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2007-03-27

[]吉田敏浩『反空爆の思想』NHKブックス

反空爆の思想 (NHKブックス)

反空爆の思想 (NHKブックス)

2006年10月8日熊本日々新聞掲載

評者:森岡正博 (http://www.lifestudies.org/jp/)

 イスラエルがレバノンを空爆したのは記憶に新しい。上空から狙いを定め、大量殺戮兵器を投下する。降り注ぐ爆弾は、軍事施設を破壊し、周囲の民間人を死傷させ、誤爆によって関係のない人々までをも巻き込む。レバノン空爆では、またしてもクラスター爆弾が使用された。一発の爆弾が空中で分裂し、無数の小型爆弾があたり一面にばらまかれ、地上を破壊し尽くす。地上に残された不発弾は、地雷となって、住民の生活を脅かし続ける。

  本書『反空爆の思想』は、空爆という戦争行為のおぞましさを徹底的にあぶり出し、そのどこが問題なのかを、血肉の通った言葉で浮かび上がらせようとした好著である。

  空爆とは、上空高く飛ぶ飛行機から、爆弾を投下することである。地上でいくら民間人が殺戮されようが、それを戦闘機のパイロットが直接に目撃することはない。そう、空爆とは、みずからの目と手を汚さないままで、敵を大量に死傷させることなのである。目と手を汚さないのは、パイロットに命令を与える司令部の指揮官も同じであろうし、その背後にいる軍部首脳や大統領も同じである。

  空爆は、味方の兵士の犠牲を最小限に食い止めながら、敵に与える被害を最大化するために発案された。上空から爆弾を次々と投下して、敵国の基盤を壊滅させるという戦い方は、第一次大戦の西部戦線の悪夢を避けるための妙案として、大いに歓迎された。それは第二次大戦へと受け継がれた。その結果、イギリスで、ドイツで、中国で、日本で、大規模な空爆が繰り返され、いったいどれくらいの民間人が殺傷されたか分からない。その終着点が広島・長崎の原爆であったことは言うまでもない。

  しかし戦後も、空爆は地球上の至るところで続けられる。現代の戦闘においてもっとも避けるべきとされているは、自軍の兵士たちが死傷することである。それを回避するための切り札は、やはり空爆なのだ。そして、空爆による敵国人の被害は、「やむを得ない犠牲」だとして正当化される。自軍の兵士たちを守り、戦争を早期に終結させ、敵国の人々を解放するために必要な「ネセサリー・コスト」だとされるのである。

  著者の吉田さんは、この「やむを得ない犠牲」論こそが、最大の欺瞞だと主張する。それは大義の遂行のために付随する「やむを得ないこと」なのではなくて、あらかじめ周到に計算され、攻撃計画に理性的に組み込まれる「強制された流血と死」であるというのだ。たとえば、ピンポイント攻撃が、ある一定の確率で標的をはずして民間施設を「誤爆」してしまうことは、戦う前から分かっていることである。クラスター爆弾を使ったら、それが地雷となって人々の四肢を破砕し続けることは、あらかじめ分かっていることである。そのうえで、それらは攻撃計画に冷静に組み込まれているのである。

  そもそも「やむを得ない犠牲」とは何なのか。そこには、犠牲となって死んでいく人たち、そして肉親を殺された家族たちの生身の姿を見ようとする眼差しが存在しない。我が子を誤爆によって殺され、その子を抱いて血みどろになって病院へと駆け込む父親の姿。それを、「やむを得ない犠牲」として総括することがいかに欺瞞に満ちているかを、吉田さんは怒りをこめて指摘する。

  ブッシュ大統領は、「戦争には死傷者がつきものだが、大統領はそれに耐えなければならない」と言う。しかしそのときの「死傷者」の中に、ブッシュ大統領自身の家族や肉親はけっして想定されていない。ここにこそ「欺瞞」の核心があると吉田さんは言う。

  まさにそのとおりだろう。誰かのいのちや利益のために、自分の愛する家族が「やむを得ない犠牲」として計画的に殺されたとしたら、あなたはいったい何を感じるか。この一点にこだわって、殺される側の人々、殺された人々の家族たちを、国境を越えて結びあわせるところから、「反空爆の思想」は立ち上がってくるのだと本書は訴える。みずからの欺瞞から目をそらさないこと、そして人間であることの感情を共有していくこと、そこにのみ希望が残されているのだろう。多くのことを考えさせられる読書体験であった。

