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kananaka日和

2009-11-18

あのひとの棲む国。

今週のお題:会ってみたい有名人


 神無月も半ばを過ぎた頃、小さな包みが我が家に届いた。差出人欄をあらためると、学生時代にお世話になった今は亡きN先生のお連れ合い、S夫人の端正な筆跡が目に入る。茶色の包み紙をほどくと、はたして中から現れたのは、茨木のり子の『歳月』という詩集であった。


 『歳月』は、詩人茨木のり子が最愛の夫・三浦安信への想いを綴った詩集である。

 伯母は夫に先立たれた一九七五年五月以降、三十一年の長い歳月の間に四十篇近い詩を書き溜めていたが、それらの詩は自分が生きている間には公表したくなかったようである。

 何故生きている間に新しい詩集として出版しないのか以前尋ねたことがあるが、一種のラブレターのようなものなので、ちょっと照れくさいのだという答えであった。

――p128, 宮崎治「Y」の箱, 『歳月』(2007)花神社


 詩人の一周忌に合わせ誕生した遺作集のあとがき―「Y」の箱―を読み、私はこの小さな贈り物の意味を理解した。


 N先生が彼岸に旅立って、今年は早その七回忌。「独り、取り残されました...」と呟き、それ以上は声にならなかった、葬儀の折のS夫人の姿は今も鮮明に思い起こすことができる。その後、折に触れいただくお便りでも、文面の大半はN先生の思い出話に占められた。あれから丸六年が経過した今もなお、S夫人はN先生と共にある。詩人・茨木のり子が、31年間、亡き夫三浦安信宛の「Yの箱」に、「恋唄」を綴り暮らしたように。


 子どものいないご夫婦だった。その運命を甘んじて受け入れてこられたとは思えない。かつて共に暮らそうと試みた上海からの養女、老犬のムク、カメの三吉(サンキチ)、お二人の生活からは子どもに代わる存在を必死で求めてきた様子が、随所に窺えた。夕食時分を狙いすまして訪れる腹ペコティーンエイジャーだった私に、専用の茶碗や箸を用意して歓待してくださったのも、いま思えばその一環だったかもしれない。私にとって、お二人と囲む食卓が本当の<家族>団欒の場に思えていたように。もちろん、私に見せないところでは夫婦の問題もあったろう。けれど、互いを尊び慈しみ合える夫婦であり続けることが決して容易くないことは、恋愛や結婚に夢を抱けない少女時代を過ごしていたからこそ、余計に理解できた。


 「すべて眠りし女、今ぞ目覚めて動くなる」(与謝野晶子)に始まり、

 「わたしを束ねないで」(新川和江)、

 「自分の感受性くらい自分で守ればかものよ」(茨木のり子)、

 「みんなちがってみんないい」(金子みすゞ)。


 当時、女に生まれついた身を疎み自棄を起こしていた私に、女性歌人の歌を紹介して下さったのがN先生だった。中でもこころを鷲掴みにされたのが茨木のり子と新川和江の詩で、その幾つかをN先生は原稿用紙に筆で書き写し、その横にS夫人が寄り添うように水彩画の挿絵をつけ、プレゼントしてくださった。いただいた詩画は小さく折りたたまれ、その後10年近く、私とともに学校に通うことになる。



 


■倚りかからず


もはや

できあいの思想には倚りかかりたくない

もはや

できあいの宗教には倚りかかりたくない

もはや

できあいの学問には倚りかかりたくない

もはや

いかなる権威にも倚りかかりたくない

ながく生きて

心底学んだのはそれぐらい

じぶんの耳目

じぶんの二本足のみで立っていて

なに不都合のことやある

倚りかかるとすれば

それは

椅子の背もたれだけ


――茨木のり子(1999) 『倚りかからず』 東京: 筑摩書房)



