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2012-08-25

[]小泉義之「生と病の哲学」

生と病の哲学 生存のポリティカルエコノミー

生と病の哲学 生存のポリティカルエコノミー

2012年8月5日日経新聞掲載

 著者はこの本で、人間の生命とはいったい何なのかについて、これまでにない方法で考察しようとしている。老いること、異性と交わって子どもを持つこと、自分の身体をサイボーグのようにしていくこと、それらが人間にとってどのような意味を有するのかについて、哲学者ならではの思考実験を行なっている。その難解な文体は読者を容易には近づけないが、それでもなお強烈なインパクトを残すことに成功している。

 レズビアンの思想家であるリッチは、私たちの社会の中核に「強制的異性愛」というイデオロギーがあることを発見した。すなわち、「人間ならば異性愛であるのが当然」という強烈な洗脳がこの社会には充(み)ち満ちているのであり、その意識を前提としてこの社会のすべての仕組みが組み立てられているというのである。「異性愛」はけっして「自然」なできごとではなく、「強制」されたできごとなのだという意味で、それを「強制的異性愛」と呼ぶのである。

 ところで著者は、この社会にはもうひとつの目に見えない強制があると言う。それは、人類は生殖によって次世代を生み続けていかなくてはならないとする強制である。「人間個体のいのちは有限なのであるから、人類は子孫を再生産し、次の世代へと様々なものを引き継いでいかなければならない」という考え方こそが、この社会に現存するひとつの大いなる「強制」なのではないかと言うのである。

 さきほどの「強制的異性愛」と対比させて言えば、これを「強制的再生産」イデオロギーと呼ぶこともできるだろう(著者自身はこの用語を使わないが)。「人類は次の世代を生み続けていかなくてはならない」というのも、実は社会による巧妙な強制なのであり、男も女もその支配下から脱することによってはじめて、人類の未来に向けた哲学的思索が可能になると著者は示唆する。

 男性哲学者から出されたこの種の問題提起は、フェミニストをいらだたせること必至であるが、しかしこのような「空気を読まない」アプローチこそが、哲学者のもっとも得意とする技であることに間違いはないと私は思う。


評者:森岡正博 (http://www.lifestudies.org/jp/)


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◆森岡正博の書評ページ(森岡執筆の書評一覧があります)

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[]マイケル・サンデル「それをお金で買いますか」

それをお金で買いますか――市場主義の限界

それをお金で買いますか――市場主義の限界

2012年6月24日日経新聞掲載

 この世にはお金で買っていいものと、買ってはならないものがある、と私たちはなんとなく思っている。たしかに、赤ちゃんをお金で取引してはならない。しかし腎臓や卵子を売買することについてはどうだろうか。あるいは良い成績を取った生徒に、学校が報奨金を与えるのはどうだろうか。

 実際、米国の一部の州では、卵子はすでに合法的に売買されているし、生徒への報奨金についても、すでにいくつかの学校で実施されている。サンデルは、主に米国でなされている「それをお金で買いますか!」という実例を数多く紹介して、その功罪を点検していくのである。

 本書で紹介されている、あらゆるものを売り物にしようとする米国社会の実態は、まことに驚くべきである。ユニバーサルスタジオでは、二倍の料金を払えば、アトラクションに並ばずとも行列の先頭に割り込むことができる。特別料金を払うと清潔な独房に入ることのできる刑務所もある。

 このような社会の趨勢に対して、サンデルは二つの点から疑義を差し挟む。ひとつは「公正」という観点からの疑問である。たとえば腎臓を売買してよいということになると、自発的な売買という美名のもとで、実際には、他の選択肢がない貧しい境遇の人たちが腎臓というかけがえのない人体の一部を奪われていくことになる。

 もうひとつは「腐敗」という観点からの疑問である。腎臓を売買することは、人間を予備部品の集まりとみなし、人間を物質化することによって、真に大切にすべき規範(生命観)をどこまでも腐敗させていくのだ。

 サンデルは、この「腐敗」という側面にもっと注目しなければならないと主張する。この世には、お金と引き替えにすることで、必然的にその本質が失われて腐敗していくようなものがたくさんある。そのような腐敗など取るに足らないものだとして、あらゆるものを市場に取り込もうとする社会に私たちは突入しようとしているが、その魔の手を食い止めるためには、冷徹な知性によって敵の本質を見定めておく必要があるとサンデルは熱く語るのである。


評者:森岡正博 (http://www.lifestudies.org/jp/)


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