感じない男ブログ このページをアンテナに追加 RSSフィード

2007-03-31

[]河野美香『学校で教えない性教育の本』ちくまプリマー新書

学校で教えない性教育の本 (ちくまプリマー新書)

学校で教えない性教育の本 (ちくまプリマー新書)

2005年4月10日熊本日々新聞掲載

評者:森岡正博 (http://www.lifestudies.org/jp/)

 性体験をする若者の年齢が、どんどん下がってきたと言われている。中学生や高校生の子どもをもつ親にとっては、大きな悩みだろう。子どもが家の外で何をしているのか、追跡して見張っているわけにもいかないし、かと言って完全に子どもの自己決定にまかせていればいいという開き直りもできない。

  学校での性教育についても、熱い戦いが繰り広げられている。寝た子を起こすことはないという意見と、子どもがセックスをしていることを前提として教育しないと意味がないという意見が、正面からぶつかり合っている。

  河野美香さんの『学校で教えない性教育の本』は、後者の立場で書かれた本だ。実際に中学生や高校生が読みやすいように、漢字にはルビが振られ、語り口もたいへん読みやすい。産婦人科の医師である著者は、来院する若い女の子たちの実際の悩みを知っている。だから、若者のセックスについての絵空事を論じるのではなく、現実に起きていることにどうやって対処すればいいのかという現実主義で貫かれている。

  この本で河野さんが語りかけようとするのは、主に女子生徒たちだ。なぜなら、正しい性の知識を知らないがために、たいへんな状況に陥るのは、やはり圧倒的に女の子だからである。河野さんが熱意をこめて語るのは、避妊、中絶、出産、性感染症である。女の子のための性教育に必要なのは、やはりそれらの情報だろう。それに加えて、たとえば月経についての語り口は、とても親身でかゆいところに手が届くようだ。月経の量や、不順や、痛みなどについて、こんなふうに教えてくれるのは、おそらく女の子にとっては大きな助けになるだろう。(私は男性だから追体験できないのだが)。

  この本はぜひ中高生に読んでほしい。しかしそのうえで思うことがいくつかあるので、それについて考えてみたい。これはこの本だけではなくて、性教育の本全般に言えることだと思うのだが、どうしても内容が説教臭くなってしまうはどうしてだろうか。

  たとえば、この本でも、セックスの目的は何かと問うて、その答えとして「子どもを作るため」と「相手とのコミュニケーションのひとつ」という二つの解答を与えているのだが、そこで終わっている。そこには、「気持ちいいから」「どきどきするから」「興奮するから」「やりたいから」といった、誰でもが想像しそうな素朴な答えが用意されていない。もちろん、ジェンダー論では、それらの興奮や気持ちよさは、実は学習によって構築されたものであるとされているのは、私もよく知っている。

  だが、性情報に囲まれた子どもたちは、かなり素朴に、セックスは気持ちいいらしいから、どきどきするから、してみたいというふうに思っているのじゃないだろうか。実際、われわれ大人の男女だって、気持ちいいから、やりたいからしているという面ははっきりとあるわけだから、そこに蓋をすることなく、正面から快楽について語り、そのうえで「セックスは快楽追求だけではないんだよ」「お互いを尊重する気持ちがいちばん大事なんだよ」と論をすすめていくやり方があるんじゃないかと私は思ってしまう。

  さらに言えば、男の子のための性教育の本が、もっとたくさんあってもいいはずだ。セックスにおいてたいへんな目に遭うのは、ほんとうは女子だけではない。男の子も、夢精やマスターベーションをどう処理すればいいのかとか、エッチビデオをこっそり見て興奮している自分はダメな人間じゃないのだろうかとか、いろいろな悩みを持つと思う。そして、そういう心の悩みを一人で抱え込んでしまい、その結果、女性を過度に理想化したり、生身の女性とは付き合えなくなって恋愛から逃避する男ができあがるかもしれない。そういう男は自分の体を汚いと思っているかもしれない。そこを解明する本も、ぜひ必要だと思うのだ。

-------------------------------------------------------

◆森岡正博の書評ページ(森岡執筆の書評一覧があります)

http://www.lifestudies.org/jp/shinano01.htm

◆森岡正博の生命学ホームページ

http://www.lifestudies.org/jp/

[]デニス・アルトマン『グローバル・セックス』岩波書店

グローバル・セックス

グローバル・セックス

2005年3月27日日経新聞掲載

評者:森岡正博 (http://www.lifestudies.org/jp/)

 グローバル化については、いままで様々なことが語られてきた。アメリカ的な経済システムや価値観が全世界をくまなく覆い尽くすことによって、旧態依然たる社会秩序が解体することをよろこぶ意見がある一方で、そのブルドーザーのような破壊によってローカルな多様性が失われ、世界はますます非人間的なものになっていくという嘆きもある。

  本書は、このようなグローバル化の光と陰が、まさに世界中の「セクシュアリティ」の現場においても、すさまじい勢いで進行中であるということを、豊富な資料をもとに描いたものである。グローバル化とセクシュアリティという、よだれの出そうな研究テーマなのであるが、著者によれば、いままで本格的には研究されてこなかったらしい。

  セクシュアリティにおけるグローバル化とは、まず性に関する「アメリカの想像界」が、世界中のいたるところへとばらまかれていくことである。それは「望ましい身体イメージ」が、アメリカを経由地点として世界へと拡散するプロセスだ。そして、そのイメージに自分の身体を合致させようとして、摂食障害などが「貧困」な地域へと拡大する。このようなグローバル化の裏面に、著者は次々と光を当てていく。

  さらには、世界中に広がりつつあるエイズ教育・予防プログラムですら、「西洋的な概念にもとづいたセクシュアリティと性的アイデンティティ」を世界へと輸出し、伝統的な認識枠組みをそれによって次々と駆逐していく結果となっていると著者は言う。このような変化が現に起きているという事実を、まず認識するところからはじめてほしいと著者は述べる。

  買売春のグローバル化も深刻である。売られる女性や男性や子どもたちは軽々と国境を越える。もちろん、性の自由と多様性は重要であるが、そのためにはグローバル化の犠牲になっている人々に対して「基本的に生存に必要なものへのアクセスが保証」される必要があると強調する。それが緊急の課題であることは言うまでもない。ゲイである著者の鋭い視線が随所に光る本である。

-------------------------------------------------------

◆森岡正博の書評ページ(森岡執筆の書評一覧があります)

http://www.lifestudies.org/jp/shinano01.htm

◆森岡正博の生命学ホームページ

http://www.lifestudies.org/jp/

[]金井淑子編著『性/愛 岩波応用倫理学講義5』岩波書店

2005年2月11日週刊読書人掲載

評者:森岡正博 (http://www.lifestudies.org/jp/)

 この本は、倫理学が「性」と「愛」の問題にどのように取り組めばよいのかを、おもにフェミニズムとの関係から探求したものだ。講壇倫理学は、伝統的に、「性」の問題をきわめて不得意としてきた。「セックス」ということばが倫理学の中で使われることは稀だったし、もし言及されたとしても結局のところは「相互に尊敬を払う愛の共同体」とかいう空疎な結論に至るのがオチだった。

  しかしながら、フェミニズム思想、ポストコロニアル思想の大波によって、「倫理」を語る基盤自体が周到に「ジェンダー化」されてしまっていることが、明らかになってきた。本書の編集者である金井淑子の問題意識は切々と伝わってくる。と同時に、巻末に置かれた座談会では、竹村和子が、「倫理」を語ろうとする者への違和感を繰り返し表明しており、それに充分に応対するだけの言葉を現在の倫理学が持ち得ていないことが、はからずも明らかになっていて面白い。

  本書の総論部分で、金井淑子はいくつかの重要な論点を提示している。まず金井は、セックスワークをしたいと言うゼミ生に対して、「あなたの決めたことならいいではないか」と言えなかったという例を出してくる。つまり、一般論としては「あなたの自己決定なら」と言えてしまうのに、なぜ自分のゼミ生の選択に対しては「やめておくべき」というおせっかいな感情を持ってしまったのか、というのだ。

  このことから金井は、誰しもが自分の中に「リベラリズム倫理」と「パターナリズム倫理」の両方を内在していると結論する。そしてこのような視点から、セックスと関係性の問題に切り込んでいこうとするのである。

  その結果見えてくるのが、従来とは異なった奇妙な「ねじれ」の存在である。たとえば、ポルノ規制の問題に関しては、もやは「保守派」対「進歩派」という二分法は通用しない。なぜなら、実際にあるのは、ポルノ反対を主張する「保守派」+「フェミニスト性暴力反対派」と、ポルノの自由を求める「個人のセクシュアリティ擁護派」、という対立だからである。同じような図式は、子どもの性的自己決定権の場合でも出てきてしまう。

  金井は述べていないが、似たようなねじれは、実は、臓器移植やクローン技術などの生命倫理の領域でも、同じように生じてきているのである。これらの点を考えると、いまや倫理の問題の最前線の地図は、大きく塗り替えられ始めていると考えざるをえない。その点をビビッドに感じ取ることができるのが本書のすぐれた点であろう。

  セックスワークに関しては、内田樹が、身体には固有の尊厳が備わっており、換金されたり道具化されることによって侵され、汚されると主張している。内田はセックスワークの労働権を承認した上で、このように言うのだから、これは保守派の言説なのか、進歩派の言説なのか、もはや判別不能なのだ。ただし、内田の議論には「買う男」の視点が入っておらず、この分野への男性学の取り組みが切に望まれる。

  男性学からのアプローチとしては、沼崎一郎が、ドメスティック・バイオレンスに支配された「制縛圏」が、意外なことに、優しさに満ちた「親密圏」に表面上酷似してしまうことを指摘している。われわれは、こういうところに、構造化された暴力の根深さを見ることができる。沼崎はケアの営みに、この構造からの脱出口を見出そうとしていて興味深い。

  細谷実は、美醜の問題を倫理学は正面から扱うべきであると主張する。「ブサイクなために生きる希望を失った」という声を引用しながら、この問題を議論するための手がかりを模索している。

  倫理学は、これらの挑戦を受けて立てるのだろうか。まだまだ混沌としているが、混沌の中にこそ将来の革新が潜んでいると信じてみるべきだろう。

-------------------------------------------------------

◆森岡正博の書評ページ(森岡執筆の書評一覧があります)

http://www.lifestudies.org/jp/shinano01.htm

◆森岡正博の生命学ホームページ

http://www.lifestudies.org/jp/

[]上田紀行『生きる意味』岩波新書

生きる意味 (岩波新書)

生きる意味 (岩波新書)

2005年2月6日熊本日々新聞掲載

評者:森岡正博 (http://www.lifestudies.org/jp/)

 いまの社会を覆っているのは、なんとも言えない「息苦しさ」ではないのかと、私は常々考えてきた。世界有数の豊かな国になって、モノは溢れているのに、どうしてこんなに「生き生き」「はつらつ」としてないんだろうと。実際、何不自由ない家庭に生まれた若者が、引きこもりになってしまったり、リストカットを繰り返したりするというのは、少し前までの常識では考えられないことなのだ。

  ものが豊かになればなるほど、それに反比例して、こころはどんどん空虚になっていく。こういう現象がひたひたと進んでいるのが、いまの日本という社会である。

  上田紀行の新著『生きる意味』は、この問題を真正面から見据えた本である。上田は、『覚醒のネットワーク』などの仕事によって、「いのち」の消耗したこの社会を、その内面から立て直すための提言を一貫して行なってきた。この本は、彼の一連の仕事の集大成と言えるだろう。

  上田は、現代人がこころに大きな「空しさ」を抱えていると言う。それは、社会においても、学校においても、「この私が存在している必要はまったくないんじゃないか」「この私じゃなくて、ほかの誰かが代わりにいたとしても、社会や学校はまったく困らないんじゃないか」という意識が蔓延するようになったからだ。別にこの私じゃなくてもよかったんだ、という空しさのことを、上田は「かけがえのなさの喪失」と呼んでいる。

  なぜこんなふうになってしまったのかと言えば、もともと「他人からの目」をすごく気にする日本人が、「個」の確立を行なうことなしに、一気に効率性重視の近代化を進めてしまったところにあると上田は主張する。近代的な「個」が出来上がっていないのに、システム的な効率性ばかりを重視したため、「他人の目ばかりを気にする、一個の歯車」のような人間が大量生産されてしまったというのである。

