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2007-04-23

[]粥川準二『クローン人間』光文社新書

クローン人間 (光文社新書)

クローン人間 (光文社新書)

2003年2月16日信濃毎日新聞掲載

評者:森岡正博 (http://www.lifestudies.org/jp/)

 世界には、クローン人間を作ろうと躍起になっているグループが、少なくとも三つある。そのうちのひとつ、ラエリアンという団体が、クローン人間を作成したと発表した。しかし、生まれた赤ちゃんが、ほんとうにクローン人間だという証拠がなかなか示されないものだから、彼らの発表はいま疑いの目で見られている。

 ところで、そもそもクローン人間とは何なのか? それを短時間で理解するためには、粥川準二さんの新著『クローン人間』を読むことをおすすめする。海外と日本の現状を的確にレポートしたこの本によって、われわれは、クローン研究の実状と、その問題点をリアルに認識することができるはずだ。

 粥川さんは、クローン人間に関する大きな問題点を指摘する。それは、われわれの「優生思想」だ。自分のクローンの赤ちゃんを作りたいという人々は、自分と同じような血筋がほしいと思っていたり、殺人者の子どもを養子にはしたくないと言うことすらある。ここにある「優生思想」を見過ごすわけにはいかない。

 さらには、クローン人間に反対する人々の中にも、同じような「優生思想」があるのだと言う。たとえば、いまのクローン技術で赤ちゃんを作ると、先天的な障害児が生まれる危険性が高いから、クローンには反対すると主張する識者がいる。しかし、そのことばを裏返してみると、その識者は、「先天的な障害児はこの世に生まれてこないほうがいい」と言っていることにはならないのか。これは、あからさまな「優生思想」なのではないか。

 粥川さんは、クローン技術のほんとうの問題は、クローン人間を作るかどうかというところにあるのではなく、移植用臓器の作成などのためにクローン技術が使われていくことにあるのだ、と強調する。自分の身体の細胞を取り出して、クローン技術で卵に移植し、自分と同じ遺伝子をもった肝臓や神経などを作ることができるのだ。しかし、そのためには、大量の卵を女性から取り出さないといけない。そのときに、おびただしい「女性の道具化」が起きるにちがいない。これは、実は相当深刻な問題点なのである。

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[]石川准・倉本智明編著『障害学の主張』明石書店

障害学の主張

障害学の主張

2003年1月12日信濃毎日新聞掲載

評者:森岡正博 (http://www.lifestudies.org/jp/)

 障害をもった人たちが、いまの社会のなかで生きていくのは、まだまだきびしいことである。本書にも紹介されているけれども、電車の隣に座った人に「きたいない」と言われて席を立たれたり、喫茶店で出ていくように言われたりする。

 障害については、いままではおもに医療やリハビリテーションの専門家たちが考えてきた。身体に障害があるのだったら、訓練によって人並みに動かせるようにして、いまの社会に適応してもらうという試みがなされてきた。

 しかし、よく考えてみれば、なぜ障害者のほうが、社会の都合に合わせなければならないのだろうか。障害者は、いまのままの自分の身体や心を、肯定してはいけないのだろうか。自己肯定したうえで、社会の側の都合との折り合い点を探すべきなのではないだろうか。

 このようにして、障害をもった本人の存在を肯定し、その視点から「障害者」と「社会」の関係を考え直していこうとする学問として「障害学」は誕生した。本書は、日本の障害学の最近の成果を、まとめ上げたものである。新進注目の書き手がそろった、タイムリーな一冊であろう。

 立岩真也は、「障害者は生産ができないではないか」という声を吟味し、たしかに何もできないよりは、何かができたほうが望ましいとは言えるのだが、それをすべての人間にまで当てはめるのは間違っていると言う。もし仮に私が何かをできなかったとしても、私のかわりに誰かがそれをやってくれる仕組みが、無理なく社会のなかに組み込まれていればいいわけである。であるから、「できるほうがいいに決まっている」という考え方は、ダメなのだと結論する。

 倉本智明は、身体に障害をもつ男たちのセクシュアリティについて興味深い考察をしている。障害をもつ男性が、「男」としての自己肯定を得るために、「エッチな俺」「女性を征服できる俺」になろうとするケースが少なからずあり、彼らは過剰な男性性を引き受けなければならないという困難に直面するのではないかと言うのである。新鮮で切実な問題提起が随所に見られる書物だ。

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[]中島義道『「私」の秘密』講談社選書メチエ

「私」の秘密 哲学的自我論への誘い (講談社選書メチエ)

「私」の秘密 哲学的自我論への誘い (講談社選書メチエ)

2002年12月29日信濃毎日新聞掲載

評者:森岡正博 (http://www.lifestudies.org/jp/)

 この本は、哲学の永遠のテーマである「私とは何か」という問いに対して、正面から解答を与えたものである。西洋の哲学者の受け売りではなく、自分自身のことばで考え抜かれている。これは、ほんとうの意味での哲学書だと言えるだろう。

 まず、「私」はどこにいるのかを考えてみる。「私」は脳の内部にいるのか。しかし、いくら自分の脳を解剖してみても、「私」はどこにも発見されない。私が見たり感じたりしているこの世界のなかには、「私」は存在していないのである。

 では、「私」はこの世界の外側に存在していて、この世界を遠くから見下ろしているのだろうか。そういうふうに考えた哲学者はたくさんいたが、では、世界の外側にいる「私」が、どうして世界の内側を見ることができるのかという難問が残ることになる。

 中島さんは、「時間」の秘密が分かれば、「私」のことも分かると言う。たとえば、自分が見たことや、したことを、即座に忘れてしまう人間がいたとする。その人間は、はたして「私」というものを持っているのだろうか。中島さんは、ノーと答える。そのような人間は、目の前を通り過ぎていく様々な光や、映像や、音などをただ次々と体験しているだけであり、それらを体験しているところの「私」というものは、この人の人生にはまったく登場しないのだ。

 そもそも人間の人生に「私」というものが登場するのは、自分のしたことを振り返って、「ああ、あのときに、自分はあんなことをしていたな」と思い出すときである。過去の自分を振り返るその瞬間に、振り返られた「過去」というものと、それを振り返っている「いま現在」というものを、一気につなぐ何ものかが立ち現われる。これが「私」なのだと中島さんは考える。過去を振り返ることを原点に置いた、新しい哲学である。中島さんの主張がほんとうに正しいのかどうか、議論が必要だ。

