節子

 総勢9人の高輪の住まいが手狭なため、岸本は近くに部屋を借り、日中はそこで仕事をしている。彼は節子に口述筆記などの手伝いや家事をさせ、わずかながら給金を払うようになった。節子の日常にも張りができ、家にお金を入れるようになったので、肩身の狭かった家庭内での立場も多少は改善されてきた。
 だが、その前後から二人はよりを戻してしまう。しかも、節子のほうが積極的なようである。三年前に逃避したときと違い、岸本は彼女の気持ちを受け入れるつもりになっている。

 「叔父と姪とはとうてい結婚できないものかねえ。」
 思わず岸本はこんなことを言い出した。彼は節子の顔を見まもりながらさらに言葉を継いで、
 「いっそお前をもらっちまうわけには行かないものかなあ。どうせおれはだれかをもらわなけりゃならない。」
 「うちのお父(とっ)さんはああいう思想(かんがえ)の人ですからねえ。」と節子は答えた。
 「節ちゃん、お前は叔父さんに一生を託する気はないかい――結婚こそできないにしても。」
 こう岸本は言ってみて、われとわが口をついて出て来た言葉にすこし驚かされた。
 「よく考えてみましょう。」
 その返事を残して置いて節子は家のほうへ帰って行った。


 島崎藤村 『新生 後編』 第二部 四十二

 一仕事終わった後、節子は紙や鉛筆なぞを片づけながら思い出したように、
 「泉(せん)ちゃんや繁(しげ)ちゃんの大きくなった時のことも考えて見なけりゃなりませんからねえ。」
 「お前はもうそんな先のほうのことを考えているのか。」
 と言って岸本は笑った。節子がよく考えてみようと前の日に言ったのも、主に泉太や繁のことで、彼らがずっと成長した後の日にはいかに自分ら二人のものを見るかというにあるらしかった。
 「お前はそんなことを言っても、ほんとうに叔父さんについて来られるかい。」とまた岸本が言ってみた。
 「わたしだってついて行かれると思いますわ。」
 こう節子は答えたが、いつのまにか彼女の眼は涙でかがやいて来た。ややしばらく二人の間には沈黙が続いた。
 「今度こそ置いてきぼりにしちゃいやですよ。」節子のほうから言い出した。
 「なんだかおれはいい年齢(とし)をして、中学生のするようなことでもしてるような気がしてしかたがない。」
 と岸本は言った。「節ちゃん、ほんとに串談(じょうだん)じゃないのかい。」
 「あれ、まだあんなことを言っていらっしゃる――わたしはうそなんかいいません。」


 島崎藤村 『新生 後編』 第二部 四十三

 大正の時代に、《近親相姦》 というものがどの程度タブー視されていたのかよくわからないのだが、少なくとも優生学的な観点での禁忌は現代に比べたらはるかに緩やかだったのではないだろうか。節子が妊娠したときに、堕胎の可能性を全く考慮していないことから、そんなことを僕は考える。
 もっとも、叔父と姪は当時の法律でも結婚は許されなかった。結婚しない(あるいは、できない)男女の関係など全く許されない時代の話である。岸本たちが 「罪過」 と呼び、先のことを憂うのも、むしろこのこと――結婚できない間柄だということ――ゆえであったのだろうと思われる。
 この頃、岸本には縁談があったのだが、彼は断っている。彼が再婚し、節子もまた他の誰かと結婚すれば、万事うまくいきそうなのだが、二人はそういう方向には行かないのである。