Hatena::ブログ(Diary)

金田一輝のWaby-Saby

10/03/03 (Wed)

[][]父からか、父と子からか、それが問題だ――Joseph P. Farrell trans."The Mystagogy of the Holy Spirit"★★★★★

 フィリオクエ論争において、東方教会側の立場を代表する聖フォティオスの論文翻訳

 ファレルの解説が素晴らしい。西方教会(ラテン教会)への、アウグスティヌスを介したギリシャ的思考(ネオプラトニズム)の抜きがたい影響が、フィリオクエ付加に至る神学を形成したと指摘し、非常に新鮮な視角を提供している。

 西方キリスト教会の思考の強い影響下にある国々の人は、フィリオクエ論争を単に言葉尻の問題ととらえがちである。実際、日本で普及している『岩波 キリスト教辞典』の「フィリオクエ」項では、東西に「大きな違いはない」と記述している。

 真にエキュメニカルな対話のためには、まず率直に違いを認めることからはじめるべきである。その意味で、このフィリオクエ論争に関する基本文献は、東西両方にとって欠かせない一書と言えよう。



10/02/28 (Sun)

[][]『岩波 キリスト教辞典』は使えないというお話

 落合仁司ってネストリオス異端じゃね?って言ったので、ネストリオスについて書こうかと『岩波 キリスト教辞典』を紐解いてみて、ちと疑問がわいた。まずその記事を見てみよう。

聖母マリアの呼称を、キリストの神性を強調するアポリナリオス主義を助長するような「神の母」(テオトコスTheotokos)ではなく、「キリストの母」(クリストコスChristokos)とすべきであると主張して、アレクサンドリアのキュリロスと論争となり、431年のエフェソス公会議で断罪され、上エジプトへ追放され、そこで没した。ネストリオスの説は必ずしもキリストの人性のみを主張したのではなく、神人両性を唱えているが、彼のよったアンティオキア学派の性格と、キュリロスのよるアレクサンドリア学派のそれとの対立、誤解によって、論難された公算が大きい。ネストリオス派の主張は必ずしも彼の思想そのままではない。


【ネストリオス】項 文責・大森正樹


まず、最後の文でネストリオスその人とネストリオス派の思想の差異を明示しているが、通常、思想の創始者と信奉者に違いがあるのは当たり前(たとえば、マルクスマルクス主義を考えてみよ)である。しかも、違いがあると言いながら、次の【ネストリオス派】項において、その思想の差異については何も述べていないのだ!!!(だいいち、この規模の辞書で「ネストリオス」と「ネストリオス派」を項目として分ける必要があるのか?) 何のために挿入した文なのかさっぱり分からない。ネストリオスについての昨今の研究成果に通じていることを筆者が誇示したいだけではないかと疑われても仕方あるまい。

 私が特にひっかかったのは、ネストリオスは「キリストの人性のみを主張したのではなく、神人両性を唱えている」との部分。これは間違いではないとしても、ネストリオス(派)について、本当に必要なインフォメーションを欠いている。

 私は常に、ネストリオス主義を、「イエス・キリストにおける神性と人性を、二つの人格であるかのように唱える異端」と理解してきた。したがって、キリスト論における二性一位格の否定が、その主義の特徴なのである。

 たとえば、Jhon A.Hardon.S.J."Pocket Catholic Dictionary"'Nestorianism'項を見てみよう。

五世紀のキリスト教異端。受肉したキリストにおいて、一つは人的、一つは神的な、二つの異なった人格があると主張した。(・・・)

 ネストリオスは、キリストにおける二つの分離した人格を立て、両者の結合を記述する際には、それらを存在論的ないし位格的に結びつけることができず、道徳的ないし心理学的にのみそうしている。

 それゆえ、ネストリオスが「神人両性を唱えている」としても(あるいはさらにその結合について述べているとしても)、それは一つの人格における位格的結合ではない、という所まで書いていなければ、ネストリオス(派)についての、重要情報を得られない。そういう意味で、この記事は、不十分であり不正確である。

 これは一つの例であるが、この『岩波 キリスト教辞典』、キリスト教に関する定番辞典となっているが、無駄情報無駄な記事が満載である上、不正確な記事も多く目につく。

 同じ執筆者を挙げて恐縮だが、たとえば【フィリオクエ】項

この問題(引用者註・フィリオクエ論争)は東西教会の重要な相違とは言えない。教父たちも聖霊の発出については、どちらにもとれる発言をしているからである。むしろこの問題は東西の心性の相違によるものであって、教義問題というよりはむしろ歴史の過程で生じた問題であろう。


フィリオクエ】項 文責・大森正樹

 もちろんフィリオクエ論争すなわち聖霊の発出をめぐる教義は「東西教会の重要な相違」である。たとえば、Joseph P. Farrell trans."The Mystagogy of the Holy Spirit"やClark Carlton"The Truth: What Every Roman Catholic Should Know About the Orthodox Church" では、filioqueが東西教会を分かつdogmaticalな問題であるとはっきり述べている。この教義上の差異が解消できなかったがゆえに、東西教会分裂に至ったのである。

 教父たちが「聖霊の発出について、どちらにもとれる発言をしている」という事実は、実際にフィリオクエ問題が「東西教会の大きな相違」になっていることへの反証になっていない。また、「教義問題というよりはむしろ歴史の過程で生じた問題」というのは、かなり没論理表現である。なぜなら、教義問題は、常に「歴史の過程で生じた問題」であるからだ。歴史の過程で生じなかった教義問題とは、いったい何だろう?

