはちょうど小説の言葉やイメージを表面的に読むのと同じなのではないのだろうか。人が死ぬときひとりぽっちで、これ以上はもうだれもついてこられない境界線がある。そこから先の期待があるとしたら、次の世界で死んだ母や兄に再会できることだ。再会の光景を真夜中などにしばしば心に描く。きっと向こうから呼びかけてくる声があるはずだが、われわれ人間にはそれが聴こえない。そのコトバを徴(注=しるし・シンボル)以外には解読することができないだけだ。これはわたしの感覚だからほかに説明のしようもない」

 曽野綾子さんにも遠藤周作にも、「あんた、うそをつくな」、とはだれも言えない。    (つづく)

317 生老病呆死(54)「死」を超える対策その3 「自分の物語」をも

ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 318
318 生老病呆死(55)「死」を超える対策その3 「自分の物語」をもつ  

前回の補足。
威勢よく満天の星に飛び込むのもいいが、こどもが予防注射を受ける時のように、なんでもない、なんでもない、と自分に言い聞かせながら目をつむって腕を差し出すやりかたも捨てがたい。これの方が小心者のボクに合っているかもしれない。その場合、舞台のイメージは「満天の星」から「海」に代わる。
遠藤周作がよく引用したフランスの作家セスブロンのことば。

「死のこわさは、たぶん、つめたい海に入るときのおびえに似ているのだろう。入っていくとき、われわれの体はこわばる。しかし、いったん中に入ってしまえば、そこには大きな命の海が拡がっている」

セスブロンは癌で死期が迫るなか、遺作『死に直面して』で死をこうイメージした。満天の星に比べてこちらは現実的だ。「なんでもない、こわくない、すぐに終わるよ」。母の胎内で丸くなり、目をつむり、息をひそめて何かが通過するのを待っている感じ。舞台に飛び出さねばならない歌手よりじっとしているこちらのほうが楽かもしれない。

振り返るとボクはこどものころから現在まで随分悪いこと、恥ずべきことを繰り返してきた。公私とりまぜて、うそ、裏切り、ごまかし。そのときどきに大波小波が立ちそれなりのペナルティも蒙ったが、致命傷にはならずにおかげさまで、まあ安泰な老後にいたっている。働いた悪事・卑劣・欺瞞に比べれば、現状ははるかに「生むは案ずるよりやすし」である。その経験からすれば、「ナンデモナイ、ナンデモナイ」と身を屈めておれば、死の怖さだって、いつの間にか頭上を通過して、気がつくとボクはにこやかにあの世へソフトランディングーーそんな虫のいい思いもちらつく。

さて、死への対策その3は、「自分の物語」をもつことである。多くの先人がそう教えている。
ユング心理学河合隼雄は「人は幸せに生きるためには魂の物語が必要。人生の危機を論理的な説明だけで、抜け出すことは出来ない。恐怖や悲しみを乗り越えるためには物語が有効なのだ」といい、内田樹さんはさらに一歩突っ込んだ表現をしてくれている。

死ぬときはおたがい気分よく逝きたい。そのためにはこの世の未練や執着を減らすことが肝要だ。この世の執着を減らすにはもうひとつ別の世界を持つことだ。
たとえば、「魂の不滅」や「来世」や「輪廻」といった物語にリアリティを感じる人は、この世で生きる執着が縮小されるのでないだろうか。つまり、自分という個を超えた物語、眼前の世界とは別の足場を持っているということが気分よく死ぬことへのヒントになる。リアルな自分を知ることと、個を超える出会いへとつながること、これが気分よく死ぬ(生きる)コツーーというのである。

 内田さんという思想家は保守と革新、科学と宗教、いろんな考え方がごちゃまでになっていて、おもしろい。
 「リアルな自分を知る」というのは、無限永遠の時空・宇宙に占める小さく、はかないボクの生涯と想定しよう。
「個を超える出会い」とは、そんな星くずのボクだが、ビッグバーン以来150億年も大宇宙のパーツを占め続けている、大宇宙を構成する要素のひとつになっている、その真理に気づくことだ。ボクは死のうが、死後どの星へ移住しようが、永遠無限の大宇宙とともに存在している。その逃れようもない法則を自覚することだ、と理解したい。