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[]沼崎一郎『「ジェンダー論」の教え方ガイド』フェミックス

2006年12月3日熊本日々新聞掲載

評者:森岡正博 (http://www.lifestudies.org/jp/)

 東北大学の沼崎一郎さんは、そもそもは文化人類学を専門としていたが、夫婦別姓運動などにかかわるなかで、独自の男性学・ジェンダー論を作り上げてきた。その沼崎さんが、ある女子大で「ジェンダー論」の授業を受け持つことになる。この本は、その過激で型破りな授業の記録である。

  まず沼崎さんは、大学に入ってきたばかりの女子学生たちに向かって、あなたたち二〇〇人のうち、一〇人くらいは、将来、夫からの暴力を受けて死ぬかもしれないと宣言する。これは総理府の調査に裏付けられた数字であるが、もちろん学生たちはそんなことは初耳である。

  死ぬほどの暴力を受けるのなら、逃げればいいじゃないかと思うかもしれないが、実は、あなたたちはそこから逃げられない。なぜなら、あなたたちは「女は愛されて幸せになる」という考えに、骨の髄まで毒されているから、自分に向かってくる夫の暴力を、「愛の証」だと誤認してしまうのだ。

  たとえば、あなたが男友だちと楽しそうに話していると、あなたの彼氏は不機嫌になりはしないか。ひとりで飲みに行こうとすると、それを無理やり止めようとしないか。あなたはそれを、「彼が私のことを愛しているからだ」と考えようとするだろうが、それは大いなる間違いである。

  彼は、あなたの自由を束縛し、あなたを支配しようとしているのであり、それを放置しておくと、いずれ彼はあなたを家庭に閉じこめ、暴力をふるい、あなたの命を奪うところにまで至ってしまうのである。あなたの行動の自由を制限するようなかたちで「かまってくれる」のは、「愛」ではなくて「暴力」なのである、と沼崎さんはダメ押しする。

  それを聞いて、女子大生たちはキャーキャー騒ぐのであるが、沼崎さんはまったく意に介さない。

  沼崎さんは言う。「避妊しないでHを迫る男の行為は、性暴力です!」そして黒板に大きく書く。「Hするしないは、女が決める!」。若い学生たちにとって、これは衝撃的な言葉である。なぜなら、男がHを迫ってくるのは、男が自分のことを愛してくれているからだろうし、自分も男のことを愛しているのなら、それ応じてあげるべきだと彼女たちは思っているからである。

  この本には、沼崎さんの「教え方」のエッセンスが凝縮されている。そこから学ぶものはとても大きい。

  たとえば、沼崎さんは「セクハラ」について教えるときに、ひとりの学生に向かって「ちょっと立ってください」と言う。学生は立ち上がるのだが、そこで彼女に、「どうして立ったの?」と聞くのである。学生は答えられない。そこで沼崎さんは解説する。「私が先生だからだよね」「いいですか、皆さん、これが教師の権力です。・・・私には、立ちたくない学生を立たせる力があるんだよ、先生ってだけでさ」。そして、この教師の権力こそが、セクハラを生み出す元凶であることを、学生たちの目の前で、鮮やかにあぶり出してみせるのである。

  あるいは、コンドームによる避妊は失敗例が多いから、沼崎さんは学生たちにピルを飲むことを勧めるのだが、学生からは、毎月三千円の薬代がバカにならないという答えが返ってくる。そこで沼崎さんは、学生たちが月にコンパ代にいくら使っているか、口紅を何本持っているか、最近買った洋服の値段はいくらだったか、などを紙に書かせて、それらの支出と比べたときに、ほんとうにピル代が高いと言えるのかどうかを実際に計算させるのである。そして、男などいくらでも取り替えられるが、自分の身体と心だけはかけがえがない、だから自分を大切にしなさいと訴えるのである。

  若い男女は、毎日浴びるように性の情報に晒されているが、肝心な情報はほとんど伝わっていない。女の価値は「愛されること」にある、という妄説を信じ切っているがゆえに、自分自身の独立した人生を歩むことができない。この本は、そうした現状に風穴を開ける破壊力をもっている。教職にある者だけでなく、性に関心のあるすべての人に読んでもらいたい好著だ。

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[]遠藤秀紀『人体 失敗の進化史』光文社新書

人体 失敗の進化史 (光文社新書)

人体 失敗の進化史 (光文社新書)

