平成日和下駄(43)―「放浪」の果てに

(2003年2月15日記)

林芙美子1903年(明治36)12月31日に生まれたとされる。いま伝聞体で記したのは、出生届が翌年1月5日に出されたからで、また誕生日に諸説あるからである。川本三郎林芙美子の昭和』(新書館、以下川本書と略)巻末の年譜によれば、母はその年の六月に生まれたと語り、本人は五月生まれだと『放浪記』などに記しているという。いずれにせよ1903年に生まれたことは動かせないようで、とすれば今年は生誕百年ということになる。川本書はまさに絶妙のタイミングで出版されたわけだ。私もそのおかげを蒙って、彼女の生誕百年という節目の年に彼女の人となりや作品に触れる機会を得ることができた(感想は2/7条参照)。


川本書を読んで知ったのは、彼女は現在の新宿区下落合近辺に長い間居を構えていたということであり、また終の棲家となった邸宅はいま区立の記念館となって保存されているということである。読み終えないうちから記念館に行きたくてウズウズしていたのだが、今月は週末なかなか時間がとれず思うにまかせなかった。今回ようやく念願かなって旧林芙美子邸・現新宿区立林芙美子記念館(以下記念館と呼ぶ)を訪れることができたのである。


記念館の最寄駅は西武新宿線高田馬場から二駅目の中井。現住所も新宿区中井二丁目である。中井駅の改札を出ると、駅前には東京のどの町にもあるような小さな商店街が広がっている。そこを抜けて山手通りの下をくぐり西へ歩く。左手(南)は西武新宿線の線路が、その先には妙正寺川が平行に走っている。建物が建て込んでいて想像しにくいけれど、左すなわち川に向かって低くなる地形であり、右手には目白の台地(住所は中落合)へと上る坂道が幾本も伸びている。地図を見ると東から順に一の坂から八の坂まで、数字がついた坂道が南北平行に並ぶ。記念館はそのうちの四の坂の中腹にある。台地のふもとを縫って東西に走る道を歩くと、右手に木々が鬱蒼と茂っている場所があってすぐわかる。

川本書のなかで林芙美子と落合の土地の関わりについて触れているのは第八章「窪地の小さな町」である。それによれば彼女は落合のなかで三度転居しているという。最初は昭和5年5月に上落合三輪の借家、次いで昭和7年8月に下落合にある洋館の借家、そして記念館になっている三百坪の敷地を購入し邸宅を新築して移ったのは昭和16年8月。彼女は昭和26年に急逝するから、記念館には10年しか住んでいない。しかもその間満州や中国に従軍のため渡り、また長野に疎開しているから、記念館に落ち着いていたのはさらに短い時間になるだろう。


この記念館は前述のとおり四の坂を目白の台地へと上っていく途中、南向き斜面の理想的な場所にある。そこに建っている邸宅は、ひと言、素晴らしい、もうひと言、理想的、このふた言に尽きる。玄関から四の坂沿いに竹林があり、また邸内の庭にはさまざまな木々や草花が植えられている。一つ一つに植物の名前を示す名札がかけられていて、まるで植物園にでもいるかのようだった。


建物は純和風の平屋。「生活棟」と「アトリエ棟」二棟が中庭を隔て相対し、南に向けて庭園が広がる。西の端には堅牢な石蔵があり、北斜面(裏山)もまた庭のごとく木々が丁寧に植えられ、小道がしつらえられてある。野仏には花が供えられてあった。さらに裏山の上には芙美子の夫である画家の林(手塚)緑敏が手塩にかけた薔薇園がかつて広がっていたという。


現在記念館は二つの棟の間にある勝手口脇から入場するようになっている。生活棟には使用人室であった小部屋に二段ベッドが作りつけられ、また芙美子も立った台所の出窓がある。勝手口脇の土間から中庭に出ると左の生活棟には総檜づくりながらこぢんまりしている浴室と、ひと続きの洗面所を窓越しに覗くことができる。生活棟は中心部が茶の間、いまは出入りできない玄関には取次の間があり、南に母キクが住んだ小間が突き出る。また北には客間があって、人気作家だった芙美子の原稿を待つ編集者が控えていたという。

