感じない男ブログ このページをアンテナに追加 RSSフィード

2011-09-21

[]トンデルの2011年論文について

チェルノブイリのときのスウェーデンの低線量被曝で発がん性が上昇したようだと結論したトンデルが、2011年に新しい論文を発表している。

http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/21112071

(追記:これはチェルノブイリ影響地での調査ではない)

アブストラクトを読んでみると、次の2点を結論した模様である。

(1)最高被曝カテゴリ以外のすべてのカテゴリで、全発がん性の危険度の上昇が見られる。

(2)ただし被曝度に対応する直線的な増加は見られない。

Sci Total Environ. 2011 Jan 1;409(3):471-7. Epub 2010 Nov 26.

Risk of malignancies in relation to terrestrial gamma radiation in a Swedish population cohort.

Tondel M, Lindgren P, Hellström L, Löfman O, Fredrikson M.

Results of epidemiological studies on terrestrial gamma radiation (TGR) and related malignancies have not been consistent. This study is a thorough examination of this relationship. Records on all individuals living in two Swedish counties in 1973, along with their annual dwelling coordinates during the 28-year follow-up period, were retrieved from the National Archives and Statistics Sweden. We used Geographical Information System (GIS) to match the individuals' dwelling coordinates annually to the TGR given in 200×200 m grids produced by the Geological Survey of Sweden. Cases of malignancies and deaths were retrieved from the Swedish Cancer Register. During the follow-up period 61,503 incident cases were included in the analyses and in total 11 million person-years were recorded. Cox regression was used both in a linear continuous model and analyses of six exposure categories. Adjustments were made for sex, age, and population density. The hazard ratio (HR) per 100 nanoGray/hour (nGy/h) was significantly increased for total malignancies and for several sites; however, contrary to expectations, an obvious and anticipated linear exposure-response relationship could not be identified. With the lowest exposure category (0-60 nGy/h) as reference, a statistically significantly increased HR for total malignancies was seen in all exposure categories, except in the highest category 96-366 nGy/h. For breast cancer, thyroid cancer and leukaemia an obvious exposure-response could not be seen.

太字該当部分を翻訳しておく。

「明白な、そして期待されたような、直線的な被曝との相関関係は見いだされなかった」

もっとも高い被曝度カテゴリ96-366 nGy/h以外の、すべての被曝カテゴリにおいて、全ガンに対する統計的に重大な危険度(HR)の増加が見られた。乳がん、甲状腺ガン、白血病については、顕著な相関関係は見られなかった」

直線的相関関係が見られないというのは、被曝度による凸凹が観察されるからである。全ガンというのは、トンデルは被曝の影響は普通ガンの発がん性を全般的に上昇させると考えているからである。統計学的有意性に関しては、さらに継続研究をしていかないと、いまのところはなんとも結論できないというのが正直なところであろう。有意性がはっきりしない=危険性がまったくない、とは言えないところが統計学という学問のやっかいなところである。

なお、この件に関して、

[トンデルは]今年、論文(Sci Total Environ. 2011 Jan 1;409(3):471-7)を出して、過去に述べたような傾向はあるが、線量とガンの発生率に相関はない、という結論を出しています

http://sallas.blog109.fc2.com/blog-date-20110516.html

と紹介しているブログがあるが、それを言うなら、「多くのカテゴリで危険率HRの増加はあるという結論を出している」という点を同時に紹介しないと読者に誤解を与えかねない。

2011-09-06

[]中西輝政の論説における「愛」

雑誌『Voice』9月号にて、保守派言論人の中西輝政京大教授が「"脱原発"総理の仮面を剥ぐ」という論説を書いているが、いまだに「右」対「左」の政治権力闘争としてしか現状を見れないそのスタンスに暗澹とする。

また、次のような文章がある。これは同じく保守派の竹田恒泰の「原発には愛がない」論への批判である。

たとえば、竹田恒泰氏は「原発には愛がない」と論じる。だが、この「愛」は愛国心の「愛」なのであろうか。議論を読んで受ける印象は異なる。国を愛しているというよりは、もう少し違うものを「愛して」おられるようだ。人間を愛し、原発労働者を心配し、被災民の方々をいたわっておられる。もちろん、そうした愛は尊い。だが、保守たるものは、まず「国家に対する愛」を何よりも優先させるものではないだろうか。(87頁)