  そういう社会では、「生きる意味」はつねにお上やメディアなどの外部から与えられるのだが、それに逆らって、かけがえのない一回限りの生を生きる自分自身の内側から、この私が生きる意味というものを「再創造」して、立ち上げてくることがいまこそ必要だと上田は説く。そのために必要なのは、真にこころから「ワクワク」すること、そして人生で必然的に出会う「苦悩」を前向きに通過することである。涙があるから花も咲くとは、そういう意味なのだと上田は言う。

  上田はこのようにして、生きる意味を喪失した現代人は、しかしながら、その乾ききった自分自身の人生のもっとも弱い部分を通過することによって、内側から力強く「生きる意味」を再創造してくることができるのだと結論するのである。

  上田のこの本を読んでみて、半世紀前に出版されたエーリッヒ・フロムの名著『自由からの逃走』が、いかに現代の問題を根源的に捉えていたのかを再確認することができるように思う。フロムは、近代になって解放された人間たちは、しかし手にした自由に怖れをなし、すがるものを追い求めてみずから奴隷化していったと語った。これは、物質的豊かさを手にしたにもかかわらず、内面の生きる意味を喪失した二一世紀日本のわれわれの姿を先取りしたものと言えるだろう。

  私は現代日本のこのような状況を「無痛文明」として捉え、自分自身のアイデンティティを根本から問いなおすことを通じてのみ、そこからの脱出の道は開けると『無痛文明論』で論じた。

  不思議なことであるが、物質文明が引き起こした文明論的な問題と対決するためには、まずはみずからの内面の革新が必須だというのが、思想的な答えのようなのである。だが、単に内面への哲学的な沈潜にとどまっていてはならないはずだ。生きる意味を求める行為が、どうやって社会と実際につながれるのかを模索しないといけない。

  上田や私の思索は、まだまだ途上のものであるが、それをさらに批判し実践する作業が必要だ。

-------------------------------------------------------

◆森岡正博の書評ページ(森岡執筆の書評一覧があります)

http://www.lifestudies.org/jp/shinano01.htm

◆森岡正博の生命学ホームページ

http://www.lifestudies.org/jp/

[]ヤコブ・ビリング『児童性愛者』(中田和子訳)解放出版社

児童性愛者―ペドファイル

児童性愛者―ペドファイル

2004年12月5日熊本日々新聞掲載

評者:森岡正博 (http://www.lifestudies.org/jp/)

 今回紹介する『児童性愛者』を読んでいたら、ちょうど奈良市で小学校一年生の少女の殺害事件が起きた。犯人は、子どもに性愛感情を持つペドファイル(児童性愛者)ではないかと推測されている。

  小さな子どもを見て「かわいいな」と思ったり、「声をかけてみたいな」と思うだけならば、誰しも理解できる感情だと言える。だが、子どもたちに性的ないたずらをしたり、誘拐したり、虐待をして殺したりしたいというところまで行くと、もはや普通の理解の範囲を超えている。

  小さな子どもと性的な関係を持ちたいと思っているのは、どういう人たちなのだろうか。この本は、その疑問を解決するために、デンマークの児童性愛者協会に潜入したジャーナリストによる、迫真のルポである。

  驚くべきことに、一九九九年の時点で、デンマークには児童性愛者協会という愛好者団体があった。彼らは集会の自由を楯にとって、公然と活動をしており、その目的は「子どもと成人間の性的関係に対しての世間一般の偏見を取り除くこと」とされていた。テレビジャーナリストのヤコブ・ビリングは、みずから児童性愛者になりすまし、上着の下に録音機材を忍ばせて、会合に潜入取材をはじめる。

  七・八歳の少女の性交写真を入手したヤコブは、その少女がどこの誰なのかを追跡しはじめる。やがてヤコブは、その少女がスウェーデンに住んでいたモニカであることを突き止める。ヤコブはモニカの母親に会い、ついにモニカ自身のインタビューに成功する。モニカの性交写真を撮っていたのは、モニカの実の父親なのであった。

  いまや大人になったモニカは、息子がいるのだが、自分が息子を愛しているかどうか確信が持てないと言う。なぜなら、モニカ自身が親から愛された経験がないので、愛とは何なのかが理解できないのだ。だから、自分の息子に対する感情が愛なのかどうか、分からないと言うのである。モニカは過去の出来事をすべて忘れて社会の片隅でひっそりと生きようとしているが、実際には、いままで一度も過去が脳裏から離れたことはないと告白する。

  隣国ベルギーでは、少女九人を誘拐殺害した男が、昨年逮捕された。欧州を舞台としたこの種の犯罪はあとを断たない。本書を読むと、児童性愛者のターゲットは、いまやインドなどの途上国の子どもへと向けられていることが分かる。東南アジアに少女を買いに行くのは日本人だけかと思っていたら、そうでもないようだ。

  このように、児童性愛者たちの生態がよく描かれている反面、彼らの内面の分析が充分になされているとは言い難い。だが、この問題を考えるうえでの必読書であることは間違いないだろう。

  この本を読んで分かるのは、児童性愛者たちが、自分の欲望しか考えてないということだ。相手の子どもたちには、彼らなりの感情や、よろこびや、苦しみや、希望があるということを、児童性愛者たちは分かろうとしない。相手を自分の都合のよいように扱いながら、「向こうも望んでいたんだから」という理由で自分の行為を納得させようとする。

  それにしても、幼い子どもに「性的に」関わりたいという欲望は、いったいどこからくるのだろうか。レイ・ワイアとティム・テイトの『なぜ少女ばかりねらったのか』(草思社 一九九九年)では、少女に生まれたかったと述懐する児童性愛者が登場するが、このような視点からこの問題を読み解く必要があるのかもしれない。

  奈良の事件のように殺害にまで及ぶのは病理的だと考えられるが、ネットには子どもや女性の死体写真があふれている。それらを見ているのは普通の一般市民であるはずだ。幼い子どもに性的に関わって、傷つけてみたいという欲望は、実は、仮面をかぶった市民の心の底に、広く染み渡っているのかもしれないと私は思うのである。

-------------------------------------------------------

◆森岡正博の書評ページ(森岡執筆の書評一覧があります)

http://www.lifestudies.org/jp/shinano01.htm

◆森岡正博の生命学ホームページ

http://www.lifestudies.org/jp/

2007-03-30

[]ビル・マッキベン『人間の終焉』河出書房新社

人間の終焉

人間の終焉

2005年10月16日新潟日報ほか(共同通信)掲載

評者:森岡正博 (http://www.lifestudies.org/jp/)

 いま生命倫理の最先端では、驚くべきことが議論されている。遺伝子操作やクローンなどの技術を使って、生まれてくる赤ちゃんを親の思い通りに改造してもいいかどうかがホットな話題になっているのだ。

  たとえば、IQ(知能指数)を高くする遺伝子が分かったら、赤ちゃんが受精卵のときにその遺伝子を注入しておけば、頭のいい赤ちゃんが生まれてくるようになるかもしれない。美しい顔やスタイルをもった赤ちゃんを遺伝子操作で作れるようになったら、その誘惑に勝てる親は、どのくらいいるのだろうか。

  本書は、将来確実に訪れるこれらの先端技術に対して「そんなものは要らない!もう十分だ!」と訴える。先進国の科学文明は、もうこれ以上進歩させても、人間の幸福には必ずしも結びつかないところまで来ている。だからいま必要なのは、欲望をどんどん肥大させることではなくて、与えられたものを歓待し、その中で生きる意味を見出すことではないかと言うのである。

  このような「脱欲望」の勧めが、米国民には容易に通じないであろうことを著者は自覚している。しかしそのうえで、著者は、先端技術による子どもの改造が、子どもたちにより多くの自由と選択肢を与えるのではなく、その逆に、多くの子どもたちから人生の選択の自由を奪い、生きる意味の創造を奪っていくということを、説得力をもって示すのである。

  だから試されているのは、結局のところわれわれの知恵なのだ。寿命をどんどん延ばすこと、能力をどんどんアップさせること、生命を自由自在に操ること。それは人生にとってどのような意味をもつのか。本書を読むと、これらの根源的な問題を考え込まざるを得なくなる。

  本書はこのような哲学的な問いによって貫かれているが、文体は良い意味でジャーナリスティックであり、生命倫理の最新の議論もほどよく取り込まれている。現代がどのような時代なのかを知るための格好のテキストだと言えるだろう。

-------------------------------------------------------

◆森岡正博の書評ページ(森岡執筆の書評一覧があります)

http://www.lifestudies.org/jp/shinano01.htm

◆森岡正博の生命学ホームページ

http://www.lifestudies.org/jp/

[]茂木俊彦都立大学に何が起きたのか』岩波ブックレット

都立大学に何が起きたのか 総長の2年間 (岩波ブックレット660)

都立大学に何が起きたのか 総長の2年間 (岩波ブックレット660)

2005年10月9日熊本日々新聞掲載

評者:森岡正博 (http://www.lifestudies.org/jp/)

 ここ数年の大学の変わりようには、ほんとうに目を見張るものがある。私は、大阪府が設置した大阪府立大学に勤務しているのだが、わが大学も今年から法人化された。法人化されると、大学は大阪府の下部組織ではなくなり、教員も地方公務員ではなくなる。大阪府の予算に頼り切っているわけにはいかない。のんびりしていたのでは、大学が経済的に潰れてしまうから、学生が殺到するような面白い大学に変えないといけなくなった。

  カリキュラムも大幅に変更したし、学生の意見をなるべくたくさん吸い上げるための方法をいま探しているところだ。これらは、大学を法人化することのメリットだと言える。

  ところが、関東の公立大学の代表的存在である東京都の都立大学が、法人化によってひどいことになっているという噂が、大学関係者のあいだに流れていた。その真相は謎に包まれていたが、とうとう当時の総長が、都立大学法人化の過程をあばく本を出版した。これは、大学の法人化が裏目に出たときに、いったいどういうことになるのかを見事に描いたタイムリーな本である。組織がどのようにして活力を失っていくのかを知りたいすべての読者に読まれるべき本であろう。

著者によれば、都立大学をどのように改革していけばいいかについて、教員たちは何度も会議を重ね、青写真を作っていた。ところが、都庁はその青写真をまったく無視した独自の改革案を総長に示し、「これに対して疑問を呈したり意見を言ったり」せずに、都の方針に沿って改革をするべしと命じたのだった。都立大学の改革は、かくして、都庁からの完全なトップダウンによってスタートしたのである。

  総長は、都庁のトップダウンのやり方に疑問を覚え、すぐさまそれを批判する「総長声明」を発表する。都庁はこれにあわてるが、さらに上からの締め付けを行なってくるのである。都庁は大学側に文書を送り、その中で、「改革である以上、現大学との対話、協議に基づく妥協はありえない」と宣言し、改革を批判する人たちは新大学に参加すべきでないと言明したのである。

  かくして、都庁側と大学側の対立は、最悪のものとなった。都立大学は東京都の組織なのだから、都庁の方針には従うしかないのだ。都庁はそれをいいことに、都立大学を、「都政のシンクタンク」と「産業界への奉仕」のための大学に作り替えようとする。その方針に反対の者は、どうぞ出ていってくださいというわけなのだ。実際に、経済学者たちは大学を去り、この大学からは経済学コースがなくなってしまった。

  都立大学は、その名称を「首都大学東京」(これもトップダウン)に変更して再スタートした。著者は、旧都立大学の式辞で次のように述べる。「もちろんトップダウンは、どんな場合にも誤りだというのではありません。しかし、ボトムアップをいっさい位置づけないトップダウンは、どこかで行き詰まります」。そしてこれこそが、都立大学で実際に起きたことだったのだ。

  著者はさらに言う。下からの意見が無視され続けると、人々は「もう何を言っても無駄だ、決めるのは自分ではなく、他の誰かが決めるのだ」という心境になり、だんだんと無口になり意欲を削がれていく。都立大で積み上げられてきた青写真が、都庁によって一蹴されたときに、教員たちが感じたものは、きっとこれだったに違いない。

  ボトムアップの支持があったうえでのトップダウンでなければならない。このような単純な知恵が、大学という知の殿堂において、まったく生かされなかった。もちろん都庁側は、別の言い分をもっていることだろう。だが、大学教育の現場を担う教員たちのトップが、ここまで批判的な物言いをするという事実を、行政は重く受け止めないといけないだろう。組織を運営する者は、これを他山の石とすべきであると私は思う。

