Hatena::ブログ(Diary)

kanehen

2018-11-28

遠い記憶

浪人時代だろうか、一時期古本屋でクリーム色のイラスト入り背表紙の講談社現代新書や、波の柄の岩波新書とか、まぁその頃はとにかく目に付いた古本を数冊買っては読むというのをジャンル問わず繰り返していたから、その「目に付く」というのが比較的ビジュアルに偏った記憶で残っていて、今となっては内容はあまり覚えていない。

そしていつの間にか、自分の傾向がわかり趣味嗜好で本を選ぶようになり、新書の類はよほど好きな作家のものでもあっても手に取らなくなって久しい。たぶん、薄すぎてすぐ読み終わってしまい、そのあと読み返す事も少ないというのもあるだろうし、あまりに直接的、センセーショナルなタイトルに、読んだような気になってしまうからと言うのもあるかもしれない。まぁ、とにかく、今我が家の本棚にはほとんど新書は無い。

そんな私が、珍しく新書の、それも社会学政治学?の本を読んだ。

<平成>の正体、<平成>を6つのキーワードで読み解く、「ポスト工業化」「ネオリベラリズム」「格差社会」「ポスト冷戦」「五五体制の終焉」「日常の政治」副題には、なぜこの社会は機能不全に陥ったのか、とある。

芸術、美術も外側からの数値化、分析はなかなか客観的に、平たく明快にすることはできないけれど、政治学もどうやらそれは同じようだ。もちろん経済学や統計学なども全く関係ないわけではないだろうから、数字で現れる部分もないはずはない。だけれど、それは美術品の金額という数字=価値であり芸術性の高さ、ではないことと、たぶん変わりが無い。そういう類の数値化しにくい事を学術として、言語を重ね、過去の研究を踏まえて書くと、どうしても独特の言い回しになるので、普段からその系の本を読んでいない人間からするととても読みにくい。

それから、私が好んで読む本は、「私」が大事なんだな、と読んでいて気がついた。政治学の本で「私」を語っても仕方がないのかもしれないけれど、何か壮大な社会について俯瞰して語っているような、概念と概念を戦わせているような、雲をも掴むかのようなマクロな話であって、私が入り込む余地を探すのに難儀した。

それでも、なんとか読みきったのはこの本の著者を知っているからなのだけど。知っていると言っても子供の頃の話。夏休みに家族で父の実家へ帰省して、いつも挨拶に行く親類の家があった。その家は確か男の子が3人兄弟で、彼らは白目が輝いて見えるほどに、びっくりするほど真っ黒に日焼けして素足にビーチサンダルを履き、近くを流れる河をどこまでも泳いでいけそうだった。当時関東暮らしだった私には、なかなか衝撃的な黒さだった。私の同級生の誰よりも黒かったと思う。まぁ、それしか彼について覚えていない。

今、私はその親類が住んでいた街に住んで子育てをしている。我が子は関東暮らしのいとこ達に比べて確かに夏は真っ黒になる。この本の著者で遠い記憶の彼であるところの藤井達夫さんは、今は関東に暮らしているらしい。不思議な縁だが、関東育ちが地方に住むのは物好きだからだが、地方の優秀な人が関東に出て行って、戻ってこない事は残念ながらよくある事だ。

本書は、<平成>を読み解きつつ、悲痛な面持ちで未来を見つめる。同年代として、それらは間違いなく今の姿であると、認識した。未来を思うと、自分の無力さに苛立ちを隠しようがない。陳腐だろうと何だろうと、今は変わらないが、未来は変わると唱えるしかない。できるだけ遠くを見て、日々暮らしてゆくしかない。

2018-11-05

森籠もりの日々

久しぶりに森博嗣の本(日記)を読む。

文体なのか内容なのか、本は好きだけれど、読みやすいと思う本は理系の人が多い。この方は工学博士からの物書き。子育てで読書量が減った時期もあり、10年くらい前に断筆していたと勘違いしていたが、ちっともそんなことはなく、遠くで庭園鉄道と執筆の日々を過ごされていたようだ。よかった。「店主の雑駁」http://blog.fuyushoten.com/