中庭をはさんで西にあるアトリエ棟のもっとも日当たりのいい南側には寝室、その北に次の間・書庫があり、中央に芙美子が執筆の場としていた書斎、もっとも西側には記念館のなかで唯一の洋室であった夫のアトリエがある。いまこのアトリエのみに入ることができ、中には芙美子の自画像や書簡、夫の作品などの資料が展示されている。


パンフレットや図録に転載されている「家をつくるにあたって」という文章によれば、この家の基本構想を立てたのは芙美子自身であり、自ら参考書を読み込んだうえ設計担当の建築家と入念な打ち合わせを重ねて作り上げていったとのこと。その基本理念は「東西南北風の吹き抜ける家」「客間には金をかけない」「茶の間と風呂と厠と台所には、十二分に金をかける」ということだった。たしかに風通しがきわめて良さそうな間取りであって、縁側も広く、庭の木々と相まって季節を体感できる理想的な日本住宅である。そう、これを「和風」などと中途半端な言葉で表現するのではなく、これこそが日本の住まいというにふさわしい作りなのだ。洋館も好きで、その都度うらやましいと思いつつ昔の洋館を眺めている私だが、今回の記念館ほど「住みたい」と思わせる家に出会ったのは初めてである。やはり自分も日本人なのだなあ。理念の後半部でいえば、茶の間は掘り炬燵が設けられ、風呂は前述のように総檜、厠は当時では目新しい水洗を採用していたという。


ところでこの記念館を設計した建築家というのが、前衛建築家として著名だったという山口文象であるというのも興味深い。川本さんによれば山口はあの美しい吊り橋清洲橋の設計家なのだそうだ。彼と京都の住宅を視察に行ったり、議論を重ねてあの日本住宅を作り上げたという芙美子の「住環境」への執念は、『放浪記』でつづられている根無し草生活の果ての安定への憧れということで説明できるのだろう。


平成元年に死去する緑敏氏がこの家を守り続け、彼の没後新宿区が遺族の協力で記念館として整備保存した。この両者の姿勢に敬意を表したい。記念館周辺の中井という町には、記念館と同じく落ち着いたお屋敷が多く好もしい。憧れがつのる。東京には住みたいと思う町が多すぎる。自分の体がいくつもあったらと夢想する。

アナロジーの愉楽

【2001年6月2日に書いた記事の再掲】

堀江敏幸さんの最新散文集『回送電車』(中央公論新社)を読み終えた。


中味としてはエッセイ集に分類していいはずなのだが、著者的には「散文集」なのだろう。冒頭に配された「回送電車主義宣言」では、自己の文学スタイルをこの「回送電車」になぞらえている。

 

「特急でも準急でも各駅でもない幻の電車」たる回送電車は、「評論や小説やエッセイ等の諸領域を横断する」曖昧な存在たる堀江さんが生み出した書物を言い表すのに最適なのだという。

1章はもとは「図書新聞」に連載された文章群であり、そこにはさまざまな「回送電車」的現象が集められ、語られている。内田百間いうところの「臍麺麭」や、四不像、踊り場などなど。


これらを読んで感じたのは、書物のなかや巷から、自らの同類たる「回送電車」的事象を切り取る目の犀利さである。さらに、文章中では意表をつくような比喩が多用され、しかもそれが言われてみるとなるほどと納得されるものばかり。これらを要するに、堀江さんはアナロジカルな感覚が鋭いということなのだろう。


実はこのことは、すでに1章の最初の「贅沢について」のなかで半分種明かしされているようなものである。「外側と内側をきれいに腑分けしようとする通念の暴力にあらがって生まれた」臍麺麭を、「多少強引に、餡と皮を文学のアナロジーと捉えてみたらどうか」という試みがなされているのだ。


そもそもが自らの著作物を「回送電車」と規定すること自体がアナロジーの最たるものといえよう。意表をついたアナロジカルな思考、これが堀江文学の魅力のひとつかもしれない。


