感じない男ブログ このページをアンテナに追加 RSSフィード

2007-12-31

[]インドが代理出産を世界から受注

インドでは2002年に商業的代理出産が合法化された。それを受けて、インドの各都市で、先進国のカップルの子どもの代理出産をするクリニックが増えているらしい。代理出産をいちど請け負うと、通常の15年分のお金が手に入るとのことだ。臓器売買と同じような構造があるが、代理出産の場合は合法だというのが違うところか。

Commercial surrogacy has been legal in India since 2002, as it is in many other countries, including the United States. But India is the leader in making it a viable industry rather than a rare fertility treatment. Experts say it could take off for the same reasons outsourcing in other industries has been successful: a wide labor pool working for relatively low rates.

http://news.yahoo.com/s/ap/20071230/ap_on_re_as/india_wombs_for_rent;_ylt=AvniVISLluw5fkwrwqMmPssQr7sF

まさにアウトソーシングである。

More than 50 women in this city are now pregnant with the children of couples from the United States, Taiwan, Britain and beyond. The women earn more than many would make in 15 years. But the program raises a host of uncomfortable questions that touch on morals and modern science, exploitation and globalization, and that most natural of desires: to have a family.

Dr. Nayna Patel, the woman behind Anand's baby boom, defends her work as meaningful for everyone involved.

"There is this one woman who desperately needs a baby and cannot have her own child without the help of a surrogate. And at the other end there is this woman who badly wants to help her (own) family," Patel said. "If this female wants to help the other one ... why not allow that? ... It's not for any bad cause. They're helping one another to have a new life in this world."

どこかで聞いたような言い訳である。

2007-12-28

[]永井均『なぜ意識は実在しないのか』

なぜ意識は実在しないのか (双書 哲学塾)

なぜ意識は実在しないのか (双書 哲学塾)

2007年12月23日熊本日々新聞掲載

 哲学者の永井均さんの新著である。「なぜ意識は実在しないのか」という奇抜なタイトルが付けられているが、この本のいちばん面白いところは、それを手がかりにしながら、著者独特の哲学的な思索がぐいぐいと推し進められていくところにある。細かな裏道に何度か入りながらも、最終的には、哲学的に深みのある構想が正面から提示されていて、さわやかな読後感を誘うようになっている。

 赤い夕焼けを見たときに、私が視覚的に感じるもの、これが私の意識だ。甘い角砂糖を舐めたときに私が感じる甘い感覚、これが私の意識だ。だが、目の前の他人もまた、このような意識をもっているのだろうか。他人が赤い夕焼けを見たときにも、その人の頭の中には、ちょうど私が感じているような意識が、立ち現われているのだろうか。これは、多くの人が、一度は考えたことのある問いだろう。

 この問いに対して、多くの人は、「もちろん他人の内面にも意識は存在するのだが、私と他人のあいだには深い溝が横たわっているから、私はけっして他人の内面に存在する意識を直接に知ることができないのだ」、と答えるにちがいない。永井さんは、このような考え方は間違っていると言う。そして、以下のようなことを主張するのである。

 そもそも、私が痛いという経験と、他人が痛いという経験は、まったく別のことを意味している。そして、私が痛いというときに私が経験していることは、どんな他人の痛みとも比べることのできない特権的な経験であるとしか言いようがない。私の痛みと他人の痛みが質において比較できないということではなく、私の痛みそのものは私のみに所属しているということである。これは疑うことのできない、端的な事実である。

 であるから、このような特権的な経験が、他人の内面でもそのまま起きていると言ったとしたら、それは端的に間違っていることになるはずである。たとえば、ある人が自分の胸を叩いて、「他人はこの痛みを感じることができない」と言ったとしよう。それを聞いていた人が、同じように自分の胸を叩いて、「それはこの痛みのことですよね」と尋ねる。だが、最初の人は、「私が言っているのは、この痛みのことであって、あなたのその痛みのことではないのです」と反論することになるだろう。

 では、どうしてこのようなズレが起きるのだろうか。それは、最初の人が、自分だけに訪れる特権的な経験について表現しようとしているのにもかかわらず、「言語」がその特権性をうまく伝えることができないからである。つまり「言語」を媒介してしゃべったとたんに、この「特権的なこと」が、どうしてもうまく表現できなくなってしまうのである。永井さんは、これを「言語」というものがもっている不可避的な制約であると考えている。

すなわち、「言語」を用いたとたんに、特権的な「この痛み」というものは、すべての人間が経験できるはずの一般的な「この痛み」へと変換されていってしまうのである。このようにして、経験の特権性は、「言語」によって無残に裏切られるのであるが、しかし話はそれだけでは終わらない。

 というのも、私が痛いときに、私にだけ訪れている特権的な経験というものがあるということを、私が知ることができるのはどうしてなのかという問題が残るからである。これに対する永井さんの答えは非常に興味深い。ある経験が私に特権的に訪れるということを私が分かるためには、私と他人とを同じ平面に並べて比較するという視点が必要になるのだが、そのような視点を与えるような働きこそがまさに「言語」の本質なのである。

 すなわち、「言語」とは、私に特権的なものを構造的に消去していく働きをもっているのだが、実にそのような消去的な働きをもった言語を媒介することではじめて、私は、私に特権的なものがあるということを明瞭に自覚できるようになっているのである。このような特権性の自覚へと私を巻き込むものこそが、「言語」というものの力なのだ。

 以上にまとめたものは、評者によるひとつの解釈である。読者をそれぞれの思索へと刺激してしまう、真の哲学書であると言えよう。

評者:森岡正博 (http://www.lifestudies.org/jp/)



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