感じない男ブログ このページをアンテナに追加 RSSフィード

2013-01-31

[]八木誠一『<はたらく神>の神学』

〈はたらく神〉の神学

〈はたらく神〉の神学

八木誠一の新刊である。神学にもとづいた独自の哲学・世界観を構築してきた人の最新刊。

繰り返すが「場」という言葉を用いるのは、神は人間を外からいわば操り人形のように操作するのでもなく、人間が神の語る言葉を「直接に」神から聞いて、それに従ったり背いたりするわけでもないことを示すためである。神のはたらきは、人間の自由を介して、人間の行為を通じて、現実化する。重力の場のなかにある天体がおのずと引き合うように、「神のはたらきの場」に置かれている人間は、自覚にしか現われない「神のはたらき」を宿して、おのずから相互関係に入るということである。

・・・・

人間が、人間は神のはたらきの場のなかに置かれ、そして人間は神のはたらきが実現する場所だと語り、さらに世界と歴史とに「統合作用」をみる人間は、世界と歴史も神のはたらきの場に置かれ、そのはたらきが実現する場所である、と語るのである。(127−128頁)

この本は総論だとして、「高齢のせいもあり、私には将来、各論が書けるとは思えない」(237頁)と記してあるが、生年を見るとまだ80歳のようなので、まだまだこれからだろうと期待させてください。

[]体罰と倫理学 加藤尚武『子育ての倫理学』

「体罰と倫理学について倫理学者は論考を書くべきだ」とあるところで言ったら、この本を教えてもらった。加藤尚武はヘーゲル研究から応用倫理学に進んで倫理学界を引っ張った人で、この業界では大物である。私の先生筋にも当たる。

いずれにせよ正しい体罰の方法をガイドラインとしてまとめておく必要がある。(164頁)

というわけで、体罰は、正しい体罰である限り正当化されるという立場である。(ここでめまい感を感じる人もいることだろう)。

(1)年齢・・・体罰の必要で有効な年齢は、だいたい10歳から15歳である。15歳を過ぎたら・・・前提となる事実を指摘して命令する説得が主役となる。・・・だいたい10歳以前では、子どもが悪いことをしたときには、きびしく叱るだけで十分であり、体罰の必要はない。(164−165頁)

体罰の対象となる行為は、反復された意図的な悪行であり、自分で「悪い」と思っていながら、「どうせ処罰はされないだろう」と思ってする行為や、挑発的にわざと悪いことをするという態度の場合である。一回だけの悪行、過失、怠慢、不注意は体罰の対象にならない。(165頁)

・・・最初の行為に体罰を下すのは正しくない。一度厳しく禁止することを申し付けておいた行為について体罰が適用される。(166頁)

体罰は父親が行ない、母親はやや中立的な態度をとる。平手で頬を殴る。反抗的な態度を示す場合には、再度、殴る。突き倒すとか、跳ね腰で倒すとかの行為もありうるが、倒れたら起こす。絶対に蹴らない。危険であるだけでなく、足で苦痛を与えることは子どもの人格を傷つけるからである。(167頁)

体罰は倫理的に正しい行為であるが、それが濫用されると、自分の思い通りにならないときに人を殴るという最悪の形態になる。したがって、正義の怒りを抱くことのできる心情の純粋性とその怒りを客観的に正しく制御する自制心とが伴わないと、体罰は行なうことができない。(168頁)

加藤は、家庭での正しい体罰を推奨しているが、学校での体罰は基本禁じていることを付記しておきたい。

しかし、体罰は父親が行なうべきとか、足で蹴ると人格否定になる(平手で殴ると人格否定にならないらしい)とか、つっこみどころ満載の奇書としてひょっとしたら後世に残るであろう。実際問題として、内容は、おっさんが持論を学術語を使いながらとうとうと開陳していくというものであり、哲学倫理学とはとうてい呼べないと私は思います。

2013-01-26

[]『生命倫理のフロンティア』

第20巻 生命倫理のフロンティア (シリーズ生命倫理学)

第20巻 生命倫理のフロンティア (シリーズ生命倫理学)

丸善のシリーズ生命倫理学の第20巻である。私も書いた。タイトルは「まるごと成長しまるごと死んでいく自然の権利:脳死の子どもから見えてくる「生命の哲学」」というもので、脳死の子どもは「まるごと成長しまるごと死んでいく自然の権利」を有しているから、大人はその身体に介入して臓器を取り出すことはできない、と主張する。これは日本のみならず海外を含めてもマイノリティの立場である。その立場に哲学思想的な根拠を与えようとした論文。地味な内容に見えるが、実のところかなり過激な思索が展開されていると思うが、どうだろうか。