2006年8月27日熊本日々新聞掲載

評者:森岡正博 (http://www.lifestudies.org/jp/)

 生物の進化について書かれた本で、これほどまでにワクワクするものは、最近あまりなかったような気がする。この本の著者は、死んだ動物の解剖を専門とする学者だ。死んでしまったタヌキやアリクイを、ていねいにピンセットで解体していくことによって、その身体の内部に秘められた、生物進化数億年の秘密がありありと明らかになっていく。

  目の前に横たわった、なんの変哲もない動物の死体の中に、進化の途中で死に絶えてきた無数の生物たちの試行錯誤の歴史が、ちょうど一枚の絵巻物のように埋め込まれている。その事実に対する驚きと敬意が、著者の仕事の根底には流れているようだ。

  たとえば、我々の身体を支えてくれている「骨」について考えてみよう。それは、最初から地上動物の肉体を支えるために作り上げられたものではなかった。骨を最初に獲得したのは魚類である。では、その前はどうだったのかと言えば、クラゲやナメクジウオのような、やわらかくて、うねうねとした生物が海中を漂っていたのである。

  それらの海中生物が、生存に必要なリン酸カルシウムを、身体の内部に保存することを覚え始める。彼らは、必要なときにいつでも使えるように、体内にリン酸カルシウムの貯蔵庫を形成するのである。

  ところが、いったん貯め込んだリン酸カルシウムは、硬くて丈夫なので、魚類の身体をすばやく運動するための装置として使えることがわかってくる。リン酸カルシウムを背骨としてもつ魚類は、運動性の高い身体で泳ぎ回り、海を制覇することとなった。

  その魚類が、陸に上がって両生類となり、は虫類となったときに、骨は、全身にかかる重力を身体の中心で支える基本構造として、再活用されたのである。骨のおかげで、われわれ人類も直立歩行できるようになった。

  このように、最初は「ミネラルの貯蔵庫」でしかなかったものが、進化の過程で次々と別の用途に転用され、設計変更されていったのである。このような「行き当たりばったり」で「結果オーライでいい加減にすら見える進化」こそが、実は進化の常道なのだと遠藤さんは指摘する。

  どうやら生物は、それほど深く計算することなしに、手近にある体内材料をどんどん利用して、みずからの身体を内側から改造し、進化していったようなのである。「肺」もまたそのようにして作られた。

  海中の魚類は、エラをとおして水中の酸素を体内に取り入れる。だから、魚類に肺は必要ない。ところで、魚類は、体内に「浮き袋」をもっている。その中に空気を入れたり、そこから空気を出したりすることで、比重の調節を行なっているのだ。

  その魚類が陸に上がりはじめたとき、彼らは比重調節のために存在していた浮き袋を、エラのかわりに再利用しようとするのである。大気を浮き袋に入れ、そこから酸素を抽出して、血液中に取り入れるわけである。肺はこのようにして誕生する。

  ところが、魚類の心臓には、古くなった血液を強制的に肺に送り込む仕組みがなかった。そのためには、ポンプがもうひとつ必要となる。その問題を解決するために、心臓は、左心と右心から成る二部構成へと組み替えられた。しかしその結果、われわれの身体は左右対称の美を崩されることとなった。人間の解剖図を見ても分かるように、内臓の配置は左右非対称であり、まったく美しくない。

  そればかりか、われわれは陸に上がったおかげで、みずからの重力によって苦しめられるようになる。内臓は重みで垂れ下がり、肩の筋肉は休む暇もなく働き続け、慢性の痛みを訴える。巨大な脳を背骨一本で支えなければならなくなり、いつ椎間板ヘルニアになってもおかしくない。

  遠藤さんは、「人間」へと行き着いた進化の道筋を、「失敗作」だと考えている。遠藤さんがなぜそう思うのかについては、本書の結末をぜひ読んでいただきたい。しかし、失敗作にも、失敗作なりの存在意義があるはずだ。それを考えることが、きっと読者に課せられた宿題なのだろう。この地点で、理系と文系は交わることができるのだと私は思う。

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[]立岩真也『希望について』青土社

希望について

希望について

2006年8月『論座』9月号314〜315頁掲載

評者:森岡正博 (http://www.lifestudies.org/jp/)

 この新刊は、立岩社会学への裏口からの入門書という仕上がりといえる。立岩は、一九九七年の大著『私的所有論』によって独自の地位を築いたが、その独特の文体のせいもあって、非常にとっつきにくい思想家だと思われてきた。だがこの本は、立岩が折に触れて書いた短い文章を集めたものなので、彼が何を問題にしているのかを、手軽に理解することができる。