 岩波 キリスト教辞典』によってキリスト教のコアを知ろうとするのは、魚屋に行って冷蔵庫を買おうとするようなものである。


10/02/21 (Sun)

[][][]数理神学形而上学神学に勝利したか

 落合仁司は『数理神学を学ぶ人のために』で数理神学形而上学神学を対比してこう言う。

 形而上学神学は神の愛を否定した。形而上学神学を代表する一人であるカンタベリーのアンセルムスはこう言う。「苦難に対する共苦の感情にまったく動かされないということにおいて、神は哀れみ深くない」。形而上学神学を代表するもう一人であるアクィナスのトマスはさらに言う。「他人の苦難を深く悲しむということは神に属さない」。神は人間を愛してはいないのか。

 数理神学は神の愛を肯定する。(・・・)キリスト教の中心教理、神の共苦による人間の救済にとって、形而上学神学と数理神学のどちらが有用であるか、結論は明白であると思われる。これが本書の言う神学理論の検証の最も良い例にほかならない。


同上、p.111

 トマス・アクィナスが神の愛を否定しただって!?

 落合仁司は、事をあまりに単純化しすぎている。まず、落合仁司のネタ元であるA・E・マクグラスキリスト教神学入門』から引いてみよう。

トマス・アクィナスはこの行き方引用者註・アンセルムスの見方)を推し進めた。特に罪人に対する神の愛を考察するときが、そうである。愛ということは弱さを意味し、潜在的には神が我々の悲しみや窮状によって動かされるであろうことを意味する。トマス・アクィナスは、これを不可能性と見做す。「憐れみは、それが苦しみの感情としてではなく、結果として考えられるのであれば、特に神に帰せられるべきである。・・・他者の窮状を悲しむということは神に属していない」。引用者註・引用先を明示していない(巻末でも欠落)が、神学大全第1部第21問第4項「憐れみは神に属しうるか」から)


A・E・マクグラスキリスト教神学入門』、教文社、2002年、p377

 見て分かる通り、落合仁司はトマス・アクィナス言葉引用する際、前半部分をカットした。そうすると、あたかもアクィナスが神の「憐れみ」を単純に否定したかのように見える。しかも落合仁司は、さらに進んで形而上学神学(その代表がアクィナス)は「神の愛を否定した」とまで言う。これは落合仁司のネタ元のマクグラスですら言っていない。

 言うのも馬鹿馬鹿しいが、アクィナスは神の愛を肯定している。ここで引用された神学大全第21問の一つ前の第20問のタイトルは「神の愛について」であり、その第1項は「神に愛はあるか」であり、アクィナスの答えは「イエス」。

 ここで面白いのは、異論1で次のように反論を構成していることだ。

「神に愛はないように思われる。神には感情passion)がないゆえ。愛は感情である。したがって神に愛はない」(神学大全第1部第20問第1項)

これに対してアクィナスは、

「身体的変化を伴う限りで、感覚的欲求行為は感情と呼ばれる。意志行為はそう呼ばれない。(感覚的欲求行為としては)愛は感情であるが、知的欲求行為(意志)を意味するならば、感情ではない。後者意味において、神に愛はあるのである(・・・)神は感情なしに愛す」(同上)

と答えている。

 アクィナスが「憐れみ」においても同様の思考経路をたどっているのは、マクグラス引用からだけでも予想できよう。引用文で断ち切られた部分の後でどう言っているのかを見ておくのも有益かも知れない。

「しかし、憐れみは最もふさわしい形で神に属している。まさにその窮状を取り除くので。この名で呼ぶものがどんな傷であろうと。この傷を取り除くことができるのは、何らかの善の完全性だけである。善の第一の源泉は神である。(・・・)神によって与えられる完全性が傷を取り除く限りで、それは憐れみに属す」(神学大全第1部第21問第3項)


 トマス・アクィナスが、いかに言葉に対して敏感に思考しているか、これだけの引用でも感じ取れることと思う。こう見てくると上掲のマクグラスの解説も、不正確であり不十分であることが分かる。「入門書」だけにたよっていると、こうした歪みが見えてこない。

 もちろん、現代神学において、このアクィナスの「神の愛」「神の憐れみ」の定義自体が問題とされているのだ、ということは確かであろう(マクグラスキリスト教神学入門』p380参照。ただしこの問題に決着がついたわけではない)。しかし落合仁司は、そうした繊細な議論を行うことなく、自ら思考を行うことなく、マクグラスの本からパクって影響を受けて、単純に形而上学神学トマス・アクィナス神学)を否定しているのである。落合仁司の形而上学神学への批判は、数理神学空疎さを糊塗する為の燻製にしんに過ぎない。

