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蟹亭奇譚 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2012-11-13

[][] 「訊く」という表記について

なぜ広まった? 「『訊く』が正しい」という迷信 - アスペ日記 を読んで。

「お前はまた何故結婚なぞしたのだ?」と、スクルージは訊いた。


 ディッケンス Dickens 森田草平訳 クリスマス・カロル A CHRISTMAS CAROL(昭和4年)

 上に引用した『クリスマス・カロル』には、「訊く」、「訊いた」、「訊ねた」という言葉(表記)がたくさん用いられている。"ask" の意味で「きく」を表すときに、「訊く」を用いる典型的な例である。

 では、日本文学ではいつの時代からこの用法は広まったのだろうか。

 ちょっと興味を持ったので、青空文庫からいくつか調べてみた。

「どうしたの」と訊(き)くと、

「お留守番ですの」

「姉は何処(どこ)へ行った?」

「四谷へ買物に」


 田山花袋 蒲団(明治40年)

 僕の知る作家では、田山花袋が一番古い。(これ以前の使用例があったらご教示願いたい。)

 では、夏目漱石はどうか。

 細君は濃い恰好(かっこう)の好い眉(まゆ)を心持寄せて夫を見た。津田は取り合ずに笑っていた。すると細君が突然気がついたように訊(き)いた。

「もし手術をするとすれば、また日曜でなくっちゃいけないんでしょう」


 夏目漱石 明暗(大正5年)

 漱石の『こころ』以前の長編小説には、「訊く」が出てこない。ところが、晩年の作品、『硝子戸の中』、『道草』、『明暗』には用いられている。特に、『明暗』ではこれでもかというほど頻出している。

 さらに、島崎藤村を調べてみよう。

「父さん」

 と楼梯(はしごだん)のところで呼ぶ声がして、泉太が階下(した)から上って来た。

「繁ちゃんは?」と岸本が訊(き)いた。


 島崎藤村 新生(大正7〜8年)

 フランス遊学から帰国したばかりの藤村の作品には、「訊く」が用いられる。同時期に書かれた『ある女の生涯』にも1箇所だが用いられている。しかし、明治期の『破戒』、『家』、昭和期の『夜明け前』にはまったく出てこない。

 以下、考察。

  • "ask" の意味で「訊く」という表記が用いられるようになったのは、明治後期以降のことである。(少なくとも、「近年」ではないことはわかった。)
  • 「訊く」表記は大正期に流行した可能性が高い。一人の作家の作品であっても、上に引用したように、ある時期のみ用いられている例があるからである。
  • 日本文学、翻訳ものを問わず用いられるが、当時としては 《ちよつとハイカラな》文章表現だったのかもしれない。
  • もっとも、「訊く」をまったく用いない作家もいる。森鴎外芥川龍之介など。

 気が向いたら、また調べます。

2010-04-18

[] 語尾に『か』をつけない質問文の用例

「なぜ『か』を付けないの?」と言われてしまいました。 : 家族・友人・人間関係 : 発言小町 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

 発言小町の質問と回答を読んで、ちょっと興味を覚えたので、夏目漱石の小説の中から、語尾に終助詞の 『か』 がついていない質問文の出てくる会話を集めてみた。(強調部は引用者による。)

【その1】

 『吾輩は猫である』 より。苦沙弥先生の細君が迷亭を何やら問い詰めている場面。

「月並か月並でないか女には分りませんが、なんぼ何でも、あまり乱暴ですわ」「しかし月並より好いですよ」と無暗に加勢すると細君は不満な様子で「一体、月並月並と皆さんが、よくおっしゃいますが、どんなのが月並なんです」と開き直って月並の定義を質問する……


 吾輩は猫である』 三

【その2】

 『坊っちゃん』 より。四国に向かって出発しようとする主人公と婆やの清の会話。

それでも妙な顔をしているから「何を見やげに買って来てやろう、何が欲しい」と聞いてみたら「越後の笹飴が食べたい」と云った。越後の笹飴なんて聞いた事もない。第一方角が違う。「おれの行く田舎には笹飴はなさそうだ」と云って聞かしたら「そんなら、どっちの見当です」と聞き返した。「西の方だよ」と云うと「箱根のさきですか手前ですか」と問う。随分持てあました。


