《語り手の視点》の観点から夏目漱石を読む

スランプを脱する薬が欲しい - 備忘録の集積
 id:keiseiryoku さんのエントリを読んで、小説に書かれている視点の変化について興味をもったので、一つ記事を書いてみることにしたい。(ただし、創作上の助言などのつもりではないので、あてにしないでいただきたい。)
 で、またしても夏目漱石である。
 漱石の初期の主要な小説、『吾輩は猫である』、『坊っちゃん』、『草枕』 はいずれも 《吾輩》、《おれ》、《余》 という一人称で書かれている。主人公自身が語り手であって、『吾輩』 のように、主人公が死ぬとストーリーがそこで終わってしまうケースもある。つまり、主人公以外の視点が入りこむことが全くないのである。
 これが中期の小説、『三四郎』、『それから』、『門』 あたりになるとだいぶ変わってくる。三作とも三人称で書かれている作品だが、これらはどのような視点で描かれているのだろうか。

 三四郎はぼんやりしていた。やがて、小さな声で「矛盾だ」と言った。大学の空気とあの女が矛盾なのだか、あの色彩とあの目つきが矛盾なのだか、あの女を見て汽車の女を思い出したのが矛盾なのだか、それとも未来に対する自分の方針が二道に矛盾しているのか、または非常にうれしいものに対して恐れをいだくところが矛盾しているのか、――この田舎出の青年には、すべてわからなかった。ただなんだか矛盾であった。


 三四郎』 二

 『三四郎』 には最初から最後まで主人公三四郎が登場する。しかし、全てが三四郎の視点から描かれているかというと、そうではない――というのが上の引用箇所である。「この田舎出の青年には、すべてわからなかった」 と、主人公が認識していない彼自身の心理を客観的に描写しているのだ。この視点は 《神の視点》 と呼ばれるものである。『三四郎』 にはときどきこの 《神》 が登場して、主人公を批評する。この小説で一番面白い部分だと思う。読者としては、主人公に感情移入しすぎることなく、読み進めることができるのだ。だが、この手法は、作者自身の価値観が露骨に表れてしまうことが多く、『虞美人草』 のように 《神》 が延々と説教を始めてしまうような場合もある。
 次は、『それから』 より。主人公代助が兄嫁梅子に向かって縁談を断る話をしている場面。

「貴方の様にそう何遍断ったって、つまり同じ事じゃありませんか」と梅子は説明した。けれども、その意味がすぐ代助の頭には響かなかった。不可解の眼を挙げて梅子を見た。梅子は始めて自分の本意を布衍(ふえん)しに掛かった。
「つまり、貴方だって、何時か一度は、御奥さんを貰う積りなんでしょう。……(以下略)」


 『それから』 十四

 ここでも同様に、《神》 は 「代助の頭には響かな」 い事柄を描写している。また、最後の文ではわずかながら、「本意」 という言葉を用いて梅子の内面を描いている。このような主人公以外の人物の心理描写は 『三四郎』 にはなかったのではないかと思う。
 続いて、『門』 より。主人公宗助が外出する場面。

「ちょっと散歩に行って来るよ」
「行っていらっしゃい」と細君は微笑しながら答えた。
 三十分ばかりして格子ががらりと開いたので、御米はまた裁縫(しごと)の手をやめて、縁伝いに玄関へ出て見ると、帰ったと思う宗助の代りに、高等学校の制帽を被った、弟の小六(ころく)が這入(はい)って来た。袴の裾が五六寸しか出ないくらいの長い黒羅紗(ラシャ)のマントの釦(ボタン)を外しながら、
「暑い」と云っている。


 『門』 一

 主人の留守中に弟が訪ねてくる――とうとう主人公がいなくなってしまったのである。『三四郎』 や 『それから』 にはこのような場面はなかったはずだ。ちょっとこのくだりだけを読むと、芝居(演劇)のような感じがする。だが、次の章には宗助の外出先での行動が描かれているので、どちらかというと映画に近い場面転換の手法といえるだろう。
 漱石のこれ以降の作品、『彼岸過迄』、『行人』、『こころ』 になると、単に視点が変化するだけでなく、途中で語り手が変わったり主人公が交代したりする小説が多く並ぶようになる。また、『三四郎』 の前に書かれた 『坑夫』 は一人称小説だが、語り手である主人公が過去を回想しながら小説を書いているという設定になっている。


 もちろん、《神の視点》 や視点を途中で変える手法は、夏目漱石が初めて創り出したものではない。漱石以前の作家、幸田露伴樋口一葉島崎藤村などの小説にも、このような手法はふんだんに用いられているのである。
 また、さまざまな小説を読みなれた現代の我々にとって、これらの手法は当たり前すぎて、逆に目に止まらないかもしれない。だが、漱石の小説をこんな風に執筆順に並べてみると、作風が少しずつ変化しているのがわかって興味深いと思う。


門 (新潮文庫)

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