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kananaka日和

2012-07-12

ネコと吾子と薔薇の日々。

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 今年も娑羅*1の花弁がほころび始めた。朝に開き、夕には落ちてしまう儚さ、その楚々たる風情。モズの夫婦の鋭い囀りに、向かいのリンゴ畑で甲高く拍子を打つキジの声、長い尾を上下に振りつつ告げるカッコウの天然時報。この家で迎える二度目の夏の朝。




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我が家を狩場にしてるモズのご夫婦(多分)。
ご夫君の後光が眩しすぎて申し訳ない。




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正確に7時半を告げてくれる我が家のカッコウ時報。
尾羽をフリフリ上下に振りながら歌ってくれる。




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おぉッ、ミヤマシロチョウ(@天然記念物)か?!と期待したのですが、たぶんウスバシロチョウ^^;
前者ならいつもお世話になってるトリの師匠=てふの師匠にも自慢できるかも。




 去年の今ごろは、まだ眠りの世界を彷徨うヒカルを置いてそっとベッドを抜け出し、リビングの窓を全開に、冷涼な山間の朝の空気を吸いこみつつ搾乳をしていた。ただし乳搾りは、牝牛ではなく他ならぬ自分のそれ…orz


 あれから一年、我が家の静かな朝は変った。


 「ィナイッ*2!」


 ―――聞こえてきた。


 ぐっすり眠っているのを確かめて、こっそり足音を忍ばせ抜け出てきたはずなのに、いつだって彼女は目ざとくというか耳ざとく、隣の母の気配が消えたのに気づく。気づいてしまう。起きてる間は「一人で遊ばせて」と言わんばかりに、誘いをかける母を黙殺するくせに、母がこっそり一人の時間を楽しむことは許されない、らしい。


 「ィナイッ! ィナイッ!」


 ドスンと尻もちついて泣きながら抜け出した大人用ベッドも、今では両手で鷲掴んだシーツに体重を預け、スルスル子猿のごとくあんよでタッチダウン。

 トタトタ湿った足音と共に、「ィナイッ、ィナイッ!」のサイレンは、みるみるうちに迫ってくる。リビング扉のすりガラス越しに、息を弾ませた小さなシルエットが映れば、嵐の前の静けさは終りを告げる。


 ガラス扉にむにぃっと貼り付く額と唇、カエルのように小さな両手が、招じ入れられる瞬間を一心に待っている。精一杯背伸びしても、まだ扉のノブには届かない。でも、この扉の向うには母がいる。自分が一人取り残されるなんてありえない。入室禁止の貼り紙も面会謝絶の札も、(たとえあったとしても)小さなレディには通じない。ここだよ、ここ、早くきづいて、と全身が告げている。


 お望みどおり扉が開けば、そこには今日も元気の塊りが立っている。産まれたときからタオルケット代わりに使っているバスタオルを大事に抱え、にんまりポーズを決めて。





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あ、鳥さん!
うまそーだニャ!


 毎朝、つまり今日初めて顔を合わすとき、何故だか彼女は恥ずかしそうな、照れたような、澄ましたような、眩しげな、不思議な表情をつくる。毎日会っているのに、毎日抱っこしているのに、こちらは貴女の泣き顔もどや顔も寝顔も甘えた顔も、すべて知っているのに。でもその含羞は、母親である私にも少しだけあって、私たちは毎朝向き合い、お互いほんの刹那、目をそらす。私たちにしかわからない、私たちだけのタイミングで。


 子どもって、不思議だ。昨日の彼女と、今日の彼女は、もしかしたら別人なのかもしれない。ベッドの上の冷えた場所を探してぐるぐる大旋回して眠る夜のうちに、この小さな体の中ではとてつもなく大きな変化が起きていて、神経回路が延びては繋がり繋ぎなおされて、幾つもの細胞が壊れ生まれて成長し、容れ物こそ同じに見えても、昨日までの彼女は夢の世界の何処かで脱ぎ捨てられて、新しい彼女が孵化して目を覚ます。



 「ヒカル、おはよ」


 視線を下げ、膝をつき、両手を差し伸べ、そっと声をかける。

 上目遣いにこちらを見つめる瞳に陽炎のような微笑みが閃けば、小さな人差し指がまっすぐ向いて、一言、


 「イッターーッ*3!!」


 「いるよ。お母さん、いつだってヒカルの傍にいるよ*4


 「イッタッ! イッタッ!! イッターーッ!!」


 歓喜の声は、暫しの間エンドレス。雨の朝も、疲労困憊で迎えた朝も、おとなの事情に追い立てられている朝も、彼女の朝の儀式が終わるまでは何ひとつ始まらない。最初は苦笑の私も、いつの間にか乗せられて、一緒に「イタネ、イタ、イタ!!」と踊っている。


