数理神学という虚妄――落合仁司『数理神学を学ぶ人のために』★

 無限集合論は神学に適用できるという発想の下、落合仁司は数々の同工異曲の本を上梓しているが、これはその最新版。
 これまで正教会神学やパラミズムを持ち上げていた落合仁司だが、なぜかこの書では軽く触れるのみである(文献表には正教会神学者の本は一切出ていない)。支柱を失ったがゆえか、落合の論述は、さらに混乱を極め、全体としてはより支離滅裂で意味不明なものになっている。
 例を挙げる。
「従来の神学は、イエス・キリストが神を啓示すること、あるいは神がイエス・キリストにおいて自らを啓示したこと、すなわち神が人に成ったことを、信仰箇条であって論理の対象ではないと考えてきた。しかし数理神学は、(・・・)神は無限集合である、さらに無限集合は存在するという命題を仮説的に前提する(・・・)ことによって、イエス・キリストは神を啓示するという命題が論理的に演繹される、すなわち数学的に証明されると考える」(p.55)
 ここでは、「神がイエス・キリストにおいて自らを啓示したこと」を「神が人に成った」とパレフレーズしている。すなわち同一のことと扱っている。ところが、自分の書いたことを忘れたのか、別の箇所では後者が否定されている。
「十字架に付けられ苦しみ死ぬのは、人間であると共に神であるという事態であった。人間であると共に神である者、それがイエス・キリストであるということには何の矛盾もない。この言説は、人間イエスが神であるとか、神が人間に成ったとか言っているわけではない。その結合の仕方は定かではないが、イエス・キリストは人間であると共に神である、イエス・キリストにおいて神は自らを啓示したと言っているだけである」(p.60)
 この混乱は、「カルケドンにおける定式化から大きく外れるキリスト論は、今日なお異端であると言わざるをえない」(p.61)と豪語する一方、カルケドンでの定義を落合仁司がまったく理解していないことによって生じているようだ。
「事柄の本質は、十字架に付けられ苦しみ死ぬのは、人間イエスであると共に神ご自身であるという事態である。(・・・)古代のキリスト教徒たちは、この神を、神ご自身ではあるがその分身である、神の子、子なる神、キリストと考えた。さらに、十字架に付けられて苦しみ死ぬ以前の人間イエスもまた、神の子、子なる神、キリストと共にある、一つの人格と考えた。人間であると共に神であるイエス・キリストの誕生である」(p.60)
 なんとキリスト(神)とイエス(人間)が別の人格(存在)であるかのように扱われている。これはむしろ、エフェソス公会議で「異端」として排斥され、カルケドン公会議で追認された、いわゆるネストリウス主義に近い。ちなみに落合仁司は「神」と「人間」の共在と言っているが、正確には「神性」と「人性」。この両性が一つの位格において混合もされず分離もされない、ということが二性一位格の意味である。
 この落合仁司の二性一位格への無理解は、以下のような冗談のような主張にまで至っている。
「このイエス・キリストにおいて啓示された神は、十字架に付けられ苦しみ死ぬ。イエス・キリストにおいて啓示された神は、復活までの少なくとも3日間、存在しないのである」(p.63)
「この私たち人間一人一人と共にある神を、この呼び方は必ずしも正統的ではないが(!!)、聖霊なる神と呼ぶことにすれば、聖霊なる神は、私たち一人一人と共に死ぬ。イエス・キリストならぬ私たち人間は、この世界の終末まで復活することはないのであるから、聖霊なる神もまたこの世界の終末まで存在しないことになる」(p.63)
 こうした落合仁司の「論理」に従えば、神は人間一人一人においても自らを啓示していることになってしまう。そうなると位格も三つより多数あることになってしまう。実際、別の箇所で落合仁司は「聖霊は一ではない。聖霊なる神はこの世界に生きた、生きている、生きるだろうすべての人間と同じだけ存在する」(p.126)と断言している。落合仁司の数理神学においては、神の三一性はなんら必然性がない。しかしながら、三位一体論とは、神がただ三つの位格を有し、四つ目の位格はないという認識を含む。
 要するに落合仁司は、もはやキリスト教発生以来受け継がれた神学に拠らず、数理神学なる神学を私的に創造している。そうした神学を「学ぶ」ことが、いかなる益になるかは、上記の混乱ぶりを一瞥するだけで十分推測できよう。
 ちなみに以下のような文章を読むと、私はソーカル&ブリクモン『ファッショナブル・ナンセンス』で取り上げられた、よく分からぬまま集合論や位相論に夢中になって、心理学や文学批評に一生懸命適用しようとしたラカンクリステヴァを想起する。
「この極限順序数ωあるいは位相空間ωは神の表現であった。(・・・)ωの存在が順序数を完備化し位相空間をコンパクト化するのであれば、ほかならぬ神の存在が順序数を完備化し、位相空間をコンパクト化すると考えることができよう。神が自然の秩序(order)すなわち順序(order)を完備化し、宇宙の場所(topology)すなわち位相(topology)をコンパクト化するのである」(p.141)
 数理神学は知の欺瞞である。

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