著者が小説的な散文に手を染めるきっかけとなったキーマンが、鹿島茂さんなのだという。この逸話を念頭に置きながら本書を読んでいると、堀江さんは物へのこだわりがないというか、物につかないという印象がある。いや、こう言ってしまうと正確ではない。日本経済新聞連載の連作エッセイを収めた4章のような、周囲にある物・事にまつわる文章があるではないかということになる。つまり、別の言い方をすれば、鹿島さんや高山宏さんのように、あるオブジェ・事象について歴史的に掘り下げようとする指向性を有していないとすべきだろうか。


4章で取り上げられた物たちは、あくまで著者本人との緊密な距離感を保ったまま、生々しく語られる。歴史性という客観化の視角の比重は低い。


もっとも生々しいといっても、ベタベタしたような物への執着が感じられるわけではなく、関わり方はあくまでドライなのだが。これは、鹿島・高山両氏が18~19世紀文学専攻、堀江さんが20世紀の現代文学専攻という違いとしても言い表せるのかもしれない。
アナロジカルな感覚が鋭いということは、世界のさまざまな事象に通暁しているということでもある。おそろしく話題が豊富なのだ。


各編数ページほどの短いもので、私にとって読みやすいものばかりなのだが、一編を読み終えるたび、一息つこうという誘惑以上に「次は何について書いているのだろう」という期待感が優越して、つい次の文章に目が移ってしまう。この連鎖でほとんど一気に読み終えることになった。


私にとっては、初めて読む堀江作品が本書であったのは、幸運だった。

ところで、本書の装丁には著者自身も絡んでいるらしい。装丁が「堀江敏幸中央公論新社デザイン室」となっている。堀江さんは、4章に収められた「クレーンの消えた光景」で述べられているように、「本づくりに関しては可能なかぎり好みを貫きたい」という信念をもっている方のようなので、それが本書のつくりにも反映されていると思われる。


実際、白を基調としたシンプルかつ瀟洒なセンスは堀江さんのものなのだろう。
1章の各編のタイトルが「…ついて」で統一される様式美、目次が行末で揃えられ、各編の見出しも行末、すなわち下方に配されたやり方、奥付に記載される情報がすべて追い込みで印刷される、一昔前の中央公論社の谷崎の著作を思い出させるやり方、これらも著者好みなのかもしれない。


白くて瀟洒な装丁はとても好ましいのだが、つい読書に熱が入って指に力が入ると、白いカバーに指の脂がついて黒っぽくなってしまうのが難点。これはたんに私の手が汚いためなのか。それはともかく、部屋の中から、ゴミ箱に捨てられずに放置されていた新刊書店でかけてもらう紙カバーをあわてて探し出し、本書を包んでから、読書を再開した。もちろん読み終えたいまは、その包みを外している。

 