  立岩は、ばりばり仕事をする人の側に立って社会を見るのではなく、まったく逆に、働けない人、働かない人の側に立って社会を見ようとする。そしてそういう人がまっとうに生きていけるように財を再配分するべきだと言うのである。

  このような視点が出てくるのは、立岩が長年、障害者運動の研究を続けてきたからである。みずから「生産」をすることができないとみなされてきた重度の障害者たちが、なんの負い目もなくまっとうに生きていける社会。そういう社会を構想したいという立岩の思いが、彼の社会学を支えているのである。

  たしかに、「働かない」ということは、この社会では負のラベリングをされている。しかし立岩は、日本のような社会は、必ずしもすべての人が働かなくても、充分にまわっていくだけの余裕をもった社会になっているはずだと考える。

  たとえば「失業」が問題となっているが、失業があるということは、「社会に全体として生産物がまずまず存在し、ゆえにこれ以上そんなに働かなくてもよい状態にある」ことを意味している。だからこれは基本的に好ましい状態なのである。失業者に対しては、余っている物資を再分配すればよい。

  また立岩は、「人が生産したその産物はその人のものだ」というジョン・ロックの思想に対しても果敢に挑戦する。たとえば、目の見える人が、目の見えることによって生産するあらゆる財を独占してもいいのだろうか、と立岩は問う。これは、「目の見えない人」は社会のなかでどのように位置づけられるべきか、という問いでもある。立岩は、目の見える人は、みずからが生産した財の一部を供出してまでも、目の見えない人がたとえば外を出歩くことを助ける義務があるのだ、と結論づける。リバタリアン(自由至上主義者)ならば「善意」として処理するであろうものごとを、立岩はあくまで「義務」として確定しようとするのである。

  このような立岩の論に対しては、様々な反論がなされることであろう。立岩はそれらを意識してか、あちこちで周到な予防線を張っている。たとえば、失業者には再配分をすればよいというみずからの見解に対しては、「自分たちは働いて苦労しているのに、なぜ働かない人たちがそれらを受け取れるのか」という反論が来るだろうと予想したうえで、「そういう反論をする人は、みずから働くのをやめて、社会的分配を受け取る側にまわればよい」ではないかと挑発する。

  たしかに理屈のうえでは、そのような回答で問題ないのかもしれない。しかしながら、その反論の背後には、もっと根深いものが潜んでいるのではないだろうか。

  「働かない人が社会保障をされているのはおかしい」という発言の底にあるのは、働かない人が窮乏生活に落ちるのを眺めて「ざまーみろ!」と思うことによって、つらいながらも働かざるを得ない自分自身を慰撫したいという気持ちではないかと私は思う。そういう気持ちをもっている人間は、自分自身が他人から「ざまーみろ!」と言われるような立場にはけっして落ちたくないのである。彼らは、失職してそのような言葉を浴びせられるくらいなら、あくせく働き続けることのほうを選ぶだろう。このような心性の人間たち(すなわち大衆)に対して、立岩の理屈はたいした効力を持たないように私は思う。

  同じことは、格差社会におけるいわゆる「勝ち組」の人間たちに関しても当てはまるだろう。立岩は、経済的に余裕のある人間たちから財をよりいっそう供出させて、財がどうしても必要な人たちに再分配すればよいと主張するが、それは実際に財を過剰所有している階層の人々のこころを動かす力となり得るであろうか。そのような正義の理屈だけでは、彼らが既得権を死守しようとするエゴイズムの力に勝てないのではないか。立法や政策によって彼らの既得権を解体すればよいのかもしれないが、しかし立法や政策にタッチできる人々のマジョリティこそが、それら「勝ち組」の階層の人々なのである。

  それでもよい、正しいこと、正義にかなうことを、どこまでも「言い続けていく」ことこそが学の使命なのだ、というわけなのだろうか。それは、立岩社会学を、一種の宗教のようなものへと近づけていくことになりはしないか。「言い続ける」ことによってカタルシスを覚え、結果的に体制を補完する装置として機能するだけに終わってしまう危険はないのか。

