感じない男ブログ このページをアンテナに追加 RSSフィード

2008-04-24

[]射精の倫理学・膣内射精が暴力だとしたら・・

関西倫理学会の発刊する『倫理学研究』誌に、「膣内射精性暴力論の射程:男性学から見たセクシュアリティと倫理」という論文を書いた。全文は上のリンクからどうぞ。

射精暴力論は、沼崎一郎が開拓した領域である。沼崎は論文の中で私の以前の論文を批判している。それを引き受けて、さらに展開する論文をようやく書くことができた。射精の倫理学・男性学というのは、日本の男性学のオリジナルな議論なのではないかと思われる。ぜひ諸氏からの意見をお聞きしてみたい。以下、論文から抜粋。

まず、強制性を伴うと思われる膣内射精関連行為を以下の三つに分ける。

(1)「強制膣内挿入」・・・これは、女性の意に反して、男性がペニスを女性の膣に強制的に挿入することである。法律上これは強姦・レイプと呼ばれる。(法律上は挿入によって姦淫は成立し、射精の有無は問われない)。

(2)「強制膣内射精」・・・これは、女性の意に反して、男性が女性の膣内で強制的に射精をすることである。コンドームやピルなどの避妊措置をしていようがいまいが、射精行為が女性の意に反しているならば、それは強制膣内射精である。

(3)「強制妊娠を導いた膣内射精」・・・これは、女性の意に【27】反して、望まない妊娠が起きたときに、その直接原因となった膣内射精のことを指す。膣内射精を許しても妊娠しないだろうと女性は思っていたが、妊娠してしまったという場合でも、その妊娠が女性の意に反していたならば、それは強制妊娠であり、それの原因となった膣内射精は、強制妊娠を導いた膣内射精であることになる。

(27〜28頁)

「強制妊娠を導いた膣内射精」とは、たとえば、

 妊娠後に男性が女性を裏切って不倫したり、妊娠した女性のもとから逃げたり、あるいは妊娠前から男性が他の女性と付き合っていたことが妊娠後にばれたりして、女性がその男性と性的関係を持ったこと自体を深く後悔し、そんな裏切り者の血を引く子どもが自分の胎内にいるということを、自分に対するこの上ない暴力だと感じたときである。そのようなとき、女性は胎児に対する強い拒否感を抱いて、中絶してしまいたいと思うかもしれないし、そのような感情を持ちながらもしっかりと産み育てたいと思うかもしれない。いずれにせよ、妊娠してしまったことに対するこの拒否感を引き起こした直接の原因である、あのときの膣内射精が、このようにして、性暴力として事後遡及的に構築されることはあり得るのである。あのときの膣内射精さえなければ、いまの自分の陥っている望まない妊娠という出来事は起きなかったのにというわけである。二人の関係性に対する裏切りという可能性をはらみながら膣内射精を行なった時点で、それは潜在的な性暴力を背後に抱いた膣内射精だったのであり、実際に男がそのような裏切りを行なったり、裏切りの情報が暴露された時点で、その潜在性は顕在性へと転化し、「あのときの膣内射精は性暴力であった」ということが事後遡及的に構築されるのである。

(31頁)

このことのひとつの帰結は、

それはすなわち、膣内射精から始まるすべてのいのちの誕生の背後には、潜在的な性暴力の影がぴったりと貼り付いているということである。赤ちゃんの誕生は、祝福されるべきものと言われる。だがしかし、そのいのち誕生の初発となった膣内射精は、いつでも事後遡及的に性暴力として構築され得る可能性をはらんだものなのである。すなわち、このようにして生まれてくる赤ちゃんは、その存在の始原において潜在的な性暴力の影を背負って生まれてくるということである。

(31頁)

ということになる。

射精の暴力性ということに関しては、実は、多くの男性たちは心の底で薄々気がついていることであろう。しかし、その実体が何なのか、あえて考えないようにしてきたのではないか。たとえ「傷つけたい」という顕在意識がなかったとしても、単に射精をするだけのことが、潜在的に性暴力となってしまい、いつでも事後的に性暴力として構築されるということは、男性にとって何を意味するのか。

この論文で書ききれなかった点については、さらに別の場所で続けて考えていこうと思っている。

2008-04-17

[]須原一秀『自死という生き方』およびコメント

自死という生き方―覚悟して逝った哲学者

自死という生き方―覚悟して逝った哲学者

以下の書評を共同通信配信で書いて、地方紙に掲載された。この本の内容が傑作というわけではないし、内容に全面賛同するわけでもない(葉隠称揚など)が、著者が自殺を肯定し、本書を書き、それを実践して自死したという事実そのものが突きつける衝撃を私なりに受け止め、読者に紹介したいと思った。

こういう内容なので、すでに各紙に書評が出たりコメントが出たりして、話題になっているのだと思っていた。新聞広告も何度が出ていた。昨日、共同通信の担当者から掲載誌が送られてきたのだが、担当者が言うには、読売、朝日など全国紙やブロック紙には、本書の書評はまったく掲載されず、新聞に載った書評は私の書いた以下の書評一本のみであったとのことだった。新聞書評がここまで出ないというのは、本書の話題性から言って、書評のプロの私としても考えにくい事態だ。書評に書いたように、「黙殺」された感がある。