感想を書きたくなる本

文字と楽園

年齢のせいもあるし、それにともなう立場の変化もあって、以前のようにゆっくり本を読む時間がなく読む本が減り、ましてや読んだ本について、感じたことを文章にまとめる時間もなかなかとれなくなって困ってしまう。せいぜい140字のつぶやきで本を買ったこと、読んだことを書くにとどまっている。
そんななかで、感想を書きたくてたまらなくなる本にもまれに出会う。最近では正木香子さんの本がそうだ。先年『本を読む人のための書体入門』*1星海社新書)が出たときにも半年ぶりくらいにここで感想を書いたのであった(→2014/4/15条)。
今回またしても、正木さんの新著『文字と楽園 精興社書体であじわう現代文学*2本の雑誌社)を読んだら、140字の連続投稿でもとうてい収まらないほどの思いがわき上がってきたので、久しぶりに感想を書いておきたい。
正木さんは、書体(フォント)から文学作品などを論じる、とてもユニークな視点から著述活動を展開されている。今回は精興社書体で書かれた現代文学について論じる本で、精興社大好き人間にとって、たいへん刺激的な指摘に満ちあふれていた。
自分にとって精興社を用いる書き手として頭に浮かぶのが、堀江敏幸重松清クラフト・エヴィング商會吉田篤弘)の三人である。三者とも見事に本書のなかで取りあげられているので、嬉しい。堀江さんの精興社へのこだわりはある程度知っていたが、その堀江さんとの対談で重松さんも精興社書体に対する思いがあったことを知った。クラフト・エヴィング商會(吉田さん)は、自著だけでなく装幀する本も多くが精興社体なので、偏愛されているのだろうと推測できる。
本書を読んで、初めて知って驚いたこと、いままで気づかずにいて気づかされたことが多々ある。前者としては、新潮社クレスト・ブックは、編集長松家仁之さん(いまは作家として活躍されている)が「精興社ありき」で始めた企画だったということ。精興社体に合うさまざまなジャンルの作品を収めるシリーズとして、クレスト・ブックは企画された。その松家さんの小説も精興社体である。
気づかされたのが、川上弘美センセイの鞄』。正木さんは、単行本(平凡社)、文春文庫版、新潮文庫版三種で読み、それぞれ違った印象を持ったという。書体によって、作品が登場人物の誰に寄り添っているかが異なり、読む者の印象もがらりと変える。まさしくそうだなあと思う。
本書には精興社書体であじわって印象深い書き手の作品を紹介しているが、これは逆に、精興社書体は合わないという書き手の存在をも浮き彫りにさせる。というか、本書を読んでいてわたしはそういうことを考えていた。今まで好きで読んでいたのに、その作家の作品が精興社書体で出された本を読もうとしたら、案外読み進められずに頓挫したことがあった。これはたんにその作家への愛着が薄まったからなのか、あるいは冒頭で述べたような自分自身の加齢によるものかと考えていたが、書体の違いによって受け付けなかったという理由もあるかもしれない、と思ったのである。
パッと思い浮かべたのは内田百間だ。旺文社文庫版・福武文庫版で読めたのに、精興社書体で出されたちくま文庫版がなかなか読めずにいた。装幀がクラフト・エヴィング商會なのでこの書体が選ばれたのかもしれないが、ひょっとしたら、百間の文章は精興社書体とは合わないのではないか、そんなふうに感じる。
この人のの作品が精興社書体で出されたらどうなるだろう、合わないかも、と思う自分の好きな書き手がほかにもいないわけではない。江戸川乱歩澁澤龍彦あたりは合わないような気がする。感覚的なものなので、実際見てみなければわからない。すでに出ていて、これまで気づかなかっただけ、ということもありうる。
わたしも先年、二冊目の論文集を、とくに精興社でとお願いして出していただいた。これでもう思い残すことはないと思っている。ただやはり精興社書体は人(作品)を選ぶ。論文集には適合的ではない。そう思いながらも、せめて精興社書体にふさわしい文章をと、あらたに収めた序論やあとがきは、精興社書体でよそおわれて恥ずかしくないようなものを書くことに努めた。
正木さんの本のあとがきにある印象的な一文精興社書体で読みたいと思える本がある世界は、幸福だと思うというのは、まさしくその通りだと共感をおぼえる。

吉本興業の秘密

(2002年9月2日に書いた記事の再掲)

