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2007-06-16

[]田垣正晋編著『障害・病いと「ふつう」のはざまで――軽度障害者どっちつかずのジレンマを語る』

障害・病いと「ふつう」のはざまで

障害・病いと「ふつう」のはざまで

2007年3月『人間科学:大阪府立大学紀要 2』掲載 141−143頁

評者:森岡正博 (http://www.lifestudies.org/jp/)

 本書は、大阪府立大学人間社会学部社会福祉学科の教員である田垣正晋が、軽度障害者をテーマに編集した学術書である。軽度障害者とは、「健常者とも言いにくいし、障害者と言うのもはばかられる」という、「どっちつかずの」自意識を持つ者を指している。ただし、田垣自身が強調しているように、本書は、軽度障害者をそのような者として「定義」しようとはしない。むしろ、各自が、軽度障害者とは何かをたえず考え直していくことが大事だとされている。

 これまで、軽度障害者の問題は、さほど重視されてこなかった。障害者問題というと、援助者からの支援なしには日常生活を送ることのできない重度障害者のことが、念頭に置かれることがほとんどであった。私の研究分野である現代哲学においても、重度障害者(脳性マヒ者)である「青い芝」の人々の言説と行動が取り上げられることはあっても、軽度障害者についての言及は見聞きしたことはない。本書は、非常に広い意味での軽度障害、たとえば軽度の四肢障害、容貌の変形、高次脳機能障害、軽度発達障害、慢性病などを取り上げ、それらの障害を持った当事者の語りをすくい上げて吟味することを目的としている。この点で、非常にユニークな内容となっている。

 田垣は、軽度障害者には、健常でも重度でもない「どっちつかず」のつらさがあると言う。たとえば、軽度障害者は、自分が重度ではないことへの罪悪感を持つ場合がある。田垣が引用している野上温子は「『軽度障害者でゴメンナサイ、重度障害者の本当の痛み、つらさは私にはわからない』といった負い目」を感じたという(56頁)。あるいは、軽度障害者は、ある程度無理をすると仕事を普通にこなすことができるので、自分が実は障害者であるということを上司が認知しないという問題点もある。このように、自分からカミングアウトしないとわかってもらえない軽度障害者は、いついかなる状況で、場の雰囲気を壊さないようにカミングアウトすればよいかという難問を背負うことになる。

 軽度障害者のかかえるジレンマは、たしかに、健常者社会からは死角となる領域であろう。非常に示唆深い論考であったが、田垣の次の記述には違和感を持った。「「めがねをかけている人も軽度障害者」であるとか「軽度障害者の悩みは、健常者にもある」といった発想は慎むべきである。前者については、「めがね」は社会的に認められているが、いざ「障害」となると、当人への努力の要求や、蔑視が生じやすい。めがねをかけている人に向かって、「めがねに頼らずに、裸眼で見るように努力しなさい」という人はいない」(68頁)。田垣の言わんとすることは理解できるのだが、ここまで言い切ってしまっていいのだろうかという疑問が生じる。私は小学校低学年から極度の近視で、「牛乳瓶の底」のようなめがねをかけていた。私が小学校をとおして受けたイジメのひとつは、このめがねが引き金であり、いじめっ子たちは私からめがねを奪って、動けなくなった私をからかって、ほーらこっちまで来てみろといじめたのであった。高校生のときにコンタクトレンズをするまでは、「牛乳瓶の底」とからかわれ続けた。親は私の近視を治そうとして、裸眼で遠くが見えるような訓練(近くを見たり遠くを見たり繰り返す)をさせたし、私もそれをやってみたが、まったく改善されなかった。近視は視力矯正訓練によって治るという広告(現在でもある)を見るたびに、私はかつてのことを思い出すのである。個人的な経験で恐縮であるが、この意味ではやはり「めがねをかけている人も軽度障害者」であると言ってよいケースはあるのではないだろうか。

 ただし田垣の主張したいことも理解できる。もし、「めがね」も軽度障害というのであれば、あれもこれもということになって、その境界線はどんどんとあいまいになっていき、ふたたび軽度障害者という概念自体が曖昧模糊としたものへと後退してしまうであろう。これは軽度障害者というアイデンティティを持つ当事者たちにとっては、割り切れないことかもしれない。以前に、「青い芝」の会の障害者の方を研究会にお呼びしたときに、私は「障害という面から見たら、ほとんどの人は何らかの障害者と言えないか」と発言したのだが、その方からは「それは間違っている。あなたは一人でも生きていけるが、自分たちは介助がないと明日から生きていけない。死んでしまう」と猛批判されたことがある。私がそのとき不用意に発言してしまった「みんな障害者」というような「障害の相対化」は、障害者をときに深く傷つける暴力として働くのである。

 かくして、健常者、軽度障害者、重度障害者のあいだに生じてしまうアイデンティティ・ポリティクスを、どう考えていけばいいのかというのは、たいへん根深くやっかいな問題なのである。このあたりの難問もまた、今後の研究テーマであろう。

 また、松本学(この方は以前に本学大学院人間文化学研究科に在籍されていた)は、先天的な容貌の変形や、口唇口蓋裂をもった人々の心理社会的問題について、当事者たちからの声を拾い上げている。容貌の変形の問題も、最近まで、障害者問題としてはさほど広く認知されてこなかったテーマである。しかし、人間のコミュニケーションにおける容貌の重要性を考えてみれば、この方面の研究の重要性は疑うべくもない。松本自身、顔に傷を持つ当事者である。本大学院では、その当事者が研究者となって研究することの意味に着目して調査を進めていた。が、その後、みずからの「当事者性」というものに慎重になり、「むしろ「当事者性」を明示しながら、支援ということを語ることが欺瞞なのではないかとすら思うようになった」(155頁)と書いている。これは非常に興味深い叙述である。彼がなぜそのように考えるに至ったのかはぜひ本書を読んでいただきたいが、研究における「当事者性」の功罪という論点もまた、今後さらに究明していくべき大事なポイントであろう。