  と、思わず先走ってしまったが、立岩はその危険性には充分自覚的であるように思える。既得権の件についても、体制側が既得権を維持しようとするときに、どう対処すればいいかを検討しなければならないと、立岩はちゃんと書いている。そのうえで言うならば、やはり現在の立岩社会学には、われわれのエゴイズムや欲望にどうやって介入するのかについての考察が不足している、と言わざるを得ないように私は思う。これは、立岩社会学へのひねくれたエールだと思ってもらえるとうれしい。

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[]E・バダンテール『迷走フェミニズム』新曜社

迷走フェミニズム―これでいいのか女と男

迷走フェミニズム―これでいいのか女と男

2006年7月2日熊本日々新聞掲載

評者:森岡正博 (http://www.lifestudies.org/jp/)

 フランスのフェミニズムの第一人者であるバダンテールの新著だ。この本で著者は、アメリカのラディカルフェミニズムを痛烈に批判している。そして、彼女たちのことを、男女の機微を知らない無粋な輩としてこきおろしている。著者は言う。「男性に外の生活では対等の「パートナー」であってほしいが、ベッドでは力強く支配してほしいと要求する」ことなどは、ラディカルフェミニズムにとっては論外のこととされるが、それでは女性の気持ちをすくい取れないのではないか。あるいは、「望んでいない性的誘い」は糾弾すべきとラディカルフェミニズムは言うが、それは「男女関係においては自然な現象で、かつ文化の一部」なのである、と。望んでいない性的誘いをたくさん受けるなかから、こちらが望む誘いを探し当てるのが、女性が築き上げた文化なのだというわけである。

  もちろん著者はフェミニストであるから、現状の男女のあり方を肯定しているわけではない。経済面の不平等、女性の社会進出、家庭での暴力など、女性にとって不利な状況はまったく改善されていない。それらは、両性の平等という観点から、是正されなくてはならない。これが著者の基本的な考え方である。そのうえで著者は、アメリカの影響を受けた現在のフェミニズムが、迷走を始めているのではないかと訴えるのである。

  まず、フェミニズムは女性を「犠牲者」として捉えようとする。それは極端なまでに進行し、いまや女性は実際に犠牲者であるか、さもなくば潜在的な犠牲者であるとさえ言われる。女性は、男性が作り上げた暴力体制の犠牲者であるということを執拗に繰り返すフェミニズムからは、将来の社会に対する何の展望も開けてこない。

  また、男性はつねに女性を支配してきたし、女性を抑圧する社会体制に加担してきたとする言説は、いまや多くの男性たちに被害感を生み出す元凶となっている。「一方に無力で抑圧された女があり、他方に乱暴で支配と搾取を行う男があるという構図」からは、何ものも生まれない。

  男性性を敵視するこの思想は、女性性、とくに母性を賞賛する母性主義に力を与えることとなった。「生殖能力ゆえ、女性はより人間的かつ寛容で、道徳的にもすぐれている」という見解もフェミニストから出されている。異性愛と生殖こそが自然なモデルだと言うのである。著者はこのような立場を断固として否定する。そしてこのような誤った思想が力を持つようになったのも、男性性を徹底的に糾弾するラディカルフェミニズムの悪影響だと主張するのである。

  また、それらのフェミニストは、娼婦というものを軽蔑する傾向がある。娼婦に対する「つきることのない同情の言葉の底に感じられる軽蔑」は許し難いと著者は言う。暴力について言えば、暴力はほとんどの場合男性から女性に向けてふるわれるとされるが、実際には女性もまた多くの暴力をふるっており、それらは女性から女性へと向けられる。女性がふるう暴力について目を閉ざしているのもフェミニズムの怠慢であると言う。

  著者は、男性性を執拗に糾弾するだけではフェミニズムに未来は訪れないと考えている。そしてフランスでは、もっと別の方法が必要ではないかと訴える。男性と女性を敵対させるのではなく、現存する不平等を両性が協力して解決していくような運動こそが必要なのだというのである。

  フランスのフェミニズムの現状を垣間見ることのできる好著であるが、これが日本でどのように読まれるのか大いに気になる。フェミニズムバッシングが吹き荒れる女性政策の世界や教育界で、都合のいいところだけがつまみ食いされるのではないか? 「ほら見ろ、フランスではフェミニストがジェンダーフリーを批判しているじゃないか」などの曲解が横行する危険性はないのだろうか。

  学界からは、著者が目の敵にしているフェミニズムは一時代前のものであるという批判がなされるであろう。誤解や黙殺にさらされるのは間違いないと思われるが、それでもなお同時代のフェミニストからの真摯な声として一読に値すると私は思うのである。

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