森籠もりの日々

森籠もりの日々

エンジンについて語っていると、美しさの話になる。

〜〜

人間が作ったものには、人間の思考が染み込んでいます。形や素材、配置や仕組みなどすべてに、なにかしらの意図があって、こうすれば、こうなるはずだ、できるだけ、こうなってほしい、といった声が聞こえてきます。古いものは、すなわち残っているものであり、つまり残るだけの価値を持っていたわけですから、それらの声がたくさん込められているのです。そして、そんな声が、つまりは技術になり、また最終的には美しさになる、ということもだんだんわかってきます。何故、美しさになるのか。美しさを目指したのではなく、その意志のようなものを人間は美しく感じる、ということです「森籠もりの日々」P138 より引用

〜〜

素材と形とを、私の意志や希望のようなものを、空間に現せればと思う今日この頃。

2018-06-29

今日のベリーグッド しあわせを生む小さな種

松浦弥太郎著 2013年の本

暮らしの手帖が変わった時に、あまり良い印象ではなかったので、なんとなく敬遠して、それ以来興味は特になかったのだけど、なんとなく図書館で手にとって、意外にものすごく感銘を受けた。というか、モヤモヤしていたことが言語化されていてびっくりしたのです。

本の中には「しあわせを生む小さな種」となる、短い話がたくさん入っているのだけど、その中のひとつ、引用してしまうけれど。

〜 

「工夫とは愛情」

何を習うにしても学ぶにしても、工夫がなくてもできることはたくさんあります。単に人のやり方の真似をする。かたちだけを習う。とりあえず体裁が整えばいい。 そういった考え方もあります。

「こうすれば恥ずかしくないマナーですよ」と、教えたとおりにふるまえば、なるほど、その場はうまくこなせるでしょう。「これだけ覚えておけば、プロ並みの料理に見えますよ」と習ったとおり盛りつければ。たいそうおいしそうなごちそうができあがるかもしれません。

しかし、そこには心が欠けています。やり方を覚えることはできても、感動を与えるような自分らしい表現はできない。そんなものをつなぎあわせて、誰かとつながろうなど、はなから無理な話です。うわべだけを取り繕って自分の花を咲かせようなど、種まきにすらなっていません。

教わったことに加えて、自分なりの工夫をしましょう。よくあるパターンでやすやすとこなせるなら、「もっとよくするにはどうすればいいんだろう」と考え、工夫し、試行錯誤して、うんとよくしましょう。工夫を自分がすればそこに心が入り、心が入れば愛情がこもります。

その時に気をつけないといけないのは。「工夫しよう」と思い詰めて、考えたり思ったりするだけでなにもしなくなってしまうこと。立ち止まるのではなく、行動しながら工夫する、このプロセスがよいのではないかと思います。

簡単なのがすごい、ラクなのがいい、手間をかけないのが賢い。そんなことを、いったい誰が決めたのでしょう。うんうん唸って、「十分にいいけれど、もっとよくしたい!」と考えて工夫するのは、苦労ではなくしあわせだと僕は思うのです。


今年、クラフトフェアをぐるっと回って、とても良い感じなのだけど、なんだか淡白というか、あっさりした印象を受けた。なんだろう、薄いというか、それが=若いだけではない、何かがもっと、こう、んーーーーと!みたいに、何か足りない印象でモヤモヤしていた。

フェアの会場で、何人かと話したけれど。たぶん、世代交代というか、そういう仕事を始めた最初の人達はもうほとんど居なくて、先人をみてこの世界に入った人たちが多くなっているんじゃないかと。おせっかいかもしれないが、まねるだけではだめなのだ、心を入れよう、愛情を込めよう、いい仕事をしよう、きっとそれが使い手にもわかるから。

2017-03-16

芸術闘争論

芸術闘争論、読んだ。少し前に読んだ芸術起業論(読んだ時の記事)よりも、だいぶ具体的な内容だった。いや、芸術起業論でさえ、大学で見知ったことよりもはるかに具体的だったのだけど、こちら芸術闘争論は2010年出版ということもあり、さらに今に近くびっくりレベルで具体的だった。