 稲沢公一は、精神障害者本人の語りに注目した論考を書いている。稲沢は「べてるの家」の人々の語りを評価しながらも、精神障害というのは、「もともと誰にも語ることのできない何か、本人でさえ決してことばにできない何かがその中核にひそんでいる。すなわち、とりわけ精神障害については、いわば物語の「手前」にこそ広大な領域が語られぬままに存在しているといってよい」(121頁)と書いている。稲沢は、「おそらく、精神障害とは、わかってしまってはいけないものの一つなのかもしれない」(122頁)とすら言う。その言明に凄みを感じつつも、しかし、そこまで言い切ってしまっていいものだろうかという疑問を、私は持ってしまう。ある一群の内面世界を「わかってしまってはいけないもの」として特権化してしまってよいのだろうか。それは、たとえば、「あなたは私の内面世界をけっしてわかることはないだろう」と言うときの到達不可能性と、どこが違うというのだろうか。これに対しては、「一般的に人は他人の心が分からない」ということと、「健常者には精神障害者の心が分からない」ということは、まったく次元の異なったことなのであるという反論があり得るだろう。しかしその反論ははたして成立するのだろうか。これは精神病理学の問題系であると同時に、哲学の問題系でもある。哲学の領域では、そもそも「他人の心」とは何か、という泥沼の難問が控えているのである。

 以上のような刺激を得ることのできる、好著であった。

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2007-06-12

[]『医療倫理』『日本の生命倫理』『入門・医療倫理2』

医療倫理 (〈1冊でわかる〉シリーズ)

医療倫理 (〈1冊でわかる〉シリーズ)

入門・医療倫理 (2)

入門・医療倫理 (2)

2007年6月10日日経新聞掲載

評者:森岡正博 (http://www.lifestudies.org/jp/)

 日本に「生命倫理」という言葉が生まれてから、もう二〇年になろうとしている。一般語として、もう定着したと考えてよいだろう。この二〇年のあいだに、様々なことがあった。男女産み分けから始まって、脳死臓器移植の大問題、安楽死や尊厳死、そしてクローン技術に至るまで。

 これらの難問を考えるときに、日本の学者たちは、アメリカ合衆国での議論をつねに参照してきた。「アメリカではこうだが、日本ではこうだ」式の言い方は、この分野での常套句である。もちろん、先端医療がもっとも進んでいるのは米国であるから、そこでの議論を参考にするのは、間違ってはいない。しかし、生命にかかわる「倫理」や「感覚」の問題までをも、「アメリカっぽく」捉えようとしてもいいのかどうか、というのがこの二〇年のあいだ、多くの学者や活動家を悩ましてきた難問だったのである。

 たとえば、トニー・ホープの『医療倫理』を見てみよう。著者は英国人なので、ここで描かれているのは「英語圏」の倫理学ということになるが、それは米国の生命倫理学と大差ない。彼はこういう議論をする。

 暴走列車が線路を走っていて止められない。線路の先には、五人の人間が縛りつけられている。そのままにしておくと五人は轢かれて死ぬ。あなたはその直前で線路を切り替えることができる。しかし切り替えられた先には、別の一人の人間が縛りつけられていて、その人が死ぬ。あなたは線路を切り替えるべきか否か。

 もし切り替えるべきだとするならば、(とホープはいきなり別の例を出してくるのだが)、あなたは、健康な人間を一人殺して臓器を取り出し、五人の重症臓器不全の患者の命を救うこともまた認めなければならないはずだ、というのである。

 日本の生命倫理学のテキストで、こういう例を議論の中心に据えるものは、ほとんどない。良くも悪くも、日本の生命倫理学は、この種の抽象論を避け、そのかわりに、臨床の現場で起きる具体的な問題にどう対処していくのか、という点に集中してきた。米国では、このような具体的アプローチを「臨床倫理」と呼ぶが、日本でもっとも発達したのは日本的な臨床倫理であったと言えるだろう。

 その取り組みの歴史を回顧した重厚な論文集『日本の生命倫理:回顧と展望』は、この分野の成立にタッチした学者たちが、近過去を振り返って記録した第一級の資料集である。日本の医事法学からの流れ、七〇年代のウーマン・リブからの流れ、障害者自立運動からの流れ、それらが生命倫理という分野にどのような影響を及ぼしてきたかを、われわれはこの本を手がかりに検証することができる。

 しかし具体的な現場にばかり拘泥すると、全体像を理論的に俯瞰する視点を失うことになりかねない。赤林朗らによる『入門・医療倫理2』は、一転して、生命倫理の問題を扱うための「倫理学方法論」に正面から取り組んでおり、おそらく現時点での英米系倫理学の最高の概説書となった。

 と同時に、そこで問われていない大問題があることもまた明瞭である。それは日本の生命倫理が具体的場面で訴えてきたところの、生と死の現場において人はいかに「生きる意味」を見出していけばいいのかという問題、そして、障害者、難病者、高齢者らの立場からいかにこの社会の「健康至上主義」を解体していけばよいのかという問題である。

 生命倫理は、宿命的に二つの課題を背負っている。現場に役立つ道具立てを提供すること、そして生命を見る新たな視点を生み出すことである。

 生きていくなかで、人々がふと考えてしまう、「よく生きるとは何か」「後悔なく死んでいくとはどのようなことか」という問いに、正面から答えることのできる学に成長すべきだ。

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