「寄せては返す波の音」という先入観

>『「夏彦の写真コラム」傑作選2

新潮文庫の新刊を買うと、たいてい二種類の挿入物が挟み込まれている。ひとつは「今月の新刊」のリーフレット、いまひとつは「YONDA?CLUB」のそれだ。新潮文庫にはスピン(栞紐)がいまも生きているけれど、私はこれを使わない。最初に挟まれていたページから決して動かさない。スピンをのばして本の外側に出したままにすることも嫌う。
電車本として新潮文庫を読んでいるとき、これらリーフレットの一枚は栞がわりに、残る一枚は気になる一節に出くわしたら当座に挟んでおく目印(付箋がわり)として使用することが多い。
いまちょうど『「夏彦の写真コラム」傑作選2 1991〜2002』*1新潮文庫)を読んでいた。すでにこの傑作選の第一集は3/19条で触れている。第一集は藤原正彦さんの編集だったのに対し、この第二集は阿川佐和子さんの編集にかかる。つまり「女が選んだ傑作選」(解説「愛に報いぬまま」300頁)である。
自分でも言っているしファンの間ではすでに認知済みであるが、山本さんの文章は「寄せては返す波の音」、つまり同じことの繰り返しである。慎重に選ばれたに違いないこの選集ですら、同じ主張の繰り返しが見られた。「寄せては返す波の音」が山本夏彦流であるということが先入観としてあるためか、本書を読んでいたときちょっとしたポカをしでかしてしまった。
先述のように、リーフレットのうちの一枚を付箋がわりに挟んでいたのだが、ある日、これを栞がわりに挟んでいたほうと間違えてしまったのだ。要するに電車に乗って本を開いたとき、付箋がわりの部分から読み始めたわけで、当然付箋がわりゆえに既読なのである。読みながら、「あれ?こんな内容の文章前も読んだような気がするなあ。選集だけど本当に同じ主張ばかり書くよなあ」と思いつつ、訝りもせず数頁読み進め、ようやくそれが既読であったことに気づいた。
読んでいたのが山本さんの本でなかったらすぐ気づいたに違いない。山本夏彦=「寄せては返す波の音」という先入観がもたらした罠であった。
ところでこの後半期の精華を集めた選集は、いよいよもって山本さん一流の毒舌が冴えわたって爽快な文章ばかりだった。読みながら、自分が常日頃人間や社会に対してぼんやりと抱いている違和感がずばりと指摘されているような気がし、内心快哉を叫んだのである。丸谷才一さんは山本コラムを「人間に対する認識、社会に対する反感が露骨に透けて見える」と評しているが(→6/5条参照)、まさにそのとおり。
こんな一節はどうだろう。公共図書館がベストセラーを何十冊も買うことについて、山本さんはこう書く。

私は健康な人は本を読まないと見ている。ところがその健康な人に買わせなければベストセラーにはならない。健康な人が大好きなのはタレントの醜聞である。(…)
そもそも発言というものは他人と違うことを言うもので、そんな本が健康な人に喜ばれるはずがない。(…)
そんな発言が売れるはずはないのに出版されるのは、同感する本を出すのが編集者だと固く信じている者があって、それを許す空気が版元にあって、売れる本と売れる本の間に忍ばせて出すと果して売れないのだが、それでも許されるのが出版という商売なのである(269頁)
「人間に対する認識、社会に対する反感」きわまれり。してみれば私はやはりよほどの不健康人間なのかもしれない。