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[]亀井智泉『陽だまりの病室で』メディカ出版

陽だまりの病室で―植物状態を生きた陽菜(ひな)の記録

陽だまりの病室で―植物状態を生きた陽菜(ひな)の記録

2002年12月15日信濃毎日新聞掲載

評者:森岡正博 (http://www.lifestudies.org/jp/)

 長野県立こども病院に、重症の新生児が運び込まれた。脳はほとんど働いておらず、「脳死」と言ってもいいような状態だった。その赤ちゃんは「陽菜(ひな)」ちゃんと呼ぶのだが、意識もなく寝たきりのまま、医療スタッフの適切な治療と、両親の献身的なケアを受け、四年間生き続け、そのいのちを全うしたのであった。本書は、母親が書き記した、その記録である。

 人工呼吸器につながれたまま、親のことばにも反応を返さない赤ちゃんに対して、たえずはっきりと声をかけ、誕生日を祝い、七五三を祝う両親とスタッフの姿については、この本を読んでいただくしかない。たとえ脳が働いていなくても、身体の細胞のひとつひとつが生きているかぎり、この赤ちゃんは生きているのだという確信がそこにはある。

 病院の中で子どもと四年間を過ごすうちに、母親の生命観も徐々に変わっていき、陽菜ちゃんが亡くなったときには、「医療の敗北ではない。医療の完遂だった」と考えるようになる。冷たくなった陽菜ちゃんを自宅に連れて帰り、妻と夫のあいだにはさんではじめて家族一緒に寝る。氷のように冷たい手を握って、それでも幸せだったという母親の言葉に、私は何とも言えない真実を感じる。

  しかし驚いたのは、陽菜ちゃんの状態についてだ。実は、瞳孔の固定、平坦脳波、自発呼吸の消失など、成人向けの日本の脳死判定基準を見事に満たしている。それでも、四年間も生存を続けた。いま子どもや赤ちゃんのための脳死判定基準が専門家によって提唱されているが、それに照らし合わせたとしても、陽菜ちゃんは臨床的な脳死と判定されてしまうのではないだろうか。

 おそらく脳死状態にあるだろう陽菜ちゃんは、大好きな主治医の前ではうんちをしない。先生が「じゃ、またね」と握手をして出ていったとたんに、顔を真っ赤にしていきんで、モリモリモリとうんちをするのである。そんな陽菜ちゃんを囲んで、一喜一憂する家族とスタッフたち。安曇野の豊かな自然に囲まれた、四年間の不思議な生と死の軌跡である。闘病記にありがちな湿り気を極力排した、魅力的な文章が光る一冊だ。

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[]金井淑子・細谷実編『身体のエシックス/ポリティクス』ナカニシヤ出版

2002年11月24日信濃毎日新聞掲載

評者:森岡正博 (http://www.lifestudies.org/jp/)

 フェミニズムと倫理学が、いま急速に接近している。その二つが交差する場所こそが、私たちの「身体」だ。たとえば、代理母や体外受精は、「産む性」である女性の身体を抜きにしては語れない。買売春や、セクシュアリティなどもそうだ。

 本書を読むと、いま何がほんとうに問題なのかが浮かび上がってくる。一〇本の論文が収められているが、そのなかで最も衝撃的なのは、浅野千恵さんが書いた「性暴力映像の社会問題化」という文章だ。

 浅野さんは、女性をほんとうにレイプしたり虐待したりしているように見えるアダルト・ビデオを取り上げる。そういうビデオに出演した女優たちは、将来、深刻なトラウマを背負ってゆかねばならないはずなのに、ビデオを消費する男たちは、この問題を頭の中から消し去っている。

 浅野さんは、それに加えて、新しい論点を提出する。それは、このようなビデオを見てしまった視聴者が受けてしまう心的被害である。このような問題意識を持つに至った背景には、浅野さん自身の体験がある。彼女は、調査や議論のためにこの種のビデオを繰り返し見るのだが、その結果、虐待シーンや暴力映像がいきなりフラッシュバックしてきたり、ふとしたときに心臓が苦しくなったり、突然恐怖や怒りにおそわれたり、人間不信に陥ったりした。

 性暴力映像は、出演した女優だけではなく、それを見てしまった女性や、見させられた女性に対しても深刻な被害を及ぼす危険性があるのだ。浅野さんによれば、性暴力映像の問題を訴えていた女性が、自殺してしまった。その女性の手記を読むと、彼女自身がその映像によって精神的に追いつめられ、孤独と絶望に沈んだことが記されている。浅野さんは、その女性の自殺の背後には、このトラウマがあったのではと推測している。男性たちにはまったく認識されてこなかった問題が、いま明らかにされた。

 このほかにも、河口和也さんは、同性愛者への暴行が、なぜ本来の意図を超えてまで執拗に行なわれるのかを分析し、この社会に潜む同性愛嫌悪の深刻さを浮かび上がらせている。二論文ともに必読である。

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2007-04-09

[]伊田広行『スピリチュアル・シングル宣言』明石書店

スピリチュアル・シングル宣言

スピリチュアル・シングル宣言

2003年6月22日信濃毎日新聞掲載

評者:森岡正博 (http://www.lifestudies.org/jp/)

 伊田広行さんがここのところ主張してきたことが、一冊の本にまとまった。自分の生き方を模索しようとしている若い人たちにとって、人間というものを深く考える指針となるだろう。

 伊田さんの考え方は、「スピリチュアル・シングル主義」である。略して「スピシン」と呼ぶ。人間のこころの奥深い面や、他人とつながっていく面を大切にしながら、凛々しい個人として自立していこうという思想である。 伊田さんは、これからの日本人はシングル単位主義でないとだめだと言う。とかく日本社会では、集団に埋没することをよしとする風潮があるが、それによって人々はぜんぜん生き生きと生きてないじゃないか。税金や福祉の仕組みを見ても、いつも家族単位で扱われていて、個人主義のかけらもない。私とあなたは違う、ということを前提としたうえで、個人のユニークさを認め合う社会を作っていくことが必要なのだ。

 だけれども、それは「人に迷惑かけてないから、何しても勝手でしょ」ということと同じではないと、伊田さんは強調する。私とあなたは別々の人間だということと、何をしても私の勝手ということを混同してはならない。

 人間は徹底してシングルでなければならないという境地に立ちながらも、そこから、社会のなかの差別を繊細に見出していって、それを解体することが必要だし、そのためには常に他人の言うことを心を込めて聴くことが求められる。権力というものに対する繊細な感性も求められる。

