島崎藤村 『生い立ちの記』


 『生い立ちの記』 は明治45年に発表された短編小説。*1
 「或る婦人に與ふる手紙」 と副題がつけられているとおり、一人の女性に宛てた書簡形式になっており、内容は語り手の 《私》 (もちろん作者自身がモデル) の近況と自身の生い立ちが交互に綴られている。
 全体の大半を占める生い立ちの部分は、木曾馬籠に生まれ育ち、8歳のときに上京*2、東京で暮らし始めるまでの頃の話が、様々なエピソードを交えながら語られている。つまり、翌年に書き始めた 『桜の実の熟する時』 の前篇にあたる時期を描いた自伝的小説ということになる。
 馬籠時代の話は大正9年発表の童話 『ふるさと』 にも描かれているので、多少重複するのだが、本作と童話との大きな違いは初恋の話が書かれていることだ。

 初 恋


まだあげ初めし前髪の
林檎のもとに見えしとき
前にさしたる花櫛(はなぐし)の
花ある君と思ひけり


 島崎藤村若菜集』(明治30年発表) より

 上の有名な詩が、本作では以下のように変化している。

 村の學校のあった小山の下のところには細い谷川が流れて居ます、そこへ私はお牧から借りた笊を持って行って鰍をすくつたことも有ります。お文さんも腕まくり、裾からげで、子供らしい淡紅色の腰巻まで出して、石の間に隠れて居る鰍を追ひました。
 何時の間にか私はこの隣の家の娘と二人ぎり隠れるやうな場所を探すやうに成りました。私達は桑畠の間にある林檎の樹の下を歩き又は玄關から細長い廂風の小座敷を通り抜けて、上段の間の横手に坪庭の梨の見えるところへ行きました。


 島崎藤村 『生ひ立ちの記』 四

 この 「お文さん」 というのが初恋の相手である。「あげ初めし前髪」 は跡形もなくなり、腰巻の色など書かれているのは、最早おっさんの証拠であろう。
 一方、《私》 の近況に関する部分は、妻を喪った後、遺された子供たち(この時点では長男・次男と同居。三男・長女は別居)の成長の様子が詳しく書かれている。

 私は遠い旅を思ひ立つて、長く住み慣れた家を離れようとして居ます。私が御地を去つて東京へ引移らうとした時、貴女のお母さんの家へ小さな記念の桐苗を殘して來たことが丁度胸に浮びます。貴女の御存じない子供は三人もこの家で生れ、貴女の友達であつた妻もこゝで亡くなりました。今夜はこの家で送る最終の晩です。旅の荷物やら引越の支度やらごちや/\した中で、子供は皆な寝沈まりました。


 島崎藤村 『生ひ立ちの記』 十

 本作の末尾は上のとおりである。ここでようやく、《私》 が旅に出ようとしていること、手紙の相手が小諸時代の妻の友人であることが、読者に明かされる。《私》 が旅に出ようとした理由はここでは語られないままである。旅にまつわる事情は、作者の帰国後に書かれた 『新生』 を待たねばならない。

*1:文庫本で約80ページの長さがある。新聞(?)に連載されたらしく、内容的に翌年、藤村が渡欧する直前まで書き続けられたと思われる。

*2:実際の藤村は満9歳で上京している。