 坊っちゃん』 一

【その3】

 『草枕』 より。読書中の主人公 《余》 とヒロイン那美の会話。

「西洋の本ですか、むずかしい事が書いてあるでしょうね」

「なあに」

じゃ何が書いてあるんです

「そうですね。実はわたしにも、よく分らないんです」

「ホホホホ。それで御勉強なの」

「勉強じゃありません。ただ机の上へ、こう開けて、開いた所をいい加減に読んでるんです」


 草枕』 九

【その4】

 『それから』 より。主人公代助の家の書斎で、ヒロイン三千代が鈴蘭の鉢の水を勝手に飲んでしまう(ちょっと官能的な)場面。

代助は湯呑を持ったまま、茫然として、三千代の前に立った。

どうしたんです」と聞いた。三千代は例(いつも)の通り落ち付いた調子で、

「難有(ありがと)う。もう沢山。今あれを飲んだの。あんまり奇麗だったから」と答えて、鈴蘭の漬けてある鉢を顧みた。(中略)

「何故あんなものを飲んだんですか」と代助は呆れて聞いた。

「だって毒じゃないでしょう」と三千代は手に持った洋盃(コップ)を代助の前に出して、透かして見せた。

「毒でないったって、もし二日も三日も経った水だったらどうするんです

「いえ、先刻(さっき)来た時、あの傍まで顔を持って行って嗅いでみたの。その時、たった今その鉢へ水を入れて、桶から移したばかりだって、あの方*1が云ったんですもの。大丈夫だわ。好い香(におい)ね」


 『それから』 十

【その5】

 『こころ』 より。先生と私の会話。

「私は淋しい人間です」と先生がいった。「だからあなたの来て下さる事を喜んでいます。だからなぜそうたびたび来るのかといって聞いたのです」

そりゃまたなぜです

 私がこう聞き返した時、先生は何とも答えなかった。


 『こころ』上 先生と私 七

 引用はこれくらいにして、漱石作品におけるこの語法の共通点についてまとめてみよう。

  • 語尾に 『か』 がついていないものばかり引用したが、実際には 『か』 がついているケースのほうが圧倒的に多い。
    • 特に 『こころ』 における 《私》 の台詞は 「〜ですか」 が畳みかけるように用いられている。
  • 男女、身分の高低、目上目下に関係なく用いられている。
    • 『か』 をつけないからといって、失礼にあたるわけではない。
  • 『?』 がついていなくても、質問であることがわかるように書かれている。
    • クエスチョンマークそのものは他の会話場面では多用されている。
    • 特にデビュー作の 『吾輩……』 では、「何を?」、「どうした?」 という風に効果的に用いられている。
  • 質問文の中に、「何」、「どんな」、「どっち」、「なぜ」 といった(英語でいう)疑問詞が必ず含まれている。
    • 「こちらでよろしいですか」 のように相手の許可を求める場面では用いられない。(例外があるかもしれないが、見つけられなかった。)

 漱石作品のみを以って日本語全般を論じるつもりはない。また、百年前の小説の文章を、現代人の言葉遣いに当てはめるには無理があろう。しかし、発言小町の回答欄にあるように、この語法を 「乱れた日本語」 と断ずるのはいくらなんでも横暴だ。少なくとも、上に引用した漱石作品の登場人物たちの日本語は乱れてはいないのである。

 現代人の会話に限っていうなら、重要なのは TPO と地域差である。地域差にも二通りあって、一方は関東と関西のような地理的な違い、他方は下町と山の手のような文化の違いがあるのではないか。このような違いについては互いに寛容でありたいと思うのだが、相手に誤解を与えないようにすることもまた必要なのだと思う。


それから (新潮文庫)

それから (新潮文庫)

*1:引用者註:あの方=代助の家の書生門野をさす。

2010-03-25

[] 天パン

日立過熱水蒸気オーブンレンジ MRO-FS8-H - 蟹亭奇譚の続き。

f:id:kanimaster:20090927193003j:image

 天火(てんぴ。オーブンのこと)に付属している黒いホーローびきのプレートを「てんぱん」という。関東でのアクセントは「てんぱ」までが平らで「ん」で下げる。僕はこれを 「天板」(なぜか変換できない)だとばかりずっと思いこんでいた。