-------------------------------------------------------

◆森岡正博の書評ページ(森岡執筆の書評一覧があります)

http://www.lifestudies.org/jp/shinano01.htm

◆森岡正博の生命学ホームページ

http://www.lifestudies.org/jp/

[]ドナルド・リチー『イメージ・ファクトリー 日本×流行×文化』青土社

2005年9月25日東京新聞掲載

評者:森岡正博 (http://www.lifestudies.org/jp/)

 コギャル、ケータイ、コスプレ、マンガ。いまの日本を覆っているこれら不可解な現象を、日本通の欧米系外国人が見たら、どう感じるのか。それを知るために最適の本が刊行された。著者のドナルド・リチーは、日本映画の評論などで著名な米国のジャーナリストであり、東京で流行しているファッションやアイテムなどには、異様に詳しい。

  どの国にも流行の波はあるが、日本の特徴はその移り変わりのスピードが非常に速いことである。瞬間着せ替え人形のようなそのふるまいを丹念に解析していくことによって、日本人の文化的伝統や、コミュニケーション回路があらわになる。その分析の鮮やかさによって、本書は出色の比較文化論となった。

  たとえば「パチンコ」の章を見てみよう。リチーによれば、外国人が日本のイメージを考えるときに思い浮かべるのは、もはやフジヤマやゲイシャではなく、カラオケ屋やパチンコ屋であると言う。なかでもパチンコは、人々が黙々と機械に対面している姿が異様であり、まったく理解しがたい娯楽である。しかしリチーは、パチンコに興じる日本人たちは、パチンコに支配されて自己を忘却することによって、逆説的に自己から解放されるのであり、その意味で座禅のような宗教的行為に似たものとなっていると指摘する。

  もちろん座禅と違って、パチンコは対処療法でしかないが、あの騒々しく猥雑な空間に座禅的解脱を見出そうとするのは、この著者ならではの視点だろう。ただし、著者自身が述べているように、これは一種の「反語」なのかもしれない。すなわち、パチンコ屋の中にすら「ZEN」を見出したいとする欧米的オリエンタリズムに対する、身をもってのアイロニーかもしれないのである。

  このようにたいへん刺激的な本なのだが、一点言わせてもらえば、マンガやコスプレに対してはもっと愛情を持って接してほしかった。今後の仕事に期待したい。

-------------------------------------------------------

◆森岡正博の書評ページ(森岡執筆の書評一覧があります)

http://www.lifestudies.org/jp/shinano01.htm

◆森岡正博の生命学ホームページ

http://www.lifestudies.org/jp/

[]宮地尚子『トラウマの医療人類学』みすず書房

トラウマの医療人類学

トラウマの医療人類学

2005年8月14日熊本日々新聞掲載

評者:森岡正博 (http://www.lifestudies.org/jp/)

 「トラウマ」というのは、心の奥深いところに刻み込まれた傷のことだ。それはなにかの拍子にうずきだして、忘れたかと思っていた過去の記憶を鮮明に浮かび上がらせたり、原因不明の体調不良を起こさせたりする。「トラウマ」という言葉は、日本では阪神淡路大震災をきっかけに広く使われるようになった。地震の恐怖を夜中に思い出して、ベッドから飛び起きる人も多いと聞く。

  だが、トラウマ研究によれば、もっとも深刻なトラウマは、地震や事故のように一回切りで終わった出来事によるものではなく、成長の過程で何度も何度も繰り返された暴力や虐待によるものなのだ。そのもっとも悲惨な例が、子どものときに経験した性的虐待である。親や親戚などから繰り返し性的虐待を受けた子どもは、自分が自分であるという感覚を失い、自分が存在していてもいいという安心感を根こそぎ奪われ、自分のこころを自分の身体から切り離したり、多重人格になったりすることもある。

  宮地尚子さんの『トラウマの医療人類学』は、繰り返される暴力や虐待が、人間をどこまで追いつめていくのかについて、あらゆる角度から迫ったものである。宮地さん独自の斬新な切り口は、読む者の目を充分に開かせる迫力をもっている。

  「私のトラウマは××なんですよ」と言う人がいるが、宮地さんはそれに疑問をはさむ。なぜなら、そもそもトラウマとは、本来言葉にならないものだからである。性的虐待を受けた者、悲惨な戦地から帰還した者、慰安婦として働かされた者、彼らはみずからのトラウマを語ろうとはしない。それをあえて語ろうとしても、肝心のところで言葉は詰まり、断片的な叫び声やうめき声が漏れてくる。そのときに彼らは、みずからの底なしのトラウマと出会っているのである。

  そのときに、その声にならない声を目の前で聴いてしまった「私」というものが、実は試されることになる。私が敏感であればあるほど、私は揺らいでしまう。宮地さんは、自分の揺らぎを隠蔽することなく、むしろそのような揺らぎの中で、人間を支えていこうとするプロセス全体が、真の精神医学・医療ではないかと主張しているように見える。宮地さんはそのように明言してはいないが、しかしそれが彼女のメッセージであるように私には思われた。

  そのような問題意識のもと、宮地さんは子どもへの性的虐待がもたらすトラウマの深みへと分析を進めていく。まず最近の統計研究が紹介されているが、これは驚くべき結果である。一九九五年から九七年にかけて、米国の一万七千人を対象にして研究が行なわれた。性的虐待を受けた経験があるのは、全対象者の二〇%である。子ども時代に虐待を受けた人は、のちに肺疾患、癌、糖尿病などにかかる危険性が何倍にも増大することがわかった。さらに彼らの自殺企図の三分の二から八割程度が子ども時代のトラウマと関連するという。一〇代での妊娠経験率も見事な相関関係を描く。母数の多さから言って、信憑性が低いとは思いにくい。

  子ども時代の性的虐待は、このような身体症状として出るだけではなく、大きな精神の傷となってその人間を苦しめる。「お父さんと性的経験をもってしまった私」という意識は、自分自身の内部に「おぞましい」虫のようなものが潜んでいるという感覚を植え付ける。自分自身が、絶え間のない恐怖の対象になってしまうのである。私を苦しめたあの人が、いまなお私の内部で生き続けている、という感覚を日々感じながら生きていくというのは、閉塞したやりきれない経験だろう。

  そのトラウマを、人は言葉に出すことができない。出そうと試みても、それをそのまま受け止めてくれる安全な場所はどこにもない。これがトラウマをかかえた人間の心象風景なのだ。解決の糸口を探るためにも、ぜひ本書を読んでみてほしい。

-------------------------------------------------------

◆森岡正博の書評ページ(森岡執筆の書評一覧があります)

http://www.lifestudies.org/jp/shinano01.htm

◆森岡正博の生命学ホームページ

http://www.lifestudies.org/jp/

[]内田隆三『社会学を学ぶ』ちくま新書

社会学を学ぶ (ちくま新書)

社会学を学ぶ (ちくま新書)

2005年6月12日熊本日々新聞掲載

評者:森岡正博 (http://www.lifestudies.org/jp/)

 大学の文系の学部に入った学生が、まっさきに惹かれるのは、人間の心を探る「心理学」と、人々のふるまい方を探る「社会学」だろう。実際、私の勤める大学でも、この二つの学問の人気はとても高い。

  社会学というと、街に出て実際に人々の行動を調べたり、アンケート調査をして分析したり、じっくりとインタビューして人々の意識をあぶりだしたりするのが定番のやり方だし、学部の卒論などはそのような手法で書かれたものがいちばん多いと言える。このような実証的な調査と、そこから見えてくる「意外性」をもった結論が、いわば社会学の華である。

  ところで、社会学にはもう一つの系譜がある。それは、私たちの社会の全体が、どういうふうにできているのかを、理論的に探究するものである。古くは、カール・マルクスが行なった資本の分析などがそれに当たる。社会の全体はどのような仕組みで動いているのか、それは私たちの意識にどんな影響を与えているのか、そしてそもそも「社会」とは何なのか。このような問いに対して、見事な見取り図を与えてくれるのが、内田隆三さんの新著『社会学を学ぶ』である。このような深みをもった書物が、手軽な新書で刊行されたことを喜びたい。

  内田さんの問題意識は一貫している。私を取り巻く大海のような社会のうごめきと、その中に飲み込まれて生きるこの私という主体は、どういうふうにつながれてしまっているのか。それを軸にして、一九世紀から二〇世紀末に至る、現代社会学の思考の流れを、クールに鷲掴みにした。

  社会学の始祖のひとりは、デュルケームだが、彼は『自殺論』という本を書いた。その中で彼は、経済的な危機のときに自殺者が増えるだけではなく、好景気でその恩恵を受けるはずの人でもまた、自殺率が高くなるという事実を発見している。さらには、離婚によって男性の自殺率は高くなるのに、女性はむしろその逆になるという。このような逆説は読んでいて楽しいが、内田さんはデュルケームの見出したもっとも重要なことは、次の点であると言う。つまり、「自殺」という個人の心のもっとも深淵で起きる出来事に、「景気」や「結婚制度」というような社会のあり方が、決定的な影響を与えているということである。それが統計で示されるのである。

  つまり、これを私の言葉で言い換えれば、社会学とは、私が最後の砦として守り通しておきたい「心の内面=主体」にまでずかずかと土足で入ってきて、「実は君の内部には、内面などという神聖なものはないんだよ」「内面とは結局のところ、君を取り巻く社会によって作り上げられた虚構にすぎないんだよ」と暴いてみせる知的な営みだということになる。このような暴力性が切り開く、まったく新しい知の地平こそが、現代の社会学の真骨頂なのである。

  内田さんは、その結果、「現代社会が主体の意識に還元できないものから成り立っているのではないかという不安の意識」が、二〇世紀の社会学の中に生み出されてしまったと言う。その傾向は、ルーマンやボードリヤールらの社会システム論によって極限にまで進められる。そこでは、社会というのは、私たち個人とはほとんど無関係に、それ自身の論理で芋虫のようにうごめいて巨大に成長していく、超生命のようなものとされるのである。

  もしオーソドックスな哲学者がこの本を読んだら、とても苛立たしく感じてしまうだろう。なぜなら、人間の心の中にある「主体」の「尊厳」などというものは、結局は虚構でしかないと宣言されているような気がするからである。しかしそれは哲学者の奢りだ。これら社会学の成果をきちんと踏まえたうえで、もう一度、人間存在について思索しなおさないといけないはずだ。そのための手がかりを与えてくれる好著である。

-------------------------------------------------------

◆森岡正博の書評ページ(森岡執筆の書評一覧があります)

http://www.lifestudies.org/jp/shinano01.htm

◆森岡正博の生命学ホームページ

http://www.lifestudies.org/jp/

2007-03-29

[]上川あや『変えてゆく勇気−「性同一性障害」の私から』岩波新書

変えてゆく勇気―「性同一性障害」の私から (岩波新書)

変えてゆく勇気―「性同一性障害」の私から (岩波新書)

2007年3月18日熊本日々新聞掲載

評者:森岡正博 (http://www.lifestudies.org/jp/)

 この本の著者である上川あやさんは、「性同一性障害」をもった世田谷区議会議員である。上川さんの場合、ものごころついたときから、自分の男の身体に大きな違和感を抱いていた。自分の心の性は女なのではないかと気づいたときに、上川さんの人生は変わりはじめる。

 当時の法律では、生まれたときに登録した戸籍の性別を、あとから変更することはできなかった。だから、たとえ女性としての心を持ち、女性らしくしているときがもっとも自己肯定でき、女性らしい外見をしていても、法律上は男性のままでいつづけなくてはならなかったのである。

 これでは、まともな社会生活を営むことすら難しい。たとえば、投票所の入場券には法律上の性別表記があるので、替え玉投票を疑われてしまう。役所でもトラブルが絶えないし、住民票の性別と実際の外見が異なるから、住む部屋を借りることもままならない。病院にかかることすら躊躇するという。

 ところが世間には、いまだに、「趣味で女装しているのだから仕方ないじゃないか」「たかがそれだけのことでどうして法律を変えないといけないのだ」という声も多いのである。上川さんはそういう世間の声に押しつぶされそうになりながら生きてきた。自分は自分の心を女であるとしか思えないし、女の姿をしているときがいちばん安らぎに包まれるのに、世間で生きていくときには男の肉体で、男の服を着て、男のふるまいや慣習を身につけていかなくてはならない。身体と心のあいだで引き裂かれるつらさを、世間の人々はなかなか分かってくれなかったのである。