どこか、肝になるところを引用しようかと思ったのだけど、全部興味深かったので選ぶのが難しい。現状までのアートシーン、アート観賞編、実際の制作プロセス、予備校から美術大学で培われる不自由な自由、ハイアートとローアート、そして未来に向けて。

個人的には、追い込まれてからさらに追い込むことで生まれる何かは脳の癖の問題だと思うので違う方法でやったほうが良いと思うし、もうちょっとご本人も健康に気をつかっても良いのになぁと思うけれど、とても勉強になりました。そして、この頃のFBでの村上隆さん(https://www.facebook.com/takashi.murakami.142)の現代陶芸への情熱へと続いているのだな、と、納得。

(前にも書いたけど、それでもこの表紙の本を手に取る勇気は私にはなかなか無い。しかし、内容はお勧めする。むしろ、今の若い人はこういう本を若い時に読めて良いなぁと、思います。あ、いや、でも、若い者に負けないように頑張るし、まだまだ諦めてないけど。)

芸術闘争論

芸術闘争論

今、辺境で細々とつくっている私でさえ、イギリスでの展示での大失敗や、名古屋のアナログライフさんの念願のNY展の実現など、確実に何かの波はやってきていることを体感している。変化の時なのは間違いない。さて、どこに向かって舵をきるべきか。。。ちっともわからない。

で、ちょっと近くで予定もあるので、週末はギャラリーやまほん「生活工芸 展」http://www.gallery-yamahon.com/exhibition/igaのトークショーを聞きに行く。他の用事もあるので全部を聞くことはできないと思うけれど、期待。

2017-02-17

芸術起業論

村上隆さんの2006年の本、芸術起業論を読んだ。FBでしばらく前にご本人をフォローして、陶芸にいろいろ関わって行動、発言しているのを見知った。最初に言うと、私はこの本の表紙も嫌だ(買って即娘のお絵描きの紙でカバーした)、村上隆さんの一連の作品は好きじゃない。ただ、本の内容は至極まっとうだった。

芸術起業論

芸術起業論

マチスは天才で、ピカソやウォーホルは天才じゃない、と、村上さんは書く。確かに私はピカソやウォーホルには憧れない(むしろちょっと嫌い)、マチスには憧れる(一番好きで無いけれど)。同じように村上さんの作品も興味がない。だけれど、村上さん自体にはちょっと興味がわいた。同時代に生きている、9歳年上の、芸術界で頑張っている人。すごい。

さて、これをどう自分の中で消化しようか?と、しばらく考える事になりそうです。しかし、やる事はただ鎚を握る事だけですが。

追記:今、自分で言えるのは、自分の手でつくらないのは私にはできないし(多少の効率化はしたいけれど)、セレブ(?)の人たちだけをターゲットにしてつくることは確かにスリリングかもしれないが、その戦略としてつくりたいものを変えることはありえない。

と、ここまで書いて、ああ、これが私小説的と呼ばれる所以か、と、理解した。個人の身体性、日々の暮らしからにじみ出るものが、結果としてかたちになる。つくることなんて、そんなに意識して変えられるものでもない。そこには個としての表現にとどまる構造しかないのかもしれない。

大学にいた頃に、油画の先輩から「(芸大生なんだから)王道であれ」と、言われて、なんじゃそりゃ?と、思ったが、そもそも鍛金の王道なんてあるのかなと、今でも思う。

芸術闘争論

芸術闘争論

次はこっちも読んでみるかな。

2017-01-30

松本と村上春樹

松本に行ってきた。

f:id:kane_hen:20170129070538j:image:w300 東屋の朝

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前に行った時期が思い出せないから、たぶん1年以上行っていなかったのだと思う。電車で出かけると、特急しなので行くか鈍行で行くかの選択肢がある。しかし、妊婦時代につわりでしなので盛大に吐いた記憶が未だに鮮明で、行きは鈍行で2時間半ほどかけて行った。

時間があるのはわかっていたので前の日に図書館に行ったが、図書整理日で借りられず、しかたなく滅多にいかない市内の本屋に行って、しかたなく村上春樹の「職業として小説家」が文庫になっていたので買った。(と、いうことでいつもよりほんのり文章が春樹っぽいような)