 ここで明らかにしたように、トリックはバレている。王様は裸だ。



<追記>

 落合仁司が『数理神学を学ぶ人のために』p.45で「十字架神学」は「キリスト教の正統教義として認知」されたと書いている所は、マクグラスキリスト教神学入門』p.378「二十世紀の後半に、苦しむ神について語ることは「新しい正統信仰」となった」とあるのを、落合仁司流に無造作に単純化したもの(マクグラスにおいては括弧でくくられていることに注意!)。また、落合は同ページで「十字架神学」の代表としてディートリヒ・ボンヘッファー、北森嘉蔵、ユルゲン・モルトマンを挙げているが、これも『キリスト教神学入門』pp.380-381およびp.390で「神の苦しみ」「神の自己限定」を論じる場面で名前が出てくる。

 また、『数理神学〜』同上ページでボンヘッファー『獄中書簡』から文章が引用されている。

ボンヘッファーから引用しておこう。「神はご自身をこの世から十字架へと追いやり給う。神はこの世において無力で弱い。そして神はまさにそのようにして、しかもそのようにしてのみ、私たちと共におり、また私たちを助け給う。キリストは私たちを、ご自身の全能の力によってではなく、ご自身の弱さと苦難によって助け給うということを、「マタイ」8章17節「彼はわたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った。」ははっきりと述べている。〔・・・〕聖書は、人間に神の無力と苦難とを示す。苦しみ給う神のみが助けを与えることができるのである」(1944年7月16日付)」(『数理神学を学ぶ人のために』、p45) 

 省略箇所も含めてまったく同じ文章が『キリスト教神学入門』p.390に出てくる(ただし、落合仁司は原書から引いているからか、訳語は違う)。

 ついでに言うと、この『獄中書簡』からの引用箇所は、ユルゲン・モルトマン『十字架につけられた神』p.75にも登場する。ただし、モルトマンは続けて、以下の文章を同時に引用している。

「・・・このことは、宗教人間が神に期待する一切のことの転倒である人間は、神なき世界における神の苦難を共に苦難するよう呼びかけられているのである」

 落合仁司の数理神学には、こうした「十字架神学」の苛烈な実践的・投企的側面が欠落していることは申すまでもない。

10/02/20 (Sat)

[][][]落合仁司の数理神学を使って奇妙な定理を証明してみる

 落合仁司は言う。

 数理神学の言語である数学言語は、近代自然神学すなわち近代自然科学の言語でもあるので、それに完敗した伝統的自然神学したがって伝統的組織神学の言語である哲学言語に比べ、遥かに広大な普遍性ときわめて強靭な反証可能性あるいは論証力を有している。数学言語ほど組織神学にふさわしい言語は見当たらないのである。


『数理神学を学ぶ人のために』、p71

 それではと、私も以下、その「強靭な論証力」を使って定理を証明してみる(同上pp.124-128を参照せよ)。


定理1:イエス一人だけが人間である、もしくはイエス人間ではない

証明1:神は無限集合である。数理神学では集合同士が「等濃」であることは、神学上の同一本質(homoousios)を意味する。たとえば、父なる神と御子は同一本質(homoousios)である。

 さて、数理神学では、人間は「自然数」で表現することができる。たとえば人間イエスは自然数1で、人間一人一人は自然数nで表現される。

 ここで自然数を集合に置き換える。

 1={0}

 同様に、

 n={0、1...n-1}

1は人間イエスを、nは人間一人一人を表現するのであった。上の式から明らかなように、1は1以外の任意の自然数nと等濃ではない。

 ところで、数理神学で「等濃」は神学上の同一本質(homoousios)を意味するのだった。

 Q.E.D.


定理2:キリスト聖霊である

証明2:聖霊は、ある人間を自然数nとした場合、ωにおけるnの補集合としての無限集合ω-n={n,n+1,・・・}で表現される。

 自然数nに1を代入すると、そこに臨在する聖霊をωにおける1の補集合としての無限集合ω-1で表現できる。

 ところで、ω-1とはキリスト表現するのであった。

 Q.E.D


 まあ、こうした奇妙な定理を待たずとも、「聖霊は一ではない(多数ある)」とか「神は唯一ではない」とか、落合仁司自身が神学的にアブノーマルな定理を「証明」しているのだが。

10/02/19 (Fri)

[][][]落合仁司は「十字架神学」をほんとうに理解しているのか

 落合仁司は『数理神学を学ぶ人のために』で、これまで偏愛しつづけたパラミズムを捨てて「十字架神学」を数理神学の看板に掲げたが、実際の所、彼は「十字架神学」をどうとらえているのか。落合仁司自身の言葉を引こう。