ここでの「愛」の順序はこれでいいのか。

2011-09-05

[]「福島の原発事故をめぐって」山本義隆

福島の原発事故をめぐって―― いくつか学び考えたこと

福島の原発事故をめぐって―― いくつか学び考えたこと

科学史研究者(と言うだけでいいのかどうか分からないが)山本義隆が、怒りに筆を震わせながら原発ファシズムを糾弾した本。そもそもは雑誌『みすず』用に書かれたものを、単行本化したものらしい。全100頁のハンディな本である。原発をめぐる構造的腐敗を書いているだけでなく、肥大する科学技術幻想を科学史の上に位置づけて議論している点が著者ならではなのだろう。

[]「医療倫理学の基礎」G・ペルトナー

医療倫理学の基礎

医療倫理学の基礎

ウィーン大学の倫理学・美学・哲学教授である著者が、大陸哲学の視点から、医療倫理に切り込んだ著作。英米の生命倫理学を相対化する意味でも、読む価値がありそうである。英語圏のパーソン論を批判して次のように言う。

大陸的−ヨーロッパ的倫理学にとって、このような人格理解は、人間の尊厳という思想やそこに起源する基本的人権という思想と相容れない。人間が、殺されたり道具として用いられてはならないという禁止の対象となるのは、人間が明確な「道徳的に重要な」特質をもっているからではなくて、単純に人間が人間であるからなのである。」(iii頁)

人格についての議論は次のように始まる。

人格的存在者として、人間は関係的な存在者である。上記の諸関係のうち、とりわけ重要なのが共に生きる他者との関係である。人間とは本質的に〈他者と共に生きる者(Mitmensch)〉である。(55頁)

いかにもドイツ哲学っぽいスタンスである。こういう雰囲気から生命倫理の問題に哲学的に迫る仕事がもっとあっていい。ただし、脳死に関する箇所は、詰めが甘いように思える。

いずれにせよ、今後、ドイツ語圏の生命倫理学は注目しなければならない。日本の生命倫理学と相性がいい面がある。

[]「震災トラウマと復興ストレス」宮地尚子

震災トラウマと復興ストレス (岩波ブックレット)

震災トラウマと復興ストレス (岩波ブックレット)

宮地尚子さんの新著。精神医学研究者で、医師で、トラウマについて広く考察してきた著者が、すばやくこういう本を出したのには何かわけがあるのだろう。震災が大きなトラウマを当事者や非当事者に与えたが、これからは復興のプロセスにおいて、様々なストレスが人々を見舞うことになるというスタンスで書かれている。著者がかねてより提唱している「環状島」モデルを用いて、トラウマとストレスの具体例を位置づけている。しかしこの「環状島」というメタファーはもっと注目を集めてもいいのではないだろうか。論理よりも、イメージ喚起力が大きく、それによって、見えてくる(ような気がする)ものはたくさんあるように思う。この本自体、ある意味「外側」からの論説であるが、いままさに声を失っている人や現場で援助している人にとっても手助けになる知見がいろいろあるのではないだろうか。

2011-09-04

[]原発と障害者

あるところで、id:mojimojiさんが次のように書いている。

原発に反対するのは、障害児が生まれるからではなく、汚染者が子どもたちから腕や足やその他身体の機能を勝手に奪い取るから、それが不正だからである。

これはなかなか新鮮な表現の仕方で、目を開かされた。と同時に、思ったことがあるのでいちおう記しておく。もしこの論理を使うとすると、妊娠女性は、お腹の中の胎児からその機能を勝手に奪い取らないように気をつける「義務」がある、ということになりそうだが、それはそうなのだろうか。不正なことを引き起こさない義務。タバコ、風邪薬、健康管理、感染、等々。ふつうはこれらは「配慮」として語られてきたようにも思う。以前に、生命倫理の論文で、まさに妊娠女性の「義務」を語っていたものがあった。それを読んだときに、なにか一抹の違和感があったのだが。