他の論文は玉石混淆。坂本百大「「尊厳」概念再考」は、「「尊厳」という言葉が無意味、無内容」(149頁)ということを主張する文章(論文とは思えない)であるが、同様の主張を2003年に行なって話題になったRuth Macklin "Dignity is a Useless Concept" がまったく参照されていないという代物である。

2013-01-24

[]永井均『ウィトゲンシュタインの誤診』

ウィトゲンシュタインの誤診 -『青色本』を掘り崩す-

ウィトゲンシュタインの誤診 -『青色本』を掘り崩す-

青色本 (ちくま学芸文庫)

青色本 (ちくま学芸文庫)

永井均の新刊は、ウィトゲンシュタインの『青色本』の後半部分を、永井自身による翻訳と解読でつづったものである。永井はウィトゲンシュタイン中期の独我論と私的言語をめぐる論考を、切れ味は鋭いがあるところから先は誤りの考察(少なくとも強引な主張)として解釈している。

彼の開発した治療法は、さまざまな病気を治すのに使えたが、彼自身の病気だけは治せなかった。おそらくは、そもそも診断がまちがっており、それは病気ではなかったからである。(ii頁)

全集の大森荘蔵訳は「達意の名訳すぎて(?)真意がつかみにくい箇所もある」というのは、敬意に裏付けられた皮肉表現であろう。

われわれの言語は、対比項のないものの対比項のなさを語れるようにできているわけである。累進図の最上段の対比は言語では表現できないと言ったが、そのことそれ自体は言語で語ることができ、意味としては(すなわち構造の一般的な理解としては)通じる。(233頁)

このあたりが永井の現在地なのであろう。本書最後のパラグラフも面白いことを言っている。私はたぶん別の意味でそれに賛同したくなる。永井の次著はそのあたりから書き始められるのだろうと思う。

[]児玉聡『功利主義入門』

功利主義入門―はじめての倫理学 (ちくま新書)

功利主義入門―はじめての倫理学 (ちくま新書)

児玉さんの書いた功利主義についての入門書。こういうタイプの本が書かれるのはよいことだし、最近の議論の大枠についてもわかる。だがその細部についてはどうか。たとえば、第6章の「幸福について」では、機械や薬で幸福になる(脳の幸福中枢を刺激するとか、そういうたぐい)ことについて書かれているが、その難問への答え、あるいは答えへと至る道についての著者の考えがきちんと書かれていない。これが現代の難問であることは分かるが、もうちょいがんばってほしかった。入門書とはいえ、これでは肩すかし感がある。

この難問に対しては、私は、「主観的な幸福感よりも大切なものが人生にはある」ということを明言してから取り組むのがよいと思っている。それの試論は発表したことがある(私のサイトに掲載している)。

あるいは、そもそも功利主義というのは、上記のような明言をしたら成り立たないがゆえに、この難問を最終的には避けるようにできているのではないかというのが、うがった見方かもしれない。あるいは、功利主義の解答というのは、そういう機械や薬を開発して、みんなでどんどん自分の脳を刺激してハッピーになったらそれが一番いい、というものかもしれないし、そう結論している功利主義者はきっとたくさんいるだろう。ただそれをいまの時点であまり公言するとヘンな人と思われるから、ひっそり避けてるのかもしれない。あるいは、そう言っちゃうと、そういう仕方で幸福になる人を宇宙に無限に生み出す義務が生じるという例のアポリアを生み出してしまうから、あまり堂々と言えないのかもしれない。

[]若松英輔『内村鑑三をよむ』

内村鑑三をよむ (岩波ブックレット)

内村鑑三をよむ (岩波ブックレット)

魂にふれる 大震災と、生きている死者

魂にふれる 大震災と、生きている死者

『魂にふれる』の著者、若松英輔が書いた、内村鑑三についての小パンフレット。次のような文章に惹かれる。

同時代の日本人に先んじて、内村は世界に向かって英語で自らの生涯と思想を語った。彼にとっての日本は、世界に開かれてゆく「日本」だった。それは欧米の文化を積極的に摂取することではなく、むしろ、日本的霊性の意義を世界にむけて問い質すことだった。

 日本的霊性は仏教や儒教の伝統に花開くとは限らない。それは「基督教」においても開花する。彼は真実の「基督教」が日本から興り、それが世界に広がってゆくことを疑わなかったばかりか、その実現こそが自分に課せられた最大の使命だと考えていた。(10頁)

内村のような人物を生んだ、歴史的な背景があるとすればそれは何だろうか。現代に内村のような精神性をもった人物は現われているのだろうか、などと思ってしまう。

この点において内村の血脈を継いだのは、キリスト教者であるより、仏教者鈴木大拙であり、哲学者井筒俊彦である。(10頁)

たしかにそうだよね。いま同時代に誰がいるのだろうか?