感じない男ブログ このページをアンテナに追加 RSSフィード

2012-05-31

[]『看護学生のための医療倫理』

看護学生のための医療倫理

看護学生のための医療倫理

看護学生のための医療倫理のテキストである。看護師国家試験も視野に入れられている。個々のテーマは簡潔に情報がまとめられており、ハンドブックとしても使い勝手は良さそうである。ただ内容にはばらつきがある。伊野連執筆の移植法関連の項目では、次のように書かれる。

小児脳死認定のさらなる厳格化とともに、小児本人およびその保護者にも臓器移植についてより適切に理解してもらうことが必要である。・・・門戸は狭まっている。日本における臓器の「自給自足」は火急の問題なのである。(155ページ)

この場合の「適切」な理解とは何なのか。なぜ「自給自足」を急がなければならないのか。そもそも脳死小児をターゲットとした「自給自足」という表現は、これでいいのか。などの疑問が次々と湧いてくる。これらへの批判的な考察を含めた授業がこのテキストを用いてなされればいいのだが、医療系大学でそれが可能な場面はきわめて限られていると私は思わざるを得ない。

2012-05-24

[]「他力本願のすすめ」水月昭道

他力本願のすすめ (朝日新書)

他力本願のすすめ (朝日新書)

「高学歴ワーキングプア」の著者が、親鸞の他力本願について書いた本。面白く読めるが、そのぶん親鸞への疑問点も湧いてくる。(ちなみに私は親鸞本人は尊敬してますが)。

「他力」の視点というのは、そもそも。”思い通りにはなかなかならないのが世の中や自分の人生”だと、まずは現実を直視する。そして、「でも、そのこと自体に何らかの意味があるのではないか」と一歩立ち止まってみる。最後に、もたらされたご縁の裏側に見え隠れする仏さんの存在を意識してみる。そんな作業であるとも言えよう。(194ページ)

 自分ではどうしようもない世界は、残念だが確かにある。どんなに(努力して)善行を積んでいようが、お願いごとを100万回してみたとしても、そんなことが何一つ救われない厳しく悲しい世の現実があるのだ。そこに直面した場合には、あれやこれやと悩まないで、もはや「天に(他力に)全てをおまかせする」と腹をくくったほうが、もしかしたら楽になれるのかもしれない、と教えられている気がする。(197ページ)

そのこと自体は理解できるが、この世界観をベースにすると、たとえばDVで虐待されている人間もまた「そのことには何かの意味があるのではないか」と、すべておまかせして、腹をくくってみては、ということに理屈上はなる。DV被害から脱出して状況を根底から変えようとするのは自力だからである。他力を第一原理にすると、他力よりも優先すべきものがなくなるので、他力の縛りから抜け出すことはできなくなる。抜け出すのもまた仏のはからい(他力)とか言うのは言葉遊びであろう。なぜならそうすると自力というものが原理的に存在しなくなるから。戦争するのも他力になる。

このあたりが他力への私のかねてよりの疑問であり、本書はこの問いには答えてくれなかった。

[]「将来世代学の構想」高橋隆雄編

将来世代学の構想―幸福概念の再検討を軸として

将来世代学の構想―幸福概念の再検討を軸として

応用倫理学の視点から、現代社会の幸福と将来への社会制度等について、学際的に論じた本。であるが、とくに幸福について特化した議論があるわけでもなく、具体的な将来世代学が提唱されているわけでもない。

2012-05-09

[]『哲学塾授業』中島義道

哲学塾授業  難解書物の読み解き方

哲学塾授業 難解書物の読み解き方

中島さんが定年後に開いた個人塾「哲学塾カント」での授業の様子を中島さんが誌上再現したものである。ロック、カント、ベルクソン、ニーチェ、キルケゴール、サルトルのテキストを一緒に読みながら、普遍的な問題について考えるというスタイルらしい。参加しているのは、一般市民、学生ら50名ほどらしい。しかし、中島さんがこういう展開をしていくとは思わなかった。定年後はひとりで哲学しながら、孤高の境地に向かっていくのかと思っていたから。本を出しまくっているのも、この塾を維持するためなのだろうか。古代ギリシアの哲学塾はこんなふうだったかもしれず、注目しております。

