感じない男ブログ このページをアンテナに追加 RSSフィード

2007-03-30

[]ビル・マッキベン『人間の終焉』河出書房新社

人間の終焉

人間の終焉

2005年10月16日新潟日報ほか(共同通信)掲載

評者:森岡正博 (http://www.lifestudies.org/jp/)

 いま生命倫理の最先端では、驚くべきことが議論されている。遺伝子操作やクローンなどの技術を使って、生まれてくる赤ちゃんを親の思い通りに改造してもいいかどうかがホットな話題になっているのだ。

  たとえば、IQ(知能指数)を高くする遺伝子が分かったら、赤ちゃんが受精卵のときにその遺伝子を注入しておけば、頭のいい赤ちゃんが生まれてくるようになるかもしれない。美しい顔やスタイルをもった赤ちゃんを遺伝子操作で作れるようになったら、その誘惑に勝てる親は、どのくらいいるのだろうか。

  本書は、将来確実に訪れるこれらの先端技術に対して「そんなものは要らない!もう十分だ!」と訴える。先進国の科学文明は、もうこれ以上進歩させても、人間の幸福には必ずしも結びつかないところまで来ている。だからいま必要なのは、欲望をどんどん肥大させることではなくて、与えられたものを歓待し、その中で生きる意味を見出すことではないかと言うのである。

  このような「脱欲望」の勧めが、米国民には容易に通じないであろうことを著者は自覚している。しかしそのうえで、著者は、先端技術による子どもの改造が、子どもたちにより多くの自由と選択肢を与えるのではなく、その逆に、多くの子どもたちから人生の選択の自由を奪い、生きる意味の創造を奪っていくということを、説得力をもって示すのである。

  だから試されているのは、結局のところわれわれの知恵なのだ。寿命をどんどん延ばすこと、能力をどんどんアップさせること、生命を自由自在に操ること。それは人生にとってどのような意味をもつのか。本書を読むと、これらの根源的な問題を考え込まざるを得なくなる。

  本書はこのような哲学的な問いによって貫かれているが、文体は良い意味でジャーナリスティックであり、生命倫理の最新の議論もほどよく取り込まれている。現代がどのような時代なのかを知るための格好のテキストだと言えるだろう。

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[]茂木俊彦都立大学に何が起きたのか』岩波ブックレット

都立大学に何が起きたのか 総長の2年間 (岩波ブックレット660)

都立大学に何が起きたのか 総長の2年間 (岩波ブックレット660)

2005年10月9日熊本日々新聞掲載

評者:森岡正博 (http://www.lifestudies.org/jp/)

 ここ数年の大学の変わりようには、ほんとうに目を見張るものがある。私は、大阪府が設置した大阪府立大学に勤務しているのだが、わが大学も今年から法人化された。法人化されると、大学は大阪府の下部組織ではなくなり、教員も地方公務員ではなくなる。大阪府の予算に頼り切っているわけにはいかない。のんびりしていたのでは、大学が経済的に潰れてしまうから、学生が殺到するような面白い大学に変えないといけなくなった。

  カリキュラムも大幅に変更したし、学生の意見をなるべくたくさん吸い上げるための方法をいま探しているところだ。これらは、大学を法人化することのメリットだと言える。

  ところが、関東の公立大学の代表的存在である東京都の都立大学が、法人化によってひどいことになっているという噂が、大学関係者のあいだに流れていた。その真相は謎に包まれていたが、とうとう当時の総長が、都立大学法人化の過程をあばく本を出版した。これは、大学の法人化が裏目に出たときに、いったいどういうことになるのかを見事に描いたタイムリーな本である。組織がどのようにして活力を失っていくのかを知りたいすべての読者に読まれるべき本であろう。

著者によれば、都立大学をどのように改革していけばいいかについて、教員たちは何度も会議を重ね、青写真を作っていた。ところが、都庁はその青写真をまったく無視した独自の改革案を総長に示し、「これに対して疑問を呈したり意見を言ったり」せずに、都の方針に沿って改革をするべしと命じたのだった。都立大学の改革は、かくして、都庁からの完全なトップダウンによってスタートしたのである。

