感じない男ブログ このページをアンテナに追加 RSSフィード

2008-10-30

[]『33個目の石』とは何か

33個めの石 傷ついた現代のための哲学

33個めの石 傷ついた現代のための哲学

↑ 「33個目の石」に関して、このような本を出しました。ぜひ上の本のタイトルをクリックしてご覧ください。

本の目次、内容、本文のサンプルは、

http://d.hatena.ne.jp/kanjinai/20090120/1232434644

で読むことができます。

以下の文章は2008年10月に書いたもので、上記の本の元ネタになりました。本のほうではもっと突っ込んで書いてます。(2009年3月追記)

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以前、バージニア工科大学事件で、追悼の石が容疑者の分をも含めて33個置かれたということについて、書いたことがある。

http://d.hatena.ne.jp/gordias/20070422/1177171597

このときには、誰が33個目の石を置いたのか分からなかった。ネット掲示板では、例の人々が、33個目の石を置いたのは韓国(朝鮮)人であったと書き込み、あるいは朝鮮日報記者であると書き込んでいた。いまでもそのような書き込みは続いている(上記コメント欄の書き込みも参照)。

いま発見したのだが、AP通信は、石を置いたのは、バージニア工科大学学生Katelynn L. Johnson であると報道している。

After a student organization placed the stone memorials in a semicircle last week on the main campus lawn, senior Katelynn L. Johnson added a 33rd stone for Cho. Johnson said she told almost no one about the stone because she feared a backlash.

She came forward after someone took it away, because she was outraged by the brief removal of the rock. She says she accepts all "fellow students, faculty and alumni as Hokies" no matter what problems they have.

"I believe his life had value no matter what he did," she said. "We lost 33 people."

Johnson said she has received hundreds of messages supporting placement of the stone for Cho. She only got a few negative responses, and only one from the Tech community.

After the first stone for Cho was removed, someone else came forward and placed a new one there. As of Thursday, the stone remained.

The appearance and disappearance of the stone reflects the community's struggle to come to terms with the massacre.

http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2007/04/26/AR2007042601832_pf.html

記事を読むと、いろいろなことを考えさせられる。

かなり遅れましたが、続報として補足しておきたい。

追記:その後、大学側は、これらの石のかわりに正式の追悼碑を作成したが、その個数は32個である。これについてはまた書きたい。

2008-10-24

[]悩みのレッスン

そういえば、今日の朝日新聞夕刊(全国版)で、私の担当する「悩みのレッスン」が掲載されています。いろいろ忙しくて、見るのがこの時間になってしまった。悩みのレッスンの文章を、LifeStudies.orgのほうに全文掲載しようと思ったが、質問部分には著作権があるので、どうしたらいいかと思ってます。ちなみに今回の質問のタイトルは「失恋して心がズタズタです」。

2008-10-22

[]立岩真也『良い死』

良い死

良い死

2008年10月19日日経新聞掲載

 この本のタイトルは「良い死」というのであるが、中身を読んでみても、良い死に方とはかくかくしかじかである、とは書いていない。そのかわりに、死にゆく人間をケアしたり、その死を早めたりする行為を考えていくときに、誰もが肝に銘じておかねばならないことが書かれている。

 立岩は、安楽死や尊厳死を認める法律を作ることに反対する。そのように言うと、「自分で自分の死に際を決める権利を奪おうとするのか」と反論されるかもしれないが、立岩はそういうことを言いたいのではない。「生きたいなら生きられるという条件」がきちんと整えられてから、死ぬのもよしというふうにするべきだ、と主張するのである。だが、いまの日本社会で、そのような条件が整えられているとは考えにくい。

 人は、自分はもう充分に生きた、残される人たちに迷惑をかけたくないと思って、みずからの生を絶とうと思うことがある。その思いそれ自体は否定される必要はない。それを認め、その心意気を賞賛しながらも、「あなたはそんなことはしなくてよい、それはあなたにはさせない」と応じていく道筋があるのではないかと立岩は言う。この細い通路にこそ、安楽死や尊厳死の強制へと傾斜する社会の流れを解体させる希望がある。

 もちろん、末期医療をめぐっては、人手が足りないとか、お金が足りないといった壁が立ちはだかっていると言われる。だが立岩に言わせれば、それは実は幻想なのであって、お金の使い方はいくらでも工夫できるし、人手はむしろ余裕があると考えたほうがよい。死にゆく人々を支えるためのリソースそのものは、意外にも、裕福である。

 だが、実際のケアの現場を見てみれば、お金が足りないし、人手もないという惨憺たる状況がある。ということは、高齢者や障害者を支えるための社会のシステム全体が、どこかおかしいということになる。本書は、それを考えるための絶好の研究書である。著者のゆったりとした文体にいらだつことなく、じっくりと読み進めれば、必ず何かが得られるだろう。