冨田均さんによる新宿末広亭席主北村銀太郎さんの聞書き『続 聞書き・寄席末広亭平凡社ライブラリー)の面白さついては先日書いた(8/24条)。これを読んでさらに興味をそそられていた事柄に、北村さんと吉本興業東京支社長の林弘高氏との関係がある。
同書のなかで北村さんは弘高氏のことを「吉本の若」と親しみを込めて呼び、経済的な面での恩人であるとする。「大体、彼は私がなんにもしなくてもお金をくれたもの。月に二、三十円はもらっていたね」というのだ。
年齢的には一回りほど北村さんが上であったが、公私ともに親しい間柄だったらしい。「公」の面でいえば、先述の一方的な金銭の贈与に加えて、東京での吉本の寄席(花月)・劇場の建築・修繕を一手に任されていた。もっとも本書の性質上、精彩に富んで面白いのは私的な交遊のほうである。「とにかくよく馬が合った」という二人、北村さんは若から受ける恩恵の見返りとして、彼に徹底的に遊郭遊びを教えたとのこと。そこで語られている二人の関係、また、いかにも浪花のボンボン的な林さんの人柄がきわめて魅力的なのだった。
そこで、古本で買い求めたまましばらく書棚に収めていた矢野誠一さんの『女興行師 吉本せい―浪花演藝史譚』(中公文庫)を読み始めた。するとこれがまた面白い。
本書は吉本興業の創業者吉本せいの評伝である。ただ創業者というのは必ずしも正確ではない。せいは夫吉兵衛と寄席の経営を始めたものの、その事業が波に乗り出した矢先に吉兵衛が急逝する。その後自らが中心となって吉本興業をいまのような大会社に育て上げたのである。吉本といえば元会長の故林正之助氏が有名で、吉本=林正之助と思っていた私などは「なぜ吉本の会長が林姓なんだ」と疑問に思っていたのである。実は吉本せいの結婚前の旧姓が林であり、正之助・弘高両氏ともに実弟にあたるのだった。
せいは性格の正反対な正之助・弘高を自らの両腕として実際の経営に当たらせた。自分は「ご寮ンさん」として、吉本が抱える芸人たちの頼りがいのある最終的な拠り所となるいっぽうで、売れない芸人は容赦なく切り捨てるという最終判断の権限を保ちつづける。
本書のなかで「吉本の若」林弘高氏は「多分に坊ちゃん気質」「見かけに似ず神経質で、文学青年気質」「性格は多分に東京っ子的な面があり」「なかなか魅力的な人物」「仕事ぶりは、明るく、バイタリティにあふれたものだった」というように、かなり好意的に評価されている。それもそのはず、著者の矢野さんもまた弘高氏と親交があって、姉せいのことについてもいろいろとお話をうかがったという。ただその頃は自分が吉本せいについて書くということは考えもしていなかったため、メモひとつとっておらず、積極的に聞き出すこともしなかったと悔やんでおられる。矢野さんが弘高氏との交遊を振り返ったなかに、北村銀太郎(夫妻)もちらりと登場する。ここで『続 聞書き・寄席末広亭』とつながった。
矢野さんの著書はもちろん弘高氏ではなく、吉本せいが主人公である。せいが夫と死別後吉本興業を大会社にまで拡大する過程が興味深い。 大阪の端席を買い取ることから出発し、ついには一流の定席を手中にする。さらに売れっ子落語家だった桂春團治を引き抜いて専属契約を結び、春團治の奔放ぶりにもあえて目をつぶる。落語が落ち目になり、変わって万歳がブームになるや、万歳を漫才と改称して、エンタツアチャコのコンビを結成させて爆発的な人気を獲得する。そして漫才の東京進出を図った。庶民の意識の変化を敏感につかみとって常に新しい分野を取り込んでいこうという精神は、若い芸人を次々と世に送り出し、さらに音楽業界にも進出している現在の吉本興業の衰えを知らぬ勢いの底流に常に流れているようである。
そうした進取の気風と対照的に、社長と専属芸人との間で結ばれる前近代的・家内的な人間関係もいまだ変わっていないように見受けられる。吉本所属の芸人が会社の体質や社長の人柄をネタに話していることは時々テレビでも見ることがある。芸人たちがいくら所属している吉本の悪口を言っても、すでにそれをネタとして微笑ましく受け止めてしまうような感覚が自分たちにとって当たり前になっている、そのことに気づいて驚く。
新しいものと古いものを同居させつつパワーを持続してゆく吉本の秘密のようなものが、本書を読むことによって少しわかったような気がする。さて次に興味を持ったのは、本書でもしばしば言及されていた富士正晴さんの『桂春団治』(講談社文芸文庫)だ。