 昔からあって、しかもそんなに特殊な言葉ではないのに漢字変換できないときは、間違って覚えていることが多い。そこで辞書で調べてみることにした。

てんパン 【天―】

〔パン(pan)は平らな鍋〕天火で調理するときに使う薄く四角い鉄板。


 高楊枝(たかようじ)の意味 - goo国語辞書

 なんと、天パンの「パン」はフライパンの pan だったのだ。僕は早速前回の記事を修正した。

今では「天板」でも通用する以上、必ずしも間違いではないのでしょうが

こうやって厳密に言葉を表記するというのは、

本を作る上ではとても大事なことなのではないか、とは思います。


というわけで、『うちの食卓 イタリア主婦のおいしい家庭料理』では

オーブンを使った料理がいくつかございますが、

いずれも、「天パン」と表記してございます。


 天パンの謎 : うちの食卓 イタリア主婦のおいしい家庭料理 - 担当編集者ブログ -

 講談社の料理本編集者のブログには、上のように書かれている。こういうのはさすがだと思う。

 ちなみに日立のオーブンレンジの取扱説明書を見たら、「黒皿」と書かれていた。わからなくはないけど、ちょっと違うんじゃないかと思った。

2010-02-28

[][] キーワード

 引き続き、新規作成または 「説明待ちキーワード」 を編集した主なキーワード。


 説明をほとんど書き直したキーワード。

2010-02-22

[] 「光の春」の語源を探ってみた

 むかし、会社関係の年長のかたから、「光の春」という言葉を教えていただいた。

 光の春〜つまり冬至を過ぎて立春の 2月4日の間、光は「畳の目」一つづつ長くなる。詳しい定義は、いつか読売新聞のコラムに倉嶋さんという一世を風靡?したお天気キャスターが、書かれていたが、確かこの時期のことを言う言葉らしい。

 ネットで検索しても、「ロシアのことば」と いったことしかわからず、その本当の意味がわからない。

 ここは、蟹マスターさんにでもキーワードを(はてなキーワードを多数製作されている)つくってもらわねばならない。


 JAZZ LIVEのお誘い〜光の春・春を待つ木 - 為才の日記

 izai さんから妙なところでお呼びがかかってしまった。「光の春」 という言葉に馴染んだ覚えはないのだが、なんとなくきれいな語感がある。検索してみたら、この言葉を日本に紹介した気象予報士、倉嶋厚氏の著書(asin:4805003006)を紹介したページが見つかった。(孫引きにつきご容赦。)

『お天気歳時記〜空の見方と面白さ〜』

著者・倉嶋厚

発行所・株式会社チクマ秀版社

初版・1997年5月8日

「二月の光は誰の目から見てももう確実に強まっており、風は冷たくても晴れた日にはキラキラと光る。厳寒のシベリアでも軒の氷柱から最初の水滴の一雫(ひとしずく)が輝きながら落ちる。

ロシア語でいう「光の春」である。

ヨーロッパでは二月十四日のバレンタインの日から小鳥が交尾を始めると言われてきた。日本でも二月にはスズメもウグイスもキジバトも声変わりして、異性を呼んだり縄張りを宣言する独特の囀(さえず)りを始める。ホルモン腺を刺激して小鳥たちに恋の季節の到来を知らせるのは、風の暖かさではなく光の強まりなのである。俳句歳時記の春の部には「鳥の妻恋」という季語が載っている。

 no title

 西洋と日本の季節感について書かれたエッセイのようだが、上の引用文だけ読んでも 「ロシア語でいう「光の春」である。」 という箇所の意味がよくわからない。ロシア語では何というのか、ロシア人なら誰でも知っている慣用表現なのか、それとも歴史や文学に関係するものなのか。

もとのロシア語がなんであるか 私も気になったのでロシア人に聞いてみました。やはり

”весна света”だそうです。

 マーミンカ通信:ロシアの言葉が語源となって (コメント欄)