 「戦後現代詩の長女」と呼ばれた、茨木のり子氏が亡くなったのは、2006年2月19日。享年79歳。彼女の訃報は、一部で「詩人の孤独死」のようなニュアンスで伝えられもしたが、それが事実と異なることは、彼女の甥であり医師でもある宮崎治氏が、文藝春秋2008年2月1日号「ドキュメント 見事な死」の中で語っている。子どものなかった彼女は、四十八歳で夫に先立たれたあと、東京郊外で三十一年間「一人暮らしではあったが」、その周囲には「絶えず安否を気遣う人々が大勢いた」と。


 それを客観的に証明するのは、彼女が生前に書き置いた二百五十通にも及ぶ「別れの手紙」。


このたび私"06年2月17日クモ膜下出血(死亡の日付と死因のみ遺族の記入)にて" この世におさらばすることになりました。 これは生前に書き置くものです。私の意志で、葬儀・お別れ会は何もいたしません。この家も当分の間、無人となりますゆえ、弔慰の品はお花を含め、一切お送り下さいませんように。返送の無礼を重ねるだけと存じますので。「あの人も逝ったか」と一瞬、たったの一瞬思い出して下さればそれで十分でございます。あなたさまから頂いた長年にわたるあたたかなおつきあいは、見えざる宝石のように、私の胸にしまわれ、光芒を放ち、私の人生をどれほど豊かにして下さいましたことか....。深い感謝を捧げつつ、お別れの言葉に代えさせて頂きます。ありがとうございました。



 ほんとうの「死」と「生」と「共感」のために準備することをやめなかった寂寥の詩人は、自らのことばで暇(いとま)乞いを果たし、此の世を去った。「戦乱の世をくぐりぬけ*1」もともと複数の持病も抱えていた彼女だったから、別離の覚悟ができていたのか、それとも詩人特有の鋭さから自らの死期を予感したのか、亡くなる数ヶ月前からは、親しい友人に「会うのはきっと最後になるから、今日がお別れよ」と語っていたそうだ。


 「できあいの思想」「できあいの宗教」「できあいの学問」、そして「いかなる権威」にも、倚りかかることを拒み、己の二本の足で立つ気概と歓びを謳い、戦後の日本女性に厳しくも確かなエールを送り続けた彼女の詩と、それを陰で支え続けた愛する人との短くもとりとめない日々の暮し。ともすればぼんやりとした輪郭となり揺れ惑い始める我が心を、「しっかり地に足をつけて生きなさい」と、静かに諭してくれた。彼女のやわらかな感性と、しなやかな気概や志、そして、それらを口にした者にだけふわりと香り立つウィットや羞じらい*2の一行に、何度励まされてきただろう。そんな体験を経て大人になった少女は、きっと私だけではないはずだ。


 たとえ夢の中でもいい。もし一度でもお目にかかれるならば、「わたしの貧しく小さな詩篇も/いつか誰かの哀しみを少しは濯(あら)うこともあるだろうか*3」と呟き逝った彼女の手をとり、あらん限りの感謝の想いを伝えたいと願うものだが、同じことをS夫人に話したところ、「おやめなさい」とやんわり窘められてしまった。


 「31年も待って、ようやく愛する人と再び逢えたのだもの。そっとしておいておあげなさい」




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■占領


姿がかき消えたら

それで終り ピリオド!

とひとびとは思っているらしい

ああおかしい なんという鈍さ


みんなには見えないらしいのです

わたくしのかたわらに あなたがいて

前よりも 烈しく

占領されてしまっているのが

――茨木のり子『歳月』(2007)花神社


※挿入写真は、筆者が長崎へ旅した折に撮影したもの。

*1:茨木のり子『歳月』(2007)「手」より

*2:自らの詩「倚りかからず」の朗読を聞いた茨木氏は「われながら威張った詩ですね、散文と違って詩は、言葉を削っていくからどうしても言葉が強くなるのね」と羞じらい笑っておられたと、ちくま文庫『倚りかからず』(2007)のあとがきで、アナウンサーであった山根基世氏は記している。

*3:茨木のり子『歳月』(2007)「古歌」より

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