[読前読後]追憶の文学、あるいは夢の顔合わせ

(2001年12月4日に書いた記事の再掲)
小沼丹さんの『木菟燈籠』(講談社)を読み終えた。
何が起こるわけでもない。平静な暮らしのなかで出会う人々、小動物、木、花などとの対話の断面を切り取り、見事な言葉で結晶化する。そんな魔法のようなわざにただ見とれて陶然とするばかり。
小沼文学といえばユーモアという言葉を思い浮かべるが、今回『木菟燈籠』に収録されている十一の短篇を読んではたと気づき、それが他の作品(たとえば『懐中時計』など)にも通底していることに思いが及んで、自分で納得してしまった。
小沼文学には「死」というテーマが色濃く投影されている。すでに小沼ファンの間では周知の事柄に属するのかもしれないが、鈍感な私にもようやくそれを感じ取ることができたようだ。もともと『懐中時計』などに収録されている“大寺さん物”は、奥様を亡くされた小沼さんご自身の姿がそのまま写しとられているわけだが、本書『木菟燈籠』でも、大寺さんだけでなく、ご本人そのものも登場して、しきりに亡妻の話題に話が及ぶ。
また、「「一番」」は大衆割烹の店を出している末さんや、馴染みの鮨屋「一番」のおかみさんが亡くなった話、最後の「花束」は新宿の酒場でよく顔を合わせた飲み仲間の毛さんが亡くなった話、「槿花」は火災保険の仕事で小沼家へ年二回ほど訪れる松木の爺さんが亡くなった話、松木の爺さんは、大寺さん物で、大寺さんの後妻が急病で入院した話である「入院」にも登場する。こんなふうに、作品のいたるところに「死」や「病気」が登場して、それが登場人物の対話から醸し出されるユーモアと背中合わせに、お互いがお互いを際立たせているという格好になっているのだ。
「死」を読者に伝える締まった文章がまた素晴らしい。「「一番」」で末さんが亡くなったことを知った「私」の心象。

店に這入るといつも正面に、白いコック帽を被つて丸い赤い頬つぺたをした末さんの姿がある。それがこの夜は見えなかつたから、何だか物足りない気がしたのを想ひ出したが、末さんはこれから二度と姿を見せないと思ふと、どこからか寒い風が吹いて来るやうな気がした。
また、「花束」で、毛さんが亡くなったことを知った「私」の心象。
親爺の寄越した酒を飲んでゐる裡に、いつだつたか毛さんの奥さんが大きな花束を抱へてゐたのを想ひ出した。あれは何の花束だつたのだらう? 毛さんも奥さんもにこにこしてゐて愉しさうだつたから、そのときは何かいいことがあつたのだらうと思つたが、或はそれは思違だつたのかもしれない。
さう思つたら不意に空気が動かなくなつて、辺りがしいんとしたやうな気がした。
寒い風が吹いて来る、空気が動かなくなる、知己の死を知った瞬間の気持ちがこのたった一行に過ぎない文章のなかに封じ込められているのを読んで、鳥肌が立ってきた。
小沼さんがよく使う言い回しに、「かしらん?」という疑問形がある。「あれはどうなつたかしらん?」、こんな形で使われて余韻が残る。この多用される「かしらん?」という疑問符も、よく考えてみれば追憶のなかで過去に出会った人物や物などを懐かしく振り返る文脈で使われていることが多い。 小沼文学を「追憶の文学」と呼んでみようか。
ところで本書冒頭の一篇「四十雀」には驚かされた。これに驚喜したため、全編を読み通すパワーが充填されたといっても過言ではない。というのは、鎌倉の林(房雄?)邸を訪れたときのこのエピソード。
話をしながら何となく薄の方に眼をやつてゐたら、一人の男が薄の前を横切つて客間の外に立つた。半ば潰れた古ぼけた中折帽子を被つた中年男で、兵隊の着るやうな襯衣を着てゐた気がするが、はつきり想ひ出せない。どう云ふ人物なのか見当が附かなかつたが、…
という人物が、実は吉田健一だったのである。私の敬愛する二人の英文学者がこのような出会いをしていたとは。その後一度出版社で出会ったことも記されている。 小沼さんのロンドン滞在記『椋鳥日記』(講談社文芸文庫)を読んだり、倫敦とか卓子といった言葉づかいを目にして、吉田健一を思い出さないわけがない。この二人は知り合いなのだろうかと思ったこともある。この二人の出会いを知っただけでも、読んだ価値ありという一書であった。ちなみにこの「四十雀」には、小沼さんが久保田万太郎久生十蘭とも鎌倉で会ったという話が書き留められていて、これもまた興奮させる挿話であった。