神の受難、神の共苦、神の弱さの神学、「十字架神学」がキリスト教において中心的な場所を占めるようになったのは、ほんの昨日の出来事なのである。

 「十字架神学」がキリスト教の正統教義として認知される際して大きな役割を果たした人々の記憶も、ほんの昨日のことゆえに生々しい。同時代人が同時代人の成し遂げたことを正当に評価する難しさを承知の上であえて名前を挙げるとすれば、20世紀最大の戦争、おそらく人類史上最大の戦争であった第二次世界大戦の末期に、二つの敗戦国ドイツと日本で同時かつ独立に行き着いた思想の持ち主である、『獄中書簡集』のディートリヒ・ボンヘッファーと『神の痛みの神学』の北森嘉蔵であろう。これらの思想を引き受けてユルゲン・モルトマンが『十字架につけられた神』を著した1970年代あたりで流れは決まった。

同上、p45

 なんとも凄い傾倒ぶりではある。

 「十字架神学」は、様々な形態をとるだろうが名称から言って、十字架につけられたイエス・キリストを根底に置き、それを全教義の中心に据えるものには違いないだろう。しかし、落合仁司の数理神学は、十字架キリストを、そうした格別の位置に置いていないのである。

 まず、落合仁司は「救済」について次のように記す。

 したがって、人間イエスの苦しみは、神ご自身の苦しみである、人間イエスの死は神ご自身の死である。神は人間の苦しみを共に苦しみ、人間の死を共に死ぬ。最初のキリスト教徒たちは、ここに、すなわち神の共苦に、人間の救済を見いだした。人間に何らかの救いが、その逃れようもない苦しみや痛みや悲しみからの救いがあるとすれば、それは神が、人間と同じその苦しみや痛みや悲しみを、共に苦しみ、共に痛み、共に悲しむことを措いてほかにはありえない。神の共苦こそが人間の救済なのである。


同上、p59

 ところで数理神学においては、人間イエスと共に在る神、人間イエスに臨在する神は「子なる神キリスト」と呼ばれる(同上、p125)。これに対して、人間一人一人と共に在り、人間一人一人に臨在する神は「聖霊」と呼ばれる。

 私たち人間一人一人にも神は臨在する。(・・・)もし私たち一人一人が救われるとするならば、神は私たち一人一人に臨在しなければならない。私たち人間一人一人に臨在する神を聖霊なる神と呼ぶか否かは大いに議論がある。聖霊なる神が人間一人一人に臨在すると言い切ってしまうと、現代のキリスト教主流から多少離れることになるかもしれない。(・・・)しかし私は、私たち人間一人一人に臨在する神を聖霊なる神と呼ぶことにしたい。


同上、p125

 一読、「キリスト」と呼ばれるイエスと共に在る神と「聖霊」と呼ばれる人間一人一人と共にある神の違いは、呼称をのぞけばまったくない、ということが分かる。また別の箇所では、「特別な人間イエスあるいは私たち一般の人間一人一人と神は共に在り、共に苦しみ、共に死ぬ。それが人間の救われることの本質である」(p.63)と述べており、イエスと他の人間は完全に並列されている。つまり、子なる神(キリスト)と人間イエスの関係と、聖霊イエス以外の人間の関係は、まったく同型なのだ。

 そうであるならば、次のように結論せざるをえない。すなわち、人間の救済にイエス・キリストは必要ないと。なぜなら、一般の人間が救済されるためには、人間に臨在し、共苦する神が必要であるが、その神は、落合仁司の数理神学に基づくと、御子ではなく、聖霊だからである。

 人間の救済にイエス・キリストが必要ないならば、十字架キリストはなおさら必要がない。落合仁司の数理神学は、「十字架神学」に棹さすどころか、神学から十字架を取り除き、十字架の死と苦しみを、苦しみ一般へと還元してしまう。すなわち、十字架キリストはせいぜいの所、苦しみの一例に過ぎないことになる。

 しかし、たとえば『十字架につけられた神』においてユルゲン・モルトマンが述べているのは、これとまったく正反対のことなのである。

苦難神秘主義が、十字架につけられた方を単に、自分の苦痛と屈辱との原像としてのみ理解しているのであれば、それは確かに、十字架につけられた方が人間となられ、己れを卑下されたその相貌を記憶の中に保存し、それを、自分自身が己をれを卑下しているという意識において現前化してはいる。しかしこの場合には、苦難神秘主義は、同時に、イエスのペルソナの独自性と、彼の苦難と死の特殊性とを無にしている、この場合に、それは、イエス十字架十字架と悲惨」という一般的意味において理解しているにすぎないのであり、不具、病気、疫病、早死といった不可能な運命のもとでの受動的な苦難ないしは、他の人々の根深い罪業のもとでの苦難、社会的苦難、己れを卑下せしめる社会のもとでの苦難等として理解しているに過ぎない。しかし、こうしたもろもろの苦難は、キリストの苦難ではなかった。(・・・)彼の苦難と屈辱は、彼が限りない恵みの国としての御国の近いことを説教し、律法に対して自由にふるまい、「罪人と取税人」と食事を共にされたことに現れているような彼の行動から生じている。(・・・)彼は神の義(Gerechitigkeit)を恵みの義(Recht)として、恵みとは無縁の放逐された人々に宣教することによって、律法の番人に挑戦した。(・・・)イエスは、神の解放的な言葉のゆえに苦難し、自由ならざる人々との彼の解放的な交わりのゆえに死んだ。それ故、彼の苦難と死は「神のキリスト」のメシア的な苦難と死である


