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2007-05-30

[]星川淳『日本はなぜ世界で一番クジラを殺すのか』

日本はなぜ世界で一番クジラを殺すのか (幻冬舎新書)

日本はなぜ世界で一番クジラを殺すのか (幻冬舎新書)

2007年5月13日熊本日々新聞掲載

評者:森岡正博 (http://www.lifestudies.org/jp/)

 刺激的なタイトルの本である。著者はグリーンピースジャパン事務局長だということで、捕鯨大国日本を糾弾する書物かと思いきや、そういうわけでもない。各種の資料を用いながら、日本の捕鯨が陥っている袋小路をていねいに解き明かす本に仕上がっている。

 二〇世紀の半ばまでは、各国もさかんにクジラを捕っていた。しかし、乱獲がたたって、一気にクジラの数が少なくなってしまった。なので、クジラも絶滅野生動物と考えて、全世界で保護しようという流れが出てきたのである。ところが、世界中で、もうクジラを捕るのはやめようと言っているなかで、日本といくつかの国だけが、捕鯨推進の旗振りをしている。とくに日本は、「調査捕鯨」の名目で年間一〇〇〇頭を超えるクジラを捕ってきて、その肉を国内で売りさばいている。その肉は、クジラ料理として消費される。

 捕鯨問題を諸外国から指摘されたときに、多くの日本人は、次のように思うのではないだろうか。「日本人がなにを食べようが、それは日本人の自由ではないか。それを外国があれこれ指図するのはおかしい。捕鯨は日本の伝統文化なのだから、とやかく言ってほしくない」、と。その気持ちは私もわかる。欧米系のニュースで日本の捕鯨問題が放映されているのを見るたびに、そのような気持ちがむらむらと湧いてくる。

 しかし本書を読むと、また別の面からこの問題を考え直すこともできるようになるのである。たとえば、捕鯨船に乗って南洋にまで出かけていくような漁法は、日本の伝統文化ではない。日本人が伝統的に行なっていた捕鯨とは、日本近海に流れ着いたクジラを、漁師が小型船で捕獲してくるようなやり方だった。いわば伝統捕鯨とは、一種の沿岸漁業だったのである。

 われわれの知っている日本の捕鯨船の大活躍は、一九三〇年代になってからだ。そして戦後に捕鯨世界一となり、学校給食に登場して、日本人の記憶に刻み込まれた。だが、日本人がクジラ肉を大量消費したのは、この高度成長期のみである。現在ではどうかというと、なんと、調査捕鯨でとれたクジラ肉は、あまり売れてない。在庫はだぶつき気味である。いまの日本人はクジラ肉を食べていない。日本人は、馬肉の半分しか、クジラ肉を食べないのだ。

 このような情勢のもと、調査捕鯨の株を保有していたニッスイなどの民間企業は、二〇〇六年に、すべての株を手放してしまった。その結果、調査捕鯨は日本政府による官営事業となった。もし仮に日本政府の主張どおりに、商業捕鯨が国際的に再開されたとしても、もう日本企業は捕鯨産業に再参入はしないだろうと予測されている。ペイしないものに投資するわけにはいかないからである。

 それにもかかわらず、日本の水産庁は、調査捕鯨をやめようとはしない。ではそもそも調査捕鯨とは何か。調査捕鯨とは、南洋でクジラの数が減っているのか増えているのかを調べるために、クジラを殺して、クジラの年齢などのデータを調べることである。そのデータ収集のために、年間一〇〇〇頭以上のクジラが捕殺される。データ収集後のクジラは、鯨肉として冷凍し、日本に持ち帰って、市場で売りさばくのである。そこで得た利益によって、また次年度、調査捕鯨にでかける。

 諸外国の批判も、この調査捕鯨のうさんくささに集中する。絶滅に瀕しているかもしれない野生動物が、ほんとうに減っているのかどうかを調べるために、どうして年間一〇〇〇頭以上も殺して、かつその肉を本国で売りさばいたりするのか、というわけである。諸外国からの批判に対して、感情的な反発をもってしまうこの私ですら、日本の調査捕鯨のやり方には大きな欺瞞を感じざるをえない。

 個体数の調査をするだけなら、殺さなくても、いったん捕まえてから海に返すやり方があるはずだ。調査は調査として、クジラの命を大切にするやり方を徹底すべきではないのか。本書の著者もまたそのように考える。そして、南洋捕鯨はあきらめて、伝統的な沿岸捕鯨を控えめに再開していけばいいと言う。著者の主張は頷けるし、本書で出された数々の疑問に対して、水産庁には説明責任があると私は思う。