 二〇〇三年、上川さんは一大決心をして、世田谷区議選に立候補した。そして、ストレートヘアに赤いスーツを着て街頭に立ち、「おはようございます。私の戸籍は男性です」と第一声をあげたのだった。最初は友人たちのスタッフしかいなかったのだが、選挙活動を続けるうちに、しだいに陰から応援してくれる人々も多くなり、ついに当選した。

 上川さんは、戸籍の性別を変更できるようにするために、仲間たちといっしょに、国会へと働きかけることにした。ちょうど国会では、性同一性障害者の性別変更を可能にする議員立法が準備されているところであった。旧守的な議員や、無知な議員も多くいたが、法案に関心を持つ議員はおおむね好意的であった。しかしここで、上川さんたちは大きな問題に直面することとなる。

 用意されていた法案には、「性同一性障害者に子どもがいないこと」という条件が付けられていたのである。これは当事者たちにとっては大問題だ。社会の中でいままで性同一性障害というものが認知されてこなかったわけだから、すでに結婚して子どもをもうけている当事者もたくさんいたからである。

 上川さんたちは決断を迫られた。「子どもがいないこと」という条件は呑めないとして理想論を貫くか、それとも法案成立を最優先にして妥協するのか。上川さんたちは、法案成立を優先した。苦渋の選択であった。そのかわりに、これら点を含めて三年後に法律を再度見直すという附則が、法律に書き込まれた。

 上川さんは、最初から政治家を目指していたわけではない。大学卒業後、男性あるいは女性として普通の会社に勤めていた一般人である。その上川さんは、しかし自分の中に存在する「小さな声」に誠実な人間だった。世間に押しつぶされてしまうような小さな声を、それでも勇気を出して、人々に伝えていこうとした。そのプロセスの中で、同じように声を上げにくい人々と出会い、彼らと共感的に触れあいながら、社会を変える営みへと一歩を踏み出していったのである。

 区議となった上川さんは、外国人への行政援助、オストメイト、失語症会話パートナーなど、声になりにくい声を拾い上げる試みを続けている。ここにあるのは、国を憂うといったような大所高所の視線ではなく、むしろそのような視線によって見えなくされていってしまう人々の「生きづらさ」を、ていねいに拾いあげてこようとする姿勢である。ジェンダーに興味のある人だけではなく、生き方に迷っている若者にぜひ読んでほしい本だ。

-------------------------------------------------------

◆森岡正博の書評ページ(森岡執筆の書評一覧があります)

http://www.lifestudies.org/jp/shinano01.htm

◆森岡正博の生命学ホームページ

http://www.lifestudies.org/jp/

[]ウィトゲンシュタイン著『ウィトゲンシュタイン哲学宗教日記』講談社

2005年12月18日熊本日々新聞掲載

評者:森岡正博 (http://www.lifestudies.org/jp/)

 ウィトゲンシュタインは、オーストリア生まれの哲学者で、二〇世紀の哲学に大きな足跡を残した、きわめて特異な人物である。まず、二〇代の終わりに、『論理哲学論考』という書物を著わして、自分は哲学の問題を最終的に解決したと宣言した。つまり、いままで哲学の難問だと思われていたものは、言葉を正しく使用しなかったがために生じてしまった偽の問題だと言うのだ。そして彼は、言葉によって「語れるもの」と、「語り得ぬもの」を区別し、「語り得ぬものについては沈黙しなくてはならない」と結論づけた。

  この「語り得ぬもの」とはいったい何なのか、彼は明確にしていない。それは「宗教」や「倫理」のことだと思われるが、ウィトゲンシュタインはそれらについて、まさに沈黙を貫いているように見える。いままで刊行されてきた著作集でも、倫理や宗教については断片的にしか述べられていなかった。

  ところがである。一九九三年に、ウィトゲンシュタインが親しい知人に預けていた、個人的な日記が「発見」されたのである。それはドイツ語で一九九七年に出版された。その邦訳が本書『ウィトゲンシュタイン哲学宗教日記』だ。驚くべきことに、この中で、彼は新約聖書について、倫理について、自分の生き方について、溢れるばかりの情熱をもって語っている。そればかりではなく、宗教や倫理や生き方への熱い熱情が基盤となって、後期の「言語ゲーム」を中心とする新たな哲学が立ち上がってきたことが、この日記からありありと読み解けるのだ。

  この本の出版によって、いままでのウィトゲンシュタイン像は、大転換を迫られることになるだろう。これからのウィトゲンシュタイン研究は、彼の内面のドラマを抜きにしてはもう前に進まなくなると思われる。そのくらい破壊力の強い本なのである。この日記を書いていたとき、ウィトゲンシュタインは四一歳から四八歳だ。若気の至りで出版してしまった『論理哲学論考』への悔悟の念と、しかし自分の哲学はまちがってはいなかったという自負、そのあいだをただおろおろと右往左往する哲学者の内面が、はげしく綴られている。

  彼は自分の原稿をぜんぶ燃やしてしまうべきだという衝動に何度も駆られる。彼は言う。「あらゆる戦闘は自分自身との戦闘」である。「決して自分を欺こうとしないこと、これを我に堅く守らせよ」。「正しく生きるためには、私は自分に心地よい生き方とはまったく違ったように生きなければならないだろう」。「生きるとは恐ろしいほど真剣なことなのだ」。これが二〇世紀を代表する論理哲学者の言葉なのか。

  彼が一貫してこだわっているのは、自分自身の「生き方」である。どのように生きればいいのか、それは、死ぬときに「あれさえやっていれば!」と後悔しないように生きることだ。「お前がよく死ねる、そのように生きよ!」本当の死とは、生から光の輝きが失われた状態で、生きたまま死んでしまうことである。そのようなことを刻みながら、ウィトゲンシュタインは新約聖書を読みふける。自分は病気だ、狂気だと叫びながら、聖書と対峙する。

  その苦しみの中から、ウィトゲンシュタインは「語り得ぬものへの沈黙」ではなく、生を生きる者の「叫び」を発見していくのである。彼は言う。「痛い」という言葉は「痛みの叫びとしてでなければ何の意味ももたない」のである、と。言葉の意味はその使用であるという、「言語ゲーム」の哲学は、このような大転換から生み出されたのであった。「痛い」とは、「痛い」というふうに生きることであり、それを見たわれわれが「どうしたの?」と駆け寄ることであり、それらのすべてのプロセスが言葉の意味となってつながっていく。「言語ゲーム」という言葉はクールに聞こえるが、その背後には、「真実の生を生き切って死にたい」という、切羽詰まった叫びが押し込められていた。革命的な哲学の秘密が、この日記の中に脈打っているのである。

-------------------------------------------------------

◆森岡正博の書評ページ(森岡執筆の書評一覧があります)

http://www.lifestudies.org/jp/shinano01.htm

◆森岡正博の生命学ホームページ

http://www.lifestudies.org/jp/

[]宮台真司・北田暁大『限界の思考』双風舎

限界の思考 空虚な時代を生き抜くための社会学

限界の思考 空虚な時代を生き抜くための社会学

2005年12月4日岐阜新聞ほか(共同通信)掲載

評者:森岡正博 (http://www.lifestudies.org/jp/)

 トリッキーな言論で話題を振りまく社会学者の宮台真司と、新進気鋭の北田暁大が、がっぷりと四つに組んでしゃべりまくった対談である。二人は、互いの発言を横目で見ながら、自説を怒濤のように展開する。このドライブ感を楽しめるかどうかが分かれ目だが、評者は多くの知的刺激を受けながら読み進めることができた。

  まず北田が、宮台の思想的転向はほんとうにそれでよいのか、と詰め寄る。宮台は、かつてはブルセラ制服少女の生き方を称揚し、意味なんか求めずに、今をまったりと生きようと主張していた。ところが最近の宮台は、普通の人たちが、意味なきまったりとした日常をまともに生きるのは不可能だから、彼らが暴走しないでいられるような「何ものか」を、彼らに与えてあげなくてはならないと言いはじめている。そしてこともあろうに、「天皇」とか「亜細亜主義」を持ち出している。これはいったいどういうことか?と北田は問うのである。

  これに対して宮台は、人間を「バカ」と「バカでない者」に分け、自分の言う「天皇」「亜細亜主義」の言説は、「戦後バカ右翼」や「バカ右翼になってしまいそうな若人たち(笑)」に向けられているのだと主張する。宮台の推奨するステップをきちんと踏んでいけば、彼らが超越的なものに自己同一=依存して暴発するのを、防ぐことができるはずだ。そしてこの「右翼的」感性の底辺にきらめいている、世界の「根源的未規定性」への「開かれ」へと接続できるはずだと言う。

  これに対して北田は、無意味に耐えられない人々に何かの処方箋が必要なのは認めるが、それが「天皇」「亜細亜主義」である必然性はどこにもないのではないか、と反論する。そして逆に、「世界の無意味さ」を語り続け、それへとコミットし続けていくことのほうが大事じゃないのか、と訴える。

  世界を語り尽くそうというオブセッション(強迫観念)が気になるが、現代社会学の先端を味わいたい読者には格好の対談と言えるだろう。 

-------------------------------------------------------

◆森岡正博の書評ページ(森岡執筆の書評一覧があります)

http://www.lifestudies.org/jp/shinano01.htm

◆森岡正博の生命学ホームページ

http://www.lifestudies.org/jp/

[]本田透『萌える男』、森本卓郎『萌え経済学』

萌える男 (ちくま新書)

萌える男 (ちくま新書)

萌え経済学

萌え経済学

2005年11月27日中日新聞・東京新聞など掲載

評者:森岡正博 (http://www.lifestudies.org/jp/)

 ここのところ、「萌え」がブームである。少し前までは、「萌え」などという言葉が大新聞の記事にでかでかと載るなんて、考えられなかった。それがいまや「萌え」を知らないと時代に乗り遅れる、というわけなのである。「萌え」とは、そもそもマンガ・ゲームおたくの男たちが使いだした言葉で、フリフリのお洋服を着た幼女っぽいマンガのキャラクターに、心をときめかせている風情のことを言う。

  森永卓郎の『萌え経済学』の表紙を見てみよう。そこには、ケータイをもってウィンクしている幼女の萌え絵が大きく載っている。この女の子のミニスカからは白パンツがもろに見えている。これが、「萌え」のひとつの典型例だと言えるだろう。こうした「萌え」キャラが、いまや巨大なマーケットとなって世界を席巻しようとしている。関連グッズは海を越えて大量販売され、萌えアニメ、コスプレなどはもはや世界的な文化になってしまった。

  森永の本は、いま日本の産業社会が「萌え」をどのように受容しようとしているかを知るのに最適である。だが、この本はあくまで「萌え」を外部から取材したものであり、「萌え」の内面にまでは迫っていない。「萌え」とは、もっと屈折した、暗い情念によって支えられているのではないだろうか。

  その点を真摯に解明しようとしたのが、本田透の『萌える男』である。本田は一九六九年生まれであり、「萌え」の成立を肌身で体験してきた真性おたく男だ。この本では、ユニークな仮説が提示されている。本田の説をもって、「萌える男」すべてが理解できるとは思えないが、何かの糸口は与えてくれるはずだ。

  本田は言う。「萌え」とは、かわいいマンガ・アニメ・ゲームなどのキャラクターに対して、「脳内恋愛」することである。現実の生身の美少女に片思いするのではなくて、二次元の絵柄や、アニメの動画などに対して強烈に片思いし、そのキャラと脳内で対話し、恋愛関係を夢想し、そうやって脳内で癒やされていくことなのだ。

  それが突き進んでいくとどうなるかと言えば、自分自身が、その「萌えキャラ」の少女になりたいと思うようになる。この三次元の男の体を脱ぎ捨てて、「萌えキャラ」に自己同一化しようと欲するのである。本田の言葉を使うと、「萌える男自身の萌えキャラ化」が、「萌え」の最終的な目標となるのだ。それによって、「萌える男」は、自分自身の「男性性」から解脱することができる、と本田は言う。つまり、男である私から抜け出して、架空の少女の体を身にまとうこと、これが「萌え」の本質だと言うのである。この作業は、すべて脳内でなされる。