ユルゲン・モルトマン『十字架につけられた神』、新教出版社、1976年、pp81-82

 ここでモルトマンは、十字架キリストの苦しみが、人間一般の苦しみの単なるモデルに過ぎないのであれば、それは人間の苦難を解放する力にはなりえない、と述べている。落合仁司は、十字架キリストの苦しみの特殊性を示すことができないことによって、「十字架神学」の核心を理解していないことを自ら明かしているのである。

10/02/18 (Thu)

[][]数理神学の正体

 というわけで、『数理神学を学ぶ人のために』文献リストにたよって、ユルゲン・モルトマン『十字架につけられた神』を入手し、現在読書中。

 ちょっと気になった箇所。

神の神性(Gottheit)は、十字架の逆説においてのみ露わになるのである。そのとき、イエスの道もまた一層理解できるものとなる。すなわち、敬虔な人ではなく、罪人こそが、そして、義人ではなく、義人ならざる人こそが、かれを認識したのは、イエスが恵みの神の義とみ国とをこれらの人々のもとで啓示されたからである。(・・・)神は十字架における神の啓示によって神なき者を、そしてつねに神なき者のみを義と認めたもうのである(E・ケーゼマン)。人は、自ら神なき者にならねばならず、自己を神化し、神に似る者となろうとすることは、すべて断念しなければならない。そのようにしてこそ、十字架につけられた方において自らを啓示する神を認識することができる。(・・・)反対物における啓示なしには矛盾するものが対応するものとなることはできない。同等性の原則に一面的に従うならば、人は天国のための栄光ノ神学(theologia gloriae)を企てることになるだろう。神をその反対物において認識する弁証法的認識こそが、はじめて、天国を神なき者の地上へともたらし神なき者に天国を開くのである。


ユルゲン・モルトマン『十字架にかけられた神』、新教出版社、1976年、pp49-50

 もちろん、この箇所を読んだから、人間神化を説く正教会神学、パラミズムを落合仁司は放棄したのだ、というつもりはない。しかし、現在落合はパラミズムを、(「十字架神学」に対立する)「栄光の神学」と見なしているのは確実だろう。

 それにしても、新しい伴侶(「十字架神学」)が見つかったらといって、こうも簡単にパラミズムをぽい捨てするとは。

カントルの定理:無限集合の部分の全体は自己を超越する

 無限集合である神は自らの部分の全体によって超越される。神は唯一ではなく、自己の部分の全体という神によって超越されるのである。ωは最小の無限基数であった。ωより遥かに巨大な無限基数が存在するのである。この事態に神学はいかなる解釈を与えるのか。既存の神学に解釈の準備はおそらくない。現代の集合論はまさにこのカントルの定理から出発している。神学はいま前人未踏の沃野の前に立たされているのである。


落合仁司『数理神学を学ぶ人のために』世界思想社、2009年、pp.129-130

 「この事態に神学はいかなる解釈を与えるのか。既存の神学に解釈の準備はおそらくない」とは、なんとも白々しい落合仁司はこの定理が、パラミズムを証明するものだという「解釈」を、自著で述べつづけていたのだ。このように数式や定理について、ある解釈を取り消したり変更したりすることができるということは、結局の所、数理神学は、落合仁司によるまったく恣意的な、数学の「神学的」解釈に過ぎない、ということを意味するのだ。

10/02/17 (Wed)

[][][]数理神学という知の欺瞞――落合仁司『数理神学を学ぶ人のために』★

 ようやく再投稿できるようになったので、文章を改正してアップ成功。

 無限集合論は神学に適用できるという発想の下、落合仁司は数々の同工異曲の本を上梓しているが、これはその最新版。

 これまで落合仁司は、正教会神学やパラミズムを持ち上げていたが、この書ではその称揚は影を潜め、「パラミズムはキリスト教の教義として許容しうるか否か。聖書の解釈からは、かなり難しそうである」(p.36)とにべもなくその価値を否定している。

 パラミズムに代わって落合仁司の寵愛を受けるのは「十字架神学」であるが、その内実はたとえばこういう感じである。

「事柄の本質は、十字架に付けられ苦しみ死ぬのは、人間イエスであると共に神ご自身であるという事態である。(・・・)古代のキリスト教徒たちは、この神を、神ご自身ではあるがその分身である、神の子、子なる神、キリストと考えた。さらに、十字架に付けられて苦しみ死ぬ以前の人間イエスもまた、神の子、子なる神、キリストと共にある、一つの人格と考えた。人間であると共に神であるイエス・キリストの誕生である」(p.60)