 このように、自分一人の足で立つという地点から、必然的に、ともに生きる人々への共感と、こころの深い次元での響き合いと、人間を全体として生かす力への希求があふれ出てくるような思想行動が、伊田さんのいうスピシン主義なのだ。

 伊田さんは、これまでの古いタイプの左翼運動には限界があると明言する。こわばった声で打倒を繰り返すのではなく、真に人々のスピリットの奥底まで響き合う新しいことばが必要だと主張するのである。

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[]池田晶子『14歳からの哲学』トランスビュー

14歳からの哲学 考えるための教科書

14歳からの哲学 考えるための教科書

2003年4月11日信濃毎日新聞掲載

評者:森岡正博 (http://www.lifestudies.org/jp/)

 この宇宙はなぜ存在するのか。生きる意味とは何か。池田晶子さんは、答えが容易には見つからないであろうこれらの問いを、若者たちに突き付ける。そして、これらの問題について、自分の頭で考え続けよと迫るのだ。青少年向けの哲学入門書は、過去の思想家たちの学説のエッセンスを伝えるものが多いが、この本はちがう。これは、読者が実際に哲学をすることを目指して書かれた本なのである。

 池田さんの主張は、非常に明快だ。私が存在しているという出来事、それは奇跡そのものだ。これに比べれば、世の中のあらゆることが色あせてしまうくらい、存在というのは奇跡的なことなのだ。そして私が存在しているということは、他の何ものにも置き換えることができないくらい絶対のものなのだ。この根本感覚を自分の実感で捕まえることこそが、哲学の営みであるというのが、池田さんの言いたいことである。

 哲学とは、多くの人が当たり前だと思っている前提について、わざわざ考えることだと池田さんは言う。自分についてあれこれ考える前に、そもそも「自分」とは何なのかについて考えるのが哲学なのだ。いまここにいる「自分」は、他人に依存して生きている頼りないものにしかすぎないけれど、この「自分」というあり方それ自体は、他の何ものにもけっして還元することができない絶対的なものだ。この意味での「自分」は、そこから眺められるすべての世界や宇宙とつながっているわけだから、「自分」とつながっているところの世界や宇宙もまた、絶対であると言えるはずなのだ。

 というようなことを、池田さんはていねいな言葉で、何度も繰り返して説いている。青少年相手だからと言って、不自然におもねったりしていない。「死ぬという思い込みから解放された精神が、永遠に存在する宇宙として自分のことを考え続けている」という光景は、驚異的な「自由」じゃないのかと池田さんは問いかける。そのようなことを人間が考えられるというところにこそ、哲学の魔力と過激さがある。それを描くことに成功した本なのだ。

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[]小林正弥『非戦の哲学』ちくま新書

非戦の哲学 (ちくま新書)

非戦の哲学 (ちくま新書)

2003年4月6日信濃毎日新聞掲載

評者:森岡正博 (http://www.lifestudies.org/jp/)

イラク戦争が始まってしまった。またしても、正義の名のもとでの暴力が行使されたわけだ。一連のなりゆきを見ていた心ある人たちは、もっと他のねばり強いプロセスがあり得たはずなのに、という悔恨の念を抱いているにちがいない。

 本書は、この混沌とした世界のなかで、ぎりぎりまで戦争を避けるにはどうしたらよいのかを考えているすべての読者に、ストレートに問いかける書物である。著者の小林さんは、戦争はいっさい行なってはならないという完全な反戦論の立場は取らない。敵が攻めてきたときに防衛するための「専守防衛」は、いわば「必要悪」であり、心情的にはつらくてもそれを認めないといけないのではないかと主張する。そして、これが日本の理念となるべきだと言う。

 かと言って、「普通の国」になるための軍備強化が必要だとは考えない。むしろ逆に、平和主義を明記した日本国憲法を、戦後日本の誇るべき公共哲学として堂々と打ち出すべきだと言うのである。日本国憲法は二一世紀の「聖典」であるとさえ小林さんは主張する。このようにして、完全反戦主義でも、軍備増強論でもない第三の立場を構想しようというわけだ。

 このような主張は、とくに目新しいものではないかもしれないが、対米テロが起き、イラク戦争が起きてしまった現在、われわれはもう一度この次元にまでさかのぼって、現代の公共哲学を根底から問いなおさないといけないように私は思う。

 小林さんは、侵略戦争、軍国主義、核戦争、文明衝突戦争の四つを、何が何でも否定すべき公共悪だと考える。いわゆる「文明の衝突」論は、机上の空論ではない。実際に、イラク戦争も、アラブ世界・対・米英という姿を徐々に取り始めている。もし、文明衝突戦争が本格的に始まってしまったら、それは地球全体を巻き込む悲惨な出来事になるだろう。だから、小林さんは、あえて「文明の衝突」論を評価して、そのような文明の衝突がぜったいに起きないようにわれわれは努力すべきなのだと主張するのである。議論の叩き台となる好著だ。

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[]倉持武・長島隆編『臓器移植と生命倫理』太陽出版

臓器移植と生命倫理 (生命倫理コロッキウム)

臓器移植と生命倫理 (生命倫理コロッキウム)

2003年3月23日信濃毎日新聞掲載

評者:森岡正博 (http://www.lifestudies.org/jp/)

 先日、ある会合で、臓器移植法の研究をしている外国人研究者の話を聞く機会があった。その研究者は、日本のいまの臓器移植法にとても関心をもっていて、他国もこの法律から学ぶことができるのではないかと語っていた。たしかに、そうなのだ。日本の臓器移植法には、いろいろな難点はあるのだが、しかしそれは、「本人の意思表示」があるときに限って脳死判定ができるという、世界でも類を見ない法律だ。国外から注目されて当然だろう。

 その臓器移植法を、改正しなければならないという声が、日増しに高まっている。「本人の意思表示」がなくても、脳死移植を行なえるようにするべきだという声がある一方で、「本人の意思表示」の原則は最後まで守り通すべきだという声もある。一五歳未満の子どもからの脳死移植についてはどうするのかという問題も、残されている。

 本書、『臓器移植と生命倫理』は、この問題にくわしい専門家たちが集結して、最先端の知識を駆使しながら、論点を洗い出したものである。提案されているいくつかの改正案の検討や、子どもの脳死判定基準への批判など、まさに最先端の話題と情報が盛りだくさんの、タイムリーなハンドブックである。

 いろいろな論文が収められているが、とくに目を引いたのは、一九九九年に成立した韓国の臓器移植法についての検討だ。韓国の法律は、人間を、「生きている者」「脳死者」「死亡した者」の三つに分けている。これもまた、世界に類を見ない法律である。「生きている人間」と、「心臓が止まって死亡した人間」の中間に、「脳死になった人間」という第三のカテゴリーを置いているのだ。そして、脳死者は「まだ死んでいない」とされる。