  評者にとって、このセオリーは非常に納得のいくものであった。というのも、評者は『感じない男』で、ロリコンや制服フェチの心理を、男である私を抜け出して、美少女の体に乗り移りたいという欲望として分析したことがあるからだ。評者自身は、二次元キャラへの「萌え」は、いまひとつ実感できない人間なのだが、二次元キャラの場合でも同じような心理メカニズムがあるのだとしたら、これは大きな発見だと言える。

  ここにはさらに大きな問題が伏在しているように思える。つまり、本田や評者の仮説が正しいのだとしたら、それは、現代の男たちの中に、「この男の体から抜け出したい!」「自分の男性性を捨てたい!」という切実な叫びが広がり始めているということを意味するからである。「萌え」は、ジェンダー論、セクシュアリティ論、男性学の視点から考察しなければならないということになる。これはまさに最先端の研究テーマになるだろう。

  本田はさらに、「萌える男」が目指すものは、「純愛」の復権であり、「家族」の復権であると主張する。なぜなら、萌え系PCゲームの世界では、「家族萌え」とでも呼ぶべき潮流が始まっており、もしこの流れが進んでいくとすれば、その先にに開かれてくるのは、家族が家族に対して「萌え」感情を抱きながら、適切な距離をとってお互いに慈しみ合う、平和で優しい家族共同体の姿だからである。これはまことに意表をつく意見である。

  「萌え」について考えるための好著であった。 

-------------------------------------------------------

◆森岡正博の書評ページ(森岡執筆の書評一覧があります)

http://www.lifestudies.org/jp/shinano01.htm

◆森岡正博の生命学ホームページ

http://www.lifestudies.org/jp/

[]マーガレット・ロック『更年期』みすず書房

2006年11月6日日経新聞掲載

評者:森岡正博 (http://www.lifestudies.org/jp/)

 四〇代から五〇代にかけて、女性には閉経が訪れる。そのときに、女性たちは何を感じ、何を考えるのだろうか。医療人類学者、マーガレット・ロックは、その問いを探るために日本にやってきた。彼女はカナダの大学で教える研究者だが、なぜ日本にやってきたかというと、この点について、北米と日本の女性の相違を調べるためなのであった。

  彼女は日本で精力的に面接調査を行なう。まず最初に彼女が発見したことは、閉経(メノポーズ)に伴う「のぼせ」「急な熱感」を訴える女性が異様に少ないことであった。北米では、閉経時の「のぼせ(ホット・フラッシュ)」を約七五%の女性が経験したと答えるのに対し、日本では約二五%に過ぎない。どうしてこういう差が生まれるのだろうか。

  それは、閉経を単なる生物学的な現象に還元しがちな北米に比べて、日本ではそれを更年期という「避けがたい老化現象の一部」として、広い文脈で捉える傾向があるからだ、と彼女は言う。そして日本女性の、そのような経験のリアリティを確かめるために、壮大な聞き取り調査を行なったのであった。その結果は本書に詳細に述べられているが、日本女性の口から語られる経験の厚みや多様性は感動的である。

  日本女性たちは、閉経という出来事を糸口として、自分たちのいままでの人生のこと、家庭の中での女性の役割、自己犠牲を期待されてきたいきさつなどを、とうとうと語りはじめる。夫との関係、働く女性としての悩み、親の介護、女として生きていく建前と本音。更年期という切り口から、日本女性たちの生のリアリティが溢れ出てくる。

  北米では、ホルモン治療によって、閉経後も「女」として自己実現しようという流れが強いが、著者はそれには疑問を投げかける。著者が日本女性から学んだことのひとつは、老いをいかにして肯定的に生きるかということだったからである。急速に米国化しつつある現在の日本社会に対する、辛辣な批評としても読める好著である。もちろん医療人類学の成果としても秀逸である。 

-------------------------------------------------------

◆森岡正博の書評ページ(森岡執筆の書評一覧があります)

http://www.lifestudies.org/jp/shinano01.htm

◆森岡正博の生命学ホームページ

http://www.lifestudies.org/jp/

2007-03-28

[]原宏之『バブル文化論』慶應義塾大学出版会

バブル文化論―“ポスト戦後”としての一九八〇年代

バブル文化論―“ポスト戦後”としての一九八〇年代

2006年6月25日東京新聞掲載

評者:森岡正博 (http://www.lifestudies.org/jp/)

 一九八〇年代に青春を過ごした者にとって、けっして見過ごすことのできない本が刊行された。あの時代の東京を生きた若者たちは、何か異様な明るさと戯れていた。サザンを聴き、雑誌片手に渋谷を闊歩していたかつての若者たちは、いまこの本をどのように受け取るだろうか。

  著者は、一九七〇年代に「社会の学校化」がひととおり完成したと見る。その結果、他人との差異に敏感で、心の不安を埋めるための消費にとりつかれた若者の群れが生み出された。彼らは、『ポパイ』などの雑誌によって仕掛けられた「いま・ここ」のナウい情報をいちはやく消費し、つねに流行に乗り続けていくというライフスタイルを生み出した。

  それに対応するようにして、雑誌メディアでは、田中康夫らが、絢爛たる「どこにもない東京」を創作しはじめた。読者たちは、実在の東京という街に、それらヴァーチャルな表象を二重写しにして、都市を理解しはじめたのである。しかしながら、そのような都市を浮遊する「わたし」という存在は、「どのような服を着ているのか」とか、「どのようなスポットを歩いているのか」などの外部情報によってしか規定され得ない、交換可能な歯車のようなものになってしまった。

  そのような自己意識を明るく肯定したのが「渋谷系」の若者たちである。そしてその背面において屈折した形で登場したのが「おたく」であった。渋谷系とは、仕掛けられた流行に乗って自分の個性を明るく消した者のことであり、おたくとは、個性的であることを暗い形で選択した者のことである。バブル後の九〇年代はおたくの時代となる。

  著者は、フジテレビのドラマや、サブカルチャー資料を駆使しながら、八〇年代とは何だったのかを細密に描こうとしている。あの時代を、現在の視点から再創造する貴重な試みとして、楽しく読むことができた。

-------------------------------------------------------

◆森岡正博の書評ページ(森岡執筆の書評一覧があります)

http://www.lifestudies.org/jp/shinano01.htm

◆森岡正博の生命学ホームページ

http://www.lifestudies.org/jp/

[]江畑謙介『情報と戦争』NTT出版

情報と戦争 叢書コムニス02

情報と戦争 叢書コムニス02

2006年5月14日熊本日々新聞掲載

評者:森岡正博 (http://www.lifestudies.org/jp/)

 戦争のやり方が、根本から変わろうとしている。それを押し進めているのは、情報テクノロジーを貪欲に軍事へと取り込んだ米軍だ。その成果は、アフガニスタンや、イラクで試され、そのうちのいくつかは大きな成功をおさめた。

  江畑さんは本書のなかで、ITを取り入れることで戦争がどのように変わるのかを、緻密に描いている。それを読むと、いままで頭の中に漠然とあった「戦争」のイメージが、根こそぎ崩れていくのがわかる。そして、その「新しい戦争」は、まったく別の何かに似ているように思えてくる。

  近年実戦で使われるようになった衛星誘導爆弾は、爆撃機から落とされたあと、GPSによって自分の位置を測定しながら、攻撃目標へときわめて高い精度で突入する。目標の精密な位置情報は、地上軍から、空のパイロットに向けて送信される。だから、パイロットは、自分で攻撃目標を確認することなく、ただ単にボタンを押せばよいのである。あとは自動化されたGPSシステムがすべてうまくやってくれる。これによって、陸海空軍の真の統合作戦が可能となった。

  そして、落とされる爆弾の命中率が飛躍的に上昇したから、大きな爆弾を使う必要がなくなった。つまり、小さな爆弾を、攻撃目標の建物や部屋に向けて、ピンポイントで発射するだけでよくなったのである。江畑さんは書いていないが、この延長線上にあるのは、手のひらに載るくらいの弾丸にGPSと画像認識装置を組み込んで、ターゲットとなる人物一人だけを、上空からピンポイントで殺害するシステムだろうと私は思う。

  また、通信技術の発達によって、戦争のための物資を効率的に前線まで配ることができるようになった。ちょうど、コンビニのきめこまかな配送システムによって、末端の店の商品がけっして品切れにならないように、アメリカ軍の兵士たちも、必要な軍事物資を前線できめこまかく受け取ることができるのである。その結果、軍隊は身軽になり、機動力が増した。

  これらを統合することで、新しい戦い方が可能になった。従来は、人海戦術で大阪城を外堀から順番に攻めていくというようなやり方だったが、いま登場してきたのは、まったく逆に、少人数の兵士が情報ネットワークで互いに連絡を取り合いながら、いきなり本丸に忍び込んで、重要人物や重要設備だけを壊滅させるという戦い方である。

  それはイラク戦争でも用いられたが、米軍はさらにその先を考えている。彼らが「将来型戦闘システム」と呼ぶものを、江畑さんは紹介しているが、これにはきわめて興味をそそられる。それは、兵士・戦車などの有人システム八種類と、ミサイル発射機・ヘリコプター・偵察車両などの無人システム一〇種類が、お互いにネットワークで結ばれた攻撃システムである。人間が操縦する兵器と、コンピュータが自動で操る兵器が、IT技術によってお互いに連絡を取り合いながら、戦場に向かって邁進し、それぞれの特徴を生かして敵を撃破していくのである。

  ここにあるのは、網の目のように展開する一個の集団生物のような攻撃システムだ。このシステムには中枢司令部というものがないから、どれかひとつが欠けたとしても、システムそれ自体は攻撃戦略を次々とアップデートしながら攻め続けることができる。これが実践で使われるようになったとき、そこにはどのような光景が広がることになるのだろうか。

  それはまさに現代医療に酷似してくると私は思う。たとえば現代のガン治療は、ガン細胞の位置を体の外から精密機器で測定し、それをピンポイントで攻撃する手法を編み出しつつある。「テロリスト」という「ガン細胞」を絶滅するための戦争が、現代医療に似てくるのは当然なのかもしれない。だが戦争の場合、殺されるのは人間なのである。そのリアリティがIT技術の洗練によって消滅していくことがいちばん怖い。

-------------------------------------------------------

◆森岡正博の書評ページ(森岡執筆の書評一覧があります)

http://www.lifestudies.org/jp/shinano01.htm

◆森岡正博の生命学ホームページ

http://www.lifestudies.org/jp/

[]梅田望夫『ウェブ進化論』ちくま新書

ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる (ちくま新書)

ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる (ちくま新書)

2006年3月12日熊本日々新聞掲載

評者:森岡正博 (http://www.lifestudies.org/jp/)

 いまやインターネットなしでは、仕事が円滑に進まない時代になった。知りたい情報があれば、まずはインターネットで検索してみる。するとたいがいの情報は短時間で手に入れることができる。それが正確なものであるという保証はないけれど、いろんなページを比較検討すれば、さほど間違ってない情報にたどりつく。

  本やCDなどを買うときにも、インターネットを利用するのが便利である。街の書店やCDショップで売ってないものであっても、すぐに見つけることができる。

  これが一般的なインターネットの使い方であろう。しかし、この本の著者である梅田さんは、いまやこれとはまったく次元の異なったインターネットの使い方が始まっていると主張する。それは、インターネットの世界に、いろんな人たちが情報を持ち寄って、いままでどこにもなかったような知の建築物を作り出そうとする試みであり、またそれらの人々の挙動を自動的に追尾することによって、そこから利潤を獲得しようとする商売の仕方である。

  梅田さんは、このようなインターネットの使い方のことを、「Web 2.0」と呼ぶ。第二世代のインターネットという意味で、最近よく使われるようになってきた言葉だ。第二世代の大きな特徴は、知識やノウハウを自分だけで独占するのではなく、それを、誰でも見ることのできるインターネットの世界に、無料で公開するところにある。そして、その知識やノウハウを、興味ある人たちにどんどん使ってもらうのだ。

  これが、決定的な転換点なのである。

  いままでの企業活動では、自分たちが持っている貴重な知識やノウハウは、自分たちだけで独占するのが普通であった。ところが、第二世代のインターネットを指向する企業はまったく逆のことを考える。彼らは、自分たちの作り出した貴重な資産を、無料でネットに公開する。こうやって、単語の検索システムや、地図を表示する仕組みや、いま売られている書籍の全情報などを、誰でも自由に使えるようになる。それらを自分のブロクなどに埋め込む人々も増えるから、ますます利用者は拡大していく。