内田さんは専攻するユダヤ系哲学者レヴィナスを引き合いに「わたしたちは世界の創造に遅れてやってきた」とつぎのように書いている。
ヨブ記のなかで主が告げるように人間性の核心は<私は私の起源に先んじて何であったかを知らず、死後に何であるかを知らない>と自覚するところにある。
「どういうルールでおこなわれているのかわからないゲームに気がついたらプレイヤーとして参加していた」というのが人間の立ち位置だ。自分には分からないけれど、このゲームを始めた何ものかが存在し、そうである以上、このゲームにはルールがあるはずだ、と推論する人間の思考の方向、それを人間が本来持つ宗教性と呼びたい。

 ボクたちはどこからきて、どこへいくのか。そして一定の期間生きるというゲームをしているけれど、そのルールは? なぜ生きるのか、どう生きるのか、その目的は?
 などなど、絶対的に遅れてやってきたボクたちにはいっさい知らされていない。
 ただ、生きる舞台の演出はめいめいに任されている。
自分に合った、自分好みの物語をつくって、この世の自分を解釈し、やりすごすだけだ。
それを手土産に次の星に移っていくのだ。
(つづく)

317 生老病呆死(54)「死」を超える対策その2 満天の星に飛び込

ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 317
317 生老病呆死(54)「死」を超える対策その2 満天の星に飛び込む  

 数十年前、父は癌の痛みに苦しんだ。ボクが赴任先から電話を入れると、家族が「痛そうなの。この声聴こえるでしょ!」と受話器を父に近付けた。「いたい、ウオー、ウオー」と獣のような唸り声が低く響いている。通院していた。現在は在宅医療もすすんでいると聞くが、当時はそんな知識を持ち合わせていなかった。親戚の複数の医者に相談すると、「もう家で看護できる段階でない」といわれた。
苦労をかけた父だからなるだけ家で看てあげたいというのが家族の願いだった。しかし、それももう限界らしい。ボクは休暇をとって家に帰り、病床の父に事情を話した。家族の意志でなく、父自身が入院を決めたという体裁をとりたかった。
<あなたを見捨てるわけじゃないんだよ、いくらでも家で看護するのだが、あなたの苦痛をとることを考えている>。曲がりくどく話していると、父は途中でさえぎって「入院するよ」とあっさりいった。救急車にきてもらった。父はよろよろと一人で立ち上がり救急隊員の人に「ご苦労さまです」とあいさつした。手を貸そうとするボクを振り払って♪影か柳か、勘太郎さんか♪と、戦前の流行歌を口ずさみながら自分で担架に乗った。家族も隊員もきょとんとしていた。ひとりでトイレにもいけない父の最後の馬力だった。

病院の担当医に「命はもういいから、痛みだけを押さえてほしい。麻薬や鎮痛剤を使いまくってほしい」と懇願したが、当時は治療の建前にこだわって医者はいい顔をしなかった。一週間後にかけつけると鎮痛剤のおかげか、病状悪化のおかげか、やっと意識がぼやけ始めた。
手を握るボクの方を見ずに病室の窓に映える車のヘッドライトを見ながら、なにかつぶやいている。それからはっきり「戦友、水をくれ」と言い、なにか小声で歌いだした。♪中国戦線きょうも雨が降り続く、人馬ともに食べるものがない♪という趣旨のうらぶれた軍歌だ。聞き覚えがあった。元気なころの父は晩酌のあと、ときどき口ずさんでいた。
父は目の前の息子より中国戦線に飛んでいる。意識はもうこの世にはないのだ。痛みも消えたようだ。死ぬのは近い、と妙にうれしかった。余談だが、この歌は森繁久弥が哀しき軍歌と銘打って歌っている『討匪行』である。戦意があがらないと戦地では歌うのを禁止されたらしい。

あのときもっと麻薬を使って痛みを早くとってあげたかった、といまでも悔むことがある。ボクは父の二の舞はしない。どんどん麻薬だ、麻薬があればきっと怖くない(に違いない)。

ところで、ボクが麻薬の大量投与を決断するのは意識がまだ薄れていない段階だ。このときがボクの事実上の死の宣告、いや、死の受容になるのだ。
そのとき本当はボクはどんな心境なのだろう。ーーこれも山田風太郎の次のアフォリズムがうまく代弁してくれているようにおもう。

『「よし、いくぞーっ」と売り出しの歌手もどきの言葉を胸に雄叫ぶか、
または非常に弱気になるなら、はじめて予防注射を受けるこどものごとく
「ナンデモナイ、ナンデモナイ」と、心に言い聞かせるかーー。』

