『天才バカボン』の思い出

 赤塚不二夫の 『天才バカボン』 は雑誌連載時にリアルタイムで読んでいたのだけれど、記憶に残っているだけでもいくつか強烈なエピソードがある。

  1. サンデー連載事件
  2. ペンネーム変更事件
  3. ゴーストライター事件

など。
 Wikipedia などを参考にしながら、当時を振り返ってみることにしたい。記憶に頼っている部分が多いので、真偽については保証しない。

サンデー連載事件

天才バカボン - Wikipedia
 『天才バカボン』 は 1967年より 「週刊少年マガジン」 に連載され、1978年に 「月刊少年マガジン」 で一応完結した作品である。マガジンは講談社の雑誌だが、1969年から数ヶ月間、「週刊少年サンデー」(小学館) に掲載されたことがあるのだ。
 当時、人気漫画家は複数のマンガ雑誌に連載するのが当たり前であった。「○○先生の作品が読めるのは××だけ」 というような縛りはなかったのである。1969年のサンデーは赤塚の代表作 「もーれつア太郎」 を同時に連載していた。ニャロメが出てくる 「ア太郎」 のほうが人気が高かったのである。
 赤塚がなぜマガジンの連載を止め、サンデーに 『バカボン』 を掲載したのか、今となってはよくわからない。単純に講談社と喧嘩したのかもしれないし、あるいはもっと大人の事情があったのかもしれない。しかし、いずれにしろ、掲載誌変更という事件そのものをマンガの中でネタにしていたのは事実で、少年読者はネタとして受け止めていたものである。*1

ペンネーム変更事件

 60年代の安定した作風にとってかわって、70年代の赤塚作品はナンセンス、スラップスティックの領域を超え、ひたすらエキセントリックになって行く。従来の読み切り連載という形式のみに縛られることを嫌い、キャラクターの設定をやたらと変更したり(バカボン一家の重たい過去など)、構成が複雑になって行ったのもこの時期である。
 そのような中で、赤塚は自らの名前を捨てたことがあった。ペンネーム変更事件である。
 1974年、赤塚は 『天才バカボン』(連載時の扉だったと思う)で、ペンネームを 「山田一郎」 に改名すると宣言。バカボンのみならず、他誌を含めて掲載作品すべてを山田一郎名義で発表したのだ。数ヶ月で元に戻したため、後に何の影響も残さなかったように思うのだが、当時は大事件だったのである。ネタなのかマジなのかわからないまま終わってしまったのだが、少年読者はこの漫画家の狂気に一抹の不安を覚えたのであった。*2

ゴーストライター事件

 『天才バカボン』 の作品群の中には、「原作:赤塚不二夫/作画:○○○○」 と明記されているものがある。しかし、このような表記なしに、明らかに別人が描いたバカボンが赤塚名義のままマガジンに掲載されていたことがあった。

 上の二種類のバカボンのパパを比較してみよう。(あくまでも比較のための画像であって、いずれも赤塚の手になるものか否か断定することは避けたい。)左側の絵は顔の輪郭線よりも鼻が飛び出している。これが赤塚不二夫の標準的なバカボンのパパである。一方、右側の絵は輪郭線が切れておらず、鼻が顔の中心に寄っている。
 ときどき、雑誌連載一回分まるごと右側の絵が描かれていることがあり、読んでいて 「ああ、これは別人の絵だな」 と分かるのであった。また、絵が違うだけでなく、ストーリーも中継ぎ的な大人しい展開のため、面白くなかったのだ。マガジンからは何の発表もなかったが、少年読者の間では作者病気説が囁かれていたものである。
 連載を休むことなく、このような方法で掲載を続けるというのは、シビアな見方をすれば 《出版社による厳しいノルマ》 が課せられていた証拠ということになるのかもしれないが、少年読者の僕は割とこの状況を楽しんでいたものだ。子供にも見分けがつくほど絵が違っていて、そのことを隠さないのだから、ひそかにこのゴーストライター氏(長谷邦夫ではないかと思う)を応援していたのである。*3


*1:これでいいのだ。

*2:これでいいのだ。

*3:これでいいのだ。

「チュニジアの夜」聴きくらべ

 モダン・ジャズの名曲 「チュニジアの夜」(D・ガレスピー&F・パパレリ作曲)の名演奏をトランペット奏者別に聴きくらべてみる。

ディジー・ガレスピー


 Dizzy Gillespie & His Orchestra 名義で発表された、作曲者自身による演奏。ミステリアスなイントロ、印象的なメロディ、ソロの出だしのかっこいいブレイク、エンディングのトランペットによるカデンツァ(ソロ)と、この曲の聴きどころがわずか3分の演奏にぎっちり詰め込まれた名演である。
 録音年代もメンバーも不明(たぶん1940年代だと思う)だが、iTunes Store からダウンロードすることが出来る。

マイルス・デイヴィス


 チャーリー・パーカー・セプテットによる演奏で、1946年3月28日の録音。アルト・サックスはパーカー、トランペットは当時19歳のマイルス・デイヴィスである。この演奏のキモはなんといっても、1:20 から始まるパーカーのブレイク・ソロだろう。続くマイルスもなかなか頑張っている。
 上の YouTube 音源は途中で切れてしまっているのだけど、ノーカット版はこちらで聴くことができる。もっとも、カットされたギター・ソロのあとはテーマに戻ってフェイドアウトなのだが。(チャーリー・パーカーのレコードは、エンディングがいい加減なのが多いのだ。)
 この名演奏は以下の CD に収録されている。

クリフォード・ブラウン


 アート・ブレイキークインテットによる1954年2月のライヴ演奏。トランペットの天才クリフォード・ブラウン(1930-1956)の熱い演奏が聴ける名盤である。LP 時代の録音なので、演奏時間が長いのが特徴だ。(この後さらに長くなって、ブレイキーの 「チュニジア」 は15分を超えるものもある。)
 ブラウンは早世した人なのでレコードが少ないのだが、これは間違いなく最高傑作だと思う。

A Night at Birdland, Vol.1

A Night at Birdland, Vol.1

 同じ内容の CD でジャケット違いが何種類もあったり、似たようなタイトルの違う CD が出ていたりするのでご注意。

リー・モーガン


 アート・ブレイキー&ザ・ジャズ・メッセンジャーズによる1960年8月のスタジオ録音盤。ラテン打楽器の長いイントロに続いて、全員が火の玉になったような熱演を繰り広げている。ソロ先発のテナー・サックスは当時新人だったウェイン・ショーター(1933-)。トランペットは当時22歳のリー・モーガン(1938-1972)である。カデンツァも二人仲良く順番に吹いている。

チュニジアの夜

チュニジアの夜

 他の曲はメンバーのオリジナル。良い曲が揃っていて、飽きのこない名盤だと思う。