  そしてここからが大事なのだが、その無料公開の結果として、人々がどのような言葉をネットで検索したのかとか、いま人々はどのような情報に興味関心をもっているのかとか、いまこの瞬間に人々がどのような本を探そうとしているのかなどの情報が、自動的にそれらの企業へとフィードバックされる仕組みになっているのである。この情報は、個々の人間の購買経歴や嗜好を、生データとして集積したものであるから、まさに宝の山である。それは気の遠くなるような資産価値を生み出すはずである。

  第二世代のインターネットは、商売に大転換を引き起こすだけではない。それよりももっと根本的なのは、見知らぬ者たちが共同して、ネットの世界に「知の宝庫」を作り出せるようになることである、と梅田さんは考える。インターネットには、誰でも新しい情報を追加できる百科事典(ウィキペディア)があるが、いまやその信頼性は大英百科事典に匹敵するとの評価も出始めている。もちろん、間違った情報が追加されたり、心なき者によっていたずらされたりすることもあるのだが、しかし使命感あふれる匿名のサポーターたちによって、それらの不適切な情報はいずれ修正されていくのである。

  ハッカーや、スパムメールなどに象徴されるように、インターネットは危険な無法地帯だというイメージがある。しかしながら、第二世代のインターネットを牽引している精神は、ネットで活動している匿名の大衆に対する「信頼」なのである。ネットを使う大衆を信頼して、情報やノウハウを気前よく公開し、彼らに自由に使ってもらうことで、結局みんなが得をするようなシステムをネットのなかに作り上げる。これが第二世代のインターネットの哲学なのである。

  インターネットの現在を活写した、みずみずしい文体に好感が持てる。この分野の必読書であろう。

-------------------------------------------------------

◆森岡正博の書評ページ(森岡執筆の書評一覧があります)

http://www.lifestudies.org/jp/shinano01.htm

◆森岡正博の生命学ホームページ

http://www.lifestudies.org/jp/

[]マイケル・S・ガザニガ『脳のなかの倫理』紀伊國屋書店

脳のなかの倫理―脳倫理学序説

脳のなかの倫理―脳倫理学序説

2006年2月19日信濃毎日新聞ほか(共同通信配信)

評者:森岡正博 (http://www.lifestudies.org/jp/)

 人がものを考えたり感じたりするときに、脳のどの部分が活性化しているのかを、脳科学の最新テクノロジーによって、頭の外から観察することができるようになってきた。この技術が進めば、人が脳のなかで何を考えているのかを、外から盗み見ることができるようになるかもしれない。

  テロリストの捜査に役立つと言う専門家もいるが、この技術が一般市民に向けられたらどうなるのか。それは究極のプライバシー侵害となるのではなかろうか。

  本書は、このような倫理問題に、どう取り組めばよいのかを概観したものだ。著者のガザニガは脳神経学者であり、最近では生命倫理問題についても発言をしている。本書のあちこちに見られる素朴な楽観論はいただけないが、今後大きく注目されるであろう「脳神経倫理学」のアウトラインを理解するための基本図書であることは間違いないだろう。

  最大の読みどころは、宗教や道徳がどのようにして生み出されるかについて、著者の見通しを語った部分だ。まず宗教的な信念は、「左脳」にある解釈装置によって形成される。そして瞑想や祈りのときに活性化するのは「前頭葉」である。また強烈な宗教体験や体外離脱を引き起こすのは「側頭葉」である。それらのはたらきに基づいて人類は宗教を作り出してきた、と著者は言う。

  道徳についても同じで、ある特定の道徳的判断のときだけ活性化する脳領域があることも分かってきた。その脳のはたらきは、全人類に共通であると著者は言うのである。人間の思考と感情にかかわる人文学は、これら脳科学によって駆逐されていくのだろうか。それとも脳科学それ自体の限界が、いずれ明らかになるのだろうか。

  著者は、いままで哲学者によって根拠なしに主張されてきたことに、科学的な根拠を与えることができ、人類共通の脳倫理が構築できると主張する。この点を精密に考えることが、今後の脳神経倫理学の焦眉の課題となるはずだ。

-------------------------------------------------------

◆森岡正博の書評ページ(森岡執筆の書評一覧があります)

http://www.lifestudies.org/jp/shinano01.htm

◆森岡正博の生命学ホームページ

http://www.lifestudies.org/jp/

[]金森修『遺伝子改造』勁草書房

遺伝子改造

遺伝子改造

2006年1月1日図書新聞掲載

評者:森岡正博 (http://www.lifestudies.org/jp/)

 いま世界の生命倫理の議論でもっともホットな話題となっているのは、人間の遺伝子改造をどこまで行なってよいのかという「増強(エンハンスメント)」の問題と、人間の脳にどこまで医療技術が介入してよいのかという「脳神経倫理(ニューロエシックス)」であろう。ともに、いままでならばSFのテーマでしかなかったわけだが、近年の先端技術の驚異的な発展によって、それらが実際に手の届くところまで来てしまったというわけなのである。

  たとえば、体外受精で得られた受精卵の遺伝子を操作することによって、生まれてくる赤ちゃんの髪の色、目の色、身長、IQ、記憶力、運動能力などを操作することができるようになるかもしれない。しかし、はたしてそんなことを親がしてしまっていいのだろうか? それは親による、子どもの人生それ自体の操作となってしまうのではないか? しかしながら、生まれてくる子どもに、可能な限りのよい条件を与えてやりたいと思うのは親の自然な気持ちではないのか。そして子どももまた、自分のためを思って能力を増強しておいてくれた親に感謝するのではないだろうか。だとしたら、いったいどこに問題があるのだろうか・・・。

  金森修の本書は、このような悩ましい倫理の問題に、この上ない繊細な分析のメスを加えたものである。科学史家らしく、このテーマに関連する専門文献を過不足なく読みこなしており、遺伝子改造の倫理に関するまさに決定版とみなしてよいだろう。日本でもこの分野に大きな興味が注がれるようになってきている。議論の整理のためにも、また海外の重要文献にアクセスするソースとしても、必備の一冊と言わなければならない。

  この問題に関して、先行した議論を行なってきたのはまたしても米国である。金森がクリアーに描いて見せたように、米国の議論は二一世紀に入っていくつかの大きな成果を上げ始めている。その一つとしてヴィクラーらの『偶然から選択へ』がある。これは、タイトルのとおり、米国の自由主義を基調としつつ、人間の遺伝子改造をできるだけ穏当に肯定していこうとする論陣を張ったものである。彼らは、背を高くしたり、美貌にしたりというような派手な改造に対しては慎重であるが、そのかわりに、老化の遅延、記憶力の増大など、誰が見ても悪いこととは思えないような改造(「汎用の善」)を推進しようというのである。

  これに対抗するような形で現われたのが、大統領生命倫理評議会による『治療を超えて』である。彼らは、老化の遅延などのような一見「善」のように見えるものであっても、それを追求することがほんとうに人間の幸福につながるのかと問う。そして人間は与えられたものを享受し、自分の限界を正しく味わうときにこそ幸福を得るのではないかと主張するのである。

  金森はこれら両陣営の考え方と、その周囲で跳梁跋扈する有象無象の言説群を、「中立な観察者」の視点から描写し尽くそうとする。では、金森自身の考え方はいったいどういうものなのだろうか。

  金森は、プロテスタント系の神学者ピータースの考え方に注目する。ピータースは、神の創造は現在でも生き生きと続いていると主張する。そして、人間は神の「共・創造者」なのであり、人間はこの意味で創造的であるように運命づけられているとする。この意味で、人間が人間を改造しようとするのもまたひとつの運命だというわけなのだ。

  金森も似たように考える。人間というのは、「たとえ一定のリスクがあったとしても自分の限界を突き破りたい」という「プロメテウス・コンプレックス」によって駆動されており、それは「人間の根源的な業、または性のようなもの」だと金森は言う。したがって、生殖系列の遺伝子改造を「絶対の悪と考えてはいけない」のであり、この点にこそ「哲学的開放」があるという。その結果、人体は、「われわれの文化的判断が作り出す「作品」」になる。もちろんその際には、子どもの自由、自律性、統合性という不可侵の倫理原則が必要だが、それはけっして技術を止めるためのものではない。いずれにせよわれわれは、自分自身でみずからの最深部を改変する(未曾有の)時代に突入する(しかない)のだと金森は言うのである。

  遺伝子改造にかんする金森のリベラリズム宣言とも読める本書だが、読み終えてみて、私は、まったく逆の立場からこの問題群を捉えてみたいと思った。すなわち、人間がみずからの目の前にあるものを「改造」せざるを得ない「運命」を刻印されているとして、はたしてその運命は人間を幸福にするのだろうかと問うてみたいのである。おわかりのように、これはコミュニタリアンである大統領評議会のスタンスと似通っている。

  実はこの問題意識こそ、私が『無痛文明論』でこだわり続けていたものなのだ。ひたすらに外界を改造し、それに飽きたらずみずからの身体や脳までも改造しようとする人間の運命は、金森やリベラリストたちが主張するほどの価値をもったものなのだろうか。私には、それは快を追い求めつつ、結局のところ深いよろこびを失っていくという逆説に満ちた、果てしなく暗い「宿命」なのではないかと思えてならないのである。

  金森もこの論点に気づいている。だからこそ、本書は将来書かれるはずの「人工性の哲学」によって乗り越えられなくてはならないと述べるのである。それを踏まえるとき、本書は人間・生命・人工性という大テーマに向かうための通過点として位置づけられることになるだろう。私はそれに対して、金森とは別方向から攻め込もうと考えている。読者もまた本書を咀嚼して議論に参加してほしい。

-------------------------------------------------------

◆森岡正博の書評ページ(森岡執筆の書評一覧があります)

http://www.lifestudies.org/jp/shinano01.htm

◆森岡正博の生命学ホームページ

http://www.lifestudies.org/jp/

2007-03-27

[]吉田敏浩『反空爆の思想』NHKブックス

反空爆の思想 (NHKブックス)

反空爆の思想 (NHKブックス)

2006年10月8日熊本日々新聞掲載

評者:森岡正博 (http://www.lifestudies.org/jp/)

 イスラエルがレバノンを空爆したのは記憶に新しい。上空から狙いを定め、大量殺戮兵器を投下する。降り注ぐ爆弾は、軍事施設を破壊し、周囲の民間人を死傷させ、誤爆によって関係のない人々までをも巻き込む。レバノン空爆では、またしてもクラスター爆弾が使用された。一発の爆弾が空中で分裂し、無数の小型爆弾があたり一面にばらまかれ、地上を破壊し尽くす。地上に残された不発弾は、地雷となって、住民の生活を脅かし続ける。

  本書『反空爆の思想』は、空爆という戦争行為のおぞましさを徹底的にあぶり出し、そのどこが問題なのかを、血肉の通った言葉で浮かび上がらせようとした好著である。

  空爆とは、上空高く飛ぶ飛行機から、爆弾を投下することである。地上でいくら民間人が殺戮されようが、それを戦闘機のパイロットが直接に目撃することはない。そう、空爆とは、みずからの目と手を汚さないままで、敵を大量に死傷させることなのである。目と手を汚さないのは、パイロットに命令を与える司令部の指揮官も同じであろうし、その背後にいる軍部首脳や大統領も同じである。

  空爆は、味方の兵士の犠牲を最小限に食い止めながら、敵に与える被害を最大化するために発案された。上空から爆弾を次々と投下して、敵国の基盤を壊滅させるという戦い方は、第一次大戦の西部戦線の悪夢を避けるための妙案として、大いに歓迎された。それは第二次大戦へと受け継がれた。その結果、イギリスで、ドイツで、中国で、日本で、大規模な空爆が繰り返され、いったいどれくらいの民間人が殺傷されたか分からない。その終着点が広島・長崎の原爆であったことは言うまでもない。

  しかし戦後も、空爆は地球上の至るところで続けられる。現代の戦闘においてもっとも避けるべきとされているは、自軍の兵士たちが死傷することである。それを回避するための切り札は、やはり空爆なのだ。そして、空爆による敵国人の被害は、「やむを得ない犠牲」だとして正当化される。自軍の兵士たちを守り、戦争を早期に終結させ、敵国の人々を解放するために必要な「ネセサリー・コスト」だとされるのである。