このことが、私にはもっとも衝撃的だった。いつのまにこの国のマスメディアは、自殺について肯定的に語ることをここまで隠蔽する体質になってしまったのだろうか。私自身は自殺を全面肯定していない。だが肯定する場面があり得る(末期状態でなくても)と考えている(拙論「生命学とは何か」参照)。そういうことをも、真綿を絞めるように語ることができなくなる日が来るのだろうか。

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2008年2月17日以降共同通信配信(高知新聞など)

 これは真の論争の書だ。自殺について考察した本だが、社会思想研究家だった著者の須原さんは、人生を肯定したうえでの明るい自死は望ましいものであると本書で結論づけたのちに、二〇〇六年四月、身体も精神も健康なままで実際に自死した。六十五歳であった。

 自死の直前まで書きつづられた本書の内容は力強く、自分の哲学をそのまま実行し得た者だけがもつすがすがしさを湛えている。いまの風潮を考えれば、この本は社会的には丁重に黙殺されるかもしれないが、しかし人間の生と死に関心をもつ者はぜひ読んでおくべきであろう。

 人生で誰でも経験できるような「幸せの極み」を幾度か体験したがゆえに、「自分は確かに生きた」と日々身体で納得しており、いま死んだとしてもなんの後悔もなく死ねると確信している人が、実際に自死すること。須原さんは、そのような死に方のことを、絶望の自殺と区別して、「自決」と呼んで、擁護しようとしている。

 須原さんは、自決を前にした自分自身の気持ちを点検して、人生に対する未練も、死に対する恐怖も、おのずと消滅していって、気にならなくなったという。自決する人間の精神は、まったく暗いものではない。なぜなら、「死ぬべきときには死ねる」という確信があれば、気持ちに雄大さと明るさが備わってくるからである。

 「そこまでの確信があるのならば、別に自決しなくても、最期まで生きればいいではないか」という反論に対して、須原さんは、痰で喉を詰まらせて苦しみのうちに窒息死するというような死の迎え方よりも、チャンスが到来したときにみずから間髪を入れずに自決するほうが望ましいのだと主張する。

須原さんが念頭においているのは、人生の大半を経験し終えた老年者の自決である。自決の仲間作りも提唱している。ここまで確信に満ちた自決の実行者を、我々は正しく批判できるのか。本書は現代人の喉に突きつけられた刃である。


評者:森岡正博 (http://www.lifestudies.org/jp/)



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◆森岡正博の書評ページ(森岡執筆の書評一覧があります)

http://www.lifestudies.org/jp/shinano01.htm

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2008-04-07

[]リルケ、谷川俊太郎、詩と哲学(半歩遅れの読書術・5)

マルテの手記 (新潮文庫)

マルテの手記 (新潮文庫)

世界へ! (1959年) (現代芸術論叢書〈第7〉)

世界へ! (1959年) (現代芸術論叢書〈第7〉)

2008年3月30日日経新聞掲載

 いまから振り返ってみれば、私は本を読むのが好きな子どもだった。小中高と、授業中は机の下でずっと本を読んでいた。小説がほとんどだったが、詩集や哲学書が混ざることもあった。

 高校生になってからは、学校の図書館にある本を次から次へと読んでいった。ゲーテ、ニーチェ、カント、サルトルなどを知ったのもそのころである。

 当時、図書館から持ち出して自分の手元にずっと置いておきたいと思ったほど愛読した本が二冊ある。

 一冊目の本は、リルケ『マルテの手記』(新潮文庫、大山定一訳)である。「人々は生きるためにこの都会へ集まって来るらしい。しかし、僕はむしろ、ここではみんなが死んでゆくとしか思えないのだ」という書き出しで始まるこの詩人の作品によって、私は文学というものの神髄を知ることとなった。主人公と同じように、「死」の観念に取り憑かれていた私は、夜中に覚醒状態になって、何度も読み返した。

 二冊目の本は、谷川俊太郎『世界へ!』(弘文堂)である。「ひとつの死体、空と地との間に横たわり、変わらぬ太陽に照らされて、刻々と腐ってゆくひとつの死体。彼にとって詩とは何であったか。そういう問いが私を苦しめる」。同じように死から語り出されるのだが、谷川の思索は、そこから大きく展開して、生とエロスの賛歌となる。そして、詩とは「人間を生き続けさせるための武器なのだ」と、締めくくられるのである。

 大学に入って、私はリルケから遠のいていった。思潮社から出た『谷川俊太郎詩集』を脇にかかえて、芝生のグラウンドに寝転がり、アメフト部の練習を遠くから眺めた。谷川の新刊が出るたびに、書店で買ってそれを読んだ。しかしやがて、私は谷川からも興味が薄れていった。私は詩と小説の世界から離れ、鬱蒼とした哲学の森へと入っていくことになる。生の甘美を歌い上げることよりも、生の謎を解明することのほうに興味が移ったのである。

 そして時は流れ、いま手元にこの二冊の本がある。再読してみれば、この二冊は、「死ななければならないのに、なぜ人は生きるのか」という問いに正面から答えようとしていることが分かる。私はこの二人の詩人から、「詩とは何か」よりも、「生と死の哲学とはどうあらねばならないのか」を、より多く学んだのだと思う。詩人の言葉の奥底に秘められた、熱き哲学の問いに導かれることによって、私はここまで来ることができたのだ。


評者:森岡正博 (http://www.lifestudies.org/jp/)



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