たぶん、ボクも強気と弱気が交差することだろう。迷うだろうが、やっぱり強気で行こう。売り出しの歌手が舞台に飛び出す雄叫びの方をとろう。
歌手のほかに、もうひとつ思い出した。
むかし読んだ「人間最後の言葉」という本にフランスの元将軍の小気味のいいセリフがあった。

「この世で俺は勝ち戦ばかりだった。あの世では群衆が凱旋パレードを準備しているだろう。俺は凱旋将軍として勇ましくあの世へいく」という趣旨だった。
これもいいが、この世でほとんど勝ち戦のなかったボクに凱旋パレードは似合わない。

売り出しの歌手として虚勢を張ってパフォーマンスいっぱいに飛び出すボクの前方に広がるのはむろん死後の世界だ。死後の想像図はいくつかある。いま一番気に入っているシーンは、暗黒の大宇宙と点滅する無数の星たちに向かって飛び込む図である。ボクはそのどこかの星で、この世でそうであったように、数少ない得意とたくさんの失意と悔いを繰り返しながら、相変わらず冴えない時間を過ごすことになる。
これは京大名誉教授岸根卓郎さんと作家玄侑宗久さんの影響でいつしかボクの頭の中に出来上がってしまった「死後のイメージ」である。

岸根さんは書いている。
「宇宙空間には宇宙のチリが漂い、そのチリが集まって星が誕生する。その星も寿命が来ると死滅(爆発)して再びチリとなり、それがまた集まって新しい星となる。地球も同じ。やがてチリとなり、いつか星となり、宇宙のどこかで再び光り輝く。その星には私たちの肉体も含まれている。私たちも新しい星に生まれ変わり、新しい命を得て宇宙のどこかで生き永らえることになるだろう。だから私たちは〈星くず〉であり、〈小宇宙〉と呼ばれるのだ」
(本ブログ174「さて、つぎはどの星に生まれようかな」参照)

ポリネシア地方では、人々は夜空を眺めながら、自分が死んだら、次はあの星に生まれる、とめいめいが予告する風習があるという。
いい話だなと感心し、ボクも定年退職の挨拶状にこれをなぞったような文章を書いた。(つづく)

316 生老病呆死(53)「死」を超える対策その1  麻薬中毒志願

ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 316
316 生老病呆死(53)「死」を超える対策その1  麻薬中毒志願

死を「自然」に託すイメージや思考回路は前回みたように人さまざまなのだ。
唯物論者で無宗教マルクス毛沢東
宮沢賢治は詩人で法華経の信徒だった。
:宗教を信じない吉本隆明はどうやら無宗教らしい高村光太郎の「死ねば死にきり 自然は際立っている」が大好きだそうだ。
:宗教を信じないといった高名な宗教学者岸本英夫も「死後は自分が宇宙の霊にかえって、永遠の休息にはいる」とおもうことで最終的な決着をつけようとした。宇宙というのも当然「自然」の概念に含まれるだろう。
絶対者、超越なども自然のカテゴリーだ。
宗教家はいうまでもなく自然のなかに神仏をみる。
唯物論者も唯心論者も観念論者も、みんな最後は自然にたどり着く。自然にゆだねる。自然におんぶして死を処理しようとする。

 ボクは以前、北森嘉蔵牧師の本で、ゲーテの「自然は私をここに置いた。悪いようにはしないだろう」という言葉を知った。とても気に入り、年賀状の挨拶に使わせてもらったことがある。北森牧師はゲーテの「自然」をキリスト教の「神」にだぶらせていた。
ゲーテの「自然を通して神を知る」という言葉は知っているが、ふと本人の宗教が気になり、ネットで検索すると、すでにだれかが問い、だれかが答えてくれていた。その匿名の答え。

ゲーテ自然宗教者、あるいは汎神論者でした。 汎神論というのは、すべては神であり、神がすべてである、という考え方です。汎神論における<神>はしばしば大海にたとえられ、個物は現れては消える波にたとえられます。
汎神論的宗教のメリットは、全体との関連性を失って孤立した個物に全体との関連性を与えることでしょう。他方、汎神論的宗教のデメリットは、個物が全体に飲み込まれてしまって、その個物の意義(存在の多様性)が見失われることです。」

なるほど、自然宗教者、という表現もあるのか。
さてボク自身はどうなのだろう。死について、そして予想屋みたいだが、自分自身はどんな死に方をすると想像しているのか。死後のイメージは?