 ロシア語なんて全く知らないので読み方すらわからないのだが、とりあえずスペルはわかった。そこで今度は ”весна света”をググってみる。すると一番上に、ずばりこの言葉をタイトルにした文学作品が表示される。しかも、無料でダウンロードできるようなので、とりあえずダウンロードしておく。

http://bookz.ru/authors/pri6vin-mihail/prishv12.html

 次は作者の紹介ページ。(このへんから Google 翻訳に頼るので、あてにしないほうがいいです。)

http://www.krugosvet.ru/enc/kultura_i_obrazovanie/literatura/PRISHVIN_MIHAIL_MIHALOVICH.html

 作者はミハイル・ミハイロヴィチ・プリーシュビン(1873-1954)という作家らしい。

先にダウンロードしたテキスト・ファイルをブラウザで開き、文字エンコーディングを 「自動判別 - ロシア語」 に指定すると、文字化けせずに表示されるので、さらにこれを Google 翻訳にかけてみる。

スノーフレーク泊時の電力は何から生まれる:空だった

星空、きれい。

喜びを私の6階に目覚めている。モスクワ覆わレイアウト

星の粉と、山の尾根には虎のようなどこの屋根の上で行った

猫。ってどのくらいの春の小説をクリアします:春の内のすべての光

猫の屋根に登っています。

 あっはっは! さすが Google 様だ。さっぱりわけがわからない。だが、この作品のタイトルがわかった。『春の光』 と表示されているのだ。おそらく、весна が 「春」 で света が 「光」 なのだろう。それから、1938年に出版されたと書かれている。なんだかよくわからないまま読みすすめていくと、少女とか戦争とか重武装とかそんな感じの単語が並んでいる。ライトノベルじゃないんだから、たぶん戦争をテーマにした作品なのだろう。所々に人物のセリフらしき言葉が並んでいるのだが、全体の長さ(数十行)からみて、これは小説ではなく詩なのだろう。

 そして、最後のほうにようやく意味のありそうな文章が出てくる。

私はまさに、モスクワでの光の春のようになる彼らに言われた

 やっと 「光の春」 が出てきた。1938年頃のロシアといえば、スターリンの大粛清が行われ、第二次世界大戦へと向かう暗黒の時代である。しかし、私は希望を捨てはしない。モスクワで光の春になるのだ!――というようなメッセージが籠められているのではないかと勝手に想像しておくことにしよう。

 「光の春」 というフレーズが元々季節感を表す慣用表現だったのか、「プラハの春」(Wikipedia参照) のような政治的な意味を持つ言葉だったのか、そのあたりはわからない。

 ちょっと行き詰まってしまったので、今度は YouTube で検索してみた。

 すると、“весна” という歌がたくさん表示される。全部同じ歌だが、多くのシンガーによってカバーされているようだ。

 上の動画がこの歌で、英語で "Spring" と書かれているから、やっぱり 「春」 である。音楽に使われているシーケンサーが80年代風だが当時のヒット曲なのだろうか。それにしても暗い曲調だ。1980年に開催されたモスクワ・オリンピックの映像が使われているが、政治的な理由からアメリカも日本も不参加だった、なんて話は今の若いひとたちは知らないかもしれない。

 結局、語学力不足のため何がなんだかわからなくなり、これでははてなキーワードを作成しても何も書けない結果となった。しかし、ロシアの人々が長い冬をじっと耐えて、春が来るのを待っている、というようなイメージが、「光の春」 という言葉から感じられるのである。日本的な表現でいうと、「春がきた」 ではなく 「春遠からじ」 に近いニュアンスではないだろうか。


 最初に挙げた izai さんの記事に戻るけれども、冬至から立春までの間、畳みの目一つずつ長くなる日差しのことを 「日脚(ひあし)」 という。立春の前だから冬の季語である。それから、春分を過ぎて少しずつ日が伸びる頃のことを 「日永(ひなが)」 といって、これは春の季語である。寒がりの僕は、断固として春を支持したい。


日脚追ひ寝場所を移す子猫かな


 立春を過ぎてしまったけれど。おそまつ。