  総長は、都庁のトップダウンのやり方に疑問を覚え、すぐさまそれを批判する「総長声明」を発表する。都庁はこれにあわてるが、さらに上からの締め付けを行なってくるのである。都庁は大学側に文書を送り、その中で、「改革である以上、現大学との対話、協議に基づく妥協はありえない」と宣言し、改革を批判する人たちは新大学に参加すべきでないと言明したのである。

  かくして、都庁側と大学側の対立は、最悪のものとなった。都立大学は東京都の組織なのだから、都庁の方針には従うしかないのだ。都庁はそれをいいことに、都立大学を、「都政のシンクタンク」と「産業界への奉仕」のための大学に作り替えようとする。その方針に反対の者は、どうぞ出ていってくださいというわけなのだ。実際に、経済学者たちは大学を去り、この大学からは経済学コースがなくなってしまった。

  都立大学は、その名称を「首都大学東京」(これもトップダウン)に変更して再スタートした。著者は、旧都立大学の式辞で次のように述べる。「もちろんトップダウンは、どんな場合にも誤りだというのではありません。しかし、ボトムアップをいっさい位置づけないトップダウンは、どこかで行き詰まります」。そしてこれこそが、都立大学で実際に起きたことだったのだ。

  著者はさらに言う。下からの意見が無視され続けると、人々は「もう何を言っても無駄だ、決めるのは自分ではなく、他の誰かが決めるのだ」という心境になり、だんだんと無口になり意欲を削がれていく。都立大で積み上げられてきた青写真が、都庁によって一蹴されたときに、教員たちが感じたものは、きっとこれだったに違いない。

  ボトムアップの支持があったうえでのトップダウンでなければならない。このような単純な知恵が、大学という知の殿堂において、まったく生かされなかった。もちろん都庁側は、別の言い分をもっていることだろう。だが、大学教育の現場を担う教員たちのトップが、ここまで批判的な物言いをするという事実を、行政は重く受け止めないといけないだろう。組織を運営する者は、これを他山の石とすべきであると私は思う。

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[]ドナルド・リチー『イメージ・ファクトリー 日本×流行×文化』青土社

2005年9月25日東京新聞掲載

評者:森岡正博 (http://www.lifestudies.org/jp/)

 コギャル、ケータイ、コスプレ、マンガ。いまの日本を覆っているこれら不可解な現象を、日本通の欧米系外国人が見たら、どう感じるのか。それを知るために最適の本が刊行された。著者のドナルド・リチーは、日本映画の評論などで著名な米国のジャーナリストであり、東京で流行しているファッションやアイテムなどには、異様に詳しい。

  どの国にも流行の波はあるが、日本の特徴はその移り変わりのスピードが非常に速いことである。瞬間着せ替え人形のようなそのふるまいを丹念に解析していくことによって、日本人の文化的伝統や、コミュニケーション回路があらわになる。その分析の鮮やかさによって、本書は出色の比較文化論となった。

  たとえば「パチンコ」の章を見てみよう。リチーによれば、外国人が日本のイメージを考えるときに思い浮かべるのは、もはやフジヤマやゲイシャではなく、カラオケ屋やパチンコ屋であると言う。なかでもパチンコは、人々が黙々と機械に対面している姿が異様であり、まったく理解しがたい娯楽である。しかしリチーは、パチンコに興じる日本人たちは、パチンコに支配されて自己を忘却することによって、逆説的に自己から解放されるのであり、その意味で座禅のような宗教的行為に似たものとなっていると指摘する。

  もちろん座禅と違って、パチンコは対処療法でしかないが、あの騒々しく猥雑な空間に座禅的解脱を見出そうとするのは、この著者ならではの視点だろう。ただし、著者自身が述べているように、これは一種の「反語」なのかもしれない。すなわち、パチンコ屋の中にすら「ZEN」を見出したいとする欧米的オリエンタリズムに対する、身をもってのアイロニーかもしれないのである。