ボクが死についていちばん納得できるのはハイデガーの考え方である。人間はつねに死ぬべき存在であると自戒しながら、いまの生を充実させる、死を地平線の彼方に眺めながら、できるだけ悔いを少なく時を刻んでいく。月並みなようだが、それしかないと思う。
とはいえ、人生を走り始めたころと、もう第四コーナーにはいってしまった者とでは受け止め方がだいぶ違う。とうとうここまで来てしまったボクは、わずかな得意と膨大な失意や悔いの残る来し方を振り返って溜息をつくばかりだ。いまは「死」を意識して「生」を考えるというよりも、前方に迫る黒い闇の妄想に圧倒され、たまに思い出したように仕方なく生の後片付けを急ぐ、そんな毎日である。

死そのものは本人のものでないからキミの人生から取り除いてよろしい、という教えはその通りだが、死の前兆段階が怖い。このブログを書き始めたころは、死とはなんぞや、という観念的なものがいちばんの恐怖だったが、先人のさまざまな説と思索で満腹になり、精神面は食傷状態だ。貧しいボクのオリジナルなど埋没してしまった。あとで掘り起こすとして、いま死についていちばん怖いのは死に際の肉体的な苦痛である。吉本隆明は「死の直前に苦悶の様相を見せるが、医学的にはもう本人は意識がない、まわりの者が苦しそうに感じるだけだ」とさかんに書いている。それはありがたい。しかし、それより前、つまり意識がなくなるまでの時間帯だってある、そのときの痛みはどうしてくれるのだ、といいたいのだ。

精神的、観念的な恐怖や悲しみ、孤独はなんとかがまんできるように思えてきた。だが、肉体的、具体的な苦痛はつらいだろうな。先日、簡単な手術をしたとき、気が付いたら導尿管をはめられ、ベッドに縛り付けられていた。たった一日だったし、それほど痛みはなかったのに、おおげさにいえば、じたばたし、自由にならぬ身が狂おしかった。これに痛みが伴って、それが死ぬ直前、つまり意識がなくなるまで続くと思えば、たまらない。死んだ方がましだ。人生から「死」を除いても、この状態――死より前、さらに意識がなくなるより前の段階、がもっともつらいと感じた。ポックリ寺に願をかける老人が多いのもよくわかる。

この苦痛に対してボクの唯一の対策は、麻薬患者になることである。ああまでして麻薬のとりこになる人がいまもむかしも絶えない。それがふしぎで、若いころから一度は試したいと願っている。中学生のころ、ヒロポンというのがはやり、不良仲間と試したが、期間が短かったせいか、あいにく中毒にはならなかった。

やがて、そのときが到来したら、ボクは晴れて麻薬を試せるのだ。麻薬患者の愉悦を味わいつつ、旅立とう。それが老いたボクに残された数少ない楽しみである。妻にも、そのようにお医者さんに頼むように、と遺言している。どんどん麻薬を打ちまくってくれと。中毒になっても、だれにも、社会にも、迷惑をかける心配はない。これがボクの実践的な死を超える対策の一つである。(つづく)

315 生老病呆死(52)生を「小さく刻んで」、あとは「死ねば死にき

ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 315
315 生老病呆死(52)生を「小さく刻んで」、あとは「死ねば死にきり」

死を「追いつめる」に似た発想で、時間や感情を「小さく刻む」も、吉本隆明のお得意の方程式だ。
たとえば、老人はほぼ例外なくうつ病であり、心身症だ。なぜか? 
これから先、もう生きる時間が乏しい。あと死を待つのみ。生きていてもいいことなんか何も残っていない、やがて足腰が立たなくなって病気になって死ぬだけしか残っていないじゃないか。哲学者も文学者も実業家も政治家もサラリーマンも老人になると、みんなある日そんな思案に入る瞬間を免れない。
いったんそのコースに入ると、どんどん鬱の下降線をたどる。目的地は死だ。死を克服するため学問的にどんなに分析し整理し分かったつもりになっても、実感的にはうつ状態は消えない。吉本自身もそうだった。老いることは<死の軌道>に乗ることを意味する。さて、問題はその軌道からどのようにして脱出するかだ。

吉本が自身の脱出成功例として紹介しているのは時間や感情を細かく刻む生き方である。うれしい、かなしい、憂鬱だ、といった出来事や感情の起伏をこまかく意識する。街を歩いていて、こぎれいな女性がきた。「ああ、すごいな、今日はいい日だ」と思うことにする。
会社で上役に嫌なことを言われた、同僚とけんかした、とおもしろくない日は、「今日は不幸だった」となる。
昨日までは3百メートル歩くと腰が痛くなった、それが今日は4百メートル歩けたからハッピーだ、と思うことにする。