「三世澤村田之助小説」を超えて

今年の3/9条にて、三世澤村田之助が主人公ないし登場人物として登場する小説をあげ、これらを「三世澤村田之助小説」とくくってみた。
幕末明治期に美貌の女形として若い頃から立女形として活躍し、将来を嘱望されていたにもかかわらず、脱疽で両足や手を切断する悲運に見舞われ、それでもなお舞台に立ちつづけ、果てに狂死したという、波乱万丈の生涯をおくった歌舞伎役者である。
そのときあげたのは、南條範夫『三世沢村田之助 小よし聞書』(文春文庫)・山本昌代『江戸役者異聞』(河出文庫)の2冊。
このたび、そのなかに北村鴻さんの『狂乱廿四孝』(角川文庫)を付け加えることができたのは嬉しい。
長編「狂乱廿四孝」は第6回鮎川哲也賞を受賞し、95年に東京創元社から単行本として刊行された。ところが、著者曰く「あまりに紆余曲折がありすぎてとてもここでは書ききれるものではない」(「あとがき」)という事情で文庫化が遅れ、結果的に別の版元から文庫化された。
今回の文庫化にあたり、本作品に加えて、この原型だという短編「狂斎幽霊画考」(オール読物推理小説新人賞候補作)が“ボーナストラック”として付け加えられている。
夏休みでは休みのときに読もうと思っていた本を優先していたので、本書を持参しなかった。そういうこともあって、東京に戻るやいなや、すぐにこの本を手に取り、興奮のうちに読み終えた。
歌舞伎ミステリとして傑作である。
時は明治初年の東京浅草猿若町。すでに脱疽で両足を切断した澤村田之助が、からくりを駆使して「本朝廿四孝」の八重垣姫を勤め上げ、観客の度肝を抜いた守田座が主な舞台となる。
澤村田之助に加え、守田座の座付作者河竹新七(黙阿弥)、座主の守田勘弥田之助のからくりをつくった大道具方の長谷川勘兵衛、それに五代目菊五郎河原崎権之助(のちの九代目團十郎)、またこの物語のキーとなる幽霊画を描いた河鍋狂斎(暁斎)、戯作者の仮名垣魯文など、実在の人物が多く登場し、そこにお峯という黙阿弥に弟子入りした16歳の女性芝居作者がからんで話は展開する。
驚くのは、上記した実在の人物たちが、物語のリアリティを増すという目的だけで、たんに「特別出演」としてちらりと顔を見せるのでなく、一人一人が主人公と言ってもいいほどの深い人物造型で描かれていることにある。黙阿弥しかり、勘弥しかり、團菊、勘兵衛、狂斎・魯文もまたしかり。
そうした幕末明治初年における歌舞伎界の裏事情をうかがわせるような、歌舞伎ファンをくすぐる道具立てにさらに拍車をかけるのが、幕末の歌舞伎界の重大事件であった、八代目團十郎切腹事件と、河原崎権之助(九代目團十郎の養父)殺害事件という二つの事件が物語にからんでくるという仕掛けである。たまらない。
ミステリということもあり、これ以上内容に触れるのはひかえるが、「長編より先に読んではいけない」と作者・解説者(西上心太氏)に強く釘をさされた併録作の「狂斎幽霊画考」もまた興味深い。
長編と登場人物がかなり重複し、暁斎の幽霊画がキーとなることには変わりはないものの、微妙に役割や描かれ方が異なり、しかも…、おっと、これ以上は申すまい。
歌舞伎ミステリといえば、これまで戸板康二さんの中村雅楽物や近藤史恵さんの『ねむりねずみ』(創元推理文庫)があったが、この『狂乱廿四孝』は実在の歌舞伎役者やその周辺の人物の特徴を見事に生かしたうえで作中に配するといった、これまでの歌舞伎ミステリにはない新機軸を打ち出したものと評価できる。
(旧版2001年9月6日条の再掲)

