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2007-04-23

[]粥川準二『クローン人間』光文社新書

クローン人間 (光文社新書)

クローン人間 (光文社新書)

2003年2月16日信濃毎日新聞掲載

評者:森岡正博 (http://www.lifestudies.org/jp/)

 世界には、クローン人間を作ろうと躍起になっているグループが、少なくとも三つある。そのうちのひとつ、ラエリアンという団体が、クローン人間を作成したと発表した。しかし、生まれた赤ちゃんが、ほんとうにクローン人間だという証拠がなかなか示されないものだから、彼らの発表はいま疑いの目で見られている。

 ところで、そもそもクローン人間とは何なのか? それを短時間で理解するためには、粥川準二さんの新著『クローン人間』を読むことをおすすめする。海外と日本の現状を的確にレポートしたこの本によって、われわれは、クローン研究の実状と、その問題点をリアルに認識することができるはずだ。

 粥川さんは、クローン人間に関する大きな問題点を指摘する。それは、われわれの「優生思想」だ。自分のクローンの赤ちゃんを作りたいという人々は、自分と同じような血筋がほしいと思っていたり、殺人者の子どもを養子にはしたくないと言うことすらある。ここにある「優生思想」を見過ごすわけにはいかない。

 さらには、クローン人間に反対する人々の中にも、同じような「優生思想」があるのだと言う。たとえば、いまのクローン技術で赤ちゃんを作ると、先天的な障害児が生まれる危険性が高いから、クローンには反対すると主張する識者がいる。しかし、そのことばを裏返してみると、その識者は、「先天的な障害児はこの世に生まれてこないほうがいい」と言っていることにはならないのか。これは、あからさまな「優生思想」なのではないか。

 粥川さんは、クローン技術のほんとうの問題は、クローン人間を作るかどうかというところにあるのではなく、移植用臓器の作成などのためにクローン技術が使われていくことにあるのだ、と強調する。自分の身体の細胞を取り出して、クローン技術で卵に移植し、自分と同じ遺伝子をもった肝臓や神経などを作ることができるのだ。しかし、そのためには、大量の卵を女性から取り出さないといけない。そのときに、おびただしい「女性の道具化」が起きるにちがいない。これは、実は相当深刻な問題点なのである。

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◆森岡正博の書評ページ(森岡執筆の書評一覧があります)

http://www.lifestudies.org/jp/shinano01.htm

◆森岡正博の生命学ホームページ

http://www.lifestudies.org/jp/

[]石川准・倉本智明編著『障害学の主張』明石書店

障害学の主張

障害学の主張

2003年1月12日信濃毎日新聞掲載

評者:森岡正博 (http://www.lifestudies.org/jp/)

 障害をもった人たちが、いまの社会のなかで生きていくのは、まだまだきびしいことである。本書にも紹介されているけれども、電車の隣に座った人に「きたいない」と言われて席を立たれたり、喫茶店で出ていくように言われたりする。

 障害については、いままではおもに医療やリハビリテーションの専門家たちが考えてきた。身体に障害があるのだったら、訓練によって人並みに動かせるようにして、いまの社会に適応してもらうという試みがなされてきた。

 しかし、よく考えてみれば、なぜ障害者のほうが、社会の都合に合わせなければならないのだろうか。障害者は、いまのままの自分の身体や心を、肯定してはいけないのだろうか。自己肯定したうえで、社会の側の都合との折り合い点を探すべきなのではないだろうか。

 このようにして、障害をもった本人の存在を肯定し、その視点から「障害者」と「社会」の関係を考え直していこうとする学問として「障害学」は誕生した。本書は、日本の障害学の最近の成果を、まとめ上げたものである。新進注目の書き手がそろった、タイムリーな一冊であろう。

 立岩真也は、「障害者は生産ができないではないか」という声を吟味し、たしかに何もできないよりは、何かができたほうが望ましいとは言えるのだが、それをすべての人間にまで当てはめるのは間違っていると言う。もし仮に私が何かをできなかったとしても、私のかわりに誰かがそれをやってくれる仕組みが、無理なく社会のなかに組み込まれていればいいわけである。であるから、「できるほうがいいに決まっている」という考え方は、ダメなのだと結論する。

 倉本智明は、身体に障害をもつ男たちのセクシュアリティについて興味深い考察をしている。障害をもつ男性が、「男」としての自己肯定を得るために、「エッチな俺」「女性を征服できる俺」になろうとするケースが少なからずあり、彼らは過剰な男性性を引き受けなければならないという困難に直面するのではないかと言うのである。新鮮で切実な問題提起が随所に見られる書物だ。

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[]中島義道『「私」の秘密』講談社選書メチエ

「私」の秘密 哲学的自我論への誘い (講談社選書メチエ)

「私」の秘密 哲学的自我論への誘い (講談社選書メチエ)

2002年12月29日信濃毎日新聞掲載

評者:森岡正博 (http://www.lifestudies.org/jp/)

 この本は、哲学の永遠のテーマである「私とは何か」という問いに対して、正面から解答を与えたものである。西洋の哲学者の受け売りではなく、自分自身のことばで考え抜かれている。これは、ほんとうの意味での哲学書だと言えるだろう。

 まず、「私」はどこにいるのかを考えてみる。「私」は脳の内部にいるのか。しかし、いくら自分の脳を解剖してみても、「私」はどこにも発見されない。私が見たり感じたりしているこの世界のなかには、「私」は存在していないのである。

 では、「私」はこの世界の外側に存在していて、この世界を遠くから見下ろしているのだろうか。そういうふうに考えた哲学者はたくさんいたが、では、世界の外側にいる「私」が、どうして世界の内側を見ることができるのかという難問が残ることになる。

 中島さんは、「時間」の秘密が分かれば、「私」のことも分かると言う。たとえば、自分が見たことや、したことを、即座に忘れてしまう人間がいたとする。その人間は、はたして「私」というものを持っているのだろうか。中島さんは、ノーと答える。そのような人間は、目の前を通り過ぎていく様々な光や、映像や、音などをただ次々と体験しているだけであり、それらを体験しているところの「私」というものは、この人の人生にはまったく登場しないのだ。

 そもそも人間の人生に「私」というものが登場するのは、自分のしたことを振り返って、「ああ、あのときに、自分はあんなことをしていたな」と思い出すときである。過去の自分を振り返るその瞬間に、振り返られた「過去」というものと、それを振り返っている「いま現在」というものを、一気につなぐ何ものかが立ち現われる。これが「私」なのだと中島さんは考える。過去を振り返ることを原点に置いた、新しい哲学である。中島さんの主張がほんとうに正しいのかどうか、議論が必要だ。

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[]亀井智泉『陽だまりの病室で』メディカ出版

陽だまりの病室で―植物状態を生きた陽菜(ひな)の記録

陽だまりの病室で―植物状態を生きた陽菜(ひな)の記録

2002年12月15日信濃毎日新聞掲載

評者:森岡正博 (http://www.lifestudies.org/jp/)

 長野県立こども病院に、重症の新生児が運び込まれた。脳はほとんど働いておらず、「脳死」と言ってもいいような状態だった。その赤ちゃんは「陽菜(ひな)」ちゃんと呼ぶのだが、意識もなく寝たきりのまま、医療スタッフの適切な治療と、両親の献身的なケアを受け、四年間生き続け、そのいのちを全うしたのであった。本書は、母親が書き記した、その記録である。

 人工呼吸器につながれたまま、親のことばにも反応を返さない赤ちゃんに対して、たえずはっきりと声をかけ、誕生日を祝い、七五三を祝う両親とスタッフの姿については、この本を読んでいただくしかない。たとえ脳が働いていなくても、身体の細胞のひとつひとつが生きているかぎり、この赤ちゃんは生きているのだという確信がそこにはある。

 病院の中で子どもと四年間を過ごすうちに、母親の生命観も徐々に変わっていき、陽菜ちゃんが亡くなったときには、「医療の敗北ではない。医療の完遂だった」と考えるようになる。冷たくなった陽菜ちゃんを自宅に連れて帰り、妻と夫のあいだにはさんではじめて家族一緒に寝る。氷のように冷たい手を握って、それでも幸せだったという母親の言葉に、私は何とも言えない真実を感じる。

  しかし驚いたのは、陽菜ちゃんの状態についてだ。実は、瞳孔の固定、平坦脳波、自発呼吸の消失など、成人向けの日本の脳死判定基準を見事に満たしている。それでも、四年間も生存を続けた。いま子どもや赤ちゃんのための脳死判定基準が専門家によって提唱されているが、それに照らし合わせたとしても、陽菜ちゃんは臨床的な脳死と判定されてしまうのではないだろうか。

 おそらく脳死状態にあるだろう陽菜ちゃんは、大好きな主治医の前ではうんちをしない。先生が「じゃ、またね」と握手をして出ていったとたんに、顔を真っ赤にしていきんで、モリモリモリとうんちをするのである。そんな陽菜ちゃんを囲んで、一喜一憂する家族とスタッフたち。安曇野の豊かな自然に囲まれた、四年間の不思議な生と死の軌跡である。闘病記にありがちな湿り気を極力排した、魅力的な文章が光る一冊だ。

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[]金井淑子・細谷実編『身体のエシックス/ポリティクス』ナカニシヤ出版

2002年11月24日信濃毎日新聞掲載

評者:森岡正博 (http://www.lifestudies.org/jp/)

 フェミニズムと倫理学が、いま急速に接近している。その二つが交差する場所こそが、私たちの「身体」だ。たとえば、代理母や体外受精は、「産む性」である女性の身体を抜きにしては語れない。買売春や、セクシュアリティなどもそうだ。

 本書を読むと、いま何がほんとうに問題なのかが浮かび上がってくる。一〇本の論文が収められているが、そのなかで最も衝撃的なのは、浅野千恵さんが書いた「性暴力映像の社会問題化」という文章だ。

 浅野さんは、女性をほんとうにレイプしたり虐待したりしているように見えるアダルト・ビデオを取り上げる。そういうビデオに出演した女優たちは、将来、深刻なトラウマを背負ってゆかねばならないはずなのに、ビデオを消費する男たちは、この問題を頭の中から消し去っている。

 浅野さんは、それに加えて、新しい論点を提出する。それは、このようなビデオを見てしまった視聴者が受けてしまう心的被害である。このような問題意識を持つに至った背景には、浅野さん自身の体験がある。彼女は、調査や議論のためにこの種のビデオを繰り返し見るのだが、その結果、虐待シーンや暴力映像がいきなりフラッシュバックしてきたり、ふとしたときに心臓が苦しくなったり、突然恐怖や怒りにおそわれたり、人間不信に陥ったりした。

 性暴力映像は、出演した女優だけではなく、それを見てしまった女性や、見させられた女性に対しても深刻な被害を及ぼす危険性があるのだ。浅野さんによれば、性暴力映像の問題を訴えていた女性が、自殺してしまった。その女性の手記を読むと、彼女自身がその映像によって精神的に追いつめられ、孤独と絶望に沈んだことが記されている。浅野さんは、その女性の自殺の背後には、このトラウマがあったのではと推測している。男性たちにはまったく認識されてこなかった問題が、いま明らかにされた。

 このほかにも、河口和也さんは、同性愛者への暴行が、なぜ本来の意図を超えてまで執拗に行なわれるのかを分析し、この社会に潜む同性愛嫌悪の深刻さを浮かび上がらせている。二論文ともに必読である。

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