ノマドの足跡

旅、酒、ニュース、仕事関連などなど。思いつくまま書いたものです。

堂目卓生 『アダム・スミス』


今年も残すところあと数時間になりました。
ニュースを見るとこの大晦日の晩、日比谷公園で大規模な炊き出しが行われていると報じられています。
思えば今年、とりわけこの2〜3ヶ月で日本も世界も経済状況が激変しました。
株価急落、信用収縮、円の急騰、そして企業の経営破綻、雇用の激減。
こと日本では、この数年間の構造改革の結果としての格差社会が問題とされてきたときに、この経済危機が追い打ちとなってさらに大きな不安を煽っています。
自由市場経済の限界がいま現実になった、そのような指摘も聞こえてきます。



さて、本書は今年のサントリー学芸賞を受賞した作品です。
だからというわけではないのですが、この本は今年中に読んでおきたい、そう思っていました。
結果、今年も終わりかけになって、ようやく読み終えることができました。


個々の経済主体がいかに利己的に行動しても、経済活動は市場に任せておけば「神の見えざる手」によって均衡へと導かれ、ベストの結果をもたらす。
しばしばこうした自由市場経済の思想的な起源に位置づけられるのが、アダム・スミスの思想であり、その主著である『国富論』です。


しかし、こうした利己心と自由市場ばかりを強調するのはアダム・スミスの思想の「誤解」であると本章は主張します。その「誤解」を解くのが、この本の目的であるといえます。



その鍵は、しばしば言及されるスミスの名著『国富論』の前に書かれた、もう一つの主著『道徳感情論』にあります。
アダム・スミスはしばしば「近代経済学の祖」というような位置付けをされますが、彼自身はスコットランドグラスゴー大学の「倫理学」の教授でした。
そして本書で著者は、まさにこの『道徳感情論』にこそスミスの思想のベースがあることを指摘した上で、そのベースにもとづいて『国富論』を読み解かれるべきであると指摘します。
いわば、『道徳感情論』と『国富論』とは、スミスの2つの主著であるばかりではなく、まさに彼の思想における「車の両輪」をなすものであったわけです。


さて、『道徳感情論』で展開されたスミスの思想とはいかなるものだったのでしょうか。
スミスはこの著書の中で社会秩序を導く人間の本性とは何かを明らかにすることを目的としていました。
鍵になる概念は「同感(sympathy)」です。
人間は、自分のみならず他人にも関心を持ち、他人の利害や運不運をみることで、自分の中にもなんらかの感情が芽生えてきます。
「いいな」と思ったり、「かわいそうだな」と思ったり、そうした感情です。
こうした心の作用、すなわち「同感」こそが、人間の本性、人間の人間たるゆえんであるといいます。


そして、経済活動すなわち繁栄と発展の原動力もこの「同感」にほかならないとスミスは考えるといいます。
ひとは他人から「自分もこうありたい」という「同感」を得るために、富や地位を手に入れたいと考えます。
しかし同時に、他人からの「同感」を得たいがために、徳や英知も身につけたいと人は考えます。
人は、他人からの「同感」ゆえに、富や地位を手に入れるばかりでなく、徳や英知をも同時に手に入れようとする。スミスはこう考えていたといいます。
ではなぜ、人は富や地位「だけ」を手に入れて満足してしまうのでしょうか?
それは、富や地位が他人から「見えやすい」ものであるのに対して、徳や英知は他人から「見えにくい」ものであるからだとスミスは言います。
しかし、他人からの「同感」を得やすい、つまり、他人から「見えやすい」富や地位へと流され、逆に「見えにくい」徳や英知を怠ることは、「賢い人」とはいえない。そうではなくそれは「弱い人」であるとスミスは言います。
要するにスミスは、利己心の発現は個々人の富や地位を手に入れようとする活動を促し、よって経済の発展と繁栄を促進するが、同時に、個々人は利己心「ばかり」に流されない徳や英知を必要とすると説いたわけです。


しばしば、利己心や自愛心ばかりが強調され、格差を招く弱肉強食の自由市場経済の思想的起源とされたスミスの理解は、したがって、大きな誤解であるといえます。
人間は「同感」する動物であるがゆえに、「弱さ」を克服する「賢さ」が必要とされ、富や地位ばかりではなく、徳や英知が必要とされる。スミスはそう説いていたのです。
この『道徳感情論』の思想的基盤なしでは、スミスの『国富論』の思想も読み解くことはできない、そう著者は主張します。
この意味で、『道徳感情論』と『国富論』は、「車の両輪」というよりはむしろ、『道徳感情論』の基盤の「うえに」『国富論』があると捉える方がよいのかもしれません。そのように捉えると、『道徳感情論』の思想的基盤なき『国富論』の理解は、「見えざる手」による調和なんかではなく、むしろ「暴走」を招く。それは必然だったのかもしれません。


経済的繁栄を究めた国家が、他国他文明からのテロ攻撃に脅かされる。
介護福祉や人材派遣の新事業で巨万の富を手に入れた実業家が、法を無視した事業展開の咎で犯罪者へと成り下がる。
自由市場経済のもとでは倫理や徳を無視してでも富や地位と手に入れればよい、そうした考えが間違っているということは、すでにアダム・スミスが指摘していたわけです。


人間の本質をなす「同感」という心の作用、すなわち「感情」や「情動」、いいかえると「ねたみ」や「そねみ」を少しも考慮しない自由経済の捉え方が災いを招くのは、スミスの思想からいっても「必然」なのでしょう。



こうしたスミス思想の誤解を指摘した本書は、今年読んだ本の中でも一番くらいおもしろい、最初はそう思いました。


ところで、アダム・スミスはその思想を通して現代の私たちに何を伝えたのでしょうか?
今や、単なる経済的繁栄やましてや単なる自由市場経済の至高性でないことは確かです。
本書の終章「スミスの遺産」で著者は、『道徳感情論』の第6版に付け加えられた、スミスの生前最後の文章を引用し、次のように説いています。
「スミスは、真の幸福は心が平静であることだと信じた。そして、人間が真の幸福を得るためには、それほど多くのものを必要としないと考えた。・・・(中略)・・・多くの人間が陥る本当の不幸は、真の幸福を実現するための手段が手近にあることを忘れ、遠くにある富や地位や名誉に心を奪われ、静坐し満足しているべき時に動くことにある。」(284頁)
そして言います。
「諸個人の間に配分される幸運と不運は、人間の力のおよぶ事柄ではない。私たちは、受けるに値しない幸運と受けるに値しない不運を受け取るしかない存在なのだ。そうであるならば、私たちは、幸運の中で傲慢になることなく、また不運の中で絶望することなく、自分を平静な状態に引き戻してくれる強さが自分の中にあることを信じて生きていかなければならない。私は、スミスが到達したこのような境地こそ、現代の私たちひとりひとりに遺された最も貴重な財産であると思う。」(285頁)


終章を読み終わって、僕は「いい本だな」、そう思いました。





堂目卓生アダム・スミス中公新書、2008。