評者:森岡正博 (http://www.lifestudies.org/jp/)


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◆森岡正博の書評ページ(森岡執筆の書評一覧があります)

http://www.lifestudies.org/jp/shinano01.htm

◆LIFESTUDIES.ORG/JP

http://www.lifestudies.org/jp/

2008-10-18

[]アキハバラ本

アキハバラ発―〈00年代〉への問い

アキハバラ発―〈00年代〉への問い

大澤さん編集のアキハバラ事件本で、岩波から出て、業界著名人が名を連ねているとのことなので、書店で手に取って立ち読みしてみた。とくに永井均がこの問題について何を発言しているのか興味があったので、さっそく頁をめくってみたのだが、なんと、永井さんは2・3頁くらいの「コラム」を寄稿しているだけだった。これって、ありなのか? 岩波書店は、むかしはこういうことはしなかったのでは。・・というのも幻想かね。(立ち読みで言えるのは、まあここまで)

2008-10-17

[]彼らもまた被害者、なのか?

『女のからだから』No.270 2008年10月2日号 6頁 に、神経筋疾患ネットワークによる「神経筋疾患ネットワーク活動趣旨」という文章が転載されている。この文書で、ネットワークは、日本産科婦人科学会が2004年に「デュシェンヌ型筋ジストロフィー」の着床前診断を承認したことに反対を表明している。これはまさに命の選別であり、倫理的問題があると言う。

(前略)着床前診断は、まぎれもなく命の選別です。また、誰もが、事故や病気、老化などにより、「要らない命」と呼ばれる可能性を持っています。その点で、着床前診断の発想は、すべての人類の生存を脅かすものです。

 私たちは、着床前診断を選ばざるを得なかった夫婦に抗議したいとは思いません。彼らも、また被害者だからです。障害者が幸福に生きられるというメッセージが、この社会にはあまりにも少ないのが現実です。幸福に生きる障害者を見たことがない人にとって、自分の子供が障害を持ち、しかも長生きできないかもしれないと聞けば、生む決断ができないことも、想像は可能です。

 しかし、実際は、幸福に生きる障害者は、たくさんいます。どんなに重度の障害を持っていても、生まれてきて良かったと思っている人は、多いのです。(以下略)

私は彼らの主張は理解できるし、私自身、着床前診断には倫理的問題があると主張してきた(『生命学に何ができるか』等参照)。この文章が書かれた背景も理解できる。

しかし、私は、「彼らも、また被害者だ」というような言い方はしないだろう。いったん、この言い方をしてしまうと、「被害者」は次から次へと拡大していくことになるだろう。「被害者」と言いたい気持ちは十分理解したうえで、しかし「被害者」という言葉を使わないで、状況に対峙していく仕方こそが求められているのではないか。

2008-10-16

[]哲学者・中村雄二郎の仕事

哲学者・中村雄二郎の仕事 <道化的モラリスト>の生き方と冒険

哲学者・中村雄二郎の仕事 <道化的モラリスト>の生き方と冒険

中村雄二郎の仕事を、大塚信一が総覧して論じた大著(全652ページ)。大塚は、元岩波書店社長。中村雄二郎を長い間担当していた。中村雄二郎は、一時代を作った博覧強記の哲学者だが、いまの若い人たちはあまりなじみがないかもしれない。メディアで派手に活躍した人だから、アカデミズムからは嫌われていたように思う。

特異な能力の人で、あるとき研究会に来て、発表がはじまったらいきなりガーっと寝始めて、発表が終わった頃に起きて、質疑応答のときに最初に的確な質問をするという場面を目撃したことがある。一時期、西の梅原、東の中村と言われていた。

本書から引用

 ここまで書いてきて、私は言いようのない感慨にとりつかれていることを白状しなければならない。それは、私は中村氏の才能を恃むあまり、80年代以降、あまりにも多くの仕事を中村氏に押しつけてしまったのではないか、という危惧の念が中核に据わっているものだ。もちろん一方では、中村氏はあれほど着々と自分のペースを乱すことなく、しかも自分のやりたい仕事だけをやってきたではないか。とすれば、もっと多くの原稿を書いてもらってもよかったのではなかろうか、とそのようにも思ってしまうのではあるが。

 こうしたアンビヴァレントな思いは、ずっと後まで、病気によって中村氏が執筆不可能になる時まで、続いたのであった。そして現在でも、はたして私の考えが、つまりは20世紀が終了する頃まで何のかのと言いながら、次から次へと中村氏に仕事を依頼してしまったことが、妥当なことであったのかどうか、確信を抱くことができないでいるのである。(381〜382ページ)

中村雄二郎は、現在、夫人とともに、自宅で車椅子の生活をしているとのことである。

私は個人的には、彼の西田を扱った本が好きだったりする。

2008-10-15

[]FM横浜・草の紹介

FM横浜の「books A to Z」という番組で、アナウンサーの北村浩子さんが、草を紹介してくれました。その音声を聴くことができます。

http://blog.fmyokohama.co.jp/PodCast/BLOG_IMGS/308564-2.mp3 (クリックで聴けます)