 なんとキリスト(神)とイエス人間)が別の人格(存在)であるかのように扱われている。これはむしろ、エフェソス公会議で「異端」として排斥され、カルケドン公会議で追認された、いわゆるネストリウス主義に近い。ちなみに落合仁司は「神」と「人間」の共在と言っているが、正確には「神性」と「人性」。この両性が一つの位格において、混合もなく変化もなく分割もなく分離もなく結合している(Hypostatic Union)、ということがカルケドンで定式化されたキリスト二性一位格の意味である。

 落合仁司は、「カルケドンにおける定式化から大きく外れるキリスト論は、今日なお異端であると言わざるをえない」(p.61)と豪語しているにもかかわらず、カルケドンの定式をまったく理解していないのである。そのせいか、以下のような冗談のような主張にすら至っている。

「このイエス・キリストにおいて啓示された神は、十字架に付けられ苦しみ死ぬ。イエス・キリストにおいて啓示された神は、復活までの少なくとも3日間、存在しないのである」(p.63)

「この私たち人間一人一人と共にある神を、この呼び方は必ずしも正統的ではないが(!!)、聖霊なる神と呼ぶことにすれば、聖霊なる神は、私たち一人一人と共に死ぬ。イエス・キリストならぬ私たち人間は、この世界の終末まで復活することはないのであるから、聖霊なる神もまたこの世界の終末まで存在しないことになる」(p.63)

 こうした落合仁司の「論理」に従えば、聖霊も多数あり、結果位格も三つより多数あることになってしまう。実際、別の箇所で落合仁司は「聖霊は一ではない。聖霊なる神はこの世界に生きた、生きている、生きるだろうすべての人間と同じだけ存在する」(p.126)と断言している。しかし、これはousiaとenergeiaの混同である。あれほどパラミズムを持ち上げていた落合仁司が、本質と活動の区別もできないとは!

 加えて、落合仁司はカントルの定理に触れている箇所で、神の唯一性すら否定している。

「無限集合である神は自らの部分の全体によって超越される。神は唯一ではなく、自己の部分の全体という神によって超越されるのである」(p.129)

 まとめると、落合仁司の「数理神学」において神は、「三位」でもなければ「一体」でもない。いったいそんな(キリスト教神学がありうるだろうか?

 結局落合仁司は、もはやキリスト教発生以来受け継がれた神学に拠らず、数理神学なる神学を私的に自由きままに創造しているだけである。そうした神学を「学ぶ」ことが、いかなる益になるかは、上記の混乱ぶりを一瞥するだけで十分推測できよう。

 ちなみに以下のような文章を読むと、私はソーカル&ブリクモン『ファッショナブル・ナンセンス』で取り上げられた、よく分からぬまま集合論や位相論に夢中になって、心理学や文学批評に一生懸命適用しようとしたラカンやクリステヴァを想起する。

「この極限順序数ωあるいは位相空間ωは神の表現であった。(・・・)ωの存在が順序数を完備化し位相空間をコンパクト化するのであれば、ほかならぬ神の存在が順序数を完備化し、位相空間をコンパクト化すると考えることができよう。神が自然の秩序(order)すなわち順序(order)を完備化し、宇宙の場所(topology)すなわち位相(topology)をコンパクト化するのである」(p.141)

 数理神学は知の欺瞞である。

 近日中に「落合仁司の数理神学の間違い」というタイトルで論考を連載する予定。いま、資料収集中。こういうキリスト教神学についてスカタンなことを言う人がいると、不思議と燃えてくる(笑)。落合仁司さまさまである。


10/02/15 (Mon)

[][][]落合仁司はなぜパラミズムを放棄したのか

 数理神学最新版であり数理神学原論とも呼べる『数理神学を学ぶ人のために』を一読して少々不審に思ったことは、『地中海の無限者』以来、あれほど偏愛していたパラミズムがほとんど影を潜めていることだ。軽く触れてはいるが「パラミズムはキリスト教の教義として許容しうるか否か。聖書の解釈からは、かなり難しそうである」(p.36)とにべもない。

 私はすでに(『数理神学を学ぶ人のために』を読む以前)、2010年2月7日の記事において、このパラミズムへの無限集合論の適用は、重大な問題を引き起こすことを指摘していた。

http://d.hatena.ne.jp/kanedaitsuki/20100207

 神の活動を無限集合とし、そのベキ集合を神の本性とする。それによって神の本性が神の活動を「超える」ことを証明した、と言うのだが、神の活動からそのベキ集合を構成できるのであれば、神の本性にも同様の操作ができ、その場合、神の本性をも「超える」ものが存在することが帰結してしまう。

 想像するに、落合仁司はある時点でこのことに気づいたのではないか。

 この問題に逢着した場合、二つの選択肢があるだろう。

1.数理神学は間違いであると認める。

2.神より上位の存在を認める。


 数理神学がメシのタネである落合仁司は、2.を認めるしかなかった。

 その際、落合は同時に、パラミズムへの無限集合論の適用も放棄した。というのも、2.を認めると、上記の「証明」は、パラミズムの証明にはならないからだ(パラマスが神を超えるものを認めるはずがない!)。