 いつだったかその姿を見たツレが、娘でなく私に向かって、「いやホント、朝から元気だよね」と呆れた調子で笑ったことがある。だけど、仕事に家事、育児、時々介護の並立なんて、無理にでも元気を出さなきゃやっていけないでしょ、違う?*5 そしてより現実的で、自分でも嫌になるほど計算尽くなことを言ってしまえば、彼女のご機嫌とリズムに寄り添わないで、最終的にすべてが滞り困ってしまうのがおとなの事情なのだ。

 

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今日はどこに遊びに行く?
※某家の「たけねこ」さんに倣って、対象物の大きさを比較しようという魂胆^^;




 「火のついたように」という比喩を知ってはいたが、それは、赤ん坊と暮し始めるまでただのレトリックに過ぎなかった。でもこの一年で、つくづく実感した。赤ちゃんはほんとうに、炎が燃え上がるように、全身全霊をかけて泣くのだ。それはもう、この上なく真剣なのだ。自分のほしいもの、やりたいこと、嫌なこと、不快なこと、眠いこと、おなかがすいてること、そばにきてほしいこと、すべてが彼女のいのちに直結する。だから顔を真っ赤にして、汗びっしょりになって、頭から湯気まで出して、息ができなくなって、ときに食べた物をすべてリバースしてでも、必死に訴える。ことばが出ないから、泣き声にすべての想いと情報をのせる。時にはうそ泣きだって厭わない。ただし、うそ泣きをうそ泣きとして放っておかれれば、放っておかれたそのことで、うそ泣きが本当の号泣へ移行する。幼な子の泣き声は、親への「号令」なのだ。何を置いても駆けつけねばならない、それは「至上命令」と言い換えてもいい。


 ご機嫌なときは、チャンスだ。ただし、親がほっと一息入れられる意味での「チャンス」ではない。彼女が機嫌よくしてくれている間に、傍にこられたら危険なこと、火を使うこと、熱を使うこと、大量の水を使うこと、薬品を使うこと、尖ったものを使うこと、それらすべてを済ませておかねばならない。おとなの世界では、それらの行為がオールマイティに生活に組み込まれている。料理、アイロン、洗濯、お風呂掃除、お裁縫、切抜き、他の家族*6のお世話。でもそれも彼女の炎が再燃すれば、すべては中断。こちらの予定どおりにいかないのが当り前なんだ、と割り切るしかない。あとこれだけ野菜を切らせて、これだけ鍋に放り込めればあとは余熱で…とか、小さなからだに向けて手を合わせたくなるし、ときどきすべてを放り出して、一緒に「火のついたように」泣いてしまいたくなる。でも、幼な児のいる暮しとはそういうものなのだ。多分どこの家でも。


 育児経験のあるつれあいは言う。「育児って大変だけどね、ホントあっという間なんだ。そして覚えているのは、あのときは可愛かったとか、楽しかったとか、何故だか不思議とよいことばっかりなんだ」と。―――そうなのだろう、きっと。でも育児経験駆け出しの私だって、一日の終りに思い出すのは、どれほどくたびれて、腹が立って、情けなさや不甲斐なさに泣きたくなった一日でも、あのときのヒカルが可愛かったとか、楽しかったとか、そういうことばかりだ。


 最近一緒にお散歩していると、自分から手をつないできてくれるようになった。小さな湿った手の平が私の指先に探るように触れてくると、背中がむずむずこそばゆい。おそらくそのときの自分は、鼻の下を伸ばした間抜け面をしているのだろう。それでもいいじゃないか。そういう小さなこそばゆさの積み重ねが、細々と彼女が巣立つ日まで続いてくれればいい。「育児」を「修行」に言い換える人もいるけれど、厳しさだけの毎日ではいつか破綻する。



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一緒に絵本を読んだら眠くなっちゃった。





 母がいる、それだけのことに踊りまわっていた朝が、声をかけても顔を合わせてもウザイとばかりに視線を外され、ただの風景となる日々に変ってしまうかもしれない。来年の彼女すら想像できないくせに、ときどき遠い未来の彼女を思う。彼女と自分の、母親と娘の、娘だった自分が為しえなかった難しくて複雑で微妙な関係性を思う。そしてまた胸元で小さな寝息をたてるヒカルに視線を戻して、ちゃんと明日の朝起きてきてくれるよね、と不安になる。いつか突然居なくなってしまうのではないか、目が覚めたら全部夢になってしまうのではないか。母親になってから一年半が過ぎるというのに、いまだ彼女との暮しが明日も明後日も、当り前に続く日常になってくれない。心のどこかに巣食っている慄きを、しあわせと等分に抱きしめて、今宵も眠る。