一般的には私が何を論点にしたいのかいまいち伝わらないのかもしれないし、私自身クリアーではないが、とりあえず以上。

2011-09-02

[]管啓次郎・野崎歓編『ろうそくの炎がささやく言葉』

ろうそくの炎がささやく言葉

ろうそくの炎がささやく言葉

311を受けて、ろうそくのもとで詩を朗読するというシチュエーションで、詩や短文を集めたアンソロジー。日本からの参加者のものは書き下ろしである。冒頭の谷川俊太郎の詩が、意外に良い。緊張感あるひらがなの世界を作り上げている。年齢を感じさせないとはこういうことであろう。論理に上がる前の混沌を書くことに徹していて、他の書き手から突出しているように思える。ほかには、明川哲也の「箱」をテーマにした創作エッセイが、なかなか面白かった。少し泣ける感じだ。(朝日新聞「生きるレッスン」でご一緒している)。

[]金井淑子「依存と自立の倫理:<女/母>の身体性から」

依存と自立の倫理―「女/母」(わたし)の身体性から

依存と自立の倫理―「女/母」(わたし)の身体性から

2011年8月19日読書人掲載

 社会状況の急激な変化にともなって、フェミニズムもまた大きな変容を余儀なくされている。女性の置かれた生きづらさの原因をすべて家父長制に帰してよしとするような考え方や、男女のあらゆる関係性を対等性を軸にして再構築すればよいというような考え方は、すでにフェミニストたち自身から完全に疑問視されていると言ってよい。政策決定やエンパワメントの実践においてはともかく、理論の次元においては、フェミニストたちはさらに先鋭的な地点で議論を模索しているのである。

金井淑子の新著は、これら現代のフェミニズムが模索している諸問題を、倫理学・現代思想の地平から読み解こうとするものだ。そこで浮上してくるのは、ひとつには「家族をどうするのか」という問いであり、もうひとつは「女・母という主体をどうするのか」という問いである。金井はそれぞれに対して、本質主義(これはフェミニズムにとって不倶戴天の敵である)に間違われるかもしれないというリスクを背負いながら、家族と母を部分的に肯定する立場を提唱する。金井の言葉を用いれば、それは「フェミニンの哲学」であり、「母の身体性」「母の経験」「母の記憶」「いのちへのまなざし」である。ケア倫理と母性主義への悪しき先祖帰りという批判を予想しながらも、金井はそこからフェミニズムの未来形が豊かに取り出されるはずだと言おうとしている。

 まず家族についてであるが、金井は近代家族にかえて、新しい親密圏の成立を構想している。それはまず、家族関係から性愛を抜き去ったような親密圏である。そこでは性愛やケア関係から不可避的に起きてくる暴力というものがぬぐい去られる可能性がある。そして血のつながらない者たちが親密圏を選び取り直すこともできなくてはならない。金井はとくに述べていないが、このような親密圏では、たとえば「セックスレス」がアプリオリに「問題化」されることはあり得ないわけであり、それは大きな解放を成員たちに与えるかもしれないと私は思う。

 次に女・母という主体についてであるが、金井は70年代にリブが作り上げようとしていたCR(コンシャスネス・レイジング)的な共同体を、女としてのみずからの自己定義に向けて編成されたナラティブ共同体の実践として捉え、そこに可能性を見出そうとする。そして、そのような視座から取り出される主体こそが、金井の言う「女/母(わたし)」である。これは森崎和江が言うような「胎児を孕んでいる女の一人称」という主体のあり方であり、近代的自我のように孤立しているわけでもなく、かといって関係性へと全溶解しているわけでもないような不思議な主体のあり方である。そしてそれはけっして「女/母」として一般化できるものではなく、この私のあり方と相即なものとして、すなわち「女/母(わたし)」として規定されなくてはならない。これが金井のスタンスである。

 リブの王道を理論的に継承しようとする金井の試みは注目すべきである。と同時に、男性である評者は、金井の言う「女/母(わたし)」からは拒絶されているような感を受けた。なぜなら私にとってそれは「女/母(あなた)」である以外にはなく、では私自身は「男/父(わたし)」ということなのか、という問いを突きつけられるわけであり、この次元での切り結びからしか前進はないというのが本書の根底的なメッセージであるように私には思えたのである。


評者:森岡正博 (http://www.lifestudies.org/jp/)


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◆森岡正博の書評ページ(森岡執筆の書評一覧があります)

http://www.lifestudies.org/jp/shinano01.htm

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2011-09-01

[]「ぐずぐず」の理由 鷲田清一

「ぐずぐず」の理由 (角川選書)