 落合仁司自身の言葉を見てみよう。

カントルの定理:無限集合の部分の全体は自己を超越する

 無限集合である神は自らの部分の全体によって超越される。神は唯一ではなく、自己の部分の全体という神によって超越されるのである。ωは最小の無限基数であった。ωより遥かに巨大な無限基数が存在するのである。この事態に神学はいかなる解釈を与えるのか。既存の神学に解釈の準備はおそらくない。現代の集合論はまさにこのカントルの定理から出発している。神学はいま前人未踏の沃野の前に立たされているのである。


落合仁司『数理神学を学ぶ人のために』世界思想社、2009年、pp.129-130

 もちろん、まともな神学なら、前人未踏の沃野の前に立たされもしないし、解釈の準備などする必要もない。無限集合論を神学に適用することで、神学的間違いが導出されるのなら、それは単に、無限集合論を神学に適用できるという前提が間違いであることを意味するにすぎない。

10/02/14 (Sun)

[][][]数理神学という虚妄――落合仁司『数理神学を学ぶ人のために』★

 無限集合論は神学に適用できるという発想の下、落合仁司は数々の同工異曲の本を上梓しているが、これはその最新版。

 これまで正教会神学やパラミズムを持ち上げていた落合仁司だが、なぜかこの書では軽く触れるのみである(文献表には正教会神学者の本は一切出ていない)。支柱を失ったがゆえか、落合の論述は、さらに混乱を極め、全体としてはより支離滅裂で意味不明なものになっている。

 例を挙げる。

「従来の神学は、イエス・キリストが神を啓示すること、あるいは神がイエス・キリストにおいて自らを啓示したこと、すなわち神が人に成ったことを、信仰箇条であって論理の対象ではないと考えてきた。しかし数理神学は、(・・・)神は無限集合である、さらに無限集合は存在するという命題を仮説的に前提する(・・・)ことによって、イエス・キリストは神を啓示するという命題が論理的に演繹される、すなわち数学的に証明されると考える」(p.55)

 ここでは、「神がイエス・キリストにおいて自らを啓示したこと」を「神が人に成った」とパレフレーズしている。すなわち同一のことと扱っている。ところが、自分の書いたことを忘れたのか、別の箇所では後者が否定されている。

十字架に付けられ苦しみ死ぬのは、人間であると共に神であるという事態であった。人間であると共に神である者、それがイエス・キリストであるということには何の矛盾もない。この言説は、人間イエスが神であるとか、神が人間に成ったとか言っているわけではない。その結合の仕方は定かではないが、イエス・キリスト人間であると共に神である、イエス・キリストにおいて神は自らを啓示したと言っているだけである」(p.60)

 この混乱は、「カルケドンにおける定式化から大きく外れるキリスト論は、今日なお異端であると言わざるをえない」(p.61)と豪語する一方、カルケドンでの定義落合仁司がまったく理解していないことによって生じているようだ。

「事柄の本質は、十字架に付けられ苦しみ死ぬのは、人間イエスであると共に神ご自身であるという事態である。(・・・)古代のキリスト教徒たちは、この神を、神ご自身ではあるがその分身である、神の子、子なる神、キリストと考えた。さらに、十字架に付けられて苦しみ死ぬ以前の人間イエスもまた、神の子、子なる神、キリストと共にある、一つの人格と考えた。人間であると共に神であるイエス・キリストの誕生である」(p.60)

 なんとキリスト(神)とイエス人間)が別の人格(存在)であるかのように扱われている。これはむしろ、エフェソス公会議で「異端」として排斥され、カルケドン公会議で追認された、いわゆるネストリウス主義に近い。ちなみに落合仁司は「神」と「人間」の共在と言っているが、正確には「神性」と「人性」。この両性が一つの位格において混合もされず分離もされない、ということが二性一位格の意味である。

 この落合仁司の二性一位格への無理解は、以下のような冗談のような主張にまで至っている。

「このイエス・キリストにおいて啓示された神は、十字架に付けられ苦しみ死ぬ。イエス・キリストにおいて啓示された神は、復活までの少なくとも3日間、存在しないのである」(p.63)

「この私たち人間一人一人と共にある神を、この呼び方は必ずしも正統的ではないが(!!)、聖霊なる神と呼ぶことにすれば、聖霊なる神は、私たち一人一人と共に死ぬ。イエス・キリストならぬ私たち人間は、この世界の終末まで復活することはないのであるから、聖霊なる神もまたこの世界の終末まで存在しないことになる」(p.63)

 こうした落合仁司の「論理」に従えば、神は人間一人一人においても自らを啓示していることになってしまう。そうなると位格も三つより多数あることになってしまう。実際、別の箇所で落合仁司は「聖霊は一ではない。聖霊なる神はこの世界に生きた、生きている、生きるだろうすべての人間と同じだけ存在する」(p.126)と断言している。落合仁司の数理神学においては、神の三一性はなんら必然性がない。しかしながら、三位一体論とは、神がただ三つの位格を有し、四つ目の位格はないという認識を含む。