 そのうえで、脳死になった本人の意思表示がなかった場合は、家族の承諾があれば臓器を取り出すことができる。このように、韓国の法律は、「本人の意志表示」の原則を緩めるのだ。しかしながら、家族を重視する点では、日本と似ている。日本の法律と、韓国の法律は不思議なねじれ方をしている。関心のある方は、ぜひ精読してみてほしい。

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[]入不二基義『時間は実在するか』講談社現代新書

時間は実在するか (講談社現代新書)

時間は実在するか (講談社現代新書)

2003年3月9日信濃毎日新聞掲載

評者:森岡正博 (http://www.lifestudies.org/jp/)

 「時間」とは、いったい何なのか? これは、多くの人が、一度は考え込んでしまう謎であろう。ふと気がついてみたら、もう何時間も経っている。ふと気がついたら、もう青春時代は終わっていた、なんてこともある。時間は、無慈悲に過ぎ去っていく。だが、時間が過ぎていくとは、いったいどういうことなのだろうか?

 このなぞに、非常に面白い角度から迫ったのが、入不二基義さんの『時間は実在するか』だ。日本にはオリジナルな哲学がないと、いままでさんざん言われてきたが、そんなことはない。入不二さんのこの本は、自分の頭でとことんまで考え抜かれた独創的な哲学書だ。本の前半では、マクタガートという哲学者の時間論をていねいに解説して、その欠点を洗い出し、後半で壮大な入不二時間論とでもいうべき仮説を提示している。「時間」に興味を持つすべての人のための必読書である。

 「時間」には、二つの性質があると言われてきた。ひとつは、一九九〇年の次には一九九一年が来て、そのあとには一九九二年が来る、というような客観的な前後関係だ。世界を観察する人間とは無関係に、客観的に連なっている時間とでも言おうか。これに対して、もう一つの性質は、あるできごとが遠い未来からやってきて、いまここで現実のものとなり、やがて過去へと去っていくという、時間の流れのようなものだ。この時間の流れは、けっして客観的には捕まえることができない。いま目の前にあるできごとも、次の瞬間には、過去へと去ってしまうからだ。

 「時間」のもつこの二つの性質は、矛盾するのではないかと考えられてきた。それに対して、入不二さんは、この二つの性質が、たえずお互いに依存しあいながら運動を続ける点にこそ、「時間」の本質があるのだと考える。そこから導かれてくるのは、「時間」を支えているところの「無でさえない未来」「この今の現実性」「現在だったことのない過去」という次元である。この魔術的な概念装置によって、入不二さんは読者をどこへ連れていこうとしているのだろうか。哲学的興奮を味わえる一冊である。

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2007-04-05

[]春の更新哲学三昧

生命学HPの4月1日の日記がアップされています。

論文「生命学とは何か」などについての更新ぜひご覧ください。

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[]沼崎一郎『なぜ男は暴力を選ぶのか』かもがわブックレット

2003年1月19日信濃毎日新聞掲載

評者:森岡正博 (http://www.lifestudies.org/jp/)

 妻に暴力をふるう男たちがいる。日本でも数え切れないくらいたくさんいるのだが、家庭というベールの内側に包まれているので、なかなか実態がつかめない。近所の人が不審がって、警察に届けることがあっても、男は「いやー、ちょっとした夫婦喧嘩なんですよ、すみませんでした」とにこにこして答えるから、警官もそれ以上立ち入ることができない。もちろん、警官が立ち去ったあと、妻はさらに激しく殴られているのである。

 本書は、妻に暴力をふるう男たち(著者は「バタラー」と呼ぶことを提案している)の心の動きを、簡潔に説明したものだ。大事なポイントがきめわて的確に説明されているので、ぜひ手にとって読んでみていただきたい。

 著者の沼崎さんは、妻を殴ることそれ自体が男たちの目的なのではないと言う。男たちの真の目的は、「殴られるかもしれない」という恐怖で妻をこわがらせることによって、妻の行動を「あやつる」ことなのである。逆らったらこわいぞと相手に思わせることによって、相手を自分の思い通りにすることを、男たちは狙っているのだ。

 だから、男たちは「暴力を選んでいる」と言える。彼らは「つい、かっとなって殴ってしまった」と弁解するが、これは全くの嘘である。なぜなら、妻を殴る男たちのほとんどは、職場ではきわめて外面の良い人間であり、けっしてかっとなって同僚を殴ったり、女子社員を殴ったりはしていない。彼らは、時と場所を選ぶことを知っている。つまり彼らは、自分の妻だけを選択して、殴っているのである。

 また、「酒に酔って、つい殴ってしまった」というのも弁解の常套手段であると言う。理性を失うくらい酒を飲んでから妻を殴るというケースは、ほとんどない。彼らは、酒を飲んでから、それを口実にして意識的に妻を殴っているのである。

 彼らはまた、弁解がとても上手だ。自分の暴力を、すべて妻のせいにする。あまりにも演技がうまいから、警官や弁護士ですらだまされてしまう。彼らを更正させる方法は見つかっていない。被害者をみんなでサポートすることしか、いまのところ対策はない。

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2007-04-04

[]フォカ、ライト『イラスト図解 "ポスト"フェミニズム入門』作品社

2003年10月12日信濃毎日新聞掲載

評者:森岡正博 (http://www.lifestudies.org/jp/)

 いま日本の各地で、「ジェンダーフリー」の考え方への批判が繰り広げられている。すなわち、男と女の差をなくしていこうとするジェンダーフリーの思想は、この世から「男らしさ」「女らしさ」を消滅させ、ひいてはトイレまで男女共用にさせようとするものである、というのだ。そして、そのような過激思想をばらまいた元凶として、フェミニズムが糾弾されるのである。

 しかしフェミニズムは、ほんとうにそんなことを主張してきたのか? それを確かめるために、書店に行って女性学のコーナーを探索してみても、なにやら難しい議論をしている書物ばかりで、とまどってしまう人が多いのではないだろうか。

 本書は、フェミニズムの最先端をコンパクトにまとめた一冊である。ますます多様化してきた現代社会のなかで、フェミニズムがどのように苦しみ、もがいてきたのかを知ることのできる貴重な本だ。タイトルに「イラスト図解」とあるように、ほとんどすべてのページに漫画イラストが付けられており、議論のツボを直観的に捉えることができるようになっている。