「ぐずぐず」の理由 (角川選書)

日本語のオノマトペについてのエッセイ集。「ぎりぎり」からはじまり、「ぐずぐず」「ちぐはぐ」などについて思考を広げていく。こういう言葉フェティッシュなものを書かせると、鷲田さんはうまい。私にはこういうのはちょっと書けない。鷲田現象学の実践とみることもできるだろう。鷲田さんは阪大総長を終えて、いまは大谷大学に移ったらしい。九鬼周造についての研究を私は心待ちにしている。

[]マイケル・サンデル「公共哲学」

公共哲学 政治における道徳を考える (ちくま学芸文庫)

公共哲学 政治における道徳を考える (ちくま学芸文庫)

2011年8月28日日経新聞掲載

 公共哲学とは、私たちの社会をどのような理念とルールによって組み立てていけばよいのかを、立ち止まってじっくりと掘り下げる学問のことだ。この本は、ハーバード大学のサンデル教授が、この問題に関心のある一般読者を対象にまとめあげたエッセイ集である。クリアーな思考によって、現代の米国を中心とした政治哲学の根本問題が整理され、ひとつの方向性が提示されている。

 サンデルによれば、米国の公共哲学は、リベラル派と共和主義という二つの立場のあいだを揺れ動きながら形成されてきた。

リベラル派は、独立した個人の自由に重きを置く。自分の人生の目標はそれぞれの個人が自由に設定すればよいのであり、他人がとやかく言うべきものではない。そのような個人主義を保障するためにも、国家が権利や自由について公正な枠組みをしっかりと作り上げるべきであるとする。

 これに対して共和主義は、人間は歴史や地域の共同体から切り離された「負荷なき自己」ではないと主張する。人間は、家族の中での自分とか、コミュニティの共同生活への参加者としての自分とかをイメージすることなしには、自分自身を思い描くことすらできないのであり、その意味で、国民が共有すべき市民道徳を涵養することこそが大事であるとする。

 これに対してリベラル派は、そんなことをしたら特定の伝統に頼る全体主義に陥ってしまうと批判するが、サンデルは共和主義の肩を持って、全体主義はむしろ、個人がバラバラになって社会の中での居場所を失い、公共生活が衰退するときに生じるのであって、リベラル派のほうが危険なのだと挑発する。

 話題になった『これからの「正義」の話をしよう』をより良く理解するためのサブテキストとしてもお薦めだ。

 師ジョン・ロールズへの渾身の批判が最後に収められているが、これを読むと、サンデルがいかにロールズから多くを得ているかを知ることができる。サンデルはロールズを敬愛しつつ、その枠を内部から突破しようとしたことがよく分かって感動的だ。

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追記(9月4日改訂):

ウェブ・ツイッター上で、「師ジョン・ロールズ」というところに引っかかって、サンデルの先生はロールズじゃないだろう、というふうに言っている方々がいる。もちろんサンデルの指導教員がロールズではないことは当たり前で、本書にもそう書かれている。ある方から「「師」と書けばよかった」との指摘があったが、それはたしかにその通りだと思った。私の書き方が舌足らずだったのだろう。

本書の中で、サンデル自身が、自分はオックスフォードで博士論文を書いてそのときのテーマがロールズ「正義論」だったと書いており、ロールズは指導教員ではないことは明らかである。だが博士論文が「正義論」だったということから、すでに思想的な師の位置をロールズが占めていたことは伺える。哲学の場合、自分の対決する思想家が、結果的に自分の内面の師匠になってしまうことはよくあることで、サンデルの場合もそうだったのだろうというのが私の読みなのである。サンデルの「師」(のひとり)がロールズであることは間違いない。サンデルは、本書で、ロールズがあったからこそいま自分がいるということを繰り返し書いている。

本書の、ロールズへの追悼文の最後、サンデルがハーバードに着任してすぐに受けたロールズからサンデルへの最初の電話について「「ジョン・ロールズです。R−A−W−L−S」まるで、神がみずから電話で私を昼食に誘い、誰だかわからないと困るからと、名前の綴りまで説明してくれたかのようだった」(371頁)とサンデルが書いているところを読むに、ここにあるのは心の師を超えて、もう愛なのではないかと思うほどだ。


評者:森岡正博 (http://www.lifestudies.org/jp/)


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