『身体とアイデンティティ・トラブル』

身体とアイデンティティ・トラブル

身体とアイデンティティ・トラブル

ジェンダーセクシュアリティ論の野心的な論文集。シンポジウムのまとめらしい。とりあげられているテーマは、男性身体、同性愛、オタク、腐女子バイセクシュアル、ゲイ、レズビアンなどなど。それぞれフェミニズムインパクトを受け止めたあとで、現代の混迷するセクシュアリティ状況をどう捉えるのか、という試論になっている。何かの答えが出ているわけではないが、われわれは何に悩んでいるのか、を押さえるには使えるような気がする。執筆者には知り合いも何人か・・・(金井淑子先生お元気ですかm(_ _)m)。

以下、気づいた点をランダムに。

金井淑子フェミニズムと身体論」のなかで、フェミニズムが「コミュニケーションを目的とするセックスこそが正しい」という理解をしたがゆえに、「そのことがじつは、フェミニズムの性愛観を呪縛し、フェミニズムの性解放に抑制をかけていることにも気づかれにくくしているのではないか」(28頁)と指摘している。たしかにそういう面はありそうだ。と同時に、男である私は、コミュニケーションを目的とするセックスに対する「あこがれ」が確かにある。これは「正しさ」ではなく、「あこがれ」であることに注意。こういうあたりで、対話することが可能になればいいのに。

海妻径子「フェミニズムは男性身体を語れるか」。これも大問題ですよね。このなかで海妻は、「「精液的」な男性身体」という言葉を借りてきて使っている。ただ、けっこう外在的な概念のようにも思う。「感じない男」の内的経験からした「精液的身体」というものを考えてみたいようにも思う。

細谷実「美醜としての身体」。細谷は美醜の問題をジェンダーセクシュアリティ論に導入しようとしている。美人・不美人問題、イケメン・キモメン問題と言ってもいいだろう。これは今後の大議論領域のように思う。思うのは、美醜問題と、一般的な「魅力」問題と、どう違うのだろうということとか。魅力ある人は、一般的に好かれたり、人気があったりする。それはまた恋愛対象をゲットする大きな要因としても働き得る。美醜問題というのは、これとはまったく異なった機序で作動するのかどうか。

中村美亜「"アイデンティティの身体化"研究へ向けて」。これは、私の『感じない男』だけに絞って批判的に検討したものである。たぶんはじめて活字化(古い概念かな)された批判論文かもしれない。『感じない男』では、結局、生物学的決定説に傾斜してしまっているという点を指摘し、著者(森岡)が仕掛けた本質主義構築主義かという二者択一から脱出することを訴えている。批判はとてもありがたい。そのうえで言うと、この本では仮想敵として構築主義ラディカリズムがあったので、たしかに本のいくつかの箇所で、本質主義的な雰囲気のことを書いているのは事実です。ただ、立場性そのものを問われるとするならば、私自身は本質主義でも構築主義でもこの問題は解決されないと思っているので、この点に関しては中村と立場そのものはほぼ同じだと言えると思っています。肉体的に埋め込まれたものと、外部から洗脳(洗身体)されてくるものの狭間でうごめきながら形成されていくセクシュアリティのリアルな現実を、さらに対話していけるといいなと思った。中村も書いているように、中村と森岡は似たようなものを共有しているみたいなのに、森岡は「男」として生きる選択をし、中村は「「男」として生きない選択をした」(253頁)。その差異がどのようにして生まれたのか、その次元から、いろいろ問いを立ち上げていけたら面白いというふうに思った。

本の表紙は、明石書店っぽいと言ったらいいのか、どうなのか・・・・。

ところで、いまさっき、ある人から、秋葉原事件の動機として、モテ問題があるのではないかという示唆をもらった。私も実はそう思っていた。まだあまり言われてないのかもしれないけど、今回の事件は、モテ問題として、そして男性学のテーマとして、正面から考えていかないといけない大問題を含んでいるように直感する。