  著者の吉田さんは、この「やむを得ない犠牲」論こそが、最大の欺瞞だと主張する。それは大義の遂行のために付随する「やむを得ないこと」なのではなくて、あらかじめ周到に計算され、攻撃計画に理性的に組み込まれる「強制された流血と死」であるというのだ。たとえば、ピンポイント攻撃が、ある一定の確率で標的をはずして民間施設を「誤爆」してしまうことは、戦う前から分かっていることである。クラスター爆弾を使ったら、それが地雷となって人々の四肢を破砕し続けることは、あらかじめ分かっていることである。そのうえで、それらは攻撃計画に冷静に組み込まれているのである。

  そもそも「やむを得ない犠牲」とは何なのか。そこには、犠牲となって死んでいく人たち、そして肉親を殺された家族たちの生身の姿を見ようとする眼差しが存在しない。我が子を誤爆によって殺され、その子を抱いて血みどろになって病院へと駆け込む父親の姿。それを、「やむを得ない犠牲」として総括することがいかに欺瞞に満ちているかを、吉田さんは怒りをこめて指摘する。

  ブッシュ大統領は、「戦争には死傷者がつきものだが、大統領はそれに耐えなければならない」と言う。しかしそのときの「死傷者」の中に、ブッシュ大統領自身の家族や肉親はけっして想定されていない。ここにこそ「欺瞞」の核心があると吉田さんは言う。

  まさにそのとおりだろう。誰かのいのちや利益のために、自分の愛する家族が「やむを得ない犠牲」として計画的に殺されたとしたら、あなたはいったい何を感じるか。この一点にこだわって、殺される側の人々、殺された人々の家族たちを、国境を越えて結びあわせるところから、「反空爆の思想」は立ち上がってくるのだと本書は訴える。みずからの欺瞞から目をそらさないこと、そして人間であることの感情を共有していくこと、そこにのみ希望が残されているのだろう。多くのことを考えさせられる読書体験であった。

-------------------------------------------------------

◆森岡正博の書評ページ(森岡執筆の書評一覧があります)

http://www.lifestudies.org/jp/shinano01.htm

◆森岡正博の生命学ホームページ

http://www.lifestudies.org/jp/

[]沼崎一郎『「ジェンダー論」の教え方ガイド』フェミックス

2006年12月3日熊本日々新聞掲載

評者:森岡正博 (http://www.lifestudies.org/jp/)

 東北大学の沼崎一郎さんは、そもそもは文化人類学を専門としていたが、夫婦別姓運動などにかかわるなかで、独自の男性学・ジェンダー論を作り上げてきた。その沼崎さんが、ある女子大で「ジェンダー論」の授業を受け持つことになる。この本は、その過激で型破りな授業の記録である。

  まず沼崎さんは、大学に入ってきたばかりの女子学生たちに向かって、あなたたち二〇〇人のうち、一〇人くらいは、将来、夫からの暴力を受けて死ぬかもしれないと宣言する。これは総理府の調査に裏付けられた数字であるが、もちろん学生たちはそんなことは初耳である。

  死ぬほどの暴力を受けるのなら、逃げればいいじゃないかと思うかもしれないが、実は、あなたたちはそこから逃げられない。なぜなら、あなたたちは「女は愛されて幸せになる」という考えに、骨の髄まで毒されているから、自分に向かってくる夫の暴力を、「愛の証」だと誤認してしまうのだ。

  たとえば、あなたが男友だちと楽しそうに話していると、あなたの彼氏は不機嫌になりはしないか。ひとりで飲みに行こうとすると、それを無理やり止めようとしないか。あなたはそれを、「彼が私のことを愛しているからだ」と考えようとするだろうが、それは大いなる間違いである。

  彼は、あなたの自由を束縛し、あなたを支配しようとしているのであり、それを放置しておくと、いずれ彼はあなたを家庭に閉じこめ、暴力をふるい、あなたの命を奪うところにまで至ってしまうのである。あなたの行動の自由を制限するようなかたちで「かまってくれる」のは、「愛」ではなくて「暴力」なのである、と沼崎さんはダメ押しする。

  それを聞いて、女子大生たちはキャーキャー騒ぐのであるが、沼崎さんはまったく意に介さない。

  沼崎さんは言う。「避妊しないでHを迫る男の行為は、性暴力です!」そして黒板に大きく書く。「Hするしないは、女が決める!」。若い学生たちにとって、これは衝撃的な言葉である。なぜなら、男がHを迫ってくるのは、男が自分のことを愛してくれているからだろうし、自分も男のことを愛しているのなら、それ応じてあげるべきだと彼女たちは思っているからである。

  この本には、沼崎さんの「教え方」のエッセンスが凝縮されている。そこから学ぶものはとても大きい。

  たとえば、沼崎さんは「セクハラ」について教えるときに、ひとりの学生に向かって「ちょっと立ってください」と言う。学生は立ち上がるのだが、そこで彼女に、「どうして立ったの?」と聞くのである。学生は答えられない。そこで沼崎さんは解説する。「私が先生だからだよね」「いいですか、皆さん、これが教師の権力です。・・・私には、立ちたくない学生を立たせる力があるんだよ、先生ってだけでさ」。そして、この教師の権力こそが、セクハラを生み出す元凶であることを、学生たちの目の前で、鮮やかにあぶり出してみせるのである。

  あるいは、コンドームによる避妊は失敗例が多いから、沼崎さんは学生たちにピルを飲むことを勧めるのだが、学生からは、毎月三千円の薬代がバカにならないという答えが返ってくる。そこで沼崎さんは、学生たちが月にコンパ代にいくら使っているか、口紅を何本持っているか、最近買った洋服の値段はいくらだったか、などを紙に書かせて、それらの支出と比べたときに、ほんとうにピル代が高いと言えるのかどうかを実際に計算させるのである。そして、男などいくらでも取り替えられるが、自分の身体と心だけはかけがえがない、だから自分を大切にしなさいと訴えるのである。

  若い男女は、毎日浴びるように性の情報に晒されているが、肝心な情報はほとんど伝わっていない。女の価値は「愛されること」にある、という妄説を信じ切っているがゆえに、自分自身の独立した人生を歩むことができない。この本は、そうした現状に風穴を開ける破壊力をもっている。教職にある者だけでなく、性に関心のあるすべての人に読んでもらいたい好著だ。

-------------------------------------------------------

◆森岡正博の書評ページ(森岡執筆の書評一覧があります)

http://www.lifestudies.org/jp/shinano01.htm

◆森岡正博の生命学ホームページ

http://www.lifestudies.org/jp/

[]遠藤秀紀『人体 失敗の進化史』光文社新書

人体 失敗の進化史 (光文社新書)

人体 失敗の進化史 (光文社新書)

2006年8月27日熊本日々新聞掲載

評者:森岡正博 (http://www.lifestudies.org/jp/)

 生物の進化について書かれた本で、これほどまでにワクワクするものは、最近あまりなかったような気がする。この本の著者は、死んだ動物の解剖を専門とする学者だ。死んでしまったタヌキやアリクイを、ていねいにピンセットで解体していくことによって、その身体の内部に秘められた、生物進化数億年の秘密がありありと明らかになっていく。

  目の前に横たわった、なんの変哲もない動物の死体の中に、進化の途中で死に絶えてきた無数の生物たちの試行錯誤の歴史が、ちょうど一枚の絵巻物のように埋め込まれている。その事実に対する驚きと敬意が、著者の仕事の根底には流れているようだ。

  たとえば、我々の身体を支えてくれている「骨」について考えてみよう。それは、最初から地上動物の肉体を支えるために作り上げられたものではなかった。骨を最初に獲得したのは魚類である。では、その前はどうだったのかと言えば、クラゲやナメクジウオのような、やわらかくて、うねうねとした生物が海中を漂っていたのである。

  それらの海中生物が、生存に必要なリン酸カルシウムを、身体の内部に保存することを覚え始める。彼らは、必要なときにいつでも使えるように、体内にリン酸カルシウムの貯蔵庫を形成するのである。

  ところが、いったん貯め込んだリン酸カルシウムは、硬くて丈夫なので、魚類の身体をすばやく運動するための装置として使えることがわかってくる。リン酸カルシウムを背骨としてもつ魚類は、運動性の高い身体で泳ぎ回り、海を制覇することとなった。

  その魚類が、陸に上がって両生類となり、は虫類となったときに、骨は、全身にかかる重力を身体の中心で支える基本構造として、再活用されたのである。骨のおかげで、われわれ人類も直立歩行できるようになった。

  このように、最初は「ミネラルの貯蔵庫」でしかなかったものが、進化の過程で次々と別の用途に転用され、設計変更されていったのである。このような「行き当たりばったり」で「結果オーライでいい加減にすら見える進化」こそが、実は進化の常道なのだと遠藤さんは指摘する。

  どうやら生物は、それほど深く計算することなしに、手近にある体内材料をどんどん利用して、みずからの身体を内側から改造し、進化していったようなのである。「肺」もまたそのようにして作られた。

  海中の魚類は、エラをとおして水中の酸素を体内に取り入れる。だから、魚類に肺は必要ない。ところで、魚類は、体内に「浮き袋」をもっている。その中に空気を入れたり、そこから空気を出したりすることで、比重の調節を行なっているのだ。

  その魚類が陸に上がりはじめたとき、彼らは比重調節のために存在していた浮き袋を、エラのかわりに再利用しようとするのである。大気を浮き袋に入れ、そこから酸素を抽出して、血液中に取り入れるわけである。肺はこのようにして誕生する。

  ところが、魚類の心臓には、古くなった血液を強制的に肺に送り込む仕組みがなかった。そのためには、ポンプがもうひとつ必要となる。その問題を解決するために、心臓は、左心と右心から成る二部構成へと組み替えられた。しかしその結果、われわれの身体は左右対称の美を崩されることとなった。人間の解剖図を見ても分かるように、内臓の配置は左右非対称であり、まったく美しくない。

  そればかりか、われわれは陸に上がったおかげで、みずからの重力によって苦しめられるようになる。内臓は重みで垂れ下がり、肩の筋肉は休む暇もなく働き続け、慢性の痛みを訴える。巨大な脳を背骨一本で支えなければならなくなり、いつ椎間板ヘルニアになってもおかしくない。

  遠藤さんは、「人間」へと行き着いた進化の道筋を、「失敗作」だと考えている。遠藤さんがなぜそう思うのかについては、本書の結末をぜひ読んでいただきたい。しかし、失敗作にも、失敗作なりの存在意義があるはずだ。それを考えることが、きっと読者に課せられた宿題なのだろう。この地点で、理系と文系は交わることができるのだと私は思う。

-------------------------------------------------------

◆森岡正博の書評ページ(森岡執筆の書評一覧があります)

http://www.lifestudies.org/jp/shinano01.htm

◆森岡正博の生命学ホームページ

http://www.lifestudies.org/jp/

[]立岩真也『希望について』青土社

希望について

希望について

2006年8月『論座』9月号314〜315頁掲載

評者:森岡正博 (http://www.lifestudies.org/jp/)

 この新刊は、立岩社会学への裏口からの入門書という仕上がりといえる。立岩は、一九九七年の大著『私的所有論』によって独自の地位を築いたが、その独特の文体のせいもあって、非常にとっつきにくい思想家だと思われてきた。だがこの本は、立岩が折に触れて書いた短い文章を集めたものなので、彼が何を問題にしているのかを、手軽に理解することができる。

  立岩は、ばりばり仕事をする人の側に立って社会を見るのではなく、まったく逆に、働けない人、働かない人の側に立って社会を見ようとする。そしてそういう人がまっとうに生きていけるように財を再配分するべきだと言うのである。

  このような視点が出てくるのは、立岩が長年、障害者運動の研究を続けてきたからである。みずから「生産」をすることができないとみなされてきた重度の障害者たちが、なんの負い目もなくまっとうに生きていける社会。そういう社会を構想したいという立岩の思いが、彼の社会学を支えているのである。

  たしかに、「働かない」ということは、この社会では負のラベリングをされている。しかし立岩は、日本のような社会は、必ずしもすべての人が働かなくても、充分にまわっていくだけの余裕をもった社会になっているはずだと考える。

  たとえば「失業」が問題となっているが、失業があるということは、「社会に全体として生産物がまずまず存在し、ゆえにこれ以上そんなに働かなくてもよい状態にある」ことを意味している。だからこれは基本的に好ましい状態なのである。失業者に対しては、余っている物資を再分配すればよい。

