2011-10-31
【クリプレ】 秋の実の落つる音をば枕辺に。
イースターに沸く初春のウィーンを訪ねた折、彼の国が想像に違わぬ音楽の都であったことに甚(いた)く心動かされた。街頭や地下鉄の構内、至る所で老いも若きも人々は楽器演奏やコーラスを愉しみ、そこで紡ぎ出された思い思いのメロディーは石畳に響く靴音と呼応し、旅人の目と耳を存分に愉しませてくれた。愛器を持参しての旅だったため飛入り参加も体験、思いがけず楽しい道中となった。それまでも異国を訪ねたことはあったが、旅の前後でそのイメージを変えなかった国は珍しい。テレビモニターにウィーンの街並を見る度、私の胸は今も、あの街を包むヨハン・シュトラウスの旋律に甘やかに満たされる。
翻り日本をイメージする「音」に何があるかと考える。和太鼓や鉦、和琴等の雅楽器の調べだろうか。それとも、鶯や秋虫の鳴き声、或いは小川のせせらぎか。日本暮しの長い外国籍の友からは、歩行者信号の「とおりゃんせ」や、夕刻町内に響く「夕やけこやけ」のメロディが日本の音だ、などと笑われるが、単細胞の私などは何かの拍子で耳にするラジオ体操の旋律にも、会場までの道すがら幼いつま先を濡らした瑞々しい夏の朝露が思い出され、心中迫るものがあったりする。インドへ旅した際は、乗合せた列車内で日本の歌を聴かせてくれと請われるままに、選曲に多大な疑問を抱きつ、桜シリーズの歌を次々開陳した*1こともある。おそらく私たちの心の底辺を流れるメロディーには、ある程度世代を超えた共通要素が存在するのだろう。それは幼い頃親しんだ自然との触れ合いや、昔話に登場する「日本的」情景を通して育まれたものであり、日常からは既に消滅した音であることも多いのだが。
都会を離れて年が過ぎ、記憶の中で封印風化されていた「音」が、最近ようやく日常のものになりつつある。娘を抱いて歩く朝のあぜ道は、歩を進める先々でカササカササと軽やかに乾いた音が先導する。露払いの面子は田んぼへ逃げ込むイナゴたち。イナゴの大群が頭(こうべ)を垂れた稲穂の海を黄金(きん)色のさざ波となって渡ってゆくさまは、なかなかの圧巻である。当地ではそんなイナゴを求め、子どもばかりか大人までが昼日中から採集に勤しむ。無論遊興や飼育のためではない、食べるため。これが夕刻になると、露払いの顔ぶれが変わる。バサッシュタッ、若干湿り気を帯びた跳躍音の持ち主たちは、大小さまざまなカエルである。ふと見れば、植込みの灌木の葉や今を盛りと咲き誇るシュウメイギクやコスモスの花影、民家の壁面にも、目立たぬよう体の色を変え硝子玉のようにひっそりうずくまる彼らの姿がある。
床に入れば、春はマグノリアの重い花弁がほとりほとりと落ちる音、夏は稲穂を渡る風、冬なら湿った雪が軋み滑る音、そして今の季節は夜半「コツーン…カツーン…」という高い音が鳴り響く。「コツーン…」のあと「コロコロコロ〜」という音が続くこともある。これは落下したクヌギの実が拙宅の瓦屋根を打つ音で、深まる秋の音(ね)でもある。そうとなればもう矢も楯もたまらない、野ねずみの『ぐりとぐら』よろしく、翌日は籠を引っ提げて里山へ直行である。お目当てはたわわに実ったヤマグリの実。
ぶり返した酷暑のせいか、昨年の凶作を取返すかのように今年の里山はヤマグリの実なりがよい。正確に数えてはいないが、実をつけた樹が六、七本あるようだ。樹には一本一本個性があり、それぞれ実の大きさや味が違う。大木だからといって大きな実が期待できるかとというとそうとも限らず、貧相な小ぶりの樹でも実(み)だけは立派だったりする。また大粒だからといって美味しいとも限らず、小さくとも美味い実のなる樹もある。経験上むしろ小粒のほうが旨いことが多いが、小さすぎても味が落ちてよろしくない。また地に落ちて日がたてば、いかにも古臭い風味がたってしまう。それらの樹の個性と収穫のタイミングを計りつつ、マンママンマと盛んに喃語を叫ぶ娘を負い栗を拾って歩くのが、最近のルーチンとなっている。
店頭には栽培品種のクリもお目見えしている。さすが丹精こめて育てられただけあり、その実の大きさはヤマグリの比ではない。しかしこの巨大な栽培モノ、大粒ゆえ数個食べただけで「クリ食ったど〜!」と思える一方、時としていささか大味でサツマイモのような味のするのが難。その点、野生のヤマグリは小ぶりながらも風味、甘味ともに秀でており、こちらはこちらで「これぞクリだ、クリを食った〜!」の満足度が高い。どれほど食しても、採集の体力と時間さえ許せば原資が一切かからない気安さもあるうえ、どこぞのエビ菓子ではないが、一度食べ始めると止められない止まらない。もとが田舎育ちゆえクリを食べるための正しい作法など知る由もないが、口の中に放り込み、コリッと半分に咬み割り、中の実を掻きだしいただくスタイルは、上京先で出会った多くの友人にクリを食す速さにおいて引けを取った試しがなかった。