 フェミニズムの思想は、その当初から、「女と男は平等でなければならない」という考え方と、「女と男のあいだ、女と女のあいだには差異がある」という考え方の両方を含んでいた。現代社会を生きる女性たちにとっては、そのどちらも大事な考え方なのであり、一見矛盾するように見えるこの二つの考え方を、どのようにして両立させるかをめぐって、フェミニストたちの苦闘が続けられてきたと言っても過言ではない。

 女性は、社会参加のみを奪われてきたのではない。女性は、「女とは何であるのか」を自分自身で考えて語るための「言葉」を奪われてきた。しかし、そのための「言葉」を手に入れようとする女性たちが、まるで従来の「男」のようになってしまったらどうなるのか。かといって、いつまでも沈黙の空間に座しているわけにはいかない。言葉を奪われる経験を言葉にしてもよいのかどうか。「ポストフェミニズム」とは、このような身を切るような難問から出発する思想なのである。

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[]ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』岩波文庫

論理哲学論考 (岩波文庫)

論理哲学論考 (岩波文庫)

2003年9月28日信濃毎日新聞掲載

評者:森岡正博 (http://www.lifestudies.org/jp/)

 哲学者ウィトゲンシュタインが、一九一八年に出版した『論理哲学論考』の新しい翻訳が、岩波文庫から出た。いままで文庫になっていなかったのが不思議なくらいの書物だし、翻訳した野矢茂樹さんは、この分野の第一人者だから、これはもう本年の目玉出版と言っていいと思う。

 当時ウィトゲンシュタインは弱冠二九歳。そして死ぬまでのあいだ、この本一冊しか公刊しなかった。それにもかかわらず、この本に惹かれた哲学者たちが「論理実証主義」という思想集団を結成し、二〇世紀の哲学に大きな影響を与えたのであった。

 ウィトゲンシュタインは、この本で、哲学の問題をすべて解決したと断言し、哲学をやめて小中学校の教師となった。彼は、世界には正しく語りうることと、語りえないことがあると言う。そして哲学とは、いったいどこからどこまでが正しく語りうることなのかを、はっきりと示すことだというのだ。そして、そのための論理学を、独力で編み出すのである。

 頭脳を搾り取るような作業の果てに見出されたのは、以下のような結論である。「独我論の言わんとするところはまったく正しい。ただ、それは語られえず、示されているのである」「神秘とは、世界がいかにあるかではなく、世界があるというそのことである」。

 この世には、言葉によって言い表わせないものが存在する。それは、言葉によって描写されるのではなく、逆に、言葉によって描写されないというかたちをもって、「示される」のである。したがって、「語りえぬものについては、沈黙せねばならない」。これが、この哲学書の最後の一文となった。

 この哲学者が最後に至り着いたところの、「語りえぬもの」とはいったい何なのかについて、多くの考え方が出されてきた。それが宗教、倫理、生にかかわるものであることは確かである。だが、そこから先は、もう自分の頭で考えなければならないのであろう。翻訳者の野矢さんはウィトゲンシュタインの思索の根底にまで降りた翻訳をしている。本物の哲学が味わえる本である。

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[]荷宮和子『若者はなぜ怒らなくなったのか―団塊と団塊ジュニアの溝』中公新書ラクレ

2003年8月31日信濃毎日新聞掲載

評者:森岡正博 (http://www.lifestudies.org/jp/)

 著者の荷宮さんは一九六三年生まれであり、団塊世代と、団塊ジュニア世代のあいだに挟まれた、肩身の狭いグループに属している。荷宮さんの結論は明快である。いまの日本社会を覆っている閉塞感を生み出したのは、団塊世代と団塊ジュニアたちだというのだ。

 まず団塊の世代だが、この人たちは、大多数でつるんでしまえば何も怖いことはないという行動様式を発明し、実践した。そして「自分よりも明らかに目上である、という人間が見あたらない場所では、何をしてもかまわない」と考える。その態度は、「意味なくエラソー」だ。

 彼らの子どもたちである団塊ジュニアは、親の集団主義をそっくりそのまま受け継いでいる。そして「決まっちゃったことは仕方がない」と考え、社会に対して基本的に「投げやりな」態度を取る。何か理不尽なことがあったとしても、それに対して怒りをあらわすのはかっこわるいし、誰もそんなことをしないから、自分もまた怒らない。がんばったところで何も変わらないのだから、がんばったってしょうがないし、がんばらないほうがむしろかっこいいと考える。

 荷宮さんは、このような両世代に対して、怒りをぶちまける。きみたちのような集団主義や、なげやりな態度が、この社会をヤバくしているのだと力説する。もちろん、世代論でくくること自体が大問題だというは著者も認識しているし、このようなくくり方をされて不快になる人々が多くいるであろうことも予想している。しかしながら、荷宮さんの言うような傾向がいまの日本社会にあること自体は、疑えないのではないだろうか。

 これら両世代は、来たるべき「戦争」に対して「断固ノー」と言えないのではないか、という危機感を荷宮さんは抱いている。「仲間はずれ」にならないように神経をすり減らし、怒るべきときでも怒ろうとしない「投げやり」な若者たちを、戦争への道へと追い込んでいくのはきわめて簡単なのではないか。著者が「いまの若い者」にあえて苦言を呈する真の理由はここにある。この声は、どうすれば若者たちに届くのだろうか。

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[]中島義道『愛という試練』紀伊國屋書店

愛という試練

愛という試練

ひとを愛することができない マイナスのナルシスの告白 (角川文庫)

ひとを愛することができない マイナスのナルシスの告白 (角川文庫)

2003年8月後半信濃毎日新聞不掲載

*書評担当者と相談の上、新聞掲載を見送りました。

評者:森岡正博 (http://www.lifestudies.org/jp/)

 哲学者でエッセイストの中島義道さんが、人を愛することのできない自分自身の姿と、そういう自分を育てた両親の悲惨な愛の人生について、赤裸々に告白した本である。読み終わって、とても不快な鉛のようなものを飲まされた気分になるが、すごい本であることだけは間違いない。

 中島さんは、わが子が転んだときであっても、思わず駆け寄って抱き上げることができない。身体がそういうふうに、自然に動かないのである。全身が凍り付き、どうしていいのか分からなくなるのである。

