続・手のひらをながめる

 島崎藤村の自伝的小説の主人公が、自分の 《手のひらをながめる》 という行動について、先日、以下のように書いた。

 どちらも共通して、亡き父――暗い淫蕩の血が流れ、狂死した父――を思い起こすきっかけとして描かれる行動なのだろうと思う。


 手のひらをながめる - 蟹亭奇譚

 この話、『春』(明治41年)にはっきりと書かれていたので、引用しておく。
 主人公岸本捨吉は恋愛問題をきっかけに家出。半年以上も行方不明の末、帰京して、長兄民助を訪ねる場面である。

 その時、長火鉢に翳(かざ)している岸本の手が妙に民助の眼に着いた。不格好で、指先が短くて、青筋が太く刻んだように顕れたところは、どう見ても亡くなった父の手にソックリであった。……
 (中略)
……国学神道に凝り過ぎたともいうが、深い山里に埋(うずも)れて、一生煩悶して、到頭気が変に成った人の手がそれだ。「阿爺(おとっ)さん、子が親を縛るということは無い筈(はず)ですが、御病気ですから堪忍して下さい」こう民助が言って、御辞儀をして、それから後手に括(くく)し上げた人の手がそれだ。ありあまる程の懐(おもい)を抱きながら、これという事業(しごと)も残さず、終(しまい)には座敷牢の格子に掴(つか)まって、悲壮な辞世の歌を読んだ人の手がそれだ。
「捨吉も年頃だ。そろそろ阿爺(おやじ)が出て来たんじゃないか」
 こう民助は心を傷めた。何でも、父が二十(はたち)の年齢(とし)とかに、初めて病気が発(おこ)って、その時は愈(なお)ったが、それから中年に成って再発した。この事実を民助は思い浮かべた。……


 島崎藤村 『春』 五十

 兄の視点で描かれているが、これこそが父子の 《手》 にまつわる作者の思いであることは間違いないだろう。
 もう一つは、『新生』 から。フランスより帰国した捨吉が、次兄義雄から(おそらくは借金の)書付を見せられた直後の場面である。

 岸本は誰も家の人のいないところへ行って、ひとりで自分の右の手を出して見た。そして自分に問い、自分に答えた。
「やっぱし、金の問題がついて回る――どうもしかたがない。」
 岸本はあだかも、手相をみる占者(うらないしゃ)の前にでも出して見せるような手付きをして、自分で自分の手をながめた。その手を他から出された手のようにして出し直して見た。実際、それはだれの手でもなかった。自分の罪過そのものがどこから出すともなく出してよこす暗い手だ。
 岸本はもう一度その手を出し直して見た。だれにも知れないように自己(おのれ)の罪跡を葬ろうとしているような人間のはかなさをよく知るものでなければ、どうしてそんな手のあることを感じ得られよう。それは押しいただいても足りないほど感謝すべき手だ。しかし掛け引きの強い手だ。自分の弱点を握っているような手だ。岸本はつくづく自分の手を眺めて、非常に暗い気持がした。


 島崎藤村 『新生 後編』 第二部 二十四

 これは少々複雑だ。「押しいただいても足りないほど感謝すべき」、「掛け引きの強い」、「自分の弱点を握っている」 とは言葉どおりに受け取れば、節子の父義雄のことを指していることになる。(平野謙はそのように解釈している。)しかし、捨吉が自分の手をながめながら、兄のことを考えるというのは、そこに深い血のつながりを、さらにその奥に淫蕩の血が流れる亡き父を思い起こしているのだと理解したい。ぞっとするほど、印象的な描写である。