番組のページはここです。

http://www.fmyokohama.co.jp/onair/program/steps/books/

2008-10-14

[]生命人文学の提唱という論文

10月に入って、このところ寒くなってきました。そろそろ冬のお支度でしょうかね。ついこないだまで半袖でうろうろしていたのに、いつのまにか・・・。私のもっとも苦手な季節が到来したようです。

ところで、昨年の日本生命倫理学会で発表した「生命人文学」の提言を論文化したものが、『生命倫理』に掲載されました。全文をアップロードしましたので、ご興味ある方はぜひご覧ください。

http://www.lifestudies.org/jp/seimeijimbun01.htm

要旨は、こんな感じ。

この論文で私は、人文系の研究者たちが現代的な生命の問題を議論するための「生命人文学」という新しい研究領域の必要性を提唱する。日本の学術的な生命倫理学は、医学領域に「医療倫理学」の専門分野を確立したが、それに対して、現代的な生命の問題への包括的な人文学のアプローチはいまだ成立していない。私が提唱する「生命人文学」は、次のような問い、たとえば「生命科学の発展によって人間は幸福になれるのか」「科学技術が発展する中で人間はいかにして尊厳を保つことができるのか」「人間が自然環境と調和的な関係を取り結ぶことは可能なのか」「すべての人が充実した生と死を全うすることのできる社会とはどのような社会か」などを議論する。米国やヨーロッパにおいては、この種の研究はどうしてもキリスト教からの大きな影響下に置かれることになるが、宗教教団が生命倫理の問題に対して大きな力を持たない日本においては、宗教的な影響をさほど受けずにこれらの問題を人文学的に議論することができる可能性がある。この研究プロジェクトはインターネットを介して情報や意見をリアルタイムで交換し共有するという高度なスキルを要求するものであるから、情報学と密接に連携した研究開発が必要となるであろう。

私の提唱してきた「生命学」と、どう違うの?という疑問が浮かぶでしょう。おおざっぱに言えば、生命人文学は、学術的な枠組みの中の学問で、同時に、生命学よりも範囲が広い、ということになるかな。でもあまり「生命人文学」という名称にはこだわってないので、他の名称で呼ばれてもぜんぜんかまわないです。なんか、このあたりの新規共同研究にご興味ある方はご連絡ください。

前に別のところでしゃべったときに、医療倫理学を生命問題への医学部のアプローチとしたら、生命人文学は生命問題への文学部のアプローチだと言ったことがあります。そういう見方もできるかもしれないですね。

2008-10-13

2008-10-10

[]QJ、ダヴィンチ、ON.

草掲載情報。

ダヴィンチ 白河桃子さんとの対談

クイックジャパン 何か載ってるらしい(伝聞)

ON. 成人雑誌注意。

2008-10-02

[]ブログ通信簿やってみた

id:font-daさんに倣って、ブログ通信簿をやってみた。

f:id:kanjinai:20081003002733p:image

影響度まあまあ高いじゃん。年齢高すぎ。

[]個室ビデオ放火現場の光景

今日大学の帰りに難波に立ち寄る機会があった。その所用先から目と鼻の先に、例の、個室ビデオ放火現場のビルがあった。夜だったが、前の道にはほとんど人がいなかった。通りがかりのサラリーマンたちが、立ち止まって青いビニールシートで覆われたビルの一階を見ていた。私は現場の前の道を通ってみた。現場の両脇には警察官が立っていて、その向かい側には、メディア関係者と思われる人々が10名ほど立っていた。男性記者たちが、座って、ノートパソコンに何かを打ち込んでいた。意外なほど、整然とした、清潔な空間だった。焼けこげの臭いもなく、不思議な静寂だった。キーボードの音が、はっきりと聞こえた。現場を少し離れたところに、予約車と書かれたタクシーが2台止まっていた。その向こうに、黒塗りのハイヤーが1台止まっていた。角を曲がったところに黒塗りがさらに2台止まっていた。それらは新聞社の車だろう。現場の隣のビルでは、焼鳥屋がもう営業を始めていた。角を曲がると、個室ビデオが煌々と営業していた。角の屋台でサラリーマンがおいしそうにラーメンをすすっていた。マックの店外席では若者たちが雑談し、緩い空気が流れていた。レンタルビデオ屋は明るくにぎわい、信長書店は妖しく光っていた。ここで多くの方々のいのちが奪われた。

[]草・情報

さいきん草のことばっかですみません。本日の京都新聞(朝刊?)文化面の連載に、草食系男子についての記事があって、そこに私が登場しているとのことです。あとは伊藤公雄さんとか。現物入手していません。