 要するに落合仁司は、もはやキリスト教発生以来受け継がれた神学に拠らず、数理神学なる神学を私的に創造している。そうした神学を「学ぶ」ことが、いかなる益になるかは、上記の混乱ぶりを一瞥するだけで十分推測できよう。

 ちなみに以下のような文章を読むと、私はソーカル&ブリクモン『ファッショナブル・ナンセンス』で取り上げられた、よく分からぬまま集合論や位相論に夢中になって、心理学や文学批評に一生懸命適用しようとしたラカンやクリステヴァを想起する。

「この極限順序数ωあるいは位相空間ωは神の表現であった。(・・・)ωの存在が順序数を完備化し位相空間をコンパクト化するのであれば、ほかならぬ神の存在が順序数を完備化し、位相空間をコンパクト化すると考えることができよう。神が自然の秩序(order)すなわち順序(order)を完備化し、宇宙の場所(topology)すなわち位相(topology)をコンパクト化するのである」(p.141)

 数理神学は知の欺瞞である。

 アマゾンレビューに投稿しているが、現在留保中。アップされない場合は、文章を圧縮、改正して投稿し直すつもり。


10/02/06 (Sat)

[][]神学を学びたい人が絶対に読んではいけない本――落合仁司『ギリシャ正教 無限の神』★

 三位一体(三一性)のような神学の命題は、無限集合論を使って表現できる。表現できるばかりでなく証明できる。こうしたアイデアから、落合仁司は「数理神学」の名の下、同工異曲の本を次々に出版した。これはその中の一冊。

 一見、論理的、学術的に書かれているが、根本的な神学理解が怪しい。たとえば、落合による三一論の「証明」を見てみよう。

「神の本質を無限集合とおいてみよう。(・・・)神の実存は、Aと述語づけられるキリストと、Bと述語づけられる聖霊と、AでなくかつBでないと述語づけられる神ご自身とに区別される。あるのものxをAと述語づける、すなわち「xはAである」と言うことは、取りも直さずxをAという性質を持つ集合の要素とすることに他ならない。したがって神の実存を、Aと、Bと、AでなくかつBでないという三つの述語によって区別することは、神の「〜である」、神の本質という無限集合を、Aと、Bと、AでなくかつBでないという性質を持つ三つの部分集合に分割していることになる。(ちなみにAかつBという述語はありえないので、これは直和分割である)。すなわち神の異なる三つの実存は、神の本質という無限集合の(無限)部分集合であると考えられるのである。」(pp.129-130)

 これだけの文章の中にも、いろいろ突っ込み所は多い(たとえば、キリスト聖霊が、集合の元(要素)として言及されたすぐ後に、その元を含む(部分)集合に転じている!)が、ここでは一点だけ神学的間違いを指摘しておく。

 落合の「証明」は、「無限集合においては全体と部分は(濃度が)等しい」という集合論の定理に拠っている。そのため、全体である神(の本質)を、まずは三つの部分に「分割」しなくては、無限集合論を三一論に適用できない。しかし、そうした操作は不可能なのである。というのは、

 神は分割できない

からである。それゆえ、言うまでもなく、三つの位格は、神の本質を三分割したものではない。

 たとえば、カトリック教会のカテキズムでは次のように説明されている。

「各ペルソナ間の実際の区別は、一体の神を分割することによって生じるものではなく、相互の関係によるものです。」(255)

 この節につづけて、落合仁司のソースの一人であるナジアンズの聖グレゴリオの以下のような文章を傍証として引用している。

「神は唯一ですが、それぞれ区別された三位として存在しておられます。(・・・)おのおのが神の全体であり・・・三位がともに神の全体です」(256)

 落合仁司が依拠しているのは正教会神学であるから、カトリック教会のカテキズムは反証にならない、と考える方も、もしかしたらいるかも知れないので、正教会神学Clark Carltonによる正教会カテキズム"Faith"(Rejina Orthodox Press,1997)からも引いておく。

「神のそれぞれのペルソナは神性の全体を保有している。神は三つの部分に分割されない。なぜなら、神性は一つにして分割不能だからだ。御子と聖霊は神性を完全に所有するがゆえに、彼らは御父と同じく神である」(p.56)

 実際、神の分割不能性は、キリスト教神学において基本中の基本である。無限集合論による三一論の証明という落合仁司の試みは、そうした神学についての初歩的な間違いによって、議論の余地なく失敗している。

 キリスト教神学について学びたければ、他にいくらでも良書がある。このような擬似学問を学ぶことは、百害あって一利もない。

 正直に白状すれば、落合仁司『地中海の無限者』初読の際は、面白いと思ったものだ。ただし、その時でも「無限集合論」による証明自体は無意味と見なしていたが。

 しかし、落合本を賞賛する方々が少なくないこと、ついに『数理神学を学ぶひとのために』を上梓し、公共の場でこの擬似学問が教授されていることを知って、詳細なレビューを書いてみた次第。

 なにしろ学問的トレーニングを受けた人が書いたものだから、余計にやっかいなのだ。神学の基本を学ばないまま「数理神学」なるものをまじめに「習得」してしまうことは、その人の知性への壊滅的打撃になりかねない。