[]『家族という意志』芹沢俊介

家族という意志――よるべなき時代を生きる (岩波新書)

家族という意志――よるべなき時代を生きる (岩波新書)

芹沢さんの新刊書き下ろし。寝たきりになった母について:「無音になった母の横に座ってみてわかったことの二つ目は、音声を発せられなくなったにもかかわらず、「無音という状態」において母の内界は生き生きと動いているという事実である。その生き生きとした内界を感じたとき、無音は音であり、言葉であることを知った。母の無音状態が死に向かう過程であることは動かしがたい事実だ。しかし同時に独立したいのちの相の表出であることも私には確からしく思われるのだった」(140ページ)。ここに学びがある。

[]『バイオ化する社会』粥川準二

バイオ化する社会 「核時代」の生命と身体

バイオ化する社会 「核時代」の生命と身体

現代のテクノロジー問題の核心を「バイオ化」に見て、家族のバイオ化、未来のバイオ化、資源のバイオ化、信頼のバイオ化、悲しみのバイオ化、痛みのバイオ化、市民のバイオ化という視点から現代を統一的に見ようとする野心作。同時代の新鮮な情報が盛り込まれていてためになる。311を経験してそれをも議論している。後半で、痛みについての科学研究について紹介している。近年の研究では、身体的な痛みと社会的な痛みを脳の同じ機能が司っているらしいということが言われているとのことだ。ということは、社会的な痛みを軽減するために、身体的痛みを緩和する鎮痛剤を飲むことに一定の意味があるという結論になりそうなものだが、粥川はそれへの疑義を出している。この箇所は論争的でかつ分かりにくい。研究が明らかにしたことを素朴に見れば、身体的痛みと社会的痛みの同質性と、両方の操作可能性であるように思えるのだが。いずれにしても興味深い点である。

[]『試練と成熟』中岡成文

試練と成熟-自己変容の哲学- (阪大リーブル034)

試練と成熟-自己変容の哲学- (阪大リーブル034)

中岡さんの阪大の臨床哲学の実践から生まれた「自己変容の哲学」のエッセイである。自己変容というテーマは古代ギリシアにおいても古代インドにおいても重要な中心課題として追究されたわけであるが、現代においては、心理学に舞台が移ってしまった感がある。でもやはり自己変容は哲学の中心課題であり続けなければならないのである。そのための見取り図を与えようとする試みとして面白いと思った。

[]『「個人的なもの」と想像力』吉澤夏子

「個人的なもの」と想像力

「個人的なもの」と想像力

吉澤さんの久々の単著である。社会と個人の軋轢をめぐる問題をジェンダーの角度から切り取っているが、最大の注目は、「やおい」「BL」について正面から考察しているところだろう。やおい的心性においては妄想する私が不在である、ということはすでに指摘されて久しいが、吉澤は「アイドル」を例にとって、さらに深くまで入っていく。「女性は何よりも、男性アイドル・グループの「グループ性」、つまり「メンバーの関係性」に志向するからだ。ライトなファンからコアなファンまで、またやおいに無関心な人、やおいに嫌悪感を露わにする人でも、メンバー同士の「絡み」や「わちゃわちゃ」(ファンはメンバー同士が仲良くしている様子をこう表現する)が大好きである。それこそが最大の「萌え」なのである。ここからも女性の欲望がいかに「関係」へと向かっているのかがわかる。そこには「私」はけっして登場しない。ファンがメンバー間に萌えを発見したとき真っ先に思うこと、それは「わぁ〜いいなぁ、どこかに隠れてその様子を、そっとずっと見ていたいね」ということだ。・・・「私」は、どこかほかの場所から、それをただ見ていたいだけなのだ。」(149〜150ページ)

私はこの方面はよく知らないから、これが当たっているのか、新奇な言説なのかどうかを知らない。だがこの文章が意味している内容はきわめてクリアーである。と同時に、これはAKBとかに向かう男性ファンの心理をもある程度説明できているのではないか。吉澤は男性は「所有」に向かうからこうはならないと述べているが。

吉澤は「やおい」にフェミニズムに連なるものを見ているし、その節操のなさに希望をすら見ている。この分野の議論をするときに、目を通しておくべき文献であると言えよう。