 中島さんは、そのような自分を、両親から受け継いだと語る。父親は、一見普通の善良な人間であったが、身近な他者を愛するという感覚が決定的に失われた人物であった。父親が家族に対して見せる優しいふるまいは、すべて、父親ならそういうふうにふるまうのが当然だろうという常識と計算に基づいてしているだけであって、けっして心からの愛情の発露ではなかった。そのようなやさしさの本質を、家族はたちまち見抜き、父親に対して深い憎悪の念を蓄積させていったという。

 母親は、父親に愛情を求めたが、繰り返し裏切られ、それでも四〇年間別れることをせず、彼に罵詈雑言を浴びせ続けた。父親が死んだあと、母親は「あいつは許せない!」と隣の病室に聞こえる大声で叫んだ。そのような母親を見て、中島さんはこう書いている。「叫べ、叫べ、と思う。もう十分苦しんできたんだ。もう変えようがない。獣のように叫んで叫んで叫び疲れて、死ねばいいと思う」と。

 中島さんは、世間に満ち満ちている愛情ゲームを拒否する。人間たるもの家族や子どもを愛して当たり前という常識を否定する。愛が人をがんじがらめにするのなら、そんなものはないほうがいい。中島さんは、実の家族について、「妻から愛されていると感じることも苦しいし、息子から愛されていると感じても鬱陶しい」と言い切る。自分には、もう一片の愛情も共感もいらないのだというこの辺境の砂漠のような世界は、並の小説では太刀打ちできない極限の悲惨を描き得ていると思う。

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[]谷川俊太郎編『祝魂歌』ミッドナイト・プレス

祝魂歌

祝魂歌

2003年8月3日信濃毎日新聞掲載

評者:森岡正博 (http://www.lifestudies.org/jp/)

 人は死にゆくときに、いったい何を思うのだろうか。この世の生が終わったあとに旅立つはずの、あの世の姿について想像するのか。それとも、この世に残してゆくであろう大切な人々や、美しいふるさとの姿などを反芻するのだろうか。

 谷川俊太郎さんは、その答えを、人々が愛唱してきた数々の詩の中に求めた。東西の詩人たちは、死のあとの世界について、いったいどんなことを歌ってきたのか。人生にとって、死とは、どういう出来事だと考えてきたのか。今年七二歳になる谷川さんにとっても、それはもう他人事ではなかったのだろう。この本に集められたのは、生と死への思いを言葉によって結晶化させようとする、すさまじいばかりの詩人たちの執念の歴史である。

 たとえば、みずからが死ぬ日のことを歌ったタゴールの詩はこう始まる。「逝く日には かく言ひて/われ逝かむ/わが見しもの 得しものは/比(たぐひ)なしと」。死ぬゆく日には、こう言って、私は死ぬであろう、私が見てきたもの、体験してきたものは、比較を絶してすばらしかったと。タゴールは続ける。世の中という舞台の上で、私は何度か舞った。両目を見開き、姿なきものを見て、触れることのできない「あれ」が、ありありと近づいてくる、いまここで、人生終わるというのならば、時が終わるのもまたよし。

 林芙美子の「遺書」という詩は、次のように終わる。「土地も祖先もない故/私の骨は海へでも吹き飛ばして下さい」。ロベール・デスノスは歌う、「いまぼくに残されたことは、影のなかの影であること/影よりも百倍も影であること」。

 これらに比べて、民族的な歌謡はおおらかだ。チョンタル族古謡「この世の人が死にました/一人の人が死にました/大地が喜んでいる/空も喜んでいる/ほほえんでうたっている」。プエブロ族の古老「今日は死ぬのにもってこいの日だ。/生きているものすべてが、わたしと呼吸を合わせている」。

 ここに集められた三〇篇は、そのままで、詩の入門書としても十分に読むことができる。座右に置いて、繰り返し味わいたい書物である。

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2007-04-01

[]哲学ユニットG★RDIAS始動!

哲学ユニット「G★RDIAS」によるチームブログ「G★RDIAS」が始動しました。私もユニットの一員として、書き込みをしていきます。なかなか刺激的で目が離せないブログになると思うので、ぜひ注目していてください。

G★RDIAS

http://d.hatena.ne.jp/gordias/

[]加藤秀一『〈恋愛結婚〉は何をもたらしたか』ちくま新書

恋愛結婚は何をもたらしたか (ちくま新書)

恋愛結婚は何をもたらしたか (ちくま新書)

2004年10月17日東京新聞掲載

評者:森岡正博 (http://www.lifestudies.org/jp/)

 最近では、仲人によるお見合いは、ほとんどなくなってきているらしい。若い男女の結婚は、「恋愛」結婚が常識となりつつある。もちろん、結婚相談所などのサービスは依然として盛んなわけであるが、そこにおいても、うたい文句は「二人の恋愛のサポート」ということになる。

  著者は、この「恋愛結婚」がいつ頃から始まったのかをたんねんに探っていく。ごく最近のことかと思っていたら、そうでもなくて、明治時代に提唱されたものであるらしい。それが、紆余曲折を経て、現代の花盛りとなっているというわけだ。北村透谷から始まった「恋愛」と「家」との矛盾葛藤の歴史は、さながらもう一つの日本近代史という感じだ。

  ところが、この「恋愛結婚」という流れに、ぴったりと寄り添っている、もうひとつの潮流があることに著者は気づく。それは「優生結婚」である。実に、明治時代から第二次大戦後に至るまで、結婚するときには、すぐれた子どもを産めるような相手を選ぶのが当たり前という考え方が、人々のあいだに満ち満ちているのである。

  かの福沢諭吉ですら、人間の能力は遺伝で決まるから、家畜を改良するときのように、よい父母によい子どもを産ませ、優秀でない者には結婚を禁じるべきであると断言しているのである。それが時代の風潮であった。

  このような優生思想と、恋愛結婚が、大正から昭和にかけて合体しはじめる。すなわち、家柄や財産によって相手を選ぶのではなく、男女が清い交際をしながら、互いの精神性に惹かれあい、恋愛することによって、よりよい相手を選び、よりよい子どもを産んでいくべしという考え方が出てくるのだ。

  これは、恋愛という心の内面の回路を通じて、男女が自発的に優生結婚を選び取る道なのである。それは現代にまで脈々と生き続けているのではないか。まったく新鮮な角度から恋愛と優生思想をえぐりとった好著である。

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[]小野登志郎『ドリーム・キャンパス』太田出版

ドリーム・キャンパス―スーパーフリーの「帝国」

ドリーム・キャンパス―スーパーフリーの「帝国」

2004年8月15日北日本新聞ほか(共同配信)掲載

評者:森岡正博 (http://www.lifestudies.org/jp/)