1泊して、帰りはもうなんだかとにかく早く家に帰り着きたかったので、特急しなので帰った。1時間35分程で、ちょっとだけ酔っているような不快感があったがどうにか無事帰ってくることができた。(追記:中津川はJR東海で塩尻以北?はJR東日本であるからスイカなどのICカードが使えないっていうのが納得いかん。僻地を不便にするなんてひどい。)

その往復のほとんどでちょうど1冊本が読めた。昔、河合隼雄さんを敬愛し熟読していた時期があり、その流れで村上春樹の本は出たら機会があれば読む程度だけれども、この本は何かをつくる人、という意味でとても興味深く、面白く、そして自分を省みた。

勝手に少し引用する。

〜〜〜〜〜

僕の考えによれば、ということですが、特定の表現者を「オリジナルである」と呼ぶためには、基本的に次のような条件が満たされていなくてはなりません。

⑴ ほかの表現者とは明らかに異なる、独自のスタイル(サウンドなり文体なりフォルムなり色彩なり)を有している。ちょっと見れば(聴けば)その人の表現だと(おおむね)瞬時に理解できなくてはならない。

⑵ そのスタイルを、自らの力でヴァージョン・アップできなくてはならない。時間の経過とともにそのスタイルは成長していく。いつまでも同じ場所に止まっていることはできない。そういう自発的・内在的な自己革新力を有している。

⑶ その独自のスタイルは時間の経過とともにスタンダード化し、人々のサイキに吸収され、価値判断基準の一部として取り込まれていかなくてはならない。あるいは構成の表現者の豊かな引用源とならなくてはならない。

〜〜〜〜〜村上春樹著「職業として小説家」より引用

この前後にもこの条件についての文章があり、この条件に興味があった方は本を読むと良いと思う。⑶のサイキってなんだ?と、思いつつ、今、自分がどこを目指すべきかが揺らいでいる自分としては(こんなことを書くのもまずいかなぁと思いつつ、別に隠してもいないし)とても、とても響いたわけです。

他にもいくつもほぇ〜と思ったり、膝を打つ勢いで納得できたりすることがかいてあったのだけど、引用は面倒なのでこの辺でやめておく。さすが言葉の仕事をしている人だなぁと思いつつ、さて、私も日々をコツコツ生きてゆこうと思ったりしました。

松本滞在は私にとってセンチメンタルな記憶の中での特別な場所であり、非日常の極みであり、そしてそこから日常が拡がってゆく思いの集約のようなものでした。ま、自分でも何言っているのか解りませんが、それはいつかつくるものに反映してゆくのです、私は叩いてつくる人なので。

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妙に暖かい雨の日、真味糖「生」を頂きながら。

2015-12-15

いろいろ

ここのところ、やりたい事や考えたい事、つくりたいモノや、会いたい人、聴きたい音楽が山ほどあって、気持ちばかりが焦る、ザ・師走。とりあえず、その中からいくつか報告とメモ。

ご近所中津川市阿木のcafe500という土日月だけ開いているコーヒー屋さんにkanehenのコーヒーメジャーを置いてもらう事にしました。この週末に託して来たので、たぶんそのうち並ぶと思います。ちゃんと並んだら写真を撮って、お知らせもします、とりあえずはコーヒーが美味しいです。

レギュラーコーヒーを飲むようになったのは、たぶん宇都宮時代にCAFE SHOZOに連れて行って貰ってからだと思う。はじめてコーヒー美味しいと思って、家でもレギュラーを飲むようになった。居心地が良いということはこういうことなんだなと、教えてくれたお店でもある。ものすごく遠いし、もう行く事はなかなか無いとは思う。cafe500はSHOZOみたいに観光地化はしないで、ひっそりと美味しいコーヒーが飲めると嬉しい。

4年(?)越しの片付けをしてやっと本を棚に収めた。一時期、出たら買っていた工芸関係の本。すっかり疎くなっていたのでアマゾンなどで検索していろいろ買って読んでみる。

工芸のシンポジウムがあったのかな、その記録本。クラフトの語源から解説する金子賢治さんの文章がとりあえず面白かった。へー。あとは北澤憲昭さんが、シンポジウムの反省みたいなことを前書きで書いてあるのもへー。あと鍛金大先輩の橋本真之さんの文章・・・・は気合いが必要なのでまだ読んでません。