若い時は、幸福や不幸、成功や不成功、ついてる、ついてない、など環境や運命を長いレンジでとらえることができた。しかし、年をとってからでは長い周期ではなにごとも実感がともなわない。だから「今日は楽しかったなあ、しかし明日はわからない」と短い時間帯で切り替えながら生きることにする。それが死へ続く慢性のうつ下降線に変化をつけるコツだという。

会社役員を退職した友人にこの話をすると、なるほど、とひどく感心していた。以来、幼馴染や学生時代の友人、会社時代の仲間などときめ細かく打ち合わせをし、行事や会合で予定表を埋めるのを心がけているようだ。目前の雑用に忙殺されるだけのやりかたは何かかんじんなものを忘れてきた会社人間の残骸に見えるが、しかし、形而上学的に死を追いつめるとともに生を小さく刻む方法を併用するのは効果的かもしれない。暗い老いの日々や死がまだら模様ながら夕日に照らしだされる気がする。

もうひとつ、老人が<死の軌道>から脱出する方法として吉本があげているのは「死は自分のものでない」とする考え方である。
病院で、管をいっぱいつけられ、点滴され、顔をゆがめて苦しそうな病人――のような状態になるのはいやだから、早く死なせてほしい、などという人が多い。しかし、それは科学的でない。もうこの段階になると、痛みや苦しさを本人が意識することはできない。親鸞が浄土を本物の死のひとつ手前に設定(正定聚)したように、<死の軌道>からほんものの死を外す。本人は自分の死をもはや経験できないのだから、自分の生涯に死は存在しない。そう思うことは、死にまつわる鬱状態を離れるひとつの方法という。

しかし、これは最初の方法に比べると、効果は弱そうだ。自分の死は自分では実際に経験できない。そんなことはだれもわかりきっている。そういわれてもやはり死は怖いのだ。私たちは死そのものが怖いというより死を思うこと、死にまつわりついている衣装が怖いのだ。死というゴールが怖いのでなく、死に至るプロセスが怖いのだから。
いくら考えても、手を尽くしても、死の恐怖は残る。死を追いつめても、時間や感情を小さく刻んでも、自分の死は経験できないのだからと自分に言い聞かせても、最終的に死の恐怖は消えない。吉本も実感的には「論理通り」にはいかない。死の恐怖は残る、ただ、緩和するだけだ、と書いている。
そして申し訳のように、死の恐怖が残る理由の1つは、生まれてきたときの恐怖の再現だからだ、という。このあたりになるとボクはあまり信用する気にならない。何を根拠にそういうのか、それこそ科学的に裏付ける論理がほしいところだ。

死を追いつめる、生を細かく刻む。そういう実務的な作業を終えて、さて、死後はどうなるのか。
吉本は高村光太郎の「死ねば死にきり 自然は水際立っている」という言葉が大好きだという。人は死ねばそれっきり、なにもない。人が死んでも自然はなにもかわらず、いままで通りの秩序が続く。唯物的な考え方だ。
ボクはふと山田風太郎の言葉を連想する。

『(死のイメージはたとえば)路傍の石がひとつ水に落ちる。無数の足が忙しげにその傍を通り過ぎていく。映像にすればただ一秒。』
有史以来、無数の人間が死んできた。その中のひとり分の自分の死なんてという雰囲気が出ている。ラッシュアワーの雑踏を我先に急ぐ群衆。その足元にポンと小石が一つ落ちた。でもだれもそれに気づかない。ポンと小石ひとつが落ちる一秒間の死の静寂である。

吉本はそのほか、マルクスの「人間はただ自然物の1種類だ」、毛沢東の「自然には勝てません」、宮沢賢治の「人間は自然の1部です」という言葉を並べ、それぞれの<自然>を説明している。
高村の場合は「自然とは何ぞや」という形而上学的な意味合いと、「人間も自然の一部だ」という唯物的な意味が両方はいっている。
マルクスの自然は動物とか植物とか人間はすべて区別なく自然の中のそれぞれの部分なのだという意味合い。
毛沢東の自然は、人間も年をとると足腰が不自由になり目がかすむなどしてくる。逆らおうとするけれど、自然と同じような法則でやはり衰えていくというニューアンス。
宮沢賢治の場合は農村の人で自然の風景とずっと接していたし、自然物に没入できる資質があったから、まさしく実感的な意味の自然――。(つづく)