  このようにたいへん刺激的な本なのだが、一点言わせてもらえば、マンガやコスプレに対してはもっと愛情を持って接してほしかった。今後の仕事に期待したい。

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[]宮地尚子『トラウマの医療人類学』みすず書房

トラウマの医療人類学

トラウマの医療人類学

2005年8月14日熊本日々新聞掲載

評者:森岡正博 (http://www.lifestudies.org/jp/)

 「トラウマ」というのは、心の奥深いところに刻み込まれた傷のことだ。それはなにかの拍子にうずきだして、忘れたかと思っていた過去の記憶を鮮明に浮かび上がらせたり、原因不明の体調不良を起こさせたりする。「トラウマ」という言葉は、日本では阪神淡路大震災をきっかけに広く使われるようになった。地震の恐怖を夜中に思い出して、ベッドから飛び起きる人も多いと聞く。

  だが、トラウマ研究によれば、もっとも深刻なトラウマは、地震や事故のように一回切りで終わった出来事によるものではなく、成長の過程で何度も何度も繰り返された暴力や虐待によるものなのだ。そのもっとも悲惨な例が、子どものときに経験した性的虐待である。親や親戚などから繰り返し性的虐待を受けた子どもは、自分が自分であるという感覚を失い、自分が存在していてもいいという安心感を根こそぎ奪われ、自分のこころを自分の身体から切り離したり、多重人格になったりすることもある。

  宮地尚子さんの『トラウマの医療人類学』は、繰り返される暴力や虐待が、人間をどこまで追いつめていくのかについて、あらゆる角度から迫ったものである。宮地さん独自の斬新な切り口は、読む者の目を充分に開かせる迫力をもっている。

  「私のトラウマは××なんですよ」と言う人がいるが、宮地さんはそれに疑問をはさむ。なぜなら、そもそもトラウマとは、本来言葉にならないものだからである。性的虐待を受けた者、悲惨な戦地から帰還した者、慰安婦として働かされた者、彼らはみずからのトラウマを語ろうとはしない。それをあえて語ろうとしても、肝心のところで言葉は詰まり、断片的な叫び声やうめき声が漏れてくる。そのときに彼らは、みずからの底なしのトラウマと出会っているのである。

  そのときに、その声にならない声を目の前で聴いてしまった「私」というものが、実は試されることになる。私が敏感であればあるほど、私は揺らいでしまう。宮地さんは、自分の揺らぎを隠蔽することなく、むしろそのような揺らぎの中で、人間を支えていこうとするプロセス全体が、真の精神医学・医療ではないかと主張しているように見える。宮地さんはそのように明言してはいないが、しかしそれが彼女のメッセージであるように私には思われた。

  そのような問題意識のもと、宮地さんは子どもへの性的虐待がもたらすトラウマの深みへと分析を進めていく。まず最近の統計研究が紹介されているが、これは驚くべき結果である。一九九五年から九七年にかけて、米国の一万七千人を対象にして研究が行なわれた。性的虐待を受けた経験があるのは、全対象者の二〇%である。子ども時代に虐待を受けた人は、のちに肺疾患、癌、糖尿病などにかかる危険性が何倍にも増大することがわかった。さらに彼らの自殺企図の三分の二から八割程度が子ども時代のトラウマと関連するという。一〇代での妊娠経験率も見事な相関関係を描く。母数の多さから言って、信憑性が低いとは思いにくい。

  子ども時代の性的虐待は、このような身体症状として出るだけではなく、大きな精神の傷となってその人間を苦しめる。「お父さんと性的経験をもってしまった私」という意識は、自分自身の内部に「おぞましい」虫のようなものが潜んでいるという感覚を植え付ける。自分自身が、絶え間のない恐怖の対象になってしまうのである。私を苦しめたあの人が、いまなお私の内部で生き続けている、という感覚を日々感じながら生きていくというのは、閉塞したやりきれない経験だろう。