そして、これも読みたいなと思ったけれど、ちょっと高いなーと、躊躇しつつ、いろいろ検索していったら、東京国立近代美術館のサイトの研究報告に著者のPDFが結構あったので保存した。読むのはもう少し先になりそう。

追記:近代美術館の紀要がさかのぼってPDFで読めます。リンク→http://www.momat.go.jp/ge/research/#section1-3

15年くらい前は勤めていて、ある意味時間もお金も死なない程度にはあったのでいろいろ本を探して読んだけれど、こういった工芸も含めて美術の近代史のようなのは北澤憲昭さんの本くらいしか無かったと思う。前にもちょこっと別の事で書いたけれど、(あれ?フェイスブックだったかも)アートと工芸、クラフト、の距離感がこの10年くらいでものすごく変化して来ているからだろうか、いろいろな本が出ていてびっくりした。

学生時代にはもやもやと漠然と、15年くらい前にものすごく思った、「なにがどうしてこうなった工芸!!」という気持ちの行きどころの無い感じ、この辺りを読み終われば少しは解るようになるのかもな。

2015-03-05

休息

冷静に考えると、休んでいる場合ではないのだけれど、どうにも疲れてしまったので半日休み。

小豆を煮て、カボチャといとこ煮になるはずだったのに、あまりの疲れで甘いものが食べたくなり、私にしては黒糖を大量に投入してできたあんこで、水ようかん風をつくったり、バレンタインで残った板チョコでブラウニーをつくったりしつつ、本を読む。

f:id:kane_hen:20150305093614j:image プラテーロとわたし

作者はノーベル文学賞とかの詩人の人らしいけど、あとがきに書いている生涯がなかなかの波瀾万丈です。プラテーロというロバと私の日常が短文で沢山入っていて、ちょっと手の空いた時間に読むととてもリラックス出来る。文字を目で追って、頭の中にそれらが舞って、降り積もり、心地よい音が鳴っているような気がする。ジャン・ジオノの「喜びは永遠に残る」と同じ作用があるような気がした。で、ふと思ったのは、これは音楽だなぁと。音楽のような文章なんだと思うととても合点がいった。本というのは新しい世界を開く為の、理論だったり、知識だったりを得るばかりじゃないのかと初めて気がついたような気がする。ほほう。

追記:私は人の話す言葉が頭に入りにくい、どこかの脳の回路の都合なんじゃないかと疑っている。文章の方がよっぽど理解出来る。おかげで、授業中はもっぱら教科書を読むことが楽しかったし、板書を自分でするとこでしか理解出来なかった気がする。言葉に音があるのだとすれば、文章を読む事で奏でられる音楽があるのはごくあたりまえの事か。

f:id:kane_hen:20150305093615j:image バターの代りに豆腐入りのブラウニー、塩を入れ忘れてぼやけた甘さになり残念。でも、バター無しでもしっとり系は出来るのだと確認出来たから良いのか?

と、いう事で、今日もカンカン叩きます。

2015-01-27

切る切る

一番寒い季節は過ぎ、ここ数日はお日様が出れば春の兆しを感じるような陽気もちらほら。

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定番品の量産準備をしつつ、年越ししてしまった大判のトレイや町内頼まれものの表札にも手を付けつつ、1月もそろそろ終わりで、2月は瞬く間に終わると思う。3月にはイギリスに送る事を考えると、ぼちぼちペースを上げてゆこう。


街場の共同体論

街場の共同体論

 

昨日読み終わった少し前に一山借りてきた本のなかの1冊。著者の内田さんという人、1950年生まれで考える事と自宅で合気道の道場をやっている人、と、言う程度しから知らない。これからは「ラッキーな人」とか「後についてゆこうと思える人」というのは、確かにそうだなぁと思ったし、「居心地良くしていたい人」はどこでも居心地良くしかしないというの(言い回しは「ちょっと違ったかもしれないけど)そうだなぁ、と面白く読んだ。セミパブリックというのも面白い。もっと色々、今について考えてみたい。

さて、お迎えに行かねば。