 薄い肩、細いうなじ、しっとり汗ばみ、ぴとりと張りついてくる肌、抱きしめると弾力のある肉づきの下で意外にしっかりと主張してくる骨格、その存在感。ゆっくり乳児から幼児のからだに変わってゆく、人間として当たり前の成長の様子を、私は親になるまで知らずにいた。ヒカルが教えてくれた。子どもはおとなの不安や心配をものともせず、その子なりのペースで育ってゆくことも、子どもの薄くて細い肩はおとなが思いっきり力を入れて抱きしめたら折れてしまいそうに脆いということも。


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お庭でおやつタイム。


 多分、幼な子と共に暮らしたことのあるおとなたちは、そのことを知っている。忘れてしまったり、認めようとしない人も勿論いるけれど。重荷なんて、こんな肩で背負えるわけがない。だから背負えるようになるまでは、そばについていてやらねば、と思わずにいられぬことも。ロールプレイングゲームのように単調な作業や戦闘や聞き込みの繰返しでレベルを上げ、道具屋の前で財布をのぞいてため息ついて、時々起きるイベントを楽しみに、ステージ毎のボスキャラと対峙して、小さな別れや再会を経験し。いつかエンディングが訪れることはわかっていてもそれまでは、子どもを育てるのは、かくも想像以上の難事業であったかと嘆息しつつ、時に武者震いしつつ。


 ふくらんだ花のつぼみを見つければ手当たり次第にむしりとり、開いた花は道端に咲くたんぽぽと同じで摘むものと信じているヒカル。草むしりに熱中していてふと振り向いて、大きくふくらんだバラの蕾をむしりまくっている姿を目にしたときは、思わず悲鳴をあげてしまった。来年の今ごろは「キレイだね」と言葉を交わしながら、娑羅と薔薇の薫る日々を愛でることができるだろうか。



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f:id:kananaka:20100203182912g:imageあとがき




 「イナイ」と「イタ」

 「ナイ」と「アッタ」


 まだまだ舌足らずの彼女ですが、この二語だけは気持ちよいくらいキッパリと宣言してくれます。さらにこの二語はいつだって、語尾に促音(小さな「ツ」)がついているとしか思えないほどの断定調。産まれて一年と半年が過ぎた彼女ができる、大人顔負けの発語の代表格です。


 私が居なくなると「イナイ」、戻ってくれば「イタ」、ご飯が終わってお皿が空っぽになると「ナイ」、もう一個あげよっかとブドウが登場すると「アッタ」。


 ちなみに、彼女の最初の発語は「ママ」でも「まんま」でも、単身渡航中の「パパ」でもなく、愛猫コナユキの愛称。さすがは兄妹、母より身近であたたかで大きな存在。ハハ、無条件に全面的白旗を掲げてしまう。なにせ彼女は、いまだ「母」に当たる言葉を発語しようとしないのですから(ツレのことだって「トット(お父さん)と呼ぶと言うのに…涙)


 ただ先日、すごくうれしいことがありました。仕事帰りに迎えにいって「ただいま」と声を掛けたら、ちょっとはにかんだ調子で「オカエリ」の声が返ってきたのです。これにはジーーン! 少々複雑な家庭環境だったゆえ物心ついて以来、おかえりなさいって誰かに言ってもらったの、初めてな気がする…。コナユキの足元スリスリにも、随分感動したものですが。こうしてゆっくり家族になっていくのでしょう(照)


 この数日、胃腸風邪で散々だったヒカル、早くよくなってね。しっかりバトンタッチして、ただいまワタクシが個室に籠る日々ですorz...

*1:夏椿とも呼ばれる。

*2:「居ない」の意味。語尾に促音・小さな「ツ」がつくのがポイント^^;

*3:「居た」という意味。

*4:こっそりベッド抜け出してたことは、すっかり棚に上げ^^;

*5:彼だって、そのことを知らない筈はないと思うのだけど。

*6:我が家では、老母と愛猫の

PokoponPokopon 2012/07/14 19:49 彼女がコナユキの愛称を発語するのは、おそらく母がコナユキを呼ぶのを聞いて覚えたから。
ですから、母にあたる呼称は、コナユキが呼ぶのを聞いて覚えるはずですので、当然「ママ」などの人語ではなく、猫語で覚え、発語してるんじゃないでしょうか。

kananakakananaka 2012/07/14 22:53 ■P師匠

た、確かに…。
てことは「ママ」などの人語人語でも猫語でもなく、
「シモベ」やら「ドレイ」などの猫語をすでに学習済と。道理で…(爆)

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