人生の主役は歳月

大遺言書

川島雄三監督の映画「銀座二十四帖」を観て、和田誠さんの『日曜日は歌謡日』を読み、映画の主題歌「銀座の雀」つながりでにわかに「森繁熱」が高まっていたところ、おあつらえむきに新潮文庫の新刊で『大遺言書』*1が出た。先日急逝された久世光彦さんによる森繁久彌さんの聞き書きエッセイである。
もちろんこの本(連載)の存在は知らなかったわけではないけれど、単行本など買ってこなかった。本屋で手に取ったことすらなかった。なぜと問われれば、たんに「興味がなかったから」と率直に答えるほかない。このシリーズが久世光彦による森繁さんの聞き書きというスタイルをとっていることも、はっきり認識していなかったほどなのである。
ところがこのところの森繁熱で本書をさっそく購い、読み始めたら、ぐいぐい惹き込まれて止まらなくなった。森繁久彌という俳優は好きである。映画、たとえば「渡り鳥いつ帰る」や「如何なる星の下に」「猫と庄造と二人のをんな」など、絶品であった。いっぽうで久世光彦さんの文章も大好きである。そんな好きな人の二乗になっているこのシリーズに、これまでどうして無関心でいられたのか、不思議きわまりない。
このシリーズのため月二回森繁さんと会って対談をする。森繁さんの談話が久世さんの視点で見事に編集され、また久世さんの目から見た森繁久彌像が切り取られる。時間も空間も自由自在。編年体で昔から順繰りに思い出が積み重ねられるのではなく、その時々の気分によって女性遍歴だったり、猥談だったり、戦争の頃の思い出、映画監督の思い出だったりする。森繁さんの言葉がほとんど登場しない回すらある。久世さんのしっとりと重みを感じさせる文章がまたこの思い出話にぴったりなのだ。
ある芸能人が亡くなると、ふと森繁さんを思い浮かべる。お葬式で森繁さんが抱えられるように登場して、また「早すぎる」と言葉に詰まりながらコメントするのか。不謹慎だけれど、芸能人の訃報を耳にすると、森繁さんの出番を期待してしまうのである。
「いくつもの死を見送って」と題された一章のなかで、こんな挿話が紹介されいる。久世さんが森繁家にいたとき、藤山一郎の訃報が飛び込んできた。戦後すぐのラジオドラマの名コンビだった森繁さんのところには、新聞や雑誌、テレビの取材が次々やってくる。

森繁さんは半世紀を超える藤山さんとの交情を語り、人柄を偲ぶ。――私は、ふと妙なことに気づいた。森繁さんが、だんだん元気になってゆくのだ。何度も喋るから、言葉が整理され、口調も滑らかになる。頬に赤みが差し、目が炯る。決して藤山さんを悼む気持ちが薄れているのではない。炯る目は涙が溢れている。けれど、――訃報が齎らされた一時間前と比べて、森繁さんは明らかに元気なのである。(48頁)
ここに久世さんは〈人間〉あるいは〈生と死〉というものを見たという。「人は誰も、こうして生きてきたのだ。また、こうして生きてゆくのだ。長い人生を生き抜いてきたということは、誇らしいことだ」という人間の哲学。本書で何度か口にされる「人生の主役は、いつだって歳月である」(79頁)というのも同じことだろう。この元気は別の言葉で言えば〈矜持〉でもあると久世さんは書く。
ところが22歳年下の久世さんのほうが先に逝ってしまった。文庫版解説の鴨下信一さんは、お通夜のとき森繁さんの真後ろに座ったという。
さかんに椅子が軋む音がする。ぼくはあんなに身を捩って泣いている人を見たことがない。
身を捩って泣く身ぶりもまた、誇らしく長い歳月を生き抜いてきたからこそ可能な〈矜持〉のあらわれだろう。こういう場面を、当の久世さんが観察したならば、そこからどんな素敵な文章が生まれてきたのだろう。久世さんだって忸怩たる思いをしているに違いない。
悪い癖で、ある人が亡くなるとその人の文章が大好きになったり、シリーズが終わるとそのシリーズを読みたくなる。喪失という感傷をもてあそぶことが好きなのだろうか。すっかり『大遺言書』に魅せられたわたしは、4月の新刊なのにまだ新刊コーナーにあったシリーズ最後の単行本『さらば大遺言書』*2(新潮社)を購ってしまった。3年後には文庫に入るのに違いなかろうが、このさい関係ない。
見るとシリーズ1冊目の『大遺言書』と、最後の『さらば大遺言書』の間には、『今さらながら大遺言書』『生きていりゃこそ』の2冊があるらしい。聞き書きが編年で並んでいるわけでもなし、久世さんだってこんなかたちで終わるとは予想していなかっただろうから、間の2冊を飛ばして最後の本を読んだって、まったくかまわないわけである。

スター交代

勝利者」(1957年、日活)
監督井上梅次/脚色井上梅次舛田利雄三橋達也石原裕次郎北原三枝南田洋子殿山泰司/安部徹

チャンピオンになる夢敗れ、資産家令嬢の婚約者(南田洋子)のおかげでキャバレーを経営して糊口をしのいでいる元ボクサー(三橋達也)が主人公。ボクシングチャンピオンになる夢を捨てきれず、代わりにチャンピオンを育てたいという野望を持っている。
そこで目を付けられたのが石原裕次郎。最初はただ殴り合いが好きで、ハングリーに練習してまでボクシングをやりたくないという根性がねじ曲がった男だったのだが、三橋のバックアップで頂点まで上りつめてゆく。
北原三枝バレリーナを夢見て新潟から上京し、三橋のキャバレーに踊り子として所属していたのだが、トラブルで郷里に帰ろうとするところ、三橋の目にとまり、石原と同じく三橋がパトロンとなってバレエ教室にひきつづき通うことになる。
物語は石原・北原二人のサクセス・ストーリーに、三橋・南田の婚約者同士が絡み、恋の四角関係が展開する。終盤、三橋が南田に愛想を尽かされ婚約指輪を返され、続いて石原も自分一人の力でチャンピオンになると三橋のもとから去り、北原まで三橋を捨てて立ち去ってしまう。「おいおい」と苦笑してしまうような展開で取り残された無惨なる三橋。あのような侘びしい役柄が妙に三橋に合っている。そのうち引き留めようとしたのが石原だったというのが、彼の意志を象徴している。
ところで末永昭二さんは『電光石火の男』(ごま書房)のなかで、この作品を「日活アクション映画の先駆」とする。当たらないというジンクスのあったボクシング映画を石原起用で撮ったことで、大ヒットを記録し、日活アクション映画に「ボクシングもの」というジャンルが加わったという。勝ち負けがはっきりして、勝つためにハングリーに精進するというあたり、この時代相にもマッチしたのかもしれない。
ラストが何とも印象的で、三橋が主役は君たちだとばかり石原と北原にエールを送り、一人取り残されたところに、婚約者だった南田洋子が歩み寄る。それまでの日活スター三橋・南田が、石原・北原二人にバトンを渡すという、スター交代を象徴する幕切れだった。末永さんも「新旧スターの交代を象徴する作品」と評価している。
勝利者」が日活アクション路線を決定づけ、石原・北原を前面に押し出したという評価はあとのものだが、井上監督はそういうつもりでラストを演出したのかどうか、意味深な場面なのであった。
勝利者 [DVD]