 早稲田大学を中心とするイベントサークル「スーパーフリー」が起こした、連続強姦事件についてのドキュメンタリーである。著者は、加害者と被害者にインタビューを行ない、法廷での審理の様子をていねいに跡づけながら、事件の全貌に迫ろうとした。

  そこから見えてくるのは、「金と女」が殺し文句となる若者たちの殺伐たる生態であり、被害者の女性の身になって考えるという思考回路を決定的に欠いた大学生たちの姿であり、クラブイベントと酒盛りとセックスをもって「六本木大学」と称していたその空虚な世界観である。

  しかしながら、著者も指摘するように、彼らの放つ徹底的な「空虚さ」は、実は、今日の日本に生きる多くの人々の「空虚さ」と同質のものではないのかという疑問が、本書を読み終わったあとで湧いてくるのだ。金、女、酒、ねつ造された和姦、最後には強姦。結局、男たちは、第二次大戦中から、高度経済成長を経て、今日に至るまで、まったく同じことを繰り返しているだけなのではないだろうか。

  華やかなイベントのあとで、二次会に残った女子大生たちを、強い酒に酔わせ、意識不明に追い込み、吐いてもうろうとしている状態で、数人で順番に強姦するという出来事がルーティーンのように行なわれ、女性が訴えれないように事後には写真を撮り、証拠として押さえる。このような犯罪に、若い男子学生たちが、物事を深く考えることなく加わっていた。関与した人数はきわめて多く、裁判になったのはその一部である。

  本書に収められた、彼らへのインタビューや法廷記録を読むと、その手口の用意周到さと、彼らの思考回路の単純さのあいだの落差に愕然とする。だが、この種の現象は、日々のテレビのバラエティ番組にあふれており、ポルノビデオでも通常の世界観である。いまや日本全体が、スーパーフリー的な精神構造に犯されているとしか思えない。時代を見事に切り取った一冊である。

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[]坂井律子・春日真人『つくられる命:AID・卵子提供・クローン技術』NHK出版

つくられる命  ~AID・卵子提供・クローン技術

つくられる命 ~AID・卵子提供・クローン技術

2004年6月20日東京新聞掲載

評者:森岡正博 (http://www.lifestudies.org/jp/)

 他人からの精子を用いた人工授精によって生まれた子どもが、世界中にたくさんいる。生まれた子どもから見てみれば、卵子は母親のものなのだが、精子は父親のものではない。誰か分からない第三者の精子なのだ。

  だが、子どもが大きくなったときには、どうするのだろうか。多くの場合、両親は子どもに出生の秘密をしゃべってない。それだけではなくて、両親もまた、精子が誰のものなのかを知らないのだ。精子を提供した人の匿名性は、病院によってきびしく守られているのである。

  ところが、何かのきっかけで、遺伝上の父親が他にいることに気づいてしまった子どもたちが出てきた。彼らは、両親がいままで出生の秘密を隠してきたことにショックを受け、なんとかして自分の遺伝上の父親を探そうとする。彼らは、インターネットを駆使して、同じような境遇の子どもたちをネットワークし、出生時の病院の情報を探索し、精子を提供した人物を特定しようとするのだ。

  本書の著者たちは、遺伝上の父親を突き止めようとする彼らの行動を、つぶさに追った。そして、ふだんは知られることのない彼らの心情を、あたたかいまなざしで浮かび上がらせることに成功している。出生の秘密を隠された子どもたちは、のちにそのことを知ったときに、大きな心の傷を受ける。

  その傷は、他人には推し量れないものであろうが、しかし本書で紹介されている子どもたちの必死の思いは心を打つ。養子縁組をした親から、あなたはどうしてそんなに「遺伝上の父親」にとらわれているのかと突きつけられ、親と子がともに真実を伝えあうプロセスの中で、親子の関係が紡ぎ上げられていくことに気づいた子どもの話は感動的だ。

  と同時に、慶応大学で行なわれてきた精子提供で、提供者の匿名性が守られてきた大きな理由のひとつは、現在、立派な地位の医者になっているかもしれない提供者を守ることにあるとの指摘も興味深いものであった。

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[]養老孟司『死の壁』新潮新書

死の壁 (新潮新書)

死の壁 (新潮新書)

2004年6月4日週刊読書人掲載

評者:森岡正博 (http://www.lifestudies.org/jp/)

 養老孟司の本が、ここのところ異様に売れている。『バカの壁』に続いて出された、この『死の壁』もまたベストセラーになっていくのだろう。その秘密はいったいどこにあるのか。と思って読み始めたのだが、たしかにおもしろい。一気に最後まで読み切ってしまった。

  一言でいうと、「養老先生悟りの境地」なのだ。「人間は死ぬと分かっているから、私は安心して生きています」という究極の地点から、人生や日本社会についての含蓄が繰り出されてくる。読んでいて、その断定はないだろう養老先生、と言いたくなるところも多数あるが、それでもどんどんページをめくってしまうこの力は何なのか。

  おもしろさの秘密のひとつは、われわれがはまりやすい常識的な見方を、一発芸で裏返してみせるところにある。たとえば、安楽死について考えるときに、ふつうならば、死んでいく患者にとっての幸福などが議論になることが多いわけだが、養老さんに言わせれば、そんなことよりも、患者を安楽死させる立場にある医師の「重荷」や「心のトラウマ」などにもっと目を向けるべきだ、ということになる。あるいは、かつての大学紛争とは、学生たちが「俺たちにも金を寄こせ、きちんとした職を回せ」という運動だったと指摘する。たしかに、こういうふうには普通は考えないわけだから、「暴言?」とか思いながらも、「それで、それで?」とページを進めていくことになるのである。

  でも、そのような逆転の発想だけでこんなに多くの読者をつかめるわけはない。やっぱり「悟りの境地」へのあこがれ、というようなものが働いているのだろうなと思われる。養老さんは宗教に関してはきわめて冷淡だが、養老さん自身の発するオーラは、ずいぶんと孤高の宗教者っぽい気がしないでもない。

  私も養老さんとは対談をさせてもらったし、シンポジウムでもご一緒することがあるのだが、養老さんときちんとしたコミュニケーションをとることは予想以上にむずかしい。彼の発する言葉は、あまりにも独自であり、かつその場の文脈というものをまったく考慮していないことも多い。だから、それは、あっと驚くところに構えられたミットめがけて、毎回全力投球しなければならない投手のような作業となるのである。要するに、何を言っているのかよく分からないのである。しかしながら、なにかとてつもなく大事なことを言っているように思えるのである。疑いの気持ちは、やがて、そこはかとない尊敬の念へと変わっていく。