  また立岩は、「人が生産したその産物はその人のものだ」というジョン・ロックの思想に対しても果敢に挑戦する。たとえば、目の見える人が、目の見えることによって生産するあらゆる財を独占してもいいのだろうか、と立岩は問う。これは、「目の見えない人」は社会のなかでどのように位置づけられるべきか、という問いでもある。立岩は、目の見える人は、みずからが生産した財の一部を供出してまでも、目の見えない人がたとえば外を出歩くことを助ける義務があるのだ、と結論づける。リバタリアン(自由至上主義者)ならば「善意」として処理するであろうものごとを、立岩はあくまで「義務」として確定しようとするのである。

  このような立岩の論に対しては、様々な反論がなされることであろう。立岩はそれらを意識してか、あちこちで周到な予防線を張っている。たとえば、失業者には再配分をすればよいというみずからの見解に対しては、「自分たちは働いて苦労しているのに、なぜ働かない人たちがそれらを受け取れるのか」という反論が来るだろうと予想したうえで、「そういう反論をする人は、みずから働くのをやめて、社会的分配を受け取る側にまわればよい」ではないかと挑発する。

  たしかに理屈のうえでは、そのような回答で問題ないのかもしれない。しかしながら、その反論の背後には、もっと根深いものが潜んでいるのではないだろうか。

  「働かない人が社会保障をされているのはおかしい」という発言の底にあるのは、働かない人が窮乏生活に落ちるのを眺めて「ざまーみろ!」と思うことによって、つらいながらも働かざるを得ない自分自身を慰撫したいという気持ちではないかと私は思う。そういう気持ちをもっている人間は、自分自身が他人から「ざまーみろ!」と言われるような立場にはけっして落ちたくないのである。彼らは、失職してそのような言葉を浴びせられるくらいなら、あくせく働き続けることのほうを選ぶだろう。このような心性の人間たち(すなわち大衆)に対して、立岩の理屈はたいした効力を持たないように私は思う。

  同じことは、格差社会におけるいわゆる「勝ち組」の人間たちに関しても当てはまるだろう。立岩は、経済的に余裕のある人間たちから財をよりいっそう供出させて、財がどうしても必要な人たちに再分配すればよいと主張するが、それは実際に財を過剰所有している階層の人々のこころを動かす力となり得るであろうか。そのような正義の理屈だけでは、彼らが既得権を死守しようとするエゴイズムの力に勝てないのではないか。立法や政策によって彼らの既得権を解体すればよいのかもしれないが、しかし立法や政策にタッチできる人々のマジョリティこそが、それら「勝ち組」の階層の人々なのである。

  それでもよい、正しいこと、正義にかなうことを、どこまでも「言い続けていく」ことこそが学の使命なのだ、というわけなのだろうか。それは、立岩社会学を、一種の宗教のようなものへと近づけていくことになりはしないか。「言い続ける」ことによってカタルシスを覚え、結果的に体制を補完する装置として機能するだけに終わってしまう危険はないのか。

  と、思わず先走ってしまったが、立岩はその危険性には充分自覚的であるように思える。既得権の件についても、体制側が既得権を維持しようとするときに、どう対処すればいいかを検討しなければならないと、立岩はちゃんと書いている。そのうえで言うならば、やはり現在の立岩社会学には、われわれのエゴイズムや欲望にどうやって介入するのかについての考察が不足している、と言わざるを得ないように私は思う。これは、立岩社会学へのひねくれたエールだと思ってもらえるとうれしい。

-------------------------------------------------------

◆森岡正博の書評ページ(森岡執筆の書評一覧があります)

http://www.lifestudies.org/jp/shinano01.htm

◆森岡正博の生命学ホームページ

http://www.lifestudies.org/jp/

[]E・バダンテール『迷走フェミニズム』新曜社

2006年7月2日熊本日々新聞掲載

評者:森岡正博 (http://www.lifestudies.org/jp/)

 フランスのフェミニズムの第一人者であるバダンテールの新著だ。この本で著者は、アメリカのラディカルフェミニズムを痛烈に批判している。そして、彼女たちのことを、男女の機微を知らない無粋な輩としてこきおろしている。著者は言う。「男性に外の生活では対等の「パートナー」であってほしいが、ベッドでは力強く支配してほしいと要求する」ことなどは、ラディカルフェミニズムにとっては論外のこととされるが、それでは女性の気持ちをすくい取れないのではないか。あるいは、「望んでいない性的誘い」は糾弾すべきとラディカルフェミニズムは言うが、それは「男女関係においては自然な現象で、かつ文化の一部」なのである、と。望んでいない性的誘いをたくさん受けるなかから、こちらが望む誘いを探し当てるのが、女性が築き上げた文化なのだというわけである。

  もちろん著者はフェミニストであるから、現状の男女のあり方を肯定しているわけではない。経済面の不平等、女性の社会進出、家庭での暴力など、女性にとって不利な状況はまったく改善されていない。それらは、両性の平等という観点から、是正されなくてはならない。これが著者の基本的な考え方である。そのうえで著者は、アメリカの影響を受けた現在のフェミニズムが、迷走を始めているのではないかと訴えるのである。

  まず、フェミニズムは女性を「犠牲者」として捉えようとする。それは極端なまでに進行し、いまや女性は実際に犠牲者であるか、さもなくば潜在的な犠牲者であるとさえ言われる。女性は、男性が作り上げた暴力体制の犠牲者であるということを執拗に繰り返すフェミニズムからは、将来の社会に対する何の展望も開けてこない。

  また、男性はつねに女性を支配してきたし、女性を抑圧する社会体制に加担してきたとする言説は、いまや多くの男性たちに被害感を生み出す元凶となっている。「一方に無力で抑圧された女があり、他方に乱暴で支配と搾取を行う男があるという構図」からは、何ものも生まれない。

  男性性を敵視するこの思想は、女性性、とくに母性を賞賛する母性主義に力を与えることとなった。「生殖能力ゆえ、女性はより人間的かつ寛容で、道徳的にもすぐれている」という見解もフェミニストから出されている。異性愛と生殖こそが自然なモデルだと言うのである。著者はこのような立場を断固として否定する。そしてこのような誤った思想が力を持つようになったのも、男性性を徹底的に糾弾するラディカルフェミニズムの悪影響だと主張するのである。

  また、それらのフェミニストは、娼婦というものを軽蔑する傾向がある。娼婦に対する「つきることのない同情の言葉の底に感じられる軽蔑」は許し難いと著者は言う。暴力について言えば、暴力はほとんどの場合男性から女性に向けてふるわれるとされるが、実際には女性もまた多くの暴力をふるっており、それらは女性から女性へと向けられる。女性がふるう暴力について目を閉ざしているのもフェミニズムの怠慢であると言う。

  著者は、男性性を執拗に糾弾するだけではフェミニズムに未来は訪れないと考えている。そしてフランスでは、もっと別の方法が必要ではないかと訴える。男性と女性を敵対させるのではなく、現存する不平等を両性が協力して解決していくような運動こそが必要なのだというのである。

  フランスのフェミニズムの現状を垣間見ることのできる好著であるが、これが日本でどのように読まれるのか大いに気になる。フェミニズムバッシングが吹き荒れる女性政策の世界や教育界で、都合のいいところだけがつまみ食いされるのではないか? 「ほら見ろ、フランスではフェミニストがジェンダーフリーを批判しているじゃないか」などの曲解が横行する危険性はないのだろうか。

  学界からは、著者が目の敵にしているフェミニズムは一時代前のものであるという批判がなされるであろう。誤解や黙殺にさらされるのは間違いないと思われるが、それでもなお同時代のフェミニストからの真摯な声として一読に値すると私は思うのである。

-------------------------------------------------------

◆森岡正博の書評ページ(森岡執筆の書評一覧があります)

http://www.lifestudies.org/jp/shinano01.htm

◆森岡正博の生命学ホームページ

http://www.lifestudies.org/jp/

2007-03-26

[]末木文美士編『現代と仏教』佼成出版社

現代と仏教―いま、仏教が問うもの、問われるもの

現代と仏教―いま、仏教が問うもの、問われるもの

2007年1月28日熊本日々新聞掲載

評者:森岡正博 (http://www.lifestudies.org/jp/)

 日本の仏教は、葬式仏教に成り下がってしまったということが言われて久しい。普通の人は、お葬式のときに仏教に出会うだけであるし、読経を聞いても、何を言っているのかまったく分からない。仏教は、われわれ庶民の心の苦しみによりそって、われわれを目覚めへと導いてくれるものではなくなった。

  これではだめじゃないか、という意識が、ようやく仏教の世界でも起きはじめている。この本の編者である末木文美士は、この運動のことを「社会参加仏教」と呼ぶ。同業者や檀家の内部に安住するのではなく、積極的に社会的な問題に関与し、それをつうじて、人々の生々しい生と死の現場に出会っていこうという試みである。

  末木は言う。教典にこう書いてあるからとか、宗祖がこう言ったからということは、いったん宗派を離れてしまえば何の説得力もない。それよりも、仏教者が、ひとりの生身の人間として、いかに人々の生と苦渋のなかに分け入ってゆくのかのほうが大事なのだ、と。それによってのみ、仏教はふたたび再生できるというわけである。

  社会参加仏教は、日本よりも、アジア諸国のほうで大きな成果を上げている。上田紀行は、ベトナムの禅僧である、ティク・ナット・ハンを例にあげて、教義の解説をする人が仏教者なのではなく、教義を生ききる人こそが仏教者なのだ、と指摘する。ベトナム戦争の惨禍の中で、ハンの兄弟子がガソリンをかぶって焼身自殺する。それを機に、ハンは僧院を出て、社会活動を始めた。社会参加仏教の重要人物のひとりであるダライ・ラマも、チベットからの亡命を余儀なくされ、世界を渡り歩きながら、愛と慈悲を説いている。日本の安穏とした葬式仏教からは想像もできないような状況の中で、アジアの社会参加仏教は開始されたのである。

  ではそれは日本にはなかったのかと言えば、そうではない。仏教系新宗教の活動や、既存仏教教団の内部からの問い直しの運動など、注目すべきものがある。ただし、社会参加仏教という視点から日本仏教を見直してみると、反省すべき点がいろいろと見えてきてしまうのである。

  石井公成は、明治期に活躍した高僧である小泉了諦を取り上げる。小泉は、仏教の立場から軍人たちを鼓舞し、「海軍布教」の先駆とも言われた人である。この意味で、まさに社会参加仏教の実践者のひとりと見ることができる。小泉は、軍人たちを前にして、国民を思いやる明治天皇の大恩に報いることを説き、すべてを弥陀にまかせて死にこだわらないことによって、「日本の良民」となることができると説いた。中世の僧兵を見ても明らかなように、日本には、仏教の社会参加が軍事と結びつく土壌がある。この点をどう考えていけばいいのだろうか。

  さらに言えば、日本仏教は、外部の社会に参加するまえに、みずからの教団内部に潜む社会問題に取り組むべきであるという指摘を、熊本英人が行なっている。それは、仏教教団の中の「ジェンダー」の問題である。

  たとえば、広く配布されている『仏教聖典』は、「女は心の乱れやすいもの、行ないの間違いやすいもの」であり、「欲が深いから、惜しむ心ねたむ心」が強いので、「女は男に比べて、道に進むことが困難である」と断言している。

  実際に、男性僧侶の妻たちは、陰から僧侶を支えていくことが当然とされており、住職が羽織の表であれば、妻はその裏地だという言い方もされる。また、その意識は当の妻たちにも共有されており、女の身であることで自分が犠牲になることもありうるという発言も見られる。

  また熊本は、男性僧侶には妻帯が認められているにもかかわらず、女性僧侶には純潔と清貧が求められるという点に、注意をうながす。この熊本の指摘には、私自身、虚を突かれた思いがした。私の中にもそれを疑わない感性があったからである。

  社会参加仏教を日本で実践していくためには、まず足もとの仏教教団の姿勢そのものを変えていかなければならないようだ。その膿を出し切ってはじめて、仏教は一般市民に届く声を獲得できるのかもしれないと思う。

-------------------------------------------------------

◆森岡正博の書評ページ(森岡執筆の書評一覧があります)

http://www.lifestudies.org/jp/shinano01.htm

◆森岡正博の生命学ホームページ

http://www.lifestudies.org/jp/

Connection: close