残りの人生で吉田健一を

ケンブリッジ帰りの文士 吉田健一

吉田健一は「好きな作家」というより、「好きになりたいと思っている作家」でありつづけているといったほうがよかろう。「好きな作家」と胸を張って言える自信がないからだ。一度書いた本に『時間』の一節を引用したことがあるけれど、中味を正確に理解して引用できたかどうかは不安である。
書棚にある本をふりかえってみれば、講談社文芸文庫から出た『絵空ごと/百鬼の会』*1を新刊で買ったのが吉田健一との出会いだった。1991年。幻想文学の作家の一人という関心からだったと思う。この新刊を買ったとき、『金沢/酒宴』が既刊であることを知り、一緒に購った。それ以降同文庫で出るたびに買っている。その後、その時点で刊行され、すでに品切寸前になっていた中公文庫などを、新刊書店や古本屋を熱心にまわって必死にかき集めた。古い日記の1991年5月21日にこんな記述を見つけた。

熊谷書店青葉通店にて、『舌鼓ところどころ』(吉田健一、中公文庫)を購う。(…)吉田健一の本は中公文庫から五、六冊出ているのだが、結局一冊のみで新刊書店には全くなし。殆ど品切れかと危ぶまれる。
「熊谷書店青葉通店」という古本屋はとっくの昔になくなっている。さらに日記を見てみると、東京に出たとき(出版社への入社試験だったろうか)に立ち寄った八重洲ブックセンターで売れ残っていた中公文庫版『東京の昔』を購っている。地方の人間にとって、すでに売れ切れて残っていない本が東京なら売れ残っているかもという期待が、大書店に対してたしかにあった。そういう感覚も懐かしい思い出だ。
それでも入手できなかったものは、直接中央公論社に代価の切手を同封して「汚本・旧カバーの本でいいから買いたい」とお願いしたところ送られてきたので驚いた。『瓦礫の中』『怪奇な話』『書架記』の3冊であった。それが9月6日のこと。この方法は井狩春男さんの本に教わったのである。3%の消費税が導入されたのが1989年。そのさい、それまで売られていた文庫のカバーに旧価格が書かれていて対応できず(その頃はおおよそが内税方式だったからか)、消費税に対応した新しいカバーを作るほど売れる見込みがないものは書店の倉庫に眠っているのだという話だった。その後、このうち『怪奇な話』は1993年に「僅少本復刊フェア」と称して中公から復刊され、いま書棚には、旧版とその復刊が2冊並んでいる。
そう見てみると、1991年という年は、吉田健一との出会いから一気に沸点まで達した年だったのだ。そんなふうでありながら、この間新潮社から『吉田健一集成』が出て、二十数年も経っていまだに吉田健一をきちんと理解できているか怪しいというのは、何とも情けない話である。
しかしこのほど、角地幸男さんのケンブリッジ帰りの文士 吉田健一*2(新潮社)を読んで、吉田健一が好きかどうか、好きになれるかどうか、というよりも、とにかく今後残りの人生で真剣に付き合ってみるに値する作家であることを強く認識した。この本によって、日本語という言葉でものを考え、表現する人間のひとりとして、吉田健一がそうした問題にどのように向き合ってきたのかがよくわかった。
また、たいへんに難解な書である『時間』に対する丁寧な解説「時間略解」を読んで、この本に書かれたことがらをどう読むべきか、はじめておぼろげながらわかってきたような気がする。
驚きなのは、吉田健一の仕事のなかでも大好きな『大衆文学時評』が、角地さんによれば、後期の『時間』へと向かってゆく吉田健一の文業において重要な位置を占めているという指摘だった。『大衆文学時評』は、取り上げられている作品がわたし好みであることもあって著作集の端本を持っているほど好きなのだが、これまた内容を十分に理解できているかといえば、覚束ない。この仕事のなかで吉田健一が考えていたことが、後期の仕事につながってゆくという指摘に、自分の“吉田健一好き”の方向性は間違っていなかったのかもしれないという大きな安堵を覚えたのも事実である。
いよいよ著作集を購入する時機がやってきたように思う。以前は高くて買えなかったが、最近全集全般の価格下落とともにだいぶ手に入れやすいところまで安くなってきた。これらを残りの読書人生、じゅうぶん愉しめるだろうとふんでいる。