  この本もまた、そうだ。「え?」とか思いながらも、ひょっとしてすごいことが言われているかもしれないという気持ちになっていき、最後には「ともかく私は安心して生きていますからね」というわけだから、もう何も言い返す言葉はないのである。正直に言うと、私はこの本の著者に、「あこがれ」を感じる。私がけっしてたどり着くことのないであろう高みにまで登ってしまった人を見たときの、羨望にも似たあこがれの気持ち。

  たとえばこの本は「死」がテーマだから、死についての考察がちりばめられている。そして養老さんは、「死んだらどうなるかというようなことで悩んでも仕方がないのも確かです」と言う。なぜなら、「自分の死とは何か」というのは、理屈の上だけで発生した問題なのだから、そもそもその実体がない。だから、「自分の死に方については私は考えないのです。無駄だからです」と断言する。さらに「そんなわけで私自身は、自分の死で悩んだことがありません。死への恐怖というものも感じない」と言うのである。

  ここを読んで、ああ、養老さんと私のあいだには無限の距離があると思わざるを得ないのだ。なぜなら、私は自分の死のことをいまだに最大の問題として考え続けているわけだし、死への恐怖はまったく私の内部から去らないからである。そういえば、ハイデガーも、自分には死の恐怖がないと言っていた。彼らは私にとっての、他者である。

  「自分の死」という問題は、ほんとうに、理屈の上だけで発生した問題なのだろうか。私はそうは思わない。理屈以前の、体感的な次元において、「私が死んだらどうなるのだろう」「私が死んだらすべては無になるのではないのか」「それは耐え難い恐怖ではないのか」という感覚=問いが、私の全身体を襲うからである。そしてそのような感覚から逃れられないのは、私ひとりだけではないであろう。多くの人々は、これらの問いを直覚しながらも、それについて考えるのが怖いから、そこから意識をそらしているだけではないのだろうか。

  少なくとも、私にとっては、そうである。そして私が哲学者になったのも、いくら自分の死から目をそらそうと思っても、たえずそれが恐怖となって襲ってくるから、逆にとことん追いつめて考えるしかないじゃないかと開き直ったからである。そういう私にとって、養老さんの「無駄だからです」という言葉は、ある種残酷に響く。養老先生、迷える子羊を見捨てないでくださいと言いたくなる。

  だが、逆に考えれば、養老さんは「無駄だからです」と発話することによって、自分を孤独の位置につなぎ止めておこうとしているようにも見えるのだ。人々の宗教心を最大に誘引する「自分の死」というテーマを、「無駄」と言い切ることで、読者から自分に向けられるかもしれない依存心や信仰心や目のキラキラを、ばっさりとあらかじめ切り捨てているからだ。

  この本で養老さんは、日本の「村八分」社会について考察しているが、それはたいへん面白い。もちろんすでに世間論などで言い尽くされた論点なのだろうが、養老節で再説されると、なるほどなと納得してしまう。われわれの社会に染み渡っているのは、お上を中心にして生きている人々のメンバーシップ社会であって、そこからはみ出した人に対しては、われわれは非常に冷たいのだと指摘する。生命倫理で問題となる胎児の扱いや、遠い外国の人々の命の問題に、日本人が冷淡なのもこれが原因だと言われれば、妙な説得力がある。そういえば日本は難民の受け入れが異様に少ない「先進国」だし、昨今の「自己責任論」の冷淡さもまたこれが原因なのだろうなと思ってしまう。

  日本で言う学歴とは、結局、某大学卒という小さな共同体出身の宣言をみんなで確かめ合うことにすぎないのであり、養老孟司はいつまでたっても「昭和三七年東京大学医学部卒」として紹介され続けるのだという箇所は、何ともいえない気持ちになって読んだ。そういえば養老さんは定年を待たずして東大を退官したわけで、いわば東大に縁切り状を叩きつけたわけなのに、「世間様」はそれをなかったことにして、養老孟司の名声をお上へとひたすら回収する装置として機能するのである。養老孟司の敵は、ここにこそ存在するではないのか。したがってこの本は、意外にも、いま「戦いの書」として読むべきなのである。

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[]服部正『アウトサイダー・アート』光文社新書

アウトサイダー・アート (光文社新書)

アウトサイダー・アート (光文社新書)

2003年12月7日掲載

評者:森岡正博 (http://www.lifestudies.org/jp/)

 とても面白い本だ。面白いだけではなくて、深く考えさせられる。アートとは何だろう、障害とは何だろう、作品とは何だろう。自分の中にあった既成概念が、がらがらと崩れていくのが分かる。この新書は、アウトサイダー・アートというものを、一般の読者に開いたという点で、画期的な書物になるのではないだろうか。

 アウトサイダー・アートとは、「これが芸術だ」という一般常識からはかけ離れているにもかかわらず、観るものになんともいえない感動をもたらす作品のことである。そして、多くの場合、作者たちは、自分が製作したものを「アート」だとは思っていない。彼らは、何かに取り憑かれたようにただ黙々と「物体」やら「デッサン」やらを作り続けるのみ。そして彼らの多くは、いわゆる知的障害などをもった人々である。

 知的障害をもつ八島孝一は、自宅から施設まで、ゆっくりと二時間もかけて歩く。そのあいだ、道に落ちている様々な物体、たとえば歯車や、空き容器や、ボールペンなどを吟味しつつ拾っていく。そして彼は、集めた収穫物をセロハンテープで器用に接着し、唖然とするほど美しい造形物を作り上げてしまうのである。その作品群は、施設の職員によって保存されたがゆえに、いま我々の前に「アート」として紹介される。

 この本で紹介されているアウトサイダー・アートで、私がもっとも感動したのは、喜舎場盛也(きしゃばもりや)の生み出す「漢字の宇宙」だ。知的障害を持つこの二四歳の若者は、航空管制記録紙に、ひたすら漢字を書き込んでいく。篆刻かと思われるほど整った筆致の小さな漢字で、広大な記録紙全面が埋め尽くされた作品からは、どこか宗教的な香気さえたちのぼってくる。一枚を漢字で埋め尽くすのに半年はかかるのだが、本人ははたして自分の作業をアートだと思っているのだろうか。

 もちろん本書の著者の服部さんは、アウトサイダー・アートをすら「美術」の内側に取り込んでいこうとする制度化の罠に気づいている。しかし同時に、彼ら作家たちの集中力と偏愛こそが、芸術の原点なのだと服部さんは訴えるのである。

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