最近、我が家の十か月児の口に前歯が顔を出した。最初に犠牲になったのはベビーベッドの柵。せっかく自分の体に生えたモンを使いたくてたまらない彼女、暇さえあれば歯でゴリゴリ、家じゅうの家具に歯を立て、ハーモニカを吹くようにそのまま口を横にスライドさせて伝い歩く。窓枠もテレビ台もテーブルの脚もバスタブも、何処も彼処も小さな歯のマーキング。その後を彼女のぬこ兄が生え揃った自慢の梵天冬毛をこすりつけて後を追う。その姿を見止め、先を歩く娘が彼を指さし「んにゃっ!!」と声を上げ*2、兄が尾を振り応える。時としてイヌ派ヌコ派に分かれ喧々諤々の議論が沸くことがあろうが、少なくともヒトの幼子が最初に口にするのはヌコ語と見える。
一人と一匹のヌコ兄妹を横目に、ハハは黙々と栗鼠(りす)となり、今日の収穫をパリポリカリコリ。噛む行為が怠け癖のついた脳の刺激になったか、ふと一昨年*3、某食い意地テロリストが渋皮煮を作ってらしたのを思い出した。幸い食材は幾らでも無防備に転がっていることだし、ずっと更新していないダイアリーのことも、流石に気にはなっていた。ここはせっかくなので山ガール*4的な何かを作ってみることにしよう。
▽食材一覧
| 山栗 | 鬼皮つきで750g、渋皮まで剥いて正味435g |
| 水 | 正味のクリの重量と同量(435cc) |
| 砂糖 | 正味のクリの重量の30%(130g) |
| バニラビーンズ | 1/5本 |
| ラム酒またはブランデー | 1/8カップ |
<<別途>>
| 重層(焼きミョウバン) | 大さじ4 |
| 水 | 1.5リットル |
▽レシピ
栗菓子の出来の良し悪しは、クリが完熟で鮮度のよいうち(樹から落ちてすぐ)に加工することがポイント。
何度も加熱しては寝かせる工程を繰り返すことで、クリに存分にバニラの甘い香りと芳醇なラムの香りが浸透する。
日数こそかかっているが、最初の鬼皮と渋皮剥きの工程さえクリアすれば、
二十四時間、乳飲み子とどっぷりイチャつきながらでも、十分に対応できるのが嬉しい。
処理済みのクリを店頭購入すれば、さらに簡単。
ようやく小さな怪獣が寝息をたて始めた頃、だるくなった腕と肩を回しながらキッチンに戻り、
少しずつ完成に近づく秋の実りをなべ底に眺めてほくそ笑むのは、
矢のように過ぎ去る日々の中の、とてもとてもささやかな癒しとなった。
今回は自家消費目的ゆえこのまま食してしまったが、
応用編で少し刻んでブランデーケーキや、イチゴの代りにショートケーキに埋め込むとさらに美味い。
本来応用編までご紹介するはずが、十か月児のPCアタックを防ぎつつの画像編集と記事作成にもたつき、
画像に挿入していた日付の10月が過ぎてしまったため、今回は断念*5。
娘から少し目が離せるようになる来年、あるいは再来年にでも…………って、それまで我慢できるのか、自分?!^^;
釣瓶落しの日が暮れて、今宵もコツーン、カツーンと冴えわたる秋の音。
我が家はもう暫く、この音とともに深まりゆく秋を味わい暮らすことになるであろう。
※タイトルは某協会を意識したものでは……グフッ
*1:日本古謡の『さくらさくら』に始まり、森山直太朗、福山雅治、宇多田ヒカル等をメドレーで。アタマ真っ白だったが、何故か乗客からアンコールの嵐だった^^; ちょとキモチヨカタ…。
*2:どこまで使い分けているのかは不明だが、最近コナユキをはじめとするネコ族(含・絵本のネコ)に対してだけ、彼女は指さしニャニャと言うようになった。ちなみにイヌ族には他の興味対象物に相対したとき同様、ウーウー言うのみにとどまり、ハハのことは呼びかけどころか指さしすら殆どしない(ぉーぃ
*3:当初去年の記事かと思って検索したら、すでに二年前、2009年の記事であった(遠い目)
*4:あ、筆者のことではないです。娘のことですよ!
*5:記事内の描写に季節感のズレがあるのは、起稿から脱稿までほぼひと月かかっているため。現在の当地は田んぼの収穫は終り、カエルは土にもぐり、花を終えた秋桜も既に刈り取られてしまっています^^;




