  そのトラウマを、人は言葉に出すことができない。出そうと試みても、それをそのまま受け止めてくれる安全な場所はどこにもない。これがトラウマをかかえた人間の心象風景なのだ。解決の糸口を探るためにも、ぜひ本書を読んでみてほしい。

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[]内田隆三『社会学を学ぶ』ちくま新書

社会学を学ぶ (ちくま新書)

社会学を学ぶ (ちくま新書)

2005年6月12日熊本日々新聞掲載

評者:森岡正博 (http://www.lifestudies.org/jp/)

 大学の文系の学部に入った学生が、まっさきに惹かれるのは、人間の心を探る「心理学」と、人々のふるまい方を探る「社会学」だろう。実際、私の勤める大学でも、この二つの学問の人気はとても高い。

  社会学というと、街に出て実際に人々の行動を調べたり、アンケート調査をして分析したり、じっくりとインタビューして人々の意識をあぶりだしたりするのが定番のやり方だし、学部の卒論などはそのような手法で書かれたものがいちばん多いと言える。このような実証的な調査と、そこから見えてくる「意外性」をもった結論が、いわば社会学の華である。

  ところで、社会学にはもう一つの系譜がある。それは、私たちの社会の全体が、どういうふうにできているのかを、理論的に探究するものである。古くは、カール・マルクスが行なった資本の分析などがそれに当たる。社会の全体はどのような仕組みで動いているのか、それは私たちの意識にどんな影響を与えているのか、そしてそもそも「社会」とは何なのか。このような問いに対して、見事な見取り図を与えてくれるのが、内田隆三さんの新著『社会学を学ぶ』である。このような深みをもった書物が、手軽な新書で刊行されたことを喜びたい。

  内田さんの問題意識は一貫している。私を取り巻く大海のような社会のうごめきと、その中に飲み込まれて生きるこの私という主体は、どういうふうにつながれてしまっているのか。それを軸にして、一九世紀から二〇世紀末に至る、現代社会学の思考の流れを、クールに鷲掴みにした。

  社会学の始祖のひとりは、デュルケームだが、彼は『自殺論』という本を書いた。その中で彼は、経済的な危機のときに自殺者が増えるだけではなく、好景気でその恩恵を受けるはずの人でもまた、自殺率が高くなるという事実を発見している。さらには、離婚によって男性の自殺率は高くなるのに、女性はむしろその逆になるという。このような逆説は読んでいて楽しいが、内田さんはデュルケームの見出したもっとも重要なことは、次の点であると言う。つまり、「自殺」という個人の心のもっとも深淵で起きる出来事に、「景気」や「結婚制度」というような社会のあり方が、決定的な影響を与えているということである。それが統計で示されるのである。

  つまり、これを私の言葉で言い換えれば、社会学とは、私が最後の砦として守り通しておきたい「心の内面=主体」にまでずかずかと土足で入ってきて、「実は君の内部には、内面などという神聖なものはないんだよ」「内面とは結局のところ、君を取り巻く社会によって作り上げられた虚構にすぎないんだよ」と暴いてみせる知的な営みだということになる。このような暴力性が切り開く、まったく新しい知の地平こそが、現代の社会学の真骨頂なのである。

  内田さんは、その結果、「現代社会が主体の意識に還元できないものから成り立っているのではないかという不安の意識」が、二〇世紀の社会学の中に生み出されてしまったと言う。その傾向は、ルーマンやボードリヤールらの社会システム論によって極限にまで進められる。そこでは、社会というのは、私たち個人とはほとんど無関係に、それ自身の論理で芋虫のようにうごめいて巨大に成長していく、超生命のようなものとされるのである。

  もしオーソドックスな哲学者がこの本を読んだら、とても苛立たしく感じてしまうだろう。なぜなら、人間の心の中にある「主体」の「尊厳」などというものは、結局は虚構でしかないと宣言されているような気がするからである。しかしそれは哲学者の奢りだ。これら社会学の成果をきちんと踏まえたうえで、もう一度、人間存在について思索しなおさないといけないはずだ。そのための手がかりを与えてくれる好著である。

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