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◆森岡正博の書評ページ(森岡執筆の書評一覧があります)

http://www.lifestudies.org/jp/shinano01.htm

◆森岡正博の生命学ホームページ

http://www.lifestudies.org/jp/

2007-05-18

[]山中浩司・額賀淑郎『遺伝子研究と社会−生命倫理の実証的アプローチ』昭和堂

遺伝子研究と社会

遺伝子研究と社会

2007年5月26日図書新聞掲載

評者:森岡正博 (http://www.lifestudies.org/jp/)

 この本は、遺伝子研究の社会的・倫理的な側面をめぐる、日本と米国の研究者たちのシンポジウムの記録である。グローバルな社会の中で遺伝子研究を進めるとはどういうことかについて、いままでの生命倫理のテキストにはなかったような刺激的な素材が、あちこちに散りばめられている。

 まず編者の額賀淑郎は、いま生命倫理に「実証的転回empirical turn in bioethics」が起きていると指摘する。すなわち、一九八〇年代に生命倫理学が成立するのであるが、そのときに主流だったのは、「権利」や「自律」などの概念を使って、様々な倫理的なジレンマを論理的に解きほぐすというようなアプローチであった。現在の日本で使われている生命倫理の教科書のほとんどは、このパラダイムである。

 ところが、やがてそのアプローチの限界性が自覚されるようになり、それとともに、もっと実証的なデータや語りに基づいた生命倫理研究が続出するようになったのである。そのプロセスにおいて、従来の哲学・倫理学からのアプローチと、社会科学や歴史学などからのアプローチが、互いに影響を与えあうようになってきた。本書もまた、この実証的転回をいかに見据えればよいかという問題意識によって支えられている。

 バーバラ・ケーニグは、いまや生命倫理において「文化的コンテクスト」というものを避けて通ることはできなくなったと強調する。文化を超越した普遍的な生命倫理が可能だと思っていた、八〇年代の米国の生命倫理学は、いま大きな壁にぶつかっているというのである。たとえば、出生前診断に関する日米の専門家の意識調査を行なうと、明らかな差が出てくる。「出生前診断は使用目的に関わらず提供されるべきである」という質問に対して、賛成する専門家の割合は、米国が四七%であるのに対して、日本は六%にすぎない。

 同一の職能集団を対象としているのにもかかわらず、これほどの違いが出るというのは普通はあり得ないことである。この背景には、「自己」とは何か、「自己決定」とは何か、「中絶」をどう考えるか、などについての文化的コンテクストが、両国のあいだで大きく異なっているということがある。そして、これまでの生命倫理学が想定してきたような普遍的な議論図式そのものを、これらの文化的コンテクストが上書きしてしまっているのである。ケーニグ自身は、この点について明確な答えを用意してはいないが、この論文は、レネー・フォックスによる初期の比較文化的アプローチが、もはや生命倫理において不可欠の手法になってきていることを伺わせる。

 さらに興味深いのは、ステファン・ヒルガートナーによる、ヒトゲノム計画の社会学的分析である。ヒルガートナーは、ヒトゲノム計画にかかわってきた研究者たちの行動に焦点を当て、彼らが実験室で、スポンサーの前で、そして学会でどのような営為を行ない、競争戦略を立て、研究の世界でのしあがっていこうとしたかを逐一調べあげたのである。そしてそれらの競争のうごめきの中から、ゲノム学の基礎的な知識が生まれ、その知識を共有してさらに先に進むために、研究者たちの織りなす社会そのものがダイナミックに再編成されるドラマが起きたというのである。生命倫理の問題を生み出すテクノロジーの、その発端部分がいかなるダイナミズムで動いているのかを探るという、きわめて興味深い研究である。

 デボラ・ヒースらによる「遺伝的市民とは何か」もまた、きわめて刺激的な論を展開している。われわれの身体が遺伝子的な身体であるということを自覚した市民は、フーコー的な「生権力」の網の目の中を動き回るエージェントとして、神出鬼没な集団的運動を巻き起こすことができる。彼らはこの主体のことを、「遺伝子的市民」と呼ぶ。たとえば表皮水疱症の患者たちは、その病名を診断されることによって医療化されていくのだが、同時に、そのアイデンティティを逆手にとって「遺伝子的市民」としての活動を開始することができるようになる。

 彼らは受け身の研究対象にとどまることなく、たとえば研究を媒介して不可避的にアメリカ国防省と接続していくことになる。なぜなら、彼らの症状は、化学戦争の傷のモデルになるのであり、彼らに関する研究には国防省からの支援がつくからである。さらに、それが製品化されるときには、より大きな医療市場へと開かれてゆくだろう。彼らは、開かれた社会の中で、新たなポリティクスを創出していくことになるのである。

 以上のような多様な視点を、今後の生命倫理学が真に活かしていくことができれば、実証的転回は豊かな実りをこの分野にもたらすことになるはずであるという印象を、私は持つことができた。

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◆森岡正博の書評